第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 1:45階の退屈と、廊下の不純物~
月見坂市の中心街、その一等地に、天を衝くような威容で聳え立つ建造物がある。
『ホテル・セレーネ月見坂』。
地上46階、地下3階。外壁はすべてイタリアから輸入した大理石と、空の青を映し込む特殊ガラスで覆われ、この街の繁栄の象徴として君臨している。
かつて、この場所がただの泥深い湿地帯であり、葦が生い茂るだけの『忘れられた土地』であったことを知る者は、今のこの街にはほとんどいない。如月コンツェルンが総力を挙げて杭を打ち込み、埋め立て、莫大な資本とコンクリートで歴史を塗り替えたのだ。
そして今日、この現代の城は、創業30周年という記念すべき日を迎えていた。
メインホールである45階『天空の間』。
エレベーターの扉が開いた瞬間から、そこは別世界だった。
真昼の太陽が、天井から吊るされた巨大なクリスタル・シャンデリアを透過し、虹色の光の雨となってフロアに降り注いでいる。深紅の絨毯は、歩く者の足音を完全に消し去るほど分厚く、壁には名だたる画家の絵画が惜しげもなく飾られている。
だが、その空間を埋め尽くしているのは、芸術品よりも遥かに騒々しく、欲望に満ちた『人間』たちだった。
招待されたのは、政財界の重鎮、地元の名士、そして如月グループと関わりの深い企業のトップたち。誰もが仕立ての良いスーツやドレスに身を包み、片手には琥珀色の液体が揺れるグラスを持ち、顔には完璧に計算された『社交用の笑み』を貼り付けている。
グラスが触れ合う軽やかな音。
入り混じる香水と、整髪料と、高級食材の脂の匂い。
そして、ステージ上の演台から朗々と響き渡る、如月グループ会長・如月弦十郎の威厳ある演説。
「我々如月グループは、この月見坂市の発展と共に歩んでまいりました。三十年前、まだ何者でもなかったこの地に、希望という名の杭を打ち込み、未来という名の礎を築き上げたのです。このホテル・セレーネこそが、その不屈の精神の結晶であり……」
会場中から、万雷の拍手が湧き起こる。
それはまるで、訓練された軍隊のように一糸乱れぬ喝采だった。だが、その熱狂の渦から、まるで油と水が分離するように、一人静かに抜け出した影があった。
如月瑠璃である。
「くだらぬ。実に、くだらぬ」
彼女は、会場の隅にある重厚な防音扉を背中で押し開け、無人の廊下へと滑り出た。
扉が閉まると同時に、会場の喧騒は嘘のように遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。
今日の彼女は、いつもの旧校舎で見せる制服姿ではない。
艶やかな黒髪を優雅にアップにし、首元には小粒だが最高級のアコヤ真珠のネックレス。身に纏っているのは、夜空を切り取ったようなミッドナイトブルーのイブニングドレスだ。背中が大胆に開いたそのデザインは、彼女の透き通るような白い肌を際立たせ、少女と大人の境界線にある危うい美しさを放っている。
しかし、その表情は能面のように冷え切っていた。
「どいつもこいつも、中身のない美辞麗句と、愛想笑いの仮面舞踏会じゃ。あそこの空気は、二酸化炭素と自尊心の濃度が高すぎて、脳が腐りそうじゃ」
瑠璃は、ドレスの胸元から愛用の銀の懐中時計を取り出した。
親指でリューズを撫で、パチンと蓋を開ける。
チッ、チッ、チッ……。
精巧な機械式時計が刻む、冷たく正確なリズム。
彼女はこの音を聞くことで、会場の『嘘の熱気』で乱された自分の感覚をチューニングし、世界をあるべき解像度に戻しているのだ。
