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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 4:最上階の開かずの間と、消えた建築家~

 ホテル・セレーネの最上階、四十六階。


 そこは、四十五階のパーティー会場とは完全に切り離された、物理的にも階級的にも上位に位置する『絶対の聖域』だった。

 足を踏み入れた瞬間、床材の違いが足裏から伝わってくる。四十五階の絨毯よりもさらに毛足が長く、高密度のウールで織られたそれは、スニーカーの底を静かに、しかし確実に飲み込んだ。先頭を歩く如月さんのハイヒールの鋭い音すら、ここでは無音の海に沈むように完全に吸収され、消滅していた。


 先導する宗像支配人の背中は、まるで目に見えない重圧に押し潰されているかのように、見ていて気の毒になるほど丸まっていた。彼は震える手でマスター権限を持つ非接触ICカードを操作し、フロアの最奥、最も見晴らしの良い角に位置する『ロイヤル・スイート』の重厚なオーク材の扉を開けた。


「どうぞ、お嬢様。本日はどなたも宿泊されておりませんので」


「うむ、ご苦労」


 如月さんは短い労いの言葉をかけ、躊躇なく、その一泊数百万とも言われるスイートルームへ足を踏み入れた。


 僕も恐る恐る後に続く。

 広大なリビングルーム。壁一面の床から天井まで続く巨大なガラス窓からは、月見坂市の街並みが、まるで精巧なミニチュアのジオラマのように見下ろせる。配置されている家具はどれもアンティーク調で、一つ一つの彫刻や木目の揃い方が異常だった。僕の部屋にある、ホームセンターで買ったスチール製の組み立て式PCデスクとは、同じ『家具』という単語で呼ぶのが言語道断に思えるほどの格の違いを見せつけている。


「如月さん。一つ、確認してもいいですか?」


 僕は広大なリビングを横切りながら、ずっと胸の奥で引っかかっていた疑問を口にした。


「その、有栖川って人が三十年間もホテルのどこかに隠れ住んでいたとして、如月コンツェルンはそれを知ってて、ずっと隠蔽してたんですか? だとしたら、これって巨大企業の暗部というか、僕たちみたいな高校生が首を突っ込まない方がいい、ヤバい案件なんじゃ……」


「愚鈍なことを言うな」


 如月さんはピタリと立ち止まり、呆れたように僕を振り返った。

 振り向いた弾みで、背中が大きく開いたドレスのラインが目に入りそうになり、僕は慌てて視線を天井の豪奢なシャンデリアへと逃がす。


「我が如月グループは、利益と合理性の追求にはどこまでも貪欲じゃが、生産性のない隠蔽や、非合理な犯罪など絶対にやらぬ。祖父は三十年前、姿を消した有栖川を見つけ出すために、莫大な私財を投じて探偵や裏の人間まで動かしたのじゃ。それでも、文字通り煙のように消えて見つからなかった。そうだな、宗像」


「お、仰る通りです!」


 宗像支配人は、拭いがたい濡れ衣を晴らすように声を張り上げた。


「会長は有栖川の才能を誰よりも高く評価し、愛しておられました。彼を意図的に亡き者にするとか、コンクリートの壁に埋め込むようなことなど、絶対にありえません! 我々現場の人間も、彼が本当に建設中の不慮の事故か何かで『神隠し』に遭ったのだと、そう信じて疑わなかったのです。ただ……」


「ただ、開業から数年経って、おかしな物理現象が観測され始めた」


 如月さんの鋭い指摘に、宗像支配人は上質なハンカチで再び額の脂汗を拭った。


「はい。客室の廊下に下げられたルームサービスの食べ残しが、いつの間にか消えている。誰もいないはずの壁の向こうから、時折、何かを削るような微かな音が聞こえる。従業員たちは『有栖川の亡霊が彷徨っている』と恐れました。私は開発責任者として、もしホテルの内部に部外者が住み着いていると公になれば、セレーネのブランドに致命的な傷がつくと恐れ……恥ずかしながら、その物理的な矛盾を黙殺し続けてしまったのです」


