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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 9:極限の精度と、矛盾する不純物~

 足の裏から伝わってくる微かな振動が、僕の思考を現実へと繋ぎ止めていた。


 数千トンの巨大な白亜の船体を、荒れ狂う外海に逆らって力強く前進させているメインエンジンの鼓動。それは、圧倒的な権力や莫大な資金力という目に見えない概念ではなく、分厚い鋼鉄のシリンダーと、高圧で燃焼する重油と、寸分の狂いもなく噛み合う無数の巨大な歯車たちが生み出す、純粋な物理法則の結晶だった。


 僕は豪華な絨毯の上に立ちながら、その足元のはるか深く、船底の暗闇で唸りを上げているであろう巨大な機械の塊に思いを馳せていた。


 どれほど煌びやかなシャンデリアで天井を飾り立てようと、どれほど高価なブランド物のスーツで身を包もうと、この船を動かしているのは油にまみれた『部品』たちだ。そして、その部品を削り出し、磨き上げ、命を吹き込んでいるのは、僕の父さんのような、爪の間に真っ黒な油汚れを染み込ませた名もなき職人たちなのだ。


 時東誠也という政治家は、その最も根源的で尊いルーツを『不良品』というたった一言の嘘で切り捨て、己の懐を肥やすための踏み台にした。翡翠さんが暴き出したその非情な事実が、胃の奥底で重く、冷たい鉛のように渦を巻いていた。


「さて、過去の退屈な数字の羅列はここまでじゃ。計算機が弾き出した因果関係など、真実に至るためのただの補助線に過ぎん」


 瑠璃の透き通るような、しかし絶対零度の冷たさを孕んだ声が、ラウンジを満たしていた沈黙を鋭く切り裂いた。


 彼女はゆっくりとステージの中央へ進み出ると、漆黒のサマードレスのサイドラインに隠されたコンシールファスナーに、白手袋をはめた指をかけた。その優雅で、一切の無駄を削ぎ落とした所作に、ラウンジにいる全員の視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられるかのように一点に集中する。


「お主らのような、目先の損得と価値の表面しか見ることのできない愚か者どものために、この凄惨な殺人事件の『真のルーツ』というものを、わしが直々に見せてやろう。これこそが、時東誠也という強欲な豚の頭蓋骨を完膚なきまでに叩き割り、その傲慢な脳髄を破壊した、究極の不純物じゃ」


 瑠璃がドレスの隠しポケットからゆっくりと引き抜いたもの。


 それが頭上に高く掲げられた瞬間、ラウンジのあちこちから短い悲鳴や、息を呑む音が連鎖的に漏れ聞こえた。最前列にいたご婦人の一人は、あまりのおぞましさに顔を両手で覆い、隣に立つ夫の背中に顔を伏せている。


 瑠璃の白手袋の先で、豪華なクリスタルシャンデリアの眩い光を不気味に反射しているのは、大人の拳ほどの大きさがある『金属製の歯車』だった。


 だが、それは単なる船の予備部品などではない。その鋭利な金属の歯には、どす黒く固まりかけた生々しい『人血』が、べっとりと、そして執拗なまでにこびりついている。時東誠也の命を吸い尽くしたその血糊は、乾燥して赤黒い錆のように変色し始めており、見た者に生理的な嫌悪感と根源的な恐怖を植え付けるには十分すぎるほどの禍々しさを放っていた。


 そして何より異様なのは、その血塗られた重厚な金属の歯車に、色褪せた赤い布で作られた『安っぽい神社の安全祈願のお守り』が、細いナイロン製の紐で何重にも、絶対に解けないほどの強い力で結びつけられていることだった。


「こ、殺人の凶器……!なぜ、そんなおぞましい物が、如月のお嬢様の手にあるというのだ!現場からは消えていたはずだろう!」


 政敵の死を喜んでいたはずの醍醐議員でさえ、その生々しい凶器を目の当たりにして顔面を蒼白にさせ、震える声で叫んでいた。


 だが、瑠璃はそんな野次馬たちの恐怖など一切意に介する様子もなく、自らの手にある血塗られた歯車を、まるで国宝級の宝石でも見つめるかのように、うっとりと、そして冷酷に観察し始めた。


「サクタロウ、よく見ておけ。この歯車こそが、先ほど姉がスクリーンに映し出した、時東に破滅させられた町工場……『烏森精密』の主人が削り出した、生涯最後の一品じゃ」


 瑠璃の言葉に、僕はごくりと唾を飲み込み、その凶器を凝視した。


 血の汚れの下から覗く銀色の金属光沢は、僕が普段父さんの自動車整備工場で見かけるような、油まみれの大量生産品の部品とは明らかに異なっていた。素人の僕の目から見ても、その美しさは群を抜いている。それはただの金属の塊ではなく、極限まで研ぎ澄まされた一つの芸術作品のように見えた。


「時東は、烏森精密が納品したこの歯車を、橋桁崩落事故の原因となった『不良品』だとメディアに吹聴し、手抜き工事の責任をすべて押し付けた。……だが、笑わせるな。この歯車のどこに、不良品などという卑しいルーツがあるというのじゃ。わしの鑑定眼を舐めるなよ」


