表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/49

第4話『歯車とお守り』 ~Section 11:空白の十分間と、欄干の引っ掛かり~

 分厚い強化ガラスの向こう側で、いよいよ本格的に牙を剥き始めた外海の嵐が、白亜の豪華客船を容赦なく打ち据えていた。


 波のうねりが船体を持ち上げ、そして重力に任せて叩き落とすたびに、メインラウンジの天井に吊るされた巨大なクリスタルシャンデリアが不気味な軋み音を立てて揺れる。その無機質な音色が、乗客たちの心臓の鼓動を不規則に乱していくのが手にとるように分かった。自然の猛威という圧倒的な暴力の前に、人間の築き上げた富や権力がいかにちっぽけで無力なものであるか。その事実を突きつけられ、政財界のVIPたちは青ざめた顔で互いに身を寄せ合っている。


 しかし、この逃げ場のない洋上の密室において、嵐よりも遥かに恐ろしい存在が、今まさにステージの上に君臨していた。


 絶対的な鑑定眼をもって人間の嘘を剥ぎ取っていく如月瑠璃と、冷徹な数字の暴力で過去の罪を暴き立てる姉の翡翠さん。この二人の令嬢が作り出す『審判』の空気は、物理的な嵐の恐怖すらも霞ませるほどの、濃密で逃げ場のない精神的な重圧をラウンジ全体に敷き詰めていた。


 特等席に座る如月彰社長と菫さんは、娘たちのこの苛烈なまでの真実の追求を、止めるどころか、まるで誇らしい芸術作品でも鑑賞するかのように静かに見守っている。その後ろで直立不動の姿勢を保つ父・定光の顔には、旧市街の職人仲間を理不尽に死に追いやった時東誠也への怒りと、その復讐の鬼と化したかもしれない青年の末路を見届けなければならないという、深い悲痛の色が浮かんでいた。


「さて、過去の悲劇という名の動機は、姉の計算機によって完全に証明された。時東誠也は、烏森精密という誇り高き町工場を罠にはめ、その主人を死に追いやり、技術を盗んだ。その主人の一人息子である烏森桐人は、復讐のために過去を捨て、名前を変え、第一秘書の『桐谷』として時東の懐深くへと潜り込んだ」


 瑠璃の透き通るような声が、嵐の音を切り裂いて響き渡る。


 彼女は血塗られた歯車とお守りを右手に持ったまま、ステージの上をゆっくりと歩き出した。漆黒のサマードレスの裾が、彼女の動きに合わせて優雅に、そして死神の衣のように揺らめく。


「動機は十分。いや、十分すぎるほどじゃ。あの男が流した血の量よりも、職人が流した血の涙の方が遥かに重い。……だが、どれほど強烈な殺意があろうと、物理的に不可能であれば殺人は成立せん。そうじゃな、桐谷」


 瑠璃の視線が、無表情の仮面を被り続ける第一秘書へと真っ直ぐに向けられた。


 桐谷は銀縁眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げ、抑揚のない声で答えた。


「おっしゃる通りです、お嬢様。私が烏森桐人であるか否かという過去の議論は、この際どうでもいいことです。重要なのは、私が一条玲奈さんの悲鳴が上がったあの時間、現場から遠く離れたティーラウンジで複数のスタッフと談笑していたという、揺るがしようのない物理的な事実です。私が時東先生の頭を砕き、凶器を処分し、再び何食わぬ顔でスタッフの前に戻るなど、どう計算しても時間が足りません。つまり、私には不可能だということです」


 桐谷の反論は、どこまでも論理的で、冷たい氷の壁のように隙がなかった。


 どれだけ彼の過去の悲劇を暴き立てようと、彼が『現場にいなかった』という絶対的なアリバイがある限り、彼を犯人として断定することはできない。周囲の乗客たちの中にも、「確かにそうだ」「物理的に無理なら犯人ではないだろう」と、桐谷を擁護するようなヒソヒソ声が漏れ始めている。


