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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 8:経理の眼と、隠された裏帳簿~

豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』のメインラウンジは、逃げ場のない洋上の密室と化していた。


 分厚い防音ガラスの向こう側では、完全に荒れ狂い始めた外海が白い牙を剥き、巨大な船体を容赦なく揺さぶっている。しかし、ラウンジの内側に立ち込める息苦しさの正体は、船の揺れや嵐の恐怖ではなかった。それは、圧倒的な権力と頭脳を持つ如月姉妹が作り出した、絶対的な『審判』の空気だった。


 僕は瑠璃の斜め後ろに直立したまま、ステージの上からラウンジ全体を見渡した。


 つい数時間前まで、最高級のシャンパンを片手に談笑し、優雅なバカンスを満喫していたはずの政財界の重鎮たちが、今は青ざめた顔で身を寄せ合っている。殺人事件という生々しい暴力と、それを一切の警察権力なしに裁こうとする如月家の異常性に、彼らは完全に圧倒されていた。


 その怯える群衆から少し距離を置いた、ラウンジの中央に設けられた特等席。そこには、この船の絶対的な主であり、僕たち親子をこの旅行に招待してくれた恩人、如月彰社長が深く腰掛けていた。彰社長は、仕立ての良いサマースーツの膝の上で両手を軽く組み、娘たちが主導するこの過激な真実の解体を、静かに、しかしすべてを見透かすような鋭い眼光で見守っている。


 その隣には、如月コンツェルン社長秘書という重責を担う瑠璃と翡翠さんの母親、菫さんが座っていた。一分の隙もない気品を纏った彼女は、手にした扇で上品に口元を隠し、まるで一流のオペラを鑑賞するかのような優雅な微笑みを絶やさない。ただ、その瞳は時折、凄惨な殺人事件の真っただ中に立たされている僕を気遣うように、柔らかく細められていた。


 そして、その如月夫妻の座る特等席の斜め後ろ。


 本来であれば僕たちのような旧市街の庶民が足を踏み入れることすら許されないであろうその場所に、僕の父、朔定光が立っていた。父さんは彰社長の背後を護るように立ち、今朝、菫さんが見立ててくれた高級なネイビーのサマーニットの裾を、両手でギュッと無意識に握りしめている。


 父さんの額にはうっすらと脂汗が浮かび、背筋は限界までピンと張り詰めていた。ただの慰安旅行だと思ってついてきたら、目の前で政治家が頭を砕かれて死に、自分の息子がその犯人を追い詰める探偵の助手をやらされているのだ。如月家の圧倒的な『格の違い』を見せつけられ、父さんは今にも叫び出しそうな顔をしている。それでも、逃げ出さずにしっかりと両足でそこに立ってくれている父さんの無骨な姿こそが、僕にとって現実を繋ぎ止める唯一の頑丈な錨だった。


「見事な鉄壁のアリバイね、第一秘書の桐谷さん」


 翡翠さんの冷たく、そして酷薄な笑みを含んだ声が、僕の意識をステージの上へと引き戻した。


 彼女は最新型のタブレット端末を片手に持ち、もう片方の手で長い髪を優雅に掻き上げた。


「時計の針のように正確な動線。複数のスタッフによる客観的な目撃証言。あなたが現場から最も遠いティーラウンジにいたことは、確かに疑いようのない事実として証明されているわ。刑事ドラマの無能な警察官なら、ここであなたに頭を下げて容疑者から外すでしょうね」


「お褒めに預かり光栄です。私はただ、時東先生のスケジュールを円滑に進めるため、秘書としての職務を正確に全うしていたに過ぎません。先生が亡くなられた今、私のアリバイなど何の意味も持ちませんが」


 桐谷は銀縁眼鏡の位置を直しながら、一切の感情を交えずに答えた。


 その完璧なポーカーフェイスに、瑠璃が心底つまらなそうに鼻を鳴らす。


「姉よ、無駄口はよい。さっさとその男の背後にある、反吐が出るほど醜い数字を並べ立ててやれ。物理的なアリバイという安っぽい盾の裏側に、どれほどの汚泥が詰まっているか、このラウンジにいる有象無象のタヌキどもに見せつけてやるのじゃ」


