第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 1:45階の退屈と、廊下の不純物~
図書室での『調律』から、正確に二十四時間が経過していた。
月見坂市の中心街、その一等地に、天を衝くような威容で聳え立つ建造物がある。『ホテル・セレーネ月見坂』。地上四十六階、地下三階。外壁はすべてイタリア・トスカーナ地方から輸入された純白の大理石と、熱線反射コーティングが施され空の青を鏡のように映し込む特殊ガラスで覆われ、このスマートシティの繁栄の象徴として君臨している。
かつて、この場所が旧市街の生活排水が流れ込むただの泥深い湿地帯であり、腐臭を放つ葦が生い茂るだけの『忘れられた土地』であったことを知る者は、今のこの街にはほとんどいない。如月コンツェルンが総力を挙げて数万トンのコンクリート杭を打ち込み、埋め立て、莫大な資本と最先端の土木技術で不都合な歴史を力ずくで塗り替えたのだ。
そして今日、この現代の城は、創業三十周年という記念すべき日を迎えていた。
メインホールである四十五階『天空の間』。静音設計の高速エレベーターの扉が開いた瞬間から、そこは外界とは完全に隔絶された別世界だった。
真昼の太陽が、天井から吊るされた巨大なクリスタル・シャンデリア――スワロフスキー社製の特注品であり、三万個を超える多面体カットの結晶――を透過し、虹色の光の雨となってフロアに降り注いでいる。足元に敷き詰められた深紅の絨毯は、カネボウ製の特注品で、歩く者の足音を完全に消し去るほどパイルが分厚く、壁には名だたる画家の印象派絵画が惜しげもなく飾られている。二重の断熱構造を持つ特殊強化ガラスによって外界の騒音と湿気から完全に隔離されたその空間には、中央管理システムによって摂氏二十二度、湿度四十パーセントに固定された人工的な大気が澱んでいた。
だが、その空間を埋め尽くしているのは、芸術品よりも遥かに騒々しく、欲望に満ちた人間たちだった。
招待されたのは、政財界の重鎮、地元の名士、そして如月グループと関わりの深い企業のトップたち。誰もが仕立ての良いオーダースーツやハイブランドのドレスに身を包み、片手には琥珀色の液体が揺れるグラスを持ち、顔には完璧に計算された『社交用の笑み』を貼り付けている。グラスが触れ合う軽やかな音。そこには、世界中から集められた数千万円規模の香水――ジャスミン、サンダルウッド、そして合成ムスクが放つ重厚な分子の群れ――と、一瓶数十万円を下らないヴィンテージ・シャンパンの揮発したアルコール臭、さらには最高級の和牛から滴り落ちる不飽和脂肪酸が加熱された官能的な匂いが入り混じり、致死量に近い濃度まで飽和していた。
そして、ステージ上の演台から朗々と響き渡る、如月グループ会長・如月弦十郎の威厳ある演説。
「我々如月グループは、この月見坂市の発展と共に歩んでまいりました。三十年前、まだ何者でもなかったこの地に、希望という名の杭を打ち込み、未来という名の礎を築き上げたのです。このホテル・セレーネこそが、その不屈の精神の結晶であり……」
会場中から、万雷の拍手が湧き起こる。それはまるで、訓練された軍隊のように一糸乱れぬ喝采だった。だが、その熱狂の渦から、まるで水に混ざらぬ一滴の油が分離するように、一人静かに抜け出した影があった。
如月瑠璃である。
(くだらぬ。実に、くだらぬ)
彼女は、会場の隅にある厚さ十センチの重厚な防音扉を背中で押し開け、無人の北側回廊へと滑り出た。扉が閉まると同時に、会場の喧騒は嘘のように完璧に遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。
今日の彼女は、いつもの旧校舎で見せる隠者のような制服姿ではない。如月家の『至宝』としての役割を完璧に演じるための装いに身を包んでいた。
艶やかな漆黒の長髪を夜会巻きに優雅にアップにし、その首元には小粒だが最高級の三重巻きアコヤ真珠のネックレス。数年の歳月をかけて外套膜が分泌した真珠層が、千層以上の積層を成した結晶体であり、内側から滲み出るような鈍い銀色の照りを放っている。身に纏っているのは、夜空を切り取ったようなミッドナイトブルーのシルク製イブニングドレスだ。光の屈折率を計算し尽くされたその生地は、深海の色から冷徹な鋼の色へと表情を変える。背中がV字に大胆に開いたそのデザインは、彼女の透き通るような、上質のボーンチャイナを思わせる白い肌を際立たせ、十六歳の少女と大人の境界線にある危うい美しさを強烈に放っていた。
