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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 6:船長の決断と、令嬢の宣戦布告~

 豪華客船『シンフォニー・オブ・サギリ』の心臓部。最上層に位置し、大海原を一望できるはずの操舵ブリッジは、今やかつてないほど濃密な、窒息しそうなほどの緊迫感に支配されていた。


 僕は瑠璃の三歩後ろを、まるで気配を完全に消した影のように、身を縮めながら追っていた。一条玲奈の収容されたサロンでの、あの網膜に焼き付いて離れない凄惨な光景。そして、そこから流れるように翡翠さんと合流した後の瑠璃は、一切の躊躇も、一秒の迷いもなく、この船の指揮系統の頂点——絶対的な聖域であるブリッジへと進撃を開始したのだ。


 ブリッジの重厚な自動ドアが、電子音と共に左右に滑る。

 目に飛び込んできたのは、無数の液晶モニターが放つ冷たく青白い明かりと、高度な航法計器類が刻む微かな、しかし絶え間ない電子音の不協和音。そして、制御不能なパニックに陥り、顔を青白くさせた船員たちの騒乱だった。

 巨大なガラス張りの操舵室の向こう側では、いつの間にか急激に荒れ始めた海が、牙を剥くような白波を立てて船体に激突し、数千トンの鉄の塊を不気味に、そして重く揺らしている。


「船長!現場の保存はこれ以上不可能です!客室エリアで悲鳴を聞いた乗客たちが、パニックを起こして救命ボートへ詰めかけようとしています!一部のVIPは、専属のガードマンを動かして強引に扉を開けさせようとしています!」


「時東先生の随行員たちが、今すぐ最寄りの港へ引き返せ、さもなくば政府への背任罪で訴えるとブリッジに押し寄せ、扉を叩いています!どうすればいいんですか、船長!」


 怒号と悲鳴が入り混じったような報告が、無線機のノイズと共にブリッジ内を飛び交う。

 その混乱の中心に立つ白髪混じりの恰幅の良い男——この船の最高責任者である海堂船長は、額から滝のように流れる脂汗を、震える手の甲で何度も拭いながら、必死に声を張り上げていた。


「落ち着け!各員、持ち場を死守しろ!現場は封鎖したまま、全速力で警察に通報を急ぐんだ。月見坂署ではなく、海上保安庁への通報も並行しろ!ヘリの要請もだ!進路を北へ転換し、鴨江島をパスして最短ルートで帰港する。一刻も早く、専門の捜査官に引き継ぐんだ。それまでは、誰も、何一つ動かすな!全責任は、この私が取る!」


 海堂船長の判断は、海の男としての義務感と、現代社会の組織人としての正論に基づいたものだった。緊急事態における指揮官として、これ以上ないほど全うで、模範的な、そして『無難な』決断だ。

 だが、その正論を、背後から突き刺すような、氷の刃よりも冷たい少女の声が遮った。


「無能な判断じゃな。海堂よ、お主はいつから、わしの船で勝手な進路変更を許されるほど偉くなったのじゃ?その銀のボタンは、飾りとして縫い付けておるのか?」


 ブリッジ内のすべての喧騒が、まるで時空が歪んだかのように一瞬で凍りついた。

 ゆっくりと、そして極めて優雅に室内へ足を踏み入れた如月瑠璃の姿は、この無機質な電子機器の塊のような空間において、異様なまでの存在感を放っていた。漆黒のサマードレスの裾を死神の鎌のようになびかせ、アメジストのような深い紫の双眸で船長を射抜くその姿。それは一国の若き女王が、主君を裏切った反逆の将を断罪しに来たかのような、凄まじい威圧感に満ち溢れている。