「ええ、分かっているわ。この豪華客船のメインプロジェクターを少し借りるわよ」


 翡翠さんの細く美しい指先が、タブレットの画面を鋭くタップした。


 次の瞬間、ラウンジの壁面に設置された巨大なホログラムプロジェクターが起動し、空間に青白い光の網の目が浮かび上がった。そこに投影されたのは、常人には理解不能なほど複雑に絡み合った、ある企業の財務諸表と膨大な資金移動のルート図だった。


「光太郎君、よく見ておきなさい。時東誠也が警察にも、税務署にも、そして国民にもひた隠しにしていた、公に出ることのない『裏の政治資金収支報告書』よ。如月コンツェルンの情報網と私の計算能力をもってすれば、スイスの暗号化された隠し口座の底の底まで、丸裸に引きずり出すことができるわ」


 スクリーンに映し出されたのは、癌細胞の血管のように増殖し、複雑に絡み合った資金洗浄の極秘ルートだった。いくつもの実体のないペーパーカンパニーを迷路のように経由し、最終的に『コンサルタント料』や『架空の慈善団体への寄付金』という清潔な名目に形を変え、数億単位の濁ったカネが時東の懐へと流れ込んでいる。


「この不正な資金の巨大な源流の一つが、三年前の冬に起きた『臨海バイパス崩落事故』にあるわ。建設中の巨大な橋桁が突如として崩落し、多数の作業員が犠牲になった、あの痛ましい事故よ」


 その言葉に、ラウンジの客席からざわめきが起きた。僕もよく覚えている。連日ニュースで報道され、国中を震撼させた大事故だ。


「あの公共事業の責任者だった時東誠也は、自身の権力を使って癒着していた大手ゼネコンを一次下請けにねじ込み、当初の予算の半額以下で手抜き工事を強行させた。本来使うべきSランクの特殊鋼材を、安価なCランクの粗悪品にすり替え、浮いた数十億もの莫大な差額を、このダミー企業群を経由して自分の裏金としてプールしていたのよ」


 翡翠さんの解説は、感情を一切交えないからこそ、余計にその事実の残酷さを際立たせていた。


「手抜き工事が原因で橋桁が崩落し、世間から猛烈な非難を浴びた時東は、自身の横領を隠蔽するために『身代わり』を必要とした。絶対に反論できない、そして技術的に最も複雑で責任を押し付けやすい、弱い立場のスケープゴートをね」


 スクリーン上の複雑な図式が切り替わり、一つの小さな赤いグラフが中央に拡大された。


 そこに記されていた企業名を見た瞬間、僕の脳裏に、幼い頃に父さんの職場で嗅いだあの独特の機械油の匂いと、夜遅くまで響いていた鉄を削る規則正しい高い音が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。


「見て。月見坂市の旧市街。烏森神社のすぐ裏手にあった『烏森精密』という小さな町工場の清算記録よ。……光太郎君、あなたのお父様と同じ自動車整備工場で働く人間なら、この名前に聞き覚えがあるはずよね?」


 烏森精密。


 それは、旧市街の職人たちなら誰もが『あそこの主人の旋盤の腕は、月見坂の宝だ』と口を揃えて讃えていた、小さな、けれど金剛石のような誇り高い輝きを持つ工場だった。父さんもよく、「俺たちの仕事は烏森さんの作った部品に支えられてるんだ」と、酒を飲むたびに自慢げに語っていたのを覚えている。


「この工場は、バイパスの可動部に使われる、世界でも数社しか作れない特殊な高精度歯車を納品していたわ。時東はゼネコンと結託し、崩落の原因は粗悪な鋼材ではなく、この『烏森精密が納品した歯車の見えない亀裂(クラック)』だったという捏造の調査報告書をでっち上げたのよ。そして、メディアを使って一斉にこの小さな町工場をバッシングさせた」


「そんな……嘘ですよ!烏森さんは、絶対に手抜きなんてしません!父さんも言ってた……あの人は、1000分の1ミリの誤差も許さない、腕一本でこの街の職人のプライドを支えてる人だって!」


 僕は耐えきれず、彰社長や菫さんの前であることも忘れ、ステージの上で大声を上げて叫んでいた。


 客席の彰社長がわずかに眉を動かしたが、その瞳は僕の無礼を咎めるのではなく、僕の言葉の奥にある真実を鑑定するようにじっと見つめていた。そして、その後ろに立つ父・定光の顔も、旧市街の恩人を侮辱され、罠に嵌められていたという事実を知り、激しい怒りと悲しみで赤黒く歪んでいるのが見えた。父さんの大きな拳が、ワナワナと震えている。


