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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 10:神社のルーツと、町工場の悲劇~

 豪華クルーズ船のメインラウンジは、嵐の前の海面のように不気味な静けさを保っていた。


 数百人の命を乗せた船体が、荒れ狂う波のうねりを受けて大きく傾く。シャンデリアのクリスタルが微かに触れ合い、チリンという冷たい音を立てた。その美しくも無機質な音色は、瑠璃の手の中で異様な存在感を放つ『血塗られた歯車とお守り』が発する、声なき慟哭のようにも聞こえた。


 すべての視線が、瑠璃の隣に立つ僕へと突き刺さっている。


 政財界の重鎮たち、青ざめた容疑者たち、そして特等席で静かに事態を見守る如月彰社長と菫さん。さらにその後ろで、祈るような、あるいは真実を恐れるような顔で僕を見つめる父・定光。


 逃げ出したくなるほどの重圧だった。ただの高校生である僕が、この日本の権力者たちの前で、凄惨な殺人事件の核心を語らなければならないのだ。だが、あの赤いお守りの表面に擦り切れた金糸で刺繍された文字を見た瞬間、僕の喉の奥から、旧市街で生まれ育った者としての言葉が自然と溢れ出していた。


「烏森神社のお守りです。……僕の地元である、月見坂市の旧市街。その一番端っこにある、古くて小さな神社の安全祈願のお守りです」


 僕の言葉が、ラウンジの静寂に波紋を広げた。


 瑠璃は僕から視線を外すことなく、続きを促すようにわずかに顎を引いた。


「このお守りは、一つ五百円で売られています。豪華な装飾なんて何一つない、安っぽいビニールと赤い布切れで作られた、どこにでもある大量生産品です。新市街に住むセレブの人たちなら、見向きもしないようなガラクタに見えるかもしれません。でも……旧市街の職人たちにとっては、何よりも大切な『命綱』なんです」


 僕は父さんの顔を一度だけ見てから、再び正面に向き直った。


「旧市街の町工場には、指一本を一瞬で切断してしまうような巨大なプレス機や、少しの油断で命を奪う高速の旋盤がひしめいています。どれだけ技術があっても、どれだけ気をつけていても、機械は人間の都合なんて考えてくれません。だから職人たちは、毎朝仕事に取り掛かる前に、油まみれの手を合わせて祈るんです。今日も一日、誰も怪我をせずに、無事に家に帰れますようにって。父さんの工場の工具箱の裏にも、同じお守りが真っ黒になって貼り付けられています」


 客席の最後列で、父さんが深く、噛み締めるように頷くのが見えた。


 その隣にいる他のVIPたちには決して理解できないであろう、泥臭く、しかし切実な庶民の祈りのルーツが、そこにはあった。


「そんな職人たちの中でも、あの『烏森精密』の社長さんは、誰よりも仕事に厳しく、そして誰よりも工場と家族を愛している人でした。……あのお守りは、ただの気休めじゃない。工場長が、自分が削り出す部品の精度と、自分のもとで働く職人たちの命を、絶対に守り抜くという『誓い』そのものだったはずなんです」


 僕の言葉を聞き終えた瑠璃は、血塗られた歯車とお守りを再び自分の目の高さへと持ち上げた。そのアメジストの瞳には、先ほどまでの冷酷な怒りとは違う、ある種の敬意に似た静かな光が宿っていた。


「なるほどな。五百円という貨幣価値では決して測ることのできない、極上の不純物というわけじゃ。……ならば、この矛盾の謎はすでに解けておる」


 瑠璃はラウンジの全員に聞こえるよう、よく通る声で宣言した。


「1000分の1ミリの狂いも許さない、この極限の精度を持つ『最高傑作の歯車』。そして、非論理的でありながらも、命を守るという強烈な願いが込められた『五百円のお守り』。この二つは、決して相反するものではない。どちらも、烏森精密という町工場の主人が、己の魂を削って生み出した『誇り』と『愛』の結晶なのじゃ」


 瑠璃の言葉は、ただの推理ではなく、確固たる真実の響きを持っていた。


「あの主人は、時東の卑劣な罠によってすべてを奪われ、絶望の淵に立たされた。じゃが、彼は最後の最後まで、職人としての誇りを捨てなかった。自らの命を絶つ直前の、暗く冷たい作業場の中で、彼はこの世界で自分にしか削り出せない、究極の歯車を作り上げた。……時東への、決して言葉にはならない抗議の証としてな」


 瑠璃が歯車の鋭いエッジを指差す。


「そして、その最高傑作に、自分がずっと肌身離さず持っていた安全祈願のお守りを結びつけた。……それはおそらく、遺されるたった一人の家族に対する、せめてもの謝罪と祈りだったのじゃろう。自分が死んでも、どうか息子だけは無事に生きてほしいという、不器用な父親の最後のルーツじゃ」


 ラウンジの中に、すすり泣くような音が微かに漏れた。それは、先ほどまで時東に媚びへつらっていた一条玲奈の口からだった。彼女もまた、この圧倒的な悲劇の重さに耐えきれなくなったのだろうか。


 だが、瑠璃の追及はそこで終わらなかった。彼女の視線は、ずっと無表情の仮面を被り続けている第一秘書、桐谷へと真っ直ぐに向けられた。


「……じゃが、遺された息子は、父親のその最後の祈りを、最も残酷な形で裏切った」


 瑠璃の声が、一段と低く、そして冷酷に響く。


「息子は、父親の冷たくなった遺体と、遺されたこの歯車とお守りを見つけた。そして、絶望を憎悪へと変換し、自らの人生を『復讐のための精密機械』へと改造する道を選んだ。……姉よ、烏森精密の社長の『遺族』について、数字の裏付けはあるか?」