「お、お嬢様……!なぜここに。ここは今、極めて危険な状況にあります。速やかに客室へ戻り、内側から鍵をかけてください!」


 海堂船長が顔を引き攣らせ、慌てて背筋を伸ばした。だが、その声は隠しきれない動揺で微かに、しかし決定的に震えている。


「引き返すなど、愚策の極みじゃ。海堂、お主は何も見えておらんのだな。今あのような混乱した状態で港に戻ってみろ。時東の息がかかった警察や、利権の匂いに群がるハイエナのような記者どもが港を埋め尽くし、証拠も、真実も、そしてこの事件に宿る美しきルーツも、すべてあの汚らわしい政治の濁流に飲み込まれて消えてしまうわ。お主は、如月コンツェルンの聖域で起きたこの神聖な事件を、そんな無様な茶番劇で終わらせるつもりか?価値なき死体に、さらに泥を塗るつもりか?」


「し、しかしお嬢様、殺人事件なのです!犯人がまだ船内に潜んでいる以上、一刻も早く警察の手に委ね、乗客の皆様の安全を確保するのが私の義務、そして責任……」


「警察などに何がわかる。あやつらが数えるのは、採取された指紋の数とアリバイの分秒、そして上層部への報告書に添える顔色だけじゃ。この事件の核心にある『モノの慟哭』を、あやつらの安っぽい公務員根性が理解できると思うか?この高精度の歯車が、なぜ血に塗れねばならなかったのか、その悲鳴が聞こえると思うか?」


 瑠璃は海堂船長に音もなく歩み寄り、至近距離でその瞳を覗き込んだ。


 僕はその後ろで、あまりの緊張感に呼吸を完全に止めていた。海堂船長はこの船で何十年もキャリアを積んできたベテランのはずだ。だが、今の彼は、自分より三十歳以上も年下の、まだ高校生に過ぎない少女が放つ『如月の血』の圧倒的な気迫に、物理的に壁際まで押し戻されているように見えた。瑠璃の紫の瞳は、もはや人間としての船長を見ているのではない。船を動かす『機能』としての部品を鑑定し、不具合品として断じようとしていた。


「船長、お聞きなさい」


 瑠璃の背後から、姉の翡翠さんが、まるで見えない剃刀で空気を切り裂くような響きを持って言葉を重ねた。

 彼女は手にした薄型タブレットの画面を、船長の眼前に突きつけながら、残酷なほど美しい笑みを浮かべていた。


「この船を運航している法人の筆頭株主。その最終的な意思決定権を握る投資ファンドの筆頭理事が誰か、あなたはまさか失念してしまったわけではないわよね? あなたが今ここで『組織のルール』という安直な隠れ蓑に逃げ、如月の名を汚すような判断を下すことで、明日からのグループ全体の時価総額にどれほどの傷がつくか。その損失を、あなたのこれまでの名誉ある経歴と、雀の涙ほどの退職金ですべて償えると思っているの?」


 翡翠さんの言葉は、物理的な暴力よりも遥かに重く、そして絶望的に船長の心をへし折った。

 経理の魔女。彼女が提示する『数字』という名の不可避な呪縛。それは、現場の混乱を鎮めるという船長の騎士道精神を、一瞬で、塵も残さず粉砕してしまったのだ。この姉妹に挟まれた海堂船長が、あまりにも哀れな小動物に見えて、僕は一瞬だけ目を逸らしたくなった。


「……では、私は、どうすれば……。私は、何をすればいいのですか……」


 海堂船長の声は、すでに幽霊のように力なく震え、その瞳からは光が失われていた。


「進路はこのまま。当初の予定通り、鴨江島を経由して戻るのじゃ。幸いにもこの荒れ模様じゃ、ヘリの到着も遅れる。帰港までの時間は、あと一時間。その一時間の間、この船の全指揮権はわしが預かる。わしが法であり、わしが裁定者じゃ」


 瑠璃の宣戦布告。

 それは、近代的な法治国家のルールを真っ向から否定した、如月家による絶対的な私的統治の宣言だった。この船の中では、日本の法律よりも瑠璃の言葉が、その鑑定眼が重い。僕はその、あまりにも現実離れした異常な事実に眩暈を覚えた。僕たちの住む月見坂市には、まだこんな中世のような権力が、美しく残酷に息づいているのだ。


