第4話『歯車とお守り』 ~Section 7:容疑者たちと、偽りのアリバイ~
船内アナウンスによる非情な命令が、荒れ狂う海上の客船に響き渡った。
すべての乗客をメインラウンジへ集結させ、個室への立ち入りを厳禁とするという、如月家令嬢の独断による強制的な『隔離』。それは一見すればパニックを鎮めるための安全措置のように聞こえたが、その実態は、犯人を逃さないための網の目を絞り上げる『鑑定』の儀式の始まりに他ならなかった。
僕が瑠璃と姉の翡翠さんの後ろに従ってメインラウンジへ戻ると、そこは先ほどまでの優雅な社交場の面影を完全に失っていた。冷たい緊張感と、行き場のない怒号が渦巻く異様な空間。シャンデリアの眩い光は、今は乗客たちの青ざめた顔や、隠しきれない醜い動欲を照らし出すための冷酷な舞台照明でしかない。隅で震えながらシャンパングラスを握りしめる婦人、給仕を捕まえて怒鳴り散らす実業家。そんな狂騒の中、ラウンジの中央、ひときわ静寂が重く溜まっている場所に、四人の容疑者たちはいた。
第一発見者であり、未だショックから立ち直れぬ様子の一条玲奈。
政敵の死を前に、不謹慎なほどの皮肉な笑みを口元に湛える醍醐議員。
カメラを奪われ、不服そうに唇を噛みながら周囲を伺う潜入ジャーナリスト。
そして、主人の死という悲劇の渦中にありながら、誰よりも冷静に、誰よりも完璧な『秘書』という役割を演じ続ける桐谷。
瑠璃は、ラウンジの正面にある、普段は生バンドが演奏を行う一段高いステージのような場所へと、迷いのない足取りで登っていった。漆黒のサマードレスが、照明を受けて不吉な影を床に落とす。彼女がその場に立つだけで、沸き立っていた乗客たちの不満の声が、まるで急速に凍りつくように静まり返った。彼女が纏うのは、単なる財閥の令嬢という肩書き以上の、すべてを暴き立てる審判者としての圧倒的な『圧』だった。
「静粛にせよ。わしの船で、無様な叫び声を上げる権利など、誰にも与えておらん。不満がある者は、今すぐその口を縫い合わせるか、この荒波の中へ身を投じるがよい」
瑠璃の声は、マイクを通さずともラウンジの隅々まで届くほど鋭く、そして重かった。
彼女はゆっくりと視線を動かし、一列に並ばされた容疑者たちを順に鑑定していく。その視線は、彼らの着ている衣服の繊維の乱れから、皮膚のわずかな痙攣、呼吸の揺らぎまでをも冷酷に解剖しているかのようだった。
「時東誠也は死んだ。頭部を無残に砕かれ、自らの傲慢な血の中で溺れ死んだ。……犯人は、この船の中にいる。それも、今わしの目の前で、平然と呼吸を繰り返しておる愚か者の中に、な」
瑠璃の宣言に、ラウンジが再び激しいざわめきに包まれる。
だが、瑠璃はそのざわめきを片手で制し、まず最初に一条玲奈の前へと歩み寄った。
「一条玲奈。お主、発見時の悲鳴は実に立派じゃったな。日本を代表するトップ女優の名に恥じぬ、魂を揺さぶる絶叫じゃった。……だが、なぜお主のドレスの裾には、現場の絨毯に飛び散ったはずの血沫が、一滴も付着しておらんのじゃ?あの凄惨な現場に足を踏み入れたのであれば、霧状の血が一滴たりとも付かないなど、物理的にあり得んことじゃが」
「えっ……。それは、私が入口で立ち止まって、中には入らなかったからよ。あまりの惨状に、足が動かなくなって……」
一条玲奈が、震える声で答える。その瞳は左右に泳ぎ、指先がドレスの布地を強く握りしめている。
瑠璃は彼女の顔を覗き込み、鼻で笑った。
「嘘をつけ。お主は時東と密会の約束をしておったはずじゃ。あの傲慢な男が、自分から入口まで出迎えるはずがない。お主が部屋の奥まで入り、時東の耳元で甘言を囁く……それが本来の筋書きじゃったろう? 悲鳴を上げる前に、お主は何を見た。あるいは、何を『回収』した?」
「私は何も!扉を開けたら、先生があんな姿になっていて、怖くなって逃げ出しただけよ!」
「……不純じゃな。お主の瞳には、死への純粋な恐怖よりも、『見られては困るもの』への卑しい焦燥が混じっておる。姉よ、この女の直近の銀行口座と、時東との金銭的な接点を洗え。隠し通せるとは思うなよ」
瑠璃の背後で、翡翠さんが無言でタブレットを操作した。数秒の後、彼女の唇から、一条玲奈の芸能生命を断絶させかねない冷酷な「数字」が零れ落ちる。
「一条玲奈。半年前から、時東氏の関連団体からコンサルタント料という名目で、毎月三千万もの入金があるわね。でも、その資金の出所を辿ると……あら、今回の建設事業で糾弾されている例の会社に行き着くわ。玲奈さん、あなた、時東氏の弱みを握って、その会社から巨額の口止め料を吸い上げていたのかしら? 今日の『打ち合わせ』も、その増額交渉だったんじゃない?」
「そんな……私は……!私はただ、あの人に言われて……!」
一条玲奈の顔が、死人のように青白くなる。だが、瑠璃は興味を失ったように、次の人物へと進んだ。