 背後に控えていた翡翠さんが、待っていましたとばかりにタブレットの画面をフリックし、残酷な事実をラウンジの空間に投影した。


「ええ、完璧に揃っているわ。烏森精密の社長、烏森源一。彼には当時、奨学金で一流大学の工学部に進学したばかりの、極めて優秀な一人息子がいた。名前は『烏森桐人(からすもり きりひと)』。……でも、父親の葬儀の直後、彼は大学を自主退学し、そのまま忽然と姿を消しているわ。戸籍上の記録も、そこから数年間、完全に途絶えているの」


 翡翠さんの冷徹な声が、パズルの最後のピースを完璧な位置へと誘導していく。


「そして、その空白の期間を経て、時東誠也の事務所に『桐谷』と名乗る優秀な若き秘書が中途採用で入り込んでいる。経歴はすべて海外の大学を卒業したという、金で買える偽造されたもの。……つまり、烏森桐人は自らの過去を完全に消し去り、父親を死に追いやった標的の懐深くへと潜り込んだ。この血塗られた歯車を、時東の頭蓋骨に叩き込む、その一瞬のためだけにね」


 すべての謎が、一本の太く、そして悲惨な線で繋がった。


 なぜ、この豪華客船という密室で事件が起きたのか。なぜ、極限の精度を持つ歯車が凶器に選ばれたのか。なぜ、そこに安っぽいお守りが結びつけられていたのか。


 それは、五年前の冬に旧市街で起きた町工場の悲劇が、長い長い潜伏期間を経て、ついにこの洋上で凄惨な復讐劇として結実したからに他ならなかった。


「……見事な創作劇です、如月のお嬢様方」


 圧倒的な事実の連続を前にしても、第一秘書の桐谷は、まるで自らには無関係の映画の感想でも述べるかのように、冷淡な口調で反論した。


 彼の銀縁眼鏡の奥の瞳には、まだ一点の曇りも生じていない。


「確かに、過去にそのような痛ましい事件があったのかもしれません。そして、烏森という青年に強い動機があることも理解できます。……ですが、それが私と何の関係があるというのですか?」


 桐谷は一歩だけ前に出ると、周囲の乗客たちにアピールするように両手を広げた。


「私が烏森桐人であるという物理的な証拠が、どこにあるというのですか? 戸籍が偽造されていると主張されるなら、港に戻ってから警察に調べさせればいい。それに、何よりも重要な事実が抜け落ちています。先ほども申し上げた通り、一条玲奈さんが悲鳴を上げたあの時間、私は現場から最も遠いティーラウンジで、複数のスタッフと共にスケジュール確認を行っていました。動機があろうがなかろうが、私には時東先生を殺害することは物理的に不可能です」


 桐谷の反論は、氷のように冷たく、そして論理的だった。


 どれだけ過去の悲劇を掘り起こし、動機を並べ立てようとも、殺人という物理的な行為を実行できなければ犯人にはなり得ない。彼が作り上げた『完璧なアリバイ』という名の防壁は、そう簡単には崩れないように思えた。


「なるほどな。動機があっても、実行できなければ無意味。実に正論じゃ」


 瑠璃は桐谷の反論を受けても、微塵も動揺する様子を見せなかった。むしろ、その口元には、獲物が自ら罠の奥深くまで入り込んできたことを喜ぶような、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。


「お主は、自分の作り上げたその『完璧な時間管理』という歯車に、絶対の自信を持っているようじゃな。自分が現場にいなかった十分間。その空白こそが、お主の無実を証明する最大の盾であると」


 瑠璃は血塗られた歯車を持った手をゆっくりと下ろし、代わりに、今まで一度も触れていなかった『もう一つの矛盾』へと話の矛先を向けた。


「だが、桐谷よ。お主は大きな計算違いをしておる。お主は時東の頭を砕き、この復讐の証である歯車を、海という闇の底へ完全に葬り去ったと思い込んでおるようじゃが……神は、お主のその完璧な計画に、ほんのわずかな『不純物』を混入させたのじゃ」


 ラウンジの外で、巨大な雷鳴が轟いた。


 分厚いガラス窓の向こうで、閃光が黒い海を青白く照らし出す。その劇的な光景を背景にして、瑠璃は決定的な言葉を放った。


「サクタロウ。先ほどお主と確認した、あのデッキの欄干の構造を思い出せ。……なぜ、この重い歯車は海に落ちず、欄干の『外側』に引っかかっておったのじゃ?」


 不意に話を振られ、僕はハッとして記憶を遡った。


 そうだ。この歯車とお守りは、現場の部屋に落ちていたわけでも、海に沈んでいたわけでもない。瑠璃が甲板の欄干のボルトに引っかかっているのを発見したのだ。


 僕の頭の中で、アリバイの空白という時間軸と、欄干という物理的な空間軸が、急速に交差しようとしていた。


「この船が港に着くまでの残された時間で、お主のその『完璧なアリバイ』という薄っぺらい仮面を、完膚なきまでに叩き割ってやろう。……時東が殺された、あの『空白の十分間』の真実をな」


 瑠璃の宣言が、嵐の海に浮かぶ密室のラウンジに、処刑の合図のように響き渡った。


 桐谷の表情は未だ崩れてはいなかったが、その完璧な人工の防壁に、ついに目に見えないほどの小さな、しかし致命的な亀裂(クラック)が走り始めているのを、僕は確かに感じ取っていた。



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