「帰るか。父に見つかる前に、非常階段からでも抜けるとしよう。……このヒールで階段を降りるのは骨じゃが、あの古狸たちの相手をするよりはマシじゃ」
独り言を呟きながら、瑠璃はエレベーターホールへと続く長い廊下を歩き出した。
このフロアは貸し切りになっているため、他の客はいない。従業員さえも、今はパーティー会場のサービスに総動員されている。
どこまでも続く深紅の絨毯。等間隔に置かれた間接照明。壁には抽象的なモダンアート。
完璧に清掃され、塵一つ落ちていないはずの、高級ホテルの回廊。
だが。
その完璧な調和を乱すものが、瑠璃の視界の端に引っかかった。
「ん?」
瑠璃の足が、ピタリと止まった。
カツン、というヒールの音が、分厚い絨毯に吸い込まれて消える。
彼女はゆっくりと首を巡らせ、廊下の中央に視線を定めた。
「なんじゃ、あれは?」
そこには、まるで誰かが意図的に『展示』したかのように、『それ』は置かれていた。
一脚の、シャンパングラスだった。
だが、会場で客たちが手にしているような、磨き上げられたバカラのクリスタルではない。遠目に見てもわかるほど、そのグラスは茶色く濁り、泥と油で薄汚れ、見るも無惨な姿を晒している。
スポットライトのように天井のダウンライトがそれを照らし出し、汚れのディテールを浮き彫りにしていた。
瑠璃は、獲物を見つけた猫のように目を細めた。
退屈という名の霧が、一瞬にして晴れていく。
彼女はドレスの裾が床を擦る音さえ消し、慎重に、観察対象へと間合いを詰めた。
近づくにつれ、その『異様さ』が鮮明になる。
グラスの縁は欠けて鋭利な刃物のようになっており、脚には赤黒い土がこびりつき、乾燥してひび割れている。
明らかに、今日昨日の汚れではない。数十年単位で、どこかの地中深くに埋もれ、風化し、忘れ去られていたゴミのような風情だ。
創業30周年を祝う、最も格式高いこの場所に、最も似つかわしくない『不純物』。
だが、瑠璃が足を止め、その場に釘付けになった本当の理由は、グラスの汚れではない。
その薄汚れたグラスの中に、鎮座している『中身』だった。
「ほう」
彼女は、ドレスに特注で縫い付けさせた隠しポケットから、使い込まれたアンティークのルーペと、薄手の白手袋を取り出した。
流れるような動作で手袋を装着し、床に膝をつく。ドレスが汚れることなど、微塵も気にしていない。
汚れたグラスの中に入っていたのは、祝杯のシャンパンではない。
親指ほどの大きさの、『ハニワ』だった。
両手を挙げて踊る人の形をした、素焼きの土人形。
だが、そのハニワは、容器であるグラスとは対照的に、異常なほど『ピカピカ』だった。
泥一つついていないどころか、表面は丁寧に磨き上げられ、まるで宝石のように、廊下のダウンライトを反射して艶を放っている。
素焼きの表面が、長い年月をかけた摩擦によって、黒光りするほどの滑らかさを獲得しているのだ。
「……おもしろい」
瑠璃の唇が、三日月形に歪んだ。
彼女の瞳の奥で、知的好奇心の炎が青く揺らめく。
「最高級ホテルの45階。創業記念パーティーの真っ只中。そこに、泥まみれの欠けたグラスと、執拗に磨き上げられたハニワ……」
彼女はルーペを目元に当て、ハニワの表面を凝視した。
倍率十倍の世界。そこには、肉眼では見えない微細な『指紋』の跡が無数に重なっているのが見えた。
これは機械研磨ではない。サンドペーパーで削ったものでもない。
誰かが、毎日毎日、何年も、何十年もかけて、この土人形を親指の腹で撫で回し、愛で続けてきた痕跡だ。人間の脂が土の粒子に染み込み、独特の、生々しい光沢を生んでいる。
「これは『ゴミ』ではない。誰かの『魂』じゃ」
思考が加速する。
なぜ、ここにある?
落とし物?否。こんな重くて目立つものを、誰も気づかずに落とすわけがない。
イタズラ?否。イタズラにしては、グラスの汚れが『本物』すぎる。この泥は、ホームセンターで売っている園芸用の培養土などではない。もっと粒子が細かく、鉄分を含んだ、建設現場特有の赤土だ。そして、鼻をつく微かな重油の臭い。
瑠璃は立ち上がると、懐から最新型のスマートフォンを取り出した。
アナログ主義の彼女がこれを持つ理由はただ一つ。
『現代の魔法使い』を召喚するためだ。
一人で帰るつもりだったが、予定変更だ。この謎を解くには、あの男の目と、何よりこの『不条理』を共有し、振り回される相手が必要になる。
連絡先リストの一番上。
『下僕』と登録された名前をタップする。
コール音は三回。
すぐに、少し慌てたような、しかしどこか気の抜けた少年の声が響いた。
『はい、もしもし?なんですか、如月さん?今ちょっと……すごいタイミングなんですけど……』
彼の声の背後から、凄まじい轟音が漏れ聞こえてくる。
ドム、ドム、ドム、という重低音のバスドラム。
そして、地響きのような野太い男たちのコール。
――『うりゃ!おい!うりゃ!おい!あー、やっぱりサヤカちゃん!』
さらに、スピーカー越しでも分かる、甘ったるくも必死な少女の歌声。
――『♪深海魚だって~、恋をするの~!ギョギョっとラブ~!』
ライブ会場ではない。サクタロウの部屋のテレビから流れる、ライブDVDの音声だ。
彼は今、この世で最も真剣な『儀式』の真っ最中なのだ。
「サクタロウ。今すぐホテル・セレーネの45階へ来い」
瑠璃は、彼の大切な時間を土足で踏み荒らすことに、一片の躊躇もなかった。
『は?……いや、無理ですよ。今日そこ、如月グループのパーティーでしょ?僕みたいな一般庶民が入れるわけ……というか、今日は『周年記念ライブ』のDVD鑑賞会って言いましたよね!?今、アンコール前のMCなんですよ!』
悲痛な叫びが返ってくる。
だが、瑠璃にはその価値観など理解できないし、するつもりもない。
「裏口の警備には話を通しておく。15分以内に来い」
『いや、だから無理だって!こっちは自転車しかないんだですよ!?父さんもいないし、今日は家でペンライト振って……』
「ふうん。断るのか」
瑠璃は、眼下のハニワを見下ろしながら、冷ややかに、しかし残酷なほど楽しげに囁いた。
「ならば仕方がない。お主が部室のロッカーの奥底、工具箱の下の二重底に隠している、『GyoGyoっとラブ』の初期限定生産アクリルスタンド……あれを、わしの権限で『不燃ごみ』として処分させてもらおうか」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
そして、ガタガタと何かが崩れ落ちるような音も。
『ッ!?な、なんでその場所を!?あれは絶対に見つからないように偽装して……!アレ、今の相場だと5万はする激レア品……!』
「甘い。わしの鑑定眼を舐めるな。お主の行動パターンなど、手に取るようにわかる。……15分じゃ。1秒でも遅れたら、推しとやらは焼却炉行きじゃぞ」
『行きます!すぐ行きます!!うわあああ一時停止!サヤカちゃん待ってて!!』
ブツリ、と通話が切れた。
瑠璃はスマホをしまい、再びハニワに向き直った。
壁の向こうの会場から響く拍手の音も、サクタロウの悲鳴も、もう彼女の耳には届いていない。
ここにあるのは、汚れたグラスと、愛された土人形。
そして、それを解き明かさずにはいられない、如月瑠璃という名の鑑定士だけだった。
「さて。はじめようかの」
彼女は銀の匙を取り出し、まるでフルコースの前菜を味わうかのように、汚れたグラスの泥にそっと触れた。
その泥は、30年前の記憶を孕んで、冷たく湿っていた。




