第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 3:支配人の冷や汗と、三十年前の亡霊~
地下二階から四十五階への強制的な移動、そして眼前に突きつけられた『時系列のねじれた不条理』によって、僕のデジタルの脳髄は完全にオーバーヒートを起こしていた。
「三十年前の地層に眠っていたグラスに、現代の何者かが磨き続けているハニワ、ですか」
僕は愛用のタブレットの画面をオフにし、指紋一つ付けないよう慎重にリュックへしまった。一瞬だけ、真っ暗なディスプレイに僕の引きつった顔と、それを冷たく見下ろす如月さんのドレス姿が反射した。
彼女の『鑑定モード』のスイッチが入ってしまった以上、この謎が物理的な解明に至るまで、僕の平穏な休日は絶対に還元されないのだ。
「つまり、如月さんの見立てでは、この最新鋭のホテルのどこかに、三十年前から外部との接触を断ち切った『空間』が存在し、そこで誰かが今もせっせと粘土を捏ねてハニワを作っているってことですか? そんな映画みたいな設定……」
「空間が孤立しているだけでは、事象は発生せぬ。そこで呼吸し、代謝を繰り返し、有機的な摩擦をハニワに与え続ける『生身の人間』がおらねばな」
如月さんは、手にした純銀の匙を懐のハンカチで丁寧に拭い、ドレスの隠しポケットにしまった。
「サクタロウ。そのグラスとハニワを持て。行くぞ」
「へ? どこへ?」
「決まっておろう。この虚栄の城の『番人』に話を聞きに行くのじゃ。三十年前、この月見坂が泥沼だった頃の記憶を持つ、古株の生き字引にな」
彼女は有無を言わさず歩き出す。
深紅の絨毯の上を滑るように進むミッドナイトブルーのドレス姿は、やはり僕の脆弱な視神経には劇毒すぎた。僕はなるべく彼女の足元、あるいは少し先の空間に視点のピントを合わせながら、泥だらけのグラスと光るハニワを両手に持って、慌てて後を追った。
**
パーティー会場のバックヤード、四十四階の中央厨房エリア。
客室フロアの静寂とは打って変わり、そこは戦場だった。
無機質なステンレススチールで覆われた巨大なシステムキッチンの壁面。慌ただしく行き交う黒服のボーイと、純白のコックコートを着た料理人たち。スチームコンベクションオーブンから大量に吐き出される、A5ランク和牛のローストビーフの重厚な脂の匂いと、飛び交うフランス語の怒号。
その混沌の最前線に、ホテル・セレーネの総支配人である初老の男性が立っていた。
白髪交じりの髪を隙なくオールバックに撫でつけ、イタリア製の仕立ての良いタキシードを着こなしているが、今の彼はひどく余裕がないように見えた。こめかみから流れる脂汗を上質なリネンのハンカチで何度も拭いながら、インカム越しに部下へ料理の補充とシャンパンの温度管理の指示を飛ばしている。
そんな修羅場に、場違いなドレス姿の令嬢と、埃まみれのパーカーを着た僕が足を踏み入れたのだ。
「三番テーブルの空きグラスの回収が遅れている! 次のドン・ペリニヨンの適温は八度だ、絶対に外すな!」
支配人は声を張り上げていたが、如月さんの姿を視界に捉えた瞬間、まるで映像がフリーズしたかのように言葉を失った。
そして、飛び上がるようにして姿勢を正し、直立不動になる。
「こ、これは瑠璃お嬢様! 会場を抜け出されたと会長から伺っておりましたが、なぜこのような騒がしい裏方へ?」
「宗像。わしは有意義な会話をしに来た」
如月さんは冷淡に遮り、僕に目配せをした。
出番だ。僕は恐縮しながら、両手に持っていた汚れたグラスとピカピカのハニワを、宗像支配人の顔の前に突き出した。
「ひっ! な、なんですかな、その泥だらけのグラスは!? お嬢様のお召し物を汚しでもしたら一大事。おい、誰かこれをすぐに片付け……」
「触れるでない。これは四十五階の北側回廊に置かれていた、極上の『展示品』じゃ」
「展示品? まさか。そのような衛生基準に反するゴミ、当ホテルには一つも」
「ゴミではないと言うておる。宗像、お主はこのホテルが開業する前、祖父の命を受けて『当時の開発責任者』として、あの泥沼の埋め立てと建設の陣頭指揮を執っておったな?」
如月さんのアメジストの瞳が、ルーペのように鋭く支配人を射抜く。
大の大人であるはずの宗像支配人が、十六歳の如月さんに見下ろされ、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がっていた。彼女のこういう『絶対的な権力者の顔』を見るたび、僕は住む世界の違いを痛感させられる。
「このグラスに見覚えはないか? 特注のステムのカッティング、底に刻まれた一九九六年当時の『Selene』の旧ロゴ刻印。これは、三十年前の開業当時のオープニング・セレモニーで使われたものではないか?」
宗像支配人は老眼鏡を胸ポケットから取り出し、震える手でかけ直すと、僕の持つグラスをまじまじと見つめた。
そして、ハッとしたように息を呑む。
「た、確かに。この鉛ガラス特有の重厚なフォルムと屈折率は、三十年前のバカラの特注品です。現在の軽量化された無鉛クリスタルとは組成が違います。しかし、なぜこんなに泥だらけで……」
