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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 5:洋上の密室と、三人の探偵~

 豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』の内壁を伝う振動が、僕の心臓の鼓動と嫌な形で共鳴していた。

 メインラウンジへと戻る豪華な回廊は、すでにパニックの温床と化している。事態を断片的に察知した乗客たちが、まるで出口のない檻に閉じ込められた獣のように右往左往し、不安と疑心暗鬼が濃密な霧となって空気を汚していた。誰もが知る大物政治家、時東誠也の凄惨な死。それが、この絶海の孤島から離れ、誰一人として降りることのできない洋上の密室で起きたという事実は、選ばれた特権階級の人々から偽りの余裕を剥ぎ取るには十分すぎる猛毒だった。


 僕は瑠璃の三歩後ろを歩きながら、自分の指先が小刻みに震えているのを必死に抑えていた。網膜の裏側にこびりついた、あの原型を留めないほど破壊された遺体の光景。鉄錆と脂の混ざったような生々しい血生臭い空気の感触が、今も喉の奥にねっとりとへばりついて離れない。胃の腑が不自然に収縮し、呼吸が熱く、そして浅くなる。


「サクタロウ。何を情けない顔をしておる。そのように青い顔で胃の内容物をぶちまけられては、清掃員の手間が増えるだけじゃ。如月家の使用人を自称するのであれば、せめて背筋を伸ばし、周囲の醜態に惑わされぬ毅然とした態度を保て。お主のその弱腰なルーツが、わしの評価まで下げておることに気づけ」


 前を歩く瑠璃が、振り返ることもなく冷徹な声を投げかけてきた。

 いつの間にか僕は、如月家の使用人になったらしい。


 彼女の歩調には、微塵の迷いも、死に対する根源的な恐怖もなかった。それどころか、漆黒のサマードレスのサイドライン、その美しい曲線を損なわない位置に巧妙に配されたコンシールファスナー付きのポケット——その暗がりに収められた『血塗られた歯車』の重みが、彼女に不吉な活力を与えているようにすら見える。彼女にとって、この凄惨な殺人事件すらも、隠された『極上のルーツ』を暴き出すための舞台装置、あるいは極上の鑑定依頼に過ぎないのだろうか。


「如月さん……。でも、あれは流石に異常ですよ。僕たちみたいな素人が首を突っ込んでいいような規模の話じゃない。警察を待たなきゃいけないんじゃないんですか?正直、僕はもう一歩もあの現場には近づきたくないんです」


「異常ゆえにルーツがあるのじゃ。常人の理解を超える暴力には、それを引き起こした圧倒的な不純物が必ず存在する。警察のような、表面的な指紋や足跡を数えるだけの無能な組織に、この一点物の歯車が上げる無音の悲鳴が聞き取れると思うか?……おや、わしの脳内とは別の、冷徹な計算機が到着したようじゃな」


 瑠璃が視線を向けた先、ラウンジ入り口の重厚なマホガニー製の扉の前で、優雅に、しかし冷酷なまでの威圧感を持って腕を組んでいる人物がいた。

 エメラルドグリーンのサマードレスを、まるで皮膚の一部のように完璧に着こなした姉、翡翠さんだ。

 彼女の周囲だけは、パニックに陥る他の乗客たちとは一線を画す、凍りついたような静寂が保たれている。その長くしなやかな指先には、如月グループの機密事項が詰まっているであろう、最新型の超薄型タブレット端末が握られていた。


「瑠璃、光太郎君。随分と騒々しいランチタイムになったわね。現場の『数字』は、もう見てきたのかしら?」


 翡翠さんの声は、まるで今朝の天気を尋ねるかのように落ち着き払っていた。だが、その瞳の奥では、凄まじい速度で何かの統計データや損得勘定を弾き出しているような、独特の冷徹な光が明滅している。この人は今、政治家の死を悼んでいるのではなく、その死が如月グループの株価や評判に与える影響をミリ単位で試算しているのだ。僕はその事実に、死体を見た時とは別の種類の寒気を覚えた。