「不可能、か。お主はその自分の作り上げた『完璧な時間管理』という歯車を、心底信用しておるようじゃな」


 瑠璃はフッと冷酷な笑みを漏らし、ステージの縁に立って桐谷を見下ろした。


「だが、お主は根本的な勘違いをしておる。お主は『一条玲奈が悲鳴を上げた時間』を、そのまま『時東が殺害された時間』だと勝手に思い込み、その一点を基準にして自分のアリバイを誇示しておるだけじゃ。……サクタロウ」


 不意に名前を呼ばれ、僕は背筋をビクッと伸ばした。


「はい、なんでしょうか」


「先ほど、わしがお主と共にあの展望デッキへ向かい、この血塗られた歯車を回収した時のことを思い出せ。この凶器は、あの時、どこに、どのような状態であったのじゃ。このラウンジにいる全員に聞こえるように、お主の口で説明してやれ」


 瑠璃からの唐突な指示。


 僕はラウンジに集まった数百人の視線を一斉に浴び、一瞬だけ頭が真っ白になりかけた。しかし、客席の奥で父さんが力強く頷いてくれているのを見て、深く息を吸い込み、記憶を正確に引きずり出した。


「ええと……この歯車とお守りは、現場のVIPルームの中に落ちていたわけじゃありません。僕たちがこれを見つけたのは、船のずっと後方にある展望デッキの外側です。……デッキの真鍮製の欄干の、ボルトの出っ張りの部分に、このお守りの赤い紐がグルグルに絡みついて、外の海に宙吊りになっている状態でした」


 僕の説明を聞いて、乗客たちの間にざわめきが走った。


 凶器が現場になく、離れたデッキの外側にぶら下がっていたという事実は、この事件が単純な衝動殺人ではなく、計画的な証拠隠滅を伴うものであることを明確に示していた。


「その通りじゃ。ご苦労、下僕」


 瑠璃は満足げに頷くと、血塗られた歯車を再びラウンジの照明にかざした。


「犯人は、時東の頭をこの重厚な金属の歯車で完膚なきまでに叩き割った後、この凶器を現場に残さなかった。なぜか。単に証拠を隠滅するためだけなら、現場の窓からそのまま海へ放り投げれば済む話じゃ。VIPルームには海に面した窓があるのだからな。……だが、犯人はわざわざ凶器を現場から持ち出し、長い廊下を移動して、人気のない後方の展望デッキまで運び、そこから海へ向かって投げ捨てようとした」


 瑠璃はステージの上をゆっくりと歩きながら、犯人の心理を解剖していく。


「なぜ、そんなリスクを冒したのか。それは、この凶器が、犯人にとってただの殺しの道具ではなく、何よりも神聖で、大切な『ルーツの結晶』じゃったからじゃ。……自分の父親が命を削って生み出した最高傑作。それに時東の薄汚い血と脳漿を吸わせたまま、あの男の穢れた部屋に放置することなど、職人の息子としてのプライドが絶対に許さなかったのじゃろう」


 瑠璃の言葉は、桐谷の心の奥底に隠された急所を、正確に、そして残酷に抉っていた。


 桐谷の表情は依然として無表情を保っていたが、その額には、先ほどまではなかった微かな汗の粒が滲み始めているのを、僕は確かに見逃さなかった。


「犯人は、この究極の精度を持つ歯車と、父親が遺したお守りを、時東の血もろとも、清らかな海という巨大なゆりかごの中へ『水葬』にしようとした。だからこそ、誰の目にも触れない後方デッキを選び、万感の思いを込めて、深い闇の底へ向かって力一杯投げ捨てたのじゃ」


 瑠璃はそこで言葉を切り、手元にある赤いお守りの紐を、ピンと指で弾いた。


 チープなナイロン製の紐が、微かに擦れる音を立てる。


「だが、ここで神は、犯人のその美しくも悲しい計画に、ほんのわずかな、しかし致命的な『不純物』を混入させたのじゃ。……サクタロウ、この紐の材質を見て、お主はどう思う?」