しかし、その表情は能面のように冷え切っていた。
(どいつもこいつも、中身のない美辞麗句と、愛想笑いの仮面舞踏会じゃ。あそこの空気は、二酸化炭素と自尊心の濃度が高すぎて、脳の細胞が腐りそうじゃ)
瑠璃は、ドレスの胸元に特注で縫い付けさせた隠しポケットから、愛用の銀の懐中時計を取り出した。親指でリューズを撫で、パチンと蓋を開ける。
チッ、チッ、チッ……。
精巧な五振動の機械式ムーブメントが刻む、冷たく正確なリズム。彼女はこの音を聞くことで、会場の『嘘の熱気』で乱された自身の末梢神経と感覚をチューニングし、世界をあるべき解像度に戻しているのだ。
(帰るか。父に見つかる前に、非常階段からでも抜けるとしよう。……このヒールで四十五階分の階段を降りるのは骨じゃが、あの古狸たちの相手をするよりはマシじゃ)
独り言を呟きながら、瑠璃はエレベーターホールへと続く長い廊下を歩き出した。
このフロアは貸し切りになっているため、他の客はいない。従業員さえも、今はパーティー会場のサービスに総動員されている。どこまでも続く深紅の絨毯。等間隔に置かれた色温度の低い間接照明。壁には抽象的なモダンアート。完璧に清掃され、塵一つ落ちていないはずの、高級ホテルの回廊。
だが。
その完璧な調和を乱すものが、瑠璃の視界の端に引っかかった。
「ん?」
瑠璃の足が、ピタリと止まった。
カツン、というヒールの音が、分厚いパイル地の絨毯に吸い込まれて消える。彼女はゆっくりと首を巡らせ、廊下の中央に視線を定めた。
「なんじゃ、あれは?」
そこには、まるで誰かが意図的に『展示』したかのように、『それ』は置かれていた。
一脚の、シャンパングラスだった。
だが、会場で客たちが手にしているような、完璧に磨き上げられたクリスタルではない。遠目に見てもわかるほど、そのグラスは茶色く濁り、泥と油で薄汚れ、見るも無惨な姿を晒している。スポットライトのように天井のハロゲン・ダウンライトがそれを垂直に照らし出し、汚れのディテールを残酷なほどに浮き彫りにしていた。
瑠璃は、獲物を見つけた猫のように紫水晶の瞳を細めた。退屈という名の霧が、一瞬にして晴れていく。
彼女はドレスの裾が床を擦る音さえ消し、慎重に、観察対象へと間合いを詰めた。
近づくにつれ、その『異様さ』が鮮明になる。
グラスの縁は欠けて鋭利な刃物のようになっており、脚には赤黒い土がこびりつき、完全に乾燥してひび割れている。明らかに、今日昨日の汚れではない。数十年単位で、どこかの地中深くに埋もれ、風化し、忘れ去られていたゴミのような風情だ。
創業三十周年を祝う、最も格式高いこの場所に、最も似つかわしくない『不純物』。
だが、瑠璃が足を止め、その場に釘付けになった本当の理由は、グラスの汚れではない。その薄汚れたグラスの中に、鎮座している『中身』だった。
「ほう」
彼女は、ドレスの隠しポケットから、使い込まれたアンティークの銀のルーペと、薄手の白手袋を取り出した。最高級の超長綿で編まれた手袋を、流れるような動作で指先に密着させるように装着する。モノの鑑定を開始する際のみに行われる、絶対的な儀式だ。そして、深紅の絨毯の上に静かに膝をつく。高価なドレスが汚れることなど、微塵も気にしていない。
汚れたグラスの中に入っていたのは、祝杯のシャンパンではない。
親指ほどの大きさの、『ハニワ』だった。
両手を挙げて踊る人の形をした、素焼きの土人形。
だが、そのハニワは、容器であるグラスとは対照的に、異常なほど『ピカピカ』だった。泥一つついていないどころか、表面は丁寧に磨き上げられ、まるで宝石のように、廊下のダウンライトを反射して有機的な艶を放っている。素焼きの表面が、長い年月をかけた摩擦によって、黒光りするほどの滑らかさを獲得しているのだ。
「……おもしろい」
瑠璃の唇が、三日月形に歪んだ。彼女の瞳の奥で、知的好奇心の炎が青く揺らめく。
「最高級ホテルの四十五階。創業記念パーティーの真っ只中。そこに、泥まみれの欠けたグラスと、執拗に磨き上げられたハニワ……」
彼女はルーペを目元に当て、ハニワの表面を凝視した。
倍率十倍の世界。そこには、肉眼では見えない微細な『指紋』の跡が無数に重なっているのが見えた。
これは機械研磨ではない。サンドペーパーで削ったものでもない。誰かが、毎日毎日、何年も、何十年もかけて、この土人形を親指の腹で撫で回し、愛で続けてきた痕跡だ。人間の皮脂や角質成分が土の粒子に染み込み、何層ものレイヤーを形成して、独特の、生々しい光沢を生んでいる。