「うむ。見るに堪えん、ルーツの欠片もない無様な死体じゃった。だが、その無様さの中に、極上の矛盾が転がっておったぞ。姉よ、お主の嫌いな『計算の合わない不純物』じゃ」


 瑠璃は翡翠さんの正面に立ち止まると、周囲に人がいないことを確認し、ドレスの隠しポケットからあの拾得物——血塗られた歯車とお守り——の端を、ほんの一瞬だけ覗かせた。

 翡翠さんはそれを見た瞬間、細く整えられた眉をわずかにピクリと動かし、タブレットを操作する指を初めて止めた。


「……あら。それが現場から『消失した凶器』の正体かしら。あまりにも不格好で、生理的な不快感を煽る組み合わせね。その歯車の加工精度、コンツェルンが提携している航空宇宙局向けの精密工場の最高水準に匹敵するわ。でも、その使い古されたボロボロのお守りは……」


「サクタロウの地元の、五百円のゴミじゃ。滑稽であろう?一千万の価値を持つ究極の精度と、五百円の卑俗な信仰。その二つが、政治家の汚れた人血という最悪の不純物で固く結ばれておる。これこそが、この事件の真のルーツじゃ。わしが鑑定せねばならぬ価値が、ここにある」


 瑠璃の言葉に、翡翠さんは「ふふっ」と、不敵で、そしてゾッとするほど美しい笑みを漏らした。


「面白いわ。時東誠也という政治家一人の命の価値よりも、その『モノ』たちの背後にある歪んだ情念と損得勘定の方が、よほど解き甲斐がありそうだわ。……いいわ、瑠璃。私も混ぜなさい。如月コンツェルンのメンツにかけても、そして何より私の知的満足のためにも。この船が港に着く前に、この不快な事件に完璧な『清算』をつけなければならないもの」


 翡翠さんは僕に向かって、優雅に、しかし逃げ道を完全に塞ぐような冷たい視線でウィンクをしてみせた。


「光太郎君。あなたも、ただ震えて立っているだけじゃ許さないわよ。私たちがロジックと感性を使うなら、あなたにはその『庶民のルーツ』を活かして、現場に落ちている泥臭い欠片を拾ってもらわなきゃ。旧市街の泥の中で培われたあなたの視点は、この白亜の船上では、どんな高価な精密機器よりも貴重な不純物になる。……決まりね。今、この瞬間から、この豪華客船の真実を暴く『三人の探偵チーム』の結成よ」


「ええっ、ちょ、ちょっと待ってください!僕はただの一般市民の高校生で、今日はただの招待客として……!」


「客?違うわよ、光太郎君。あなたは如月瑠璃の下僕であり、今は私の興味深い観察対象。如月コンツェルンの経理担当を敵に回すことが、どれほどの恐怖か教えてあげましょうか?あなたの家の過去の納税記録から、お父様の工場の負債状況、さらにはあなたが将来受けるであろう奨学金の審査状況まで、あらゆる『ルーツ』を遡って精査し、社会的に抹殺することくらい、私にはアフタヌーンティーの片手間にできることよ?」


 翡翠さんは聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、血も涙もない徹底的な脅しをさらりと言ってのけた。この姉妹は、アプローチこそ真逆だが、他人を自分の都合の良いペースに引き摺り込み、蹂躙することにおいては全く同じ、恐るべき如月の血が流れている。僕に拒否権など最初から存在しないのだ。


「サクタロウ、返事を聞く必要はない。お主はわしの目となり、足となれ。姉よ、お主はその忌々しい計算能力で、この船に乗り合わせた有象無象の『裏帳簿』を暴け。わしは、このモノたちが語る沈黙の声を鑑定する」


 瑠璃が絶対的な指揮権を宣言した。

 逃げ場のない洋上の密室。警察も届かない空白の一時間半。

 こうして、月見坂市の旧市街出身のしがない整備士の息子と、巨大財閥の絶対君主たる令嬢、そしてその辣腕を振るう経理の魔女という、あまりにも歪で、しかしこれ以上