 再び振られた問い。僕はその赤い紐をよく観察した。


 それは、ただの細い紐ではない。旧市街の職人たちが仕事場で身につけることを前提に作られた、特殊な耐久性を持つ紐だ。


「このお守りの紐は、普通の綿や絹じゃありません。工業用の安全帯や、重機の荷締めベルトにも使われるような、極めて頑丈で摩擦に強い強化ナイロンで編まれています。油まみれの工場で毎日擦れても、絶対に切れないように作られているんです」


「その通りじゃ。絶対の強度を持つ、チープな紐。……犯人がこの重い金属の歯車を海へ向かって全力で投げ放った瞬間、この船の周囲には、今と同じような強烈な海風が吹き荒れておった。ずっしりと重い金属の歯車は、放物線を描いて海へ向かって落ちていく。だが、そこに結びつけられていたこの軽量な布製のお守りは、強風に煽られ、まるで凧のように一瞬だけ空中で舞い上がったのじゃ」


 瑠璃の解説が、事件の夜の物理的な光景を、僕たちの脳裏に鮮明に描き出していく。


「そして、その風に煽られた頑丈なナイロン紐が、まるで意思を持った鞭のように、欄干のボルトの隙間に偶然にも絡みついた。歯車の莫大な落下エネルギーは、絶対に切れない紐によって急激に制動され、欄干の『外側』に宙吊りの状態で固定されてしまったのじゃ。……奇跡的な確率の悪戯。あるいは、父親の執念が、息子を完全な人殺しにしないためにブレーキをかけたのかもしれんな」


 ラウンジの中が、深い嘆息に包まれた。


 完全犯罪を企てた犯人の計算を狂わせたのは、誰の目撃証言でも、警察の科学捜査でもない。ただの気まぐれな海風と、五百円の安っぽいお守りの紐だったのだ。


「犯人は、暗闇の中でこの奇跡に気づかなかった。金属が海に落ちる水音は、波とエンジンの轟音にかき消されて聞こえない。手元から重みが消えたことで、凶器は無事に深い海の底へ沈んだと確信し、そのまま振り返ることなく、足早に自分の『アリバイ工作』のための場所へと向かったのじゃ」


 瑠璃はステージの端まで歩み寄り、桐谷の真っ直ぐ正面に立った。


 彼女のアメジストの瞳が、桐谷の銀縁眼鏡の奥の瞳を射抜く。


「桐谷。お主は自分のアリバイを『一条玲奈が悲鳴を上げた時間』に合わせて構築した。だが、凶器が現場ではなく後方デッキにあり、しかも投げ捨てられたのだとすれば、殺人の実行時間は『悲鳴が上がった瞬間』である必要は全くない。……むしろ、悲鳴が上がるよりもずっと前、時東が一人で部屋にいる時間帯に殺害を実行し、悠々と凶器を処分し、その後にスタッフの前に姿を現してアリバイを作ることすら可能になる」


 瑠璃の言葉が、桐谷の『完璧なアリバイ』という鉄壁の盾を、音を立てて粉砕していくのが分かった。


 一条玲奈が悲鳴を上げたのは、彼女が密会の約束のために部屋を訪れ、すでに死んでいた時東を発見しただけの瞬間に過ぎない。つまり、実際の殺害時刻は、彼女が部屋を訪れるまでの間の『どこか』なのだ。


「お主は、時東のスケジュールを誰よりも正確に把握できる立場にあった。一条玲奈が部屋を訪れる時間を知っていれば、その直前の『空白の十分間』を作り出し、時東の部屋に一切の疑いを持たれることなく入り込み、そして退出することができる。……どうじゃ、秘書殿。お主の計算機に、この変数は入力されておったか?」


 瑠璃の冷酷な宣告が、嵐の海に浮かぶ密室のラウンジに、処刑の合図のように響き渡った。


 桐谷の表情は未だ完全に崩れてはいなかったが、その完璧な人工の防壁に、目に見えないほどの小さな、しかし致命的な亀裂が縦横無尽に走り始めているのを、僕は確かに感じ取っていた。


 逃げ場のない洋上の密室で、如月瑠璃という絶対君主による包囲網が、いよいよ犯人の息の根を止めようと、その輪を極限まで狭めていく。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