 瑠璃は歯車の血に染まっていない一端を指先でなぞりながら、静かな、しかし確固たる怒りを込めて語り始めた。


「この歯車の加工精度を見よ。インボリュート曲線の歯面は、1000分の1ミリの狂いもなく完璧に計算され、削り出されておる。機械の刃物が通った微細なツールマークすら、最終的な手作業による研磨で完全に消し去られ、まるで静かな湖面のような極限の鏡面仕上げが施されているではないか。これは、最新鋭の工作機械に数値を打ち込めば勝手に出来上がるような、安っぽい量産品ではない。熟練の職人が、己の寿命と魂を削り、指先の感覚だけを頼りに鉄と対話しなければ決して到達できない、神業の領域じゃ」


 瑠璃の言葉が、重い空気の中で一つ一つ明確な輪郭を持って響き渡る。


 僕はその説明を聞きながら、旧市街の小さな工場で、額に汗を滲ませ、油にまみれながらこの究極の精度を追い求めていたであろう、見知らぬ職人の姿を想像していた。指先の皮が厚く硬くなり、機械の微かな振動の音だけで金属の削れ具合を察知する、本物の職人の姿だ。


「この歯車は、航空宇宙産業の心臓部にも使用できるほどの、紛れもない『最高傑作』じゃ。あの小さな町工場の主人が、己の人生のすべてを懸けて到達した、技術という名の極上のルーツ。……それを、時東誠也という目先の数字しか読めぬ豚は、己の保身のために『不良品』と貶め、泥を塗り、職人の誇りを完膚なきまでに踏みにじったのじゃ。この極限の精度に対するこれ以上の冒涜を、わしが許すと思うか?」


 瑠璃の瞳が、静かに、しかし激しく燃え上がっている。彼女は殺人事件そのものよりも、美しい『モノの価値』が不当に歪められ、権力者の嘘で塗り固められたことに対して、何よりも深い憤りを感じていた。


 ラウンジは完全に静まり返っていた。誰もが、瑠璃の圧倒的な気迫と、その手にある歯車が放つ無言の凄みに気圧されている。第一秘書の桐谷だけが、無表情な仮面を顔に貼り付けたまま、瞬き一つせずにその歯車を見つめ続けていた。


「だが、わしの心を最も強烈に惹きつけてやまない不純物は、この精度ではない。その先にある」


 瑠璃の声のトーンが、怒りから一転して、深い謎の淵を覗き込むような、知的好奇心に満ちたものへと変化した。


 彼女は血塗られた歯車から視線を移し、そこに頑丈に結びつけられている、血で黒く汚れた赤いお守りを指し示した。


「サクタロウ。お主には、この異常な矛盾が理解できるか?職人という生き物は、自らの作品に不純物が混じることを何よりも嫌う。油一滴、埃一粒の付着すら許さないはずじゃ。ましてやこの歯車は、1000分の1ミリの誤差すら許さない、極限の精度と純度を追求した『完璧な結晶』じゃ」


 瑠璃の言葉に、僕は無言で深く頷いた。父さんも車を整備する時、特に重要なエンジン内部の部品を扱う際には、周囲を異常なほど綺麗に掃除し、手袋のわずかな汚れすら気にして何度も手を洗う。職人にとって、自分が手塩にかけて作り上げた完璧な部品は、ある種の神聖な不可侵領域なのだ。そこに異物を混入させるなど、絶対にあり得ない行為だった。


「ならば、なぜじゃ。なぜ、その誇り高き職人が魂を込めた究極の最高傑作に、このようなチープで、何の実用性もない『不純物の塊』が結びつけられているのじゃ。どこにでも売っている、安っぽいビニールと布切れで作られた、たった五百円の信仰の欠片。……極限の論理と精度を追求した金属の塊に、最も非論理的で感情的な『神頼み』という不純物が、絶対に解けないほどの力で、執念深く縛り付けられておる。このモノの組み合わせは、明らかに破綻しておる」


 瑠璃は、血でカサカサに乾いたお守りの紐を、ピンと指で弾いた。


「犯人は、この究極の精度を持つ歯車を、単なる重い金属の塊として、人殺しのための鈍器として使用した。そして時東の頭蓋を砕き、その中身をぶちまけさせた後、この美しい歯車を、醜い血に塗れたままの状態で、海という深い闇の中へ永遠に葬り去ろうとしたのじゃ。……だが、犯人が力任せに海へ投げ捨てた瞬間、強烈な海風に煽られたこの安っぽいお守りの紐が、船の欄干のボルトに奇跡的に引っかかり、闇に沈むことなくわしの目の前に留まった」


 そこまで一気に語ると、瑠璃はゆっくりと僕の方へと顔を向けた。


 その双眸が、僕の心の奥底までを見透かすように、まっすぐに突き刺さってくる。


「サクタロウ。お主のその鈍感な鼻は、この矛盾のルーツにすでに気がついておるはずじゃ。このチープな赤いお守りが、一体どこから来て、誰の思いを吸い込んでここにあるのか。……さあ、皆の前で答えを口にするがよい。この不条理な不純物の正体を、お主の言葉で鑑定してみせよ」


 瑠璃からの、逃げ場のない指名。


 僕は大きく息を吸い込み、あの血塗られた赤い布の表面に、かすかに残っている金色の刺繍の文字を見つめた。


 それは、決して豪華クルーズ船のメインラウンジのような華やかな場所には似合わない。旧市街の油と汗の匂いが染み付いた、僕にとってあまりにも見慣れた、そして懐かしいものだった。


 極限の精度を持つ金属の塊と、それに結びつけられた相反する不純物。


 その二つを強引に繋ぎ止めている悲しいルーツの正体を、僕はすでに確信していた。僕にしか語れない言葉が、確かにそこにあった。



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