「なるほど。会社の陰謀などという大層なものではなく、お主個人の矮小な保身というわけか。つまらぬ理由じゃな」


 如月さんは興味を失ったように鼻で笑うと、寝室のさらに奥にある、巨大なウォークイン・クローゼットへと向かった。


 僕も急いでその後を追う。

 陰謀ではないと聞いて少しだけ安心したが、だとしたら有栖川という男は、一体どうやって三十年間も自分の身を隠す空間を構築し、維持してきたのだろうか。


 ウォークイン・クローゼットの中は、僕の住む団地の一室ほどの広さがあった。壁面には高級なマホガニー材のハンガーラックや、ベルベット敷きの引き出しが整然と並んでいる。


「サクタロウ。先ほどのBIMデータと照らし合わせよ。空間の矛盾はどの壁じゃ」


「はい。えっと、図面の座標だと……この奥です。一番奥の、床から天井まで鏡が張ってある壁。この裏側に、約一・二メートルのデッドスペースが存在しています」


 僕はタブレットの図面をピンチアウトで拡大し、三次元の方角を確認しながら奥の壁を指差した。

 如月さんは壁一面に張られた姿見の前に立ち、その表面を白手袋に包まれた指でトントンと軽く叩いた。


「ふむ、反響音が軽いな。コンクリートではなく、石膏ボードの裏に空洞がある音じゃ。しかし、この鏡の表面には取っ手も鍵穴も、電子ロックのパネルすら存在せぬぞ」


「ちょっと待ってください。僕が調べます」


 僕はパーカーのポケットから愛用のスマホを取り出し、ライト機能を最大輝度でオンにした。

 強力なLEDの光を、鏡の縁や巾木(はばき)に沿って舐めるように当てていく。ネットワークのハッキングはできなくても、物理的な構造の違和感や、隠しギミックを見つけるのは、ダンジョン探索系RPGの隠し扉探しと本質的には同じだ。


 光を当てながら、鏡と壁のわずかな隙間、数ミリのクリアランスを指でなぞる。


「ありました。如月さん、ここです。床から十センチくらいの高さの巾木の部分に、不自然な可動域の溝があります。これ、モーター駆動の電子錠じゃなくて、足のつま先で押し込んでテコの原理で開く、完全なアナログの隠しラッチですよ」


「ほう。でかした」


 如月さんは僕を退かし、美しいヒールのつま先でその溝をカチッと押し込んだ。

 ガコン、と重い金属のラッチが外れる音が鳴り、壁一面の巨大な姿見が、まるで精巧な手品のようにフワリと手前へと開いた。

 宗像支配人が「ひぃっ」と短い悲鳴を上げて後ずさる。


 開いた壁の向こう側は、光の届かない完全な暗闇だった。

 そして、そこから流れ出してきた停滞した空気に、僕は思わず鼻を覆った。


「うわっ、すごい埃と、酸化した油の匂い。それに……なんか、土の匂いがします」


「うむ。四十五階の回廊に置かれていたグラスの泥と同じ、古い重油とカルシウムを含んだ赤土の匂いじゃな」


 如月さんは全く怯むことなく、僕からスマホを奪い取ると、ライトを暗闇の奥深くへと向けた。


 僕も恐る恐る中を覗き込む。

 そこは、建物の鉄骨と空調の配管ダクトが剥き出しになった、殺風景で無骨なメンテナンススペースだった。


 だが、ただの空洞ではない。明らかに、人間が長期間『生活している』痕跡がそこに存在していたのだ。


 床のコンクリートの上には、ホテルから持ち込んだと思われる高級なウール毛布が何枚も敷き詰められ、壁際のリネンカートには、ペットボトルの水や、ルームサービスで飲み残されたと思われるワインの空き瓶が大量に並んでいる。


 そして何より異様だったのは、部屋の隅に置かれた『土』だった。


 業務用のプラスチックバケツがいくつも並んでおり、その中には赤黒い粘土がぎっしりと詰まっている。周囲の床には、乾燥してひび割れた土の破片が散乱し、木製のヘラや彫刻刀のような小さな工具が乱雑に置かれていた。


「これが、三十年間時を止めた穴蔵の正体か」


 如月さんが、ドレスの裾が埃で汚れるのも構わず、目を輝かせて足を踏み入れたその時。

 毛布の山が、もぞりと動いた。


「誰だ……光を当てるな。眩しいじゃないか」


 しわがれた、しかし腹の底から響くようなハッキリとした男の声。


 宗像支配人が腰を抜かして床にへたり込んだ。無理もない。三十年間、亡霊だと信じて恐れていたものが、実際に声を発し、物理的な質量を持って動いたのだから。


 毛布を押しのけてゆっくりと起き上がったのは、伸び放題の白髪と髭に覆われた、痩せこけた老人だった。着ている服は作業用のツナギのようだが、何十年も洗っていないのか、泥と油で真っ黒に変色し、元の生地の色すら判別できない。


