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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 2:呼び出されたパーカー少年と、ドレスの令嬢~

 地下二階の従業員用搬入口。

 無機質なコンクリートの壁に囲まれ、業務用大型エアコンの室外機が低く唸りを上げる薄暗い空間で、僕は絶望の淵に立たされていた。


 タブレット端末の画面の中では、『GyoGyoっとラブ』のセンターである彩華ちゃんが、アンコール前のエモーショナルなMCの途中で、口を半開きにしたままフリーズしている。

 4K解像度、120fpsという極限の滑らかさで再生されていた至高の時間は、無慈悲な『一時停止』ボタンによって物理的に切断されてしまった。


「……鬼だ。あの人は血も涙もない、絶対君主の暴君だ……ッ!」


 僕は怨嗟の声を漏らしながら、急いでタブレットをリュックに放り込んだ。

 頭を抱えてしゃがみ込みたい衝動に駆られたが、僕に与えられた猶予は『十五分』しかない。一秒でも遅れれば、僕の部屋の厳重な偽装ロッカーの底に眠る初期限定生産アクリルスタンド──現在の市場価値は五万円を下らない──が、如月家の高性能焼却炉で灰にされる。彼女の『行動パターンなど手に取るようにわかる』という言葉は決してハッタリではない。あの偏執的な観察眼なら、僕の部屋の不自然な二重底など三秒で見破るだろう。


 僕は薄汚れたグレーのパーカーのフードを深く被り直し、登山用の巨大なリュックを背負い直した。歩くたびに、ジッパーに取り付けた彩華ちゃんのアクリルキーホルダーがカチャカチャと悲しげな音を立てる。


「影のルート……廃棄物専用の昇降機と、空調ダクトの点検通路って言ってたな」


 僕はスマホを取り出し、あらかじめローカルに保存しておいたホテル・セレーネの建築情報モデリングデータを展開した。セキュリティの強固な表のネットワークには入れないが、施工当時の古い構造図面なら、少しの検索技術でどうにでもなる。

 図面によれば、この搬入口の奥、リネン業者のトラックが停まるプラットフォームの裏手に、客室フロアから直接ゴミを下ろすための業務用ダストシュートと並行して、メンテナンス用の小型昇降機が存在している。


 僕は作業員たちの目を盗み、死角を縫ってその鉄扉へと辿り着いた。

 『関係者以外立入禁止』のプレートが貼られた扉の電子錠は、旧式の磁気カードリーダーだった。最新のスマートシティを謳うこのホテルも、裏方のインフラ設備までは完全なアップデートが済んでいないらしい。僕はリュックから自作の磁気エミュレーターを取り出し、数秒のブルートフォース攻撃でロックを解除した。


 重い鉄扉を開けると、油と生ゴミの腐敗臭が混ざり合った、ホテル・セレーネの『裏の顔』の匂いが鼻を突いた。

 カゴが剥き出しになったような無骨な昇降機に乗り込み、手動のレバーで四十四階を目指す。昇降機はガコン、ガコンと不穏な金属音を立てながら、真っ暗なシャフトの中をゆっくりと上昇していく。


「はぁ……。なんで僕が、こんなスパイ映画みたいな真似をしてるんだろう」


 四十四階のメンテナンスフロアに到着すると、そこから先はエレベーターが存在しない。四十五階は特別階であり、セキュリティのレベルが一段階上がるからだ。

 図面を確認する。四十五階の北側回廊へ抜けるには、天井裏を走る主空調(HVAC)システムのバイパスダクトを通るしかない。


 僕はアルミ脚立を組み立て、天井の点検口を押し開けた。

 中は強烈な防音材の匂いと、HEPAフィルターで極限まで濾過された無臭の冷気が吹き荒れていた。幅八十センチほどのダクトの中を、リュックを前抱えにしながら匍匐前進で進む。亜鉛メッキ鋼板の冷たい感触がパーカー越しに伝わり、細かい埃が顔に降りかかる。僕の平穏な休日は、文字通り泥と埃にまみれていく。