「これは『ゴミ』ではない。誰かの『魂』じゃ」
思考が加速する。
なぜ、ここにある? 落とし物? 否。こんな重くて目立つものを、誰も気づかずに落とすわけがない。イタズラ? 否。イタズラにしては、グラスの汚れが『本物』すぎる。彼女の鼻腔を突くこの匂い。鉄の錆びたような苦味と、古い重油の酸化臭。そしてこの泥は、ホームセンターで売っている園芸用の培養土などではない。もっと粒子が細かく、カルシウムを豊富に含んだ、建設現場特有の強アルカリ性の赤土だ。三十年前の、月見坂の底に眠っていた地層の匂いそのものだ。
瑠璃は立ち上がると、懐から最新型のスマートフォンを取り出した。
アナログ主義の彼女がこれを持つ理由はただ一つ。『下僕』を召喚するためだ。この不条理を読み解くには、地下で待機させているあの男の目と、物理的な観測地点の共有が必要不可欠となる。
連絡先リストの一番上。『下僕』と登録された名前をタップする。
コール音は三回。
すぐに、少し慌てたような、しかしどこか気の抜けた少年の声が響いた。
『はい、もしもし? なんですか、如月さん? 昨日の指示通り、午前十時からずっと地下二階の従業員用搬入口で待機してますけど、今ちょっと……すごいタイミングなんですけど』
彼の声の背後から、ノイズキャンセリング・イヤホンからの音漏れとは思えないほどの凄まじい轟音が漏れ聞こえてくる。
ドム、ドム、ドム、という重低音のバスドラム。
そして、地響きのような野太い男たちのコール。
――『うりゃ!おい!うりゃ!おい!あー、やっぱり彩華ちゃん!』
さらに、スピーカー越しでも分かる、甘ったるくも必死な少女の歌声。
――『♪深海魚だって~、恋をするの~!ギョギョっとラブ~!』
ライブ会場ではない。ホテルの冷たいコンクリートの搬入口で、サクタロウが持ち込んだタブレット端末で再生しているライブ映像の音声だ。彼は『待機』という名目で、この世で最も真剣な『儀式』の真っ最中なのだ。
瑠璃は、彼の大切な時間を土足で踏み荒らすことに、一片の躊躇もなかった。
「サクタロウ。地下での待機任務は終了じゃ。お主に教えた『影のルート』――廃棄物専用の昇降機と、空調ダクトの点検通路を使って、今すぐこの四十五階の北側回廊へ登ってくるのじゃ」
『は?……いや、無理ですよ!四十五階って、如月グループのパーティー会場でしょ?僕みたいなジャージ姿の一般庶民が入れるわけ……というか、今は『周年記念ライブ』のアンコール前のMCなんですよ!』
悲痛な叫びが返ってくる。
だが、瑠璃にはその価値観など理解できないし、するつもりもない。
「予定変更じゃ。お主の卑屈な視線が活きる『死角』から、極上の不純物が出現した。十五分以内に来るのじゃ」
『いや、だから無理ですって!いくら点検通路でもホテルのセキュリティは厳しすぎるし、今日はここでペンライト振って……』
「ふうん。断るのか」
瑠璃は、眼下のハニワを見下ろしながら、冷ややかに、しかし残酷なほど楽しげに囁いた。
「ならば仕方がない。お主が部室のロッカーの奥底、工具箱の下の二重底に隠している、『GyoGyoっとラブ』の初期限定生産アクリルスタンド……あれを、わしの権限で『不燃ごみ』として処分させてもらおうかの」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
そして、ガタガタとパイプ椅子から崩れ落ちるような音も。
『ッ!?な、なんでその場所を!?あれは絶対に見つからないように偽装して……!アレ、今の相場だと五万はする激レア品……!』
「甘い。わしの鑑定眼を舐めるな。お主の行動パターンなど、手に取るようにわかる。……十五分じゃ。一秒でも遅れたら、推しとやらは我が家の焼却炉行きじゃぞ」
『行きます!影のルート使ってすぐ行きます!!うわあああ一時停止!彩華ちゃん待ってて!!』
ブツリ、と通話が切れた。
瑠璃はスマホをしまい、再びハニワに向き直った。
壁の向こうの会場から響く拍手の音も、サクタロウの悲鳴も、もう彼女の耳には届いていない。
ここにあるのは、汚れたグラスと、愛された土人形。
そして、それを解き明かさずにはいられない、如月瑠璃という名の鑑定士だけだった。
「さて。はじめようかの」
彼女は銀の匙を取り出し、まるでフルコースの前菜を味わうかのように、汚れたグラスの泥にそっと触れた。
その泥は、三十年前の記憶を孕んで、冷たく湿っていた。




