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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:嵐の前の推し事と、憂鬱なる午後

 事件が起きる、二十四時間前。


 旧校舎の図書室には、カビと古本の匂い、そして噛み合わない二つの時間が流れていた。


 窓際の一等地に陣取るのは、この部屋の主である如月瑠璃(きさらぎ るり)さん。


 彼女は不機嫌そうに、豪奢な金箔押しの招待状をペチペチと掌に打ち付けている。


「……憂鬱じゃ。実に憂鬱じゃ」


 一方、カウンターの影で背中を丸めているのは、僕こと朔光太郎(さく こうたろう)だ。

 僕は彼女の愚痴をBGMのように聞き流しながら、手元にある『聖域』のメンテナンスに余念がなかった。


 愛用のマイクロファイバークロスで、地下アイドルグループ『GyoGyoっとラブ』のセンター・箱崎彩華(はこざき さやか)(はこざき さやか)の実写アクリルスタンドを、親の形見のように丁寧に拭き上げているのだ。


「……聞いておるのか、サクタロウ」


 冷ややかな声が降ってくる。僕は手を止めずに答えた。


「聞いてますよ、如月さん。明日の昼、ホテル・セレーネで創業パーティーがあるんでしょう?如月コンツェルンの」


 如月さん――如月瑠璃は、この月見坂市を牛耳る財閥の令嬢であり、僕のクラスメイトであり、そして僕を『下僕』扱いする天敵(クラスメイト)だ。


「他人事だと思って。……あそこは酸素が薄いんじゃ。脂ぎった大人たちが、上辺だけの社交辞令と昼間から高価な酒を交換し合う、虚栄の監獄じゃよ」


「へえ。僕みたいな団地住まいの一般市民からしたら、雲の上の世界ですけどね。ホテル・セレーネのランチコースなんて、一生に一度行けるかどうか……」


「なら、お主が代わりに行くか?わしのドレスを着て」


「……冗談やめてくださいよ。僕が着たら、ただの変態として捕まります」


 僕は苦笑いしながら、ピカピカになった彩華ちゃんのアクスタを専用のポーチにしまった。

 僕にとって、煌びやかなパーティーなど別世界の出来事だ。明日は父さんも仕事でいないし、家で一人、誰にも邪魔されずに趣味に没頭する。それが僕のささやかな幸せなのだ。


「……はぁ。とにかく、明日は半日、死んだ魚のような目をして過ごすことになりそうじゃ」


 如月さんは大きなため息をつき、招待状をテーブルに放り投げた。

 その紙片には、『Hotel Selene 30th Anniversary Ceremony』の文字が躍っている。


「30周年、か。……あのホテルが建つ前、あそこがただのドブ川だったことを知っている人間が、今の会場に何人いることやら」


 彼女は意味深に呟くと、愛用の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。

 その音が、何かのスイッチのように響く。


「サクタロウ。明日は空けておけよ」


 僕はギョッとして顔を上げた。


「え?無理ですよ。明日は大事な用事があるんです。ずっと楽しみにしてた『魚魚ラブ』の結成記念ライブDVDを見るんですから。絶対に邪魔しないでくださいね」


「フン。平面のアイドルに現を抜かすとは、嘆かわしい」


 如月さんは冷ややかに笑ったが、それ以上は何も言わなかった。

 僕はその沈黙を、『了承』だと勝手に解釈して安心していた。


 ――この時の僕は、まだ知らなかったのだ。


 明日の真っ昼間、その『雲の上のホテル』に、ジャージ姿で呼び出されることになるなんて。


 そして、如月さんが予言した『ドブ川だった過去』が、泥だらけのグラスとなって僕の目の前に現れることになるなんて。


 今はただ、西日が差し込む図書室で、平和な放課後が過ぎていく。


 嵐の前の、最後の静寂だった。



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