 腕時計のタイマーを確認する。残り二分。

 ダクトの分岐点を右に折れ、図面上で『四十五階・北側回廊上部』と記されたポイントに到達した。直下には、排気用の格子状の蓋(ルーバー)が見える。

 僕はマイナスドライバーで内側からルーバーの留め具を外し、そっと下へと押し開けた。


 ドサッ、という鈍い音と共に、僕は四十五階の回廊へと落下した。


「いってぇ……!」


 幸いなことに、着地した床には信じられないほど分厚く柔らかい絨毯が敷き詰められており、衝撃は最小限で済んだ。

 僕は慌てて立ち上がり、膝についたダクトの埃を払い落とそうとした。


 その時だ。


「十四分五十八秒。……ギリギリ及第点といったところじゃな」


 頭上から、氷点下から響くような、しかしどこか艶を帯びた声が降ってきた。


「ッ!?」


 顔を上げた瞬間、僕は息を呑み、思わず視線を床へと弾き返した。


 そこに立っていたのは、僕のクラスメイトであり、僕を呼び出した張本人である如月瑠璃さんだった。

 だが、その姿は、僕の知る『旧校舎の図書室の主』とは、細胞レベルで異なっていた。


 艶やかに結い上げられた漆黒の髪。首元で鈍い銀色の照りを放つ、三重巻きのアコヤ真珠。

 そして何より、彼女が身に纏っている、夜空の深淵をそのまま切り取ったようなミッドナイトブルーのシルクドレス。

 背中から肩にかけてが、僕の常識では信じられないほど大胆に露出しており、ホテルの冷ややかなダウンライトを浴びたその透き通るような白い肌が、まるで自ら発光しているかのようにさえ見えた。


(見れない。直視できない……!)


 僕の脳内で、『同世代の女性に対する防衛本能』という名の警報がレッドゾーンを振り切って鳴り響いた。

 普段はブレザーで隠されている部分が、これほどまでに無防備に、かつ暴力的なまでの美しさで晒されているという事実が、僕の脆弱な処理能力を一瞬でオーバーフローさせる。


 綺麗だとか、美しいとか、そういう言語化可能な感想を持つ以前に、『生身の、極度に洗練された女子が目の前にいる』という事実が、劇薬のように視神経を焼く。彩華ちゃんのような『画面の向こうのアイドル(2.5次元)』なら何時間でも直視できるのに、リアルな三次元の、しかも完全武装した令嬢の姿は、僕のキャパシティを遥かに超えていた。


「お主、どこを見ておる。まさか、この特注絨毯のパイル密度でも計算しておるわけではあるまいな」


「い、いや、その……!」


 僕は顔を茹でダコのように真っ赤にして、視線を激しく泳がせた。

 如月さんの顔を見ようとすると、どうしてもその滑らかな肩のラインやデコルテが視界に入ってしまう。だからといって下を見れば、ドレスの深いスリットから覗く足元が気になってしまう。


 結果、僕は明後日の方向にある、巨大なモンステラの鉢植えを親の仇のように凝視することしかできなかった。


「な、なんか、いつもと雰囲気が違うというか……その、服が……布面積が、極端に少ないというか……」


「は?何を寝言のようにゴニョゴニョ言っておるのじゃ。イブニングドレスとはこういうものじゃ。機能性や保温性を完全に度外視し、純粋な装飾性と権威の誇示のみを目的とした、非合理の極みじゃな。……それより、お主のその汚らしい風体はなんじゃ。わしの城の絨毯に埃を落とすでない」


 彼女は僕の動揺など一片の塵ほども意に介していない様子で、呆れたように細い息を吐いた。


「勘弁してくださいよ、如月さん。ダクトの中を這ってこいって言ったのはそっちじゃないですか……。こっちはライブの途中で強制連行された被害者なんですからね」


 汗だくで埃まみれのパーカー姿と、冷徹な美しさを放つドレス姿。

 傍から見れば、城に迷い込んだドブネズミと、それを冷徹に見下ろす氷の女王の構図だ。


「で?何の用ですか?まさか、このホテルのWi-Fiルーターの調子が悪いから直せとか、そういうどうでもいい用事じゃないですよね」


「愚鈍な。わしがそのような下らない雑務でお主を呼ぶとでも思うたか。……あれを見るのじゃ」


 如月さんは、純白の手袋に包まれた指先で、自分の足元を指し示した。

 その声色が、いつもの『鑑定モード』のトーンに切り替わっているのを感じ取り、僕もようやく高鳴る動悸を少しだけ抑え込むことができた。


 そうだ、中身はあの『如月瑠璃』だ。見た目がいくらお姫様でも、中身はモノのルーツを探ることにしか興味がない、偏執的な鑑定マニアだ。そう自分に言い聞かせ、僕は恐る恐る視線を彼女の足元へ移した。


 そこには、茶色い泥にまみれた薄汚いシャンパングラスと、その中に鎮座する、異常にピカピカと黒光りするハニワがあった。


「え?何ですかこれ。誰かのイタズラ?それともゴミですか?」


「お主の目は節穴か。よく観測するのじゃ」


 如月さんの指示に、僕は「はいはい」と諦めたようにリュックを下ろした。

 中から愛用のタブレットを取り出し、高解像度カメラとLiDARスキャナを起動する。肉眼ではなく、デジタルというフィルター越しに観察するのが僕の流儀だ。怖いものや汚いものも、そして直視できない女子の姿も、画面のフレームを通せば、ただのピクセルの集合体として冷静に分析できる。


 画面上で被写体をズームし、露出とコントラストを調整すると、その異様さがより鮮明に浮かび上がった。


「うわ、近くで見るとすごい汚れですね。グラスには赤黒い泥だけじゃなくて、ベットリとした油汚れもこびりついてる。クリスタルの透明度がゼロだ。……でも、中に入ってるハニワだけは、まるで新品みたいに綺麗ですね。表面に細かい指紋がベタベタついてますけど」