「あ、有栖川……先生……? 本当に、有栖川先生なのですか!?」


 宗像支配人が震える声で呼びかけると、老人は面倒くさそうに頭を掻いた。


「誰かと思えば、現場監督の宗像くんじゃないか。随分と老けたな。あれから何年経った?」


「さ、三十年です! 先生、三十年間もこんな所で何を……いや、どうやってこの部屋を!?」


「簡単なことだ。図面の最終段階で、私が意図的に配管スペースを偽装し、この空白を書き加えた。建設現場の連中は、図面に忠実に、私の指示通りに壁を作っただけさ。食事は、廊下に出されたルームサービスの残飯で十分だった。ここは静かでいい。誰にも邪魔されず、最高の空間設計の構想を練るための、私だけの神殿だよ」


 あっけらかんと語る有栖川に、僕は唖然とした。


 巨大企業ぐるみの陰謀でも何でもない。ただ一人の天才的で異常な建築家が、自分の設計した巨大ホテルにアナログな『秘密基地(バックドア)』を作り、勝手に引きこもっていただけなのだ。

 都市伝説やオカルトとしては面白いが、ミステリーとしてはずいぶんと肩透かしな結末だ。


「……なるほど。お主が有栖川か。三十年間の引きこもり生活、ご苦労なことじゃ」


 だが、如月さんは老人の異常な生活や、ホテルの構造的欠陥など、どうでもいいとばかりに冷たく言い放った。


 彼女は自分のポケットから白手袋を取り出して装着すると、持参していた『証拠品』を老人の目の前に突きつけた。


「わしは、お主の人生には興味がない。わしが知りたいのは『これ』のルーツだけじゃ」


 如月さんの手には、泥だらけのシャンパングラスと、ピカピカに磨かれたハニワが握られている。


「このグラスについている泥の成分は、お主の部屋にあるバケツの土と完全に一致する。三十年前、基礎工事の現場からお主が持ち込んだものだな」


 有栖川の老人は、スマホのライトに照らされたグラスを見て、大きく目を見開いた。


「ああ、それは……間違いない。三十年前の完成披露パーティーの昼、私が自分のために持ち出した特注のグラスだ。ずっとこの部屋の隅に置いてあった。泥だらけなのは、当時現場で粘土を捏ねた手でそのまま触ったからさ」


「やはりな」


 如月さんの唇が弧を描く。彼女の推理は完璧に当たっていた。

 だが、次の瞬間、有栖川が発した言葉は、僕たちの論理を根底から覆すものだった。


「だが、お嬢さん。そのグラスの中に入っている変な土人形……そのハニワは、私のものじゃない」


「何?」


 如月さんの細い眉がピクリと動いた。


「私の趣味は、空間という名の概念を作ることだ。土を捏ねるのは、基礎工事の地盤の物理的な感触を確かめるための、ただの癖に過ぎない。人形なんて作ったことは一度もないよ。第一、私のグラスはずっとこの部屋にあったんだぞ」


 老人の声には、一切の迷いがなかった。言葉に嘘はないようだった。

 僕は隣で、如月さんの横顔を見つめた。彼女はショックを受けるどころか、むしろ極上のスイーツを前にした子供のように、アメジストの瞳をキラキラと輝かせていた。


「ふふ……実に面白い」


 如月さんは、ピカピカのハニワを手袋越しの指先で弄びながら、楽しげに呟いた。


「グラスはこの部屋から出た三十年前の遺物。しかし、ハニワはお主のものではない。では、誰がこのグラスを部屋から持ち出し、現代のハニワを入れ、そして今日のパーティーの真っ最中に、四十五階の廊下のど真ん中に展示したというのじゃ?」


 ありえない場所にある、ありえないモノ。

 その由来と移動の経路が、ここで完全に断ち切られたのだ。


「サクタロウ。謎が深まったぞ。これは極上の鑑定品じゃ」


 如月さんが僕を振り返って笑う。

 ミッドナイトブルーのドレス姿のその笑顔は、相変わらず反則級に美しかった。だが同時に、僕の今日の休日が完全に終わり、深遠な謎の底へと引きずり込まれることを告げる、優雅な死刑宣告のようにも見えた。

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