「醍醐。お主は時東の死を心底喜んでおるようじゃな。先ほどからその口角が緩みっぱなしじゃぞ。隠しきれぬ邪念が、その醜い顔にルーツとして刻まれておるわ」
「ふん、如月のお嬢様。政敵がいなくなれば喜ぶのが政治家の常。だが、殺しなどという野蛮な真似に手を染めるほど、私は短気ではない。私は事件当時、バーで一人、上等なウイスキーを嗜んでいた。バーテンダーも、私の姿を確かに見ていたはずだ」
醍醐が、余裕たっぷりにアリバイを主張する。その態度は、まるで勝利を確信したギャンブラーのようだった。
「一人で、か。お主のような群れなければ何もできぬタヌキが、なぜわざわざこの船上で一人で酒を飲んでおった?……サクタロウ、この男のルーツをどう見る。お主の鼻は、何を嗅ぎ取った?」
不意に振られた僕は、ドギマギしながらも、醍醐の様子を必死に観察した。
彼のネクタイは完璧に結ばれ、スーツにも乱れはない。だが、彼の足元——高価な輸入物の革靴の縁に、不自然な黒い汚れがついているのが見えた。
「如月さん……あの、靴の汚れが気になります。バーの絨毯の上で飲んでいたなら、あんな機械油みたいな汚れはつかないはずです。あれ、父さんの職場の自動車整備工場でよく嗅ぐ、古い旋盤や重機に使われる劣化した油の匂いがします」
僕の言葉に、醍醐の顔が初めて岩のように強張った。
瑠璃は満足げに頷き、醍醐の鼻先を一指しした。
「下僕の分際で、良い鑑定じゃ。醍醐、お主、アリバイの時間にどこを徘徊しておった?この船の深層部、重油と機械油が渦巻く機関室の周辺でも嗅ぎ回っていたのではないか?時東の弱点を探るために、船底の汚物の中にまで首を突っ込むとは、政治家というのも難儀なルーツじゃな」
「そ、それは……!私はただ、時東が船の運航データに何かを隠していると思って、それを確認しに……殺しとは関係ない!」
瑠璃は醍醐の弁明を冷たく遮り、最後に、第一秘書の桐谷の前で立ち止まった。
桐谷は、微動だにせず、瑠璃の視線を真っ向から受け止めていた。その表情には、恐怖も、一条玲奈のような卑しい欲も見当たらない。あるのは、主人を失った忠実な秘書という、あまりにも磨き上げられすぎた『完璧な鏡面』だった。
「そして、秘書。お主じゃ」
瑠璃の声から、一切の感情が消えた。
彼女はドレスの隠しポケットの中に手を入れ、あの中にある血塗られた歯車の冷たい感触を確かめながら、桐谷を解剖するように見つめた。
「お主は、反対側のデッキでスタッフと打ち合わせをしていた。多くの証言があり、動線も完璧。……完璧すぎて、逆に不快じゃな。まるでお主という人間は、最初からこの事件のアリバイを成立させるために設計された、精密な歯車のようじゃ。お主のその献身は、どこから来る?時東誠也という、あの不純物だらけの男に、そこまでの忠誠を誓うルーツがどこにあるのじゃ」
「お嬢様、過分なお言葉です。私はただ、秘書としての職務を全うしていたに過ぎません。時東先生の死は、私の人生における最大の損失。疑われること自体、あまりにも不条理で心外です」
桐谷の声は、どこまでも澄み渡っていた。だが、瑠璃はその響きの中に、決定的な『嘘のルーツ』を嗅ぎ取ったらしい。
「お主のルーツはどこにある。その銀縁の眼鏡の裏側、冷徹な数字の裏側……お主は何を見ておる?この歯車が削り出された、あの油臭く、しかし誇り高かった旧市街の空気を、お主は知っておるのではないか?」
瑠璃の問いに、桐谷の眉が、わずか一ミリだけ微動だにしたのを僕は見逃さなかった。
だが、彼はすぐに元の無表情に戻り、静かに、しかし冷たく答えた。
「何のことか、分かりかねます。私は新市街の出身ですので、そのような場所には縁がございません」
「……そうか。ならば、その『分かりかねる』という不純物を、これから完膚なきまでに取り除いてやろう。姉よ、この桐谷という男の経歴を、出生まで遡って洗え。戸籍の継ぎ目に、わずかな綻びもないか、一粒の鉄粉も見逃すな。この船が港に着くまでに、こいつの『中身』をすべて引きずり出してやるのじゃ」
「了解。光太郎君、あなたもボサッとしてないで。この容疑者たちの『言葉の端々』から、庶民にしか分からない生活の匂いや、小さな違和感をもっと拾ってきなさい。……一時間後には、すべての数字を確定させて、誰が『支払い』を済ませていないのか、明確にしてあげるわよ」
翡翠さんのタブレットが、凄まじい速度で情報の海を泳ぎ始める。
ラウンジの外では、さらに波が荒れ、船体が大きく軋む音が不気味に響いていた。
逃げ場のない洋上の密室で、三人の探偵による『ルーツの解体』が加速していく。
僕は瑠璃の隣に立ち、地元の誇りであるあのお守りが、なぜこれほどまでに汚され、ここに辿り着いたのか。その悲しい理由を解き明かすための、最初の一歩を踏み出した。