「ええ、光太郎君。あなたのその庶民としての直感は、数字の真理と完全に一致しているわ。烏森精密の歯車には、何の欠陥もなかった。すべては時東が仕組んだ汚い罠よ。……このスクリーンを見て」


 翡翠さんの長く美しい指先が、赤いグラフの一点を、処刑を宣告するギロチンの刃のように鋭く指し示した。


「捏造された報告書によって、烏森精密は莫大な損害賠償を請求され、時東の息のかかった銀行からは即座に融資を引き剥がされた。計画的な資金ショートよ。そして、倒産へと追い込まれた直後、時東の隠しスイス口座には、烏森精密が持っていた独自の特許権と高度な特殊旋盤設備を、二束三文でゼネコンに横流しした見返りとして、二億もの『成功報酬』が振り込まれている。……時東誠也という男は、自らの権勢というエゴを拡大するための肥料として、月見坂の技術の結晶を、職人の一生を、文字通り食いつぶしたのよ」


 ラウンジの中が、水を打ったように静まり返った。


 政治家の汚職など珍しくもないだろうが、ここまで一人の人間を、一つの工場を徹底的に破滅させ、その死肉を貪るような手口の悪辣さに、同じ権力者たちでさえ言葉を失っているようだった。


「工場の主人は、その二か月後、すべてを奪われ、電気が止められた冷たい作業場の中で、自ら命を絶っているわ。残されたのは、ゼネコンからの不当な損害賠償の督促状と……絶望のどん底に叩き落とされた家族だけ」


 翡翠さんの声が、冷たい氷雨のようにラウンジに響き渡った。


 僕は息を呑み、隣に立つ瑠璃の横顔を見た。


 瑠璃は表情一つ変えず、漆黒のドレスの隠しポケットに手を入れている。その中には、出航直後に彼女が甲板の欄干で拾い上げた、あの『血塗られた歯車とお守り』が収められているはずだ。


 なぜ、あのお守りが、究極の精度を持つ歯車と一緒に結びつけられていたのか。


 なぜ、それが時東誠也の頭部を叩き割る凶器として使われたのか。


 点と点が繋がり、一つの巨大で悲惨な線となって、僕の目の前に突きつけられていた。


 烏森神社の安っぽいお守りは、あの工場の主人が家族を想って大切にしていたものだ。そして、そのお守りが巻きつけられた精緻な歯車は、ただの機械部品ではない。


 それは、主人が死の直前、すべてを奪われた絶望と、時東に対する凄まじい怒りの中で削り出した、生涯最後の一品。……これには、設計図には決して描かれない『怨念』という名の恐ろしい精度が刻み込まれていたのだ。


「……見事な調査力です、如月の経理担当殿。時東先生の過去にそのような忌まわしい事実があったとは、秘書である私も初めて知りました。誠に遺憾なことです」


 重苦しい沈黙を破ったのは、他でもない桐谷だった。


 彼は翡翠さんの暴露を聞いてもなお、銀縁眼鏡の奥の瞳に一切の動揺を見せず、まるで他人事のように淡々と語った。


「ですが、それが時東先生の殺害と何の関係があるというのですか?過去に恨みを持つ人間が船に潜り込み、凶行に及んだというのであれば、警察の到着を待って徹底的に捜査させるべきです。私のアリバイは先ほど証明された通り。この凄惨な事件において、私が疑われる理由は一つとして残されていないはずですが」


 桐谷は冷徹に反論し、再び鉄壁の論理で自分の身を守る盾を構えた。


 確かに彼の言う通りだ。動機がある人間が外部にいるなら、なおさらアリバイの成立している桐谷は犯人から遠ざかることになる。


 だが、瑠璃は微塵も焦る様子を見せず、ふっと冷酷な笑みを漏らした。


「本当にそう思うか、桐谷。お主は自分の組み上げた『完璧なアリバイ』という歯車が、絶対に狂わないと過信しておるようじゃな。だが、お主は知らぬのだ。真に極上のルーツを持つ『モノ』は、時に持ち主の意図すらも裏切り、隠された真実を自ら語り出すということを」


 瑠璃はポケットからゆっくりと手を引き抜こうとしていた。


 逃げ場のない洋上の密室。嵐の海を突き進む白亜の豪華客船の中で、隠された裏帳簿がこじ開けた過去の悲劇は、いよいよ最後の『凶器』の存在によって、完璧な秘書の仮面を打ち砕こうとしていた。



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