「お嬢様……本気で仰っているのですか?警察抜きで、このような凄惨な、血塗られた事件を解決するなど……」


「警察を待っておれるか。海堂、お主、わしを誰だと思っておる。わしは如月瑠璃じゃ。この世のあらゆるモノの真実を鑑定し、不純物を排除する、モノの支配者じゃぞ。お主の部下たちを使い、全乗客をメインラウンジに集めよ。誰一人として、その持ち場、あるいは個室から出すな。そして……」


 瑠璃は一度言葉を切り、ドレスのデザインを一切損なわない位置にある隠しポケットから、あの『血塗られた歯車』を、今度は衆目の前へと、あえて堂々と取り出した。

 ブリッジ内の船員たちから、短い悲鳴と、生理的な嫌悪が混じった戦慄が漏れる。


「これを見よ。犯人が海へ、闇へと葬り去ろうとした、事件のルーツじゃ。わしはこれを、自らの手で、この欄干から拾い上げた。つまり、神はこの事件の裁定を、無能な警察という公権力ではなく、如月瑠璃という個人に託したということじゃ。文句がある者は、今すぐこの荒れ狂う海へ、その身を放り投げるがよい」


 瑠璃が掲げた歯車は、ブリッジの冷たいLED照明を受けて不気味に、しかし数学的な、絶対的な美しさを持って輝いていた。

 付着した血は、潮風と照明の熱、そして瑠璃の体温に晒され、すでに黒褐色へと変色し始めていた。だが、その鋭いエッジが放つ『極限の精度』という名の美学は、周囲の人間を黙らせ、服従させるには十分すぎた。この歯車が、かつて旧市街の油臭い、小さな工場で、名もなき職人が誇りを懸けて削り出した製品であることを知っているのは、この場では僕だけだった。


「……承知いたしました。これより、本船の全指揮権はお嬢様に一任いたします。全責任は、私が……」


「責任など、最初から如月の名が背負っておるわ。海堂、お主は黙って舵を握っておれ。一分一秒の遅れも、コンパスの一度のズレも許さんぞ。お主はただ、わしに鑑定のための時間を提供する、精密な機械になればよいのじゃ。それ以上でも、それ以下でもない」


 瑠璃は冷たく突き放すと、僕と姉の翡翠さんに向き直った。その瞳には、もはや怒りを超えた、冷徹なまでの知的好奇心が渦巻いていた。


「サクタロウ、姉よ。舞台は整った。これから残された一時間、この白亜の監獄の中で、犯人の隠した完璧なルーツを完膚なきまでに引きずり出してやる。……まずは、ラウンジへ向かうぞ。あやつらの偽りの顔を一列に並べ、わしの鑑定眼でその汚れた皮を一枚ずつ剥いでやるのじゃ。お主の地元のお守りが、なぜこれほどまでに真っ赤に染められなければならなかったのか。その『なぜ』という不純物の正体を、わしが買い取ってやる。……行くぞ、下僕」


 瑠璃は、呆然と立ち尽くす船員たちを鼻で笑い、大股でブリッジを後にした。

 僕はその後を追いながら、操舵室の強化ガラスの向こうを見つめた。

 空は完全に鉛色に塗り潰され、巨大な白波が船体に激しく激突しては、飛沫をブリッジの窓に叩きつけている。海は牙を剥き、逃げ場はどこにもない。

 如月瑠璃という名の絶対君主が、この閉ざされた空間で、どのような残酷な、そして美しい『真実』を鑑定し、暴き出すのか。


 僕の心臓は、荒波に揺れる数千トンの船体と同じように、不安と、そして拭い去れない奇妙な高揚感で脈打っていた。

 旧市街の町工場で、一人の職人が命を懸けて削り出したあの歯車が、今、如月家の権力という烈風をその歯に受けて、犯人の喉元へとその鋭い切先を向けようとしていた。


 一時間。

 それが、僕たちの夏休みが、凄惨な復讐劇として幕を閉じるまでの、残された猶予だった。



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