「左様。このグラスに付着しておる泥は、今日昨日ついたような浅薄な汚れではない。完全に乾燥し、ひび割れ、一部はガラスの表面と同化しておる。対してハニワは、今しがたまで誰かの体温を吸っていたかのような、有機的な艶を放っておる」


 如月さんは、手にした純銀の匙の先端で、グラスの泥をほんの少しだけ削り取った。


「サクタロウ。お主の得意な仕事じゃ。この回廊の天井にある防犯カメラを確認するのじゃ。誰がこの不純物をここに配置したのか、デジタルの網膜には記録が残っておるはずじゃろ」


「えっ?防犯カメラって」


 僕はタブレットの画面を天井に向けた。

 そこには、ホテルの内装に溶け込むように設置された、ハイクビジョン社製の最新型ドーム型IPカメラがこちらを見下ろしていた。


「これ、ホテルの基幹ネットワークに繋がってるセキュリティシステムですよ?僕がここでハッキングして映像を見れるわけないじゃないですか」


「何を言う。お主、その四角い板で何でもできるのじゃろう?ちょちょいと裏口から侵入して、中身を覗き見ればよいではないか」


「はぁ!?無理ですよ!映画じゃないんだから!僕ができるのはゲームのMOD作成と、せいぜいローカルの図面データを漁るくらいですよ!?ホテルのサーバーに外部から侵入なんてしたら、一発でIPアドレスを抜かれて警察行きです!」


 僕はブンブンと首を振った。

 この人は僕のデジタルスキルを、何でも願いを叶える魔法の杖か何かだと勘違いしている節がある。


「チッ。肝心な時に使えぬ下僕じゃな」


 如月さんは心底がっかりしたように、美しく形の良い唇を尖らせて舌打ちをした。


「……あ、でも如月さん、ちょっと待ってください。映像は見れませんけど、あのカメラの『状態』ならわかりますよ」


 僕はタブレットのカメラを最大ズームにし、ドーム型カメラのレンズの脇にある小さなインジケーターを画面に映し出した。


「稼働ランプが消えてます。この機種はPoE給電で動くネットワークカメラなんですけど、正常に録画してサーバーにデータを送っている時は、目立たないように赤いLEDが点滅する仕様のはずなんです。それが、完全に沈黙してる」


「ほう?」


「LANケーブルが断線しているか、あるいはシステム側から強制的に電源を落とされているか。どっちにしても、今は『死んでる』状態です。あのカメラ、僕たちを映していませんよ」


「誰かが意図的にシステムの目を潰したか、あるいは偶然の故障か、じゃな」


 如月さんは、面白そうにアメジストの瞳を細めた。

 僕の指摘が正しいとすれば、この不気味なグラスを置いた人物は、この場所が『死角』になっていることを正確に把握していたことになる。


「ふん。まあよい。デジタルの薄っぺらい記録がなくとも、モノ自身が雄弁に語ってくれるゆえな」


 如月さんは、先ほど匙ですくい取った微量の泥に顔を近づけた。


「鉄分を豊富に含んだ赤土。微量のセメント粉末とカルシウム。……そして、この鼻腔を突く、揮発性の低い重油の酸化臭」


 彼女は目を見開き、確信に満ちた声で僕に告げた。


「これは、そこらの園芸店で売っておるような小綺麗な培養土ではない。三十年前、この月見坂市がまだ泥沼の埋立地だった頃、地中深くに打ち込まれた基礎杭の周囲に存在した『造成地の地層』そのものじゃ。つまりこのグラスは、三十年間、地下の暗闇に生き埋めにされておったのじゃよ」


「三十年前の地層……?じゃあ、タイムカプセルみたいなものですか?」


「そう単純な話ではない。サクタロウ、お主の端末で、このハニワの画像を検索してみるのじゃ。これは歴史的な出土品か?」


 僕は言われた通りにタブレットのレンズをハニワに向け、画像検索エンジンにかけた。


「えっと、違いますね。シルエットは古墳時代の『踊る人々』という有名な埴輪に似せて作られてますけど、粘土の材質や焼成温度が現代のものです。……あ、待ってください。画面で拡大すると、底の縁のところに小さく『S.K』ってアルファベットが彫ってあります。間違いなく、現代の誰かの手作り品ですよ」


「三十年前の泥に封印されていたグラスと、現代に作られ、今も誰かに撫でられ続けている手製のハニワ。……見事に時系列がねじれておるな」


 如月さんは立ち上がり、手袋越しの指先でハニワの頭を軽く撫でた。


「面白い。この最新鋭のホテルのどこかに、三十年前から時間を止めたまま、せっせと土人形を焼き、磨き続けておる『穴蔵』があるようじゃ」


 如月さんは微かに口元に笑みを浮かべ、姿なき穴蔵の方をじっと見つめていた。

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