「問題はそこではない。三十年前、このホテルの基礎工事中、あるいは開業の直前に、何か物理的な『欠落』はなかったか? 例えば、人間が一人消えた、とかな」
その言葉が出た瞬間、宗像支配人の顔から、サッと血の気が引くのがわかった。
彼は周囲の従業員たちをキョロキョロと見回し、慌てて僕たちを厨房の奥にある、防音設備の整った狭いリネン保管室へと押し込んだ。
「お嬢様。そのお話は、一体どこで……」
「グラスが語ったまでじゃ。隠しても無駄じゃぞ。この泥の成分と高いpH値は、基礎工事のコンクリート杭打ち現場の土壌そのものじゃ」
如月さんの冷徹なカマかけに、宗像支配人は観念したように深い溜息をついた。
彼は僕の方をちらりと見たが、如月さんの所有物である『下僕』だと判断したのか、重い口を開いた。
「実は、開業の前日、一人の建築デザイナーが忽然と姿を消しました」
「建築デザイナー?」
「はい。有栖川という男です。彼は天才的な空間デザイナーでしたが、同時にひどい偏執狂でもありました。『このホテルは古代の神殿を模して作るべきだ。黄金比こそが絶対の真理だ』と主張し、建設現場のプレハブに泊まり込んで、泥だらけの職人たちと安い酒を酌み交わすような男でして」
僕は思わず口を挟んだ。
「その有栖川って人、どうなったんですか?」
「わかりません。完成披露パーティーの昼、彼専用に用意された特注のグラスで乾杯した後、ふらりと姿を消しました。警察も内密に探しましたが、結局見つからず。現場の職人たちの間では、彼の言う『神殿』の生贄として、コンクリートの基礎の底に『神隠し』に遭ったのだと噂されました」
「神隠しか。物理法則を無視した、実に都合の良い言葉じゃな」
如月さんは鼻で笑った。
「だが、三十年前にコンクリートの底に沈んだ人間が、現代に新品のハニワを焼き、磨き続けることはできぬ」
彼女は僕の手からハニワを取り上げ、宗像支配人の目の前に見せつけた。
「有栖川という男、土を弄る趣味はなかったか?」
「土弄り……あ…ああッ! そういえば、彼はよく現場の赤土の粘土を捏ねて、奇妙な人形を作っていました。『これは俺の分身だ』『土こそが建築の原点だ』と言って、休憩時間中ずっと土を弄っていたのを覚えています」
ビンゴだ。
如月さんは満足げに頷き、ドレスの隠しポケットから万年筆を取り出して、空中で指揮棒のようにクルリと回した。
「サクタロウ。タブレットを出せ。このホテルのBIMデータ、あるいはそれに準ずる設計図面じゃ」
「えっ、そんなの持ってませんよ。さっきダクトのルートを調べたのは簡易版の古い平面図で、全フロアの詳細な配管図なんて、ネットには絶対に落ちてません」
「宗像が出す。そうじゃな?」
如月さんが氷点下の視線を向けると、宗像支配人は完全に抗う気力を失い、「はい」と頷いた。
彼は自身の業務用タブレットを取り出し、網膜認証と二段階のセキュリティパスワードを入力して、ホテルの完全な内部三次元CADモデルを表示した。
「これが、全フロアの詳細図面です。お嬢様の権限でも、外部への持ち出しは厳禁ですが」
「ここだけで十分じゃ。サクタロウ、プロの目で観測せよ。三十年間の空白を暴き出すのじゃ」
僕はタブレットを受け取り、画面の三次元モデルをスワイプした。
ネットワークのハッキングはできなくても、デジタル化された図面から空間の矛盾や『異常な箇所』を見つけ出す作業なら、僕の得意分野だ。自作PCの複雑なマザーボードの配線図を睨むのに比べれば、はるかに見やすい。
地下から低層階、客室フロアへと順番にレイヤーを透過させながら確認していく。
「あ」
僕は四十六階、最上階の図面で指を止めた。
「如月さん、ここです。四十六階の角部屋『ロイヤル・スイート』。この部屋だけ、他の客室と壁の厚さの比率が違います」
僕は画面を最大までズームし、該当箇所を赤くハイライトした。
「ほら、スイートの奥にあるウォークイン・クローゼットから、ホテルの外壁までの間。空調設備のパイプスペースにしては、不自然なほどの『空白』があります。幅一・二メートル、奥行き四メートル。これ、大人が十分生活できる広さの隠し部屋ですよ」
「決まりじゃな」
如月さんは、ハニワを奪い取るようにして自分のポケットにしまうと、優雅な動作でターンした。
ドレスの裾がふわりと舞い、リネン室の消毒液の匂いに混じって、彼女から漂う高級な香水と沈香の香りが僕の鼻をかすめた。
「宗像。案内せよ。三十年間、お主らがひた隠しにしてきた『開かずの間』へ」
宗像支配人は蒼白な顔で立ち尽くしていたが、如月コンツェルンの令嬢による絶対的な命令には、ただ従うしかなかった。
「わ、わかりました。ですが、覚悟してください、お嬢様。あそこには、あそこには『亡霊』が出ると、一部の従業員の間で専らの噂ですので」
「亡霊? 愚か者が。わしが恐れるのは、無知と論理の飛躍だけじゃ。そこにいるのは、ただの有機物で構成された『人間』じゃよ」
如月さんは不敵に笑い、僕に顎で合図した。
僕はリュックの重たいベルトを握りしめ、小さく溜息をついた。如月さんの『鑑定』に付き合わされる以上、幽霊退治だろうが何だろうが、逃げることは許されないらしい。せめて、これ以上彼女のドレス姿に動揺して、情けない姿を晒さないように気をつけなければ。




