プロローグ:嵐の前の推し事と、憂鬱なる午後
事件が起きる、二十四時間前。
旧校舎の図書室には、カビと古本の匂い、そして噛み合わない二つの時間が流れていた。
窓際の一等地に陣取るのは、この部屋の主である如月瑠璃さん。
彼女は不機嫌そうに、豪奢な金箔押しの招待状をペチペチと掌に打ち付けている。
「……憂鬱じゃ。実に憂鬱じゃ」
一方、カウンターの影で背中を丸めているのは、僕こと朔光太郎だ。
僕は彼女の愚痴をBGMのように聞き流しながら、手元にある『聖域』のメンテナンスに余念がなかった。
愛用のマイクロファイバークロスで、地下アイドルグループ『GyoGyoっとラブ』のセンター・箱崎彩華(はこざき さやか)の実写アクリルスタンドを、親の形見のように丁寧に拭き上げているのだ。
「……聞いておるのか、サクタロウ」
冷ややかな声が降ってくる。僕は手を止めずに答えた。
「聞いてますよ、如月さん。明日の昼、ホテル・セレーネで創業パーティーがあるんでしょう?如月コンツェルンの」
如月さん――如月瑠璃は、この月見坂市を牛耳る財閥の令嬢であり、僕のクラスメイトであり、そして僕を『下僕』扱いする天敵だ。
「他人事だと思って。……あそこは酸素が薄いんじゃ。脂ぎった大人たちが、上辺だけの社交辞令と昼間から高価な酒を交換し合う、虚栄の監獄じゃよ」
「へえ。僕みたいな団地住まいの一般市民からしたら、雲の上の世界ですけどね。ホテル・セレーネのランチコースなんて、一生に一度行けるかどうか……」
「なら、お主が代わりに行くか?わしのドレスを着て」
「……冗談やめてくださいよ。僕が着たら、ただの変態として捕まります」
僕は苦笑いしながら、ピカピカになった彩華ちゃんのアクスタを専用のポーチにしまった。
僕にとって、煌びやかなパーティーなど別世界の出来事だ。明日は父さんも仕事でいないし、家で一人、誰にも邪魔されずに趣味に没頭する。それが僕のささやかな幸せなのだ。
「……はぁ。とにかく、明日は半日、死んだ魚のような目をして過ごすことになりそうじゃ」
如月さんは大きなため息をつき、招待状をテーブルに放り投げた。
その紙片には、『Hotel Selene 30th Anniversary Ceremony』の文字が躍っている。
「30周年、か。……あのホテルが建つ前、あそこがただのドブ川だったことを知っている人間が、今の会場に何人いることやら」
彼女は意味深に呟くと、愛用の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。
その音が、何かのスイッチのように響く。
「サクタロウ。明日は空けておけよ」
僕はギョッとして顔を上げた。
「え?無理ですよ。明日は大事な用事があるんです。ずっと楽しみにしてた『魚魚ラブ』の結成記念ライブDVDを見るんですから。絶対に邪魔しないでくださいね」
「フン。平面のアイドルに現を抜かすとは、嘆かわしい」
如月さんは冷ややかに笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
僕はその沈黙を、『了承』だと勝手に解釈して安心していた。
――この時の僕は、まだ知らなかったのだ。
明日の真っ昼間、その『雲の上のホテル』に、ジャージ姿で呼び出されることになるなんて。
そして、如月さんが予言した『ドブ川だった過去』が、泥だらけのグラスとなって僕の目の前に現れることになるなんて。
今はただ、西日が差し込む図書室で、平和な放課後が過ぎていく。
嵐の前の、最後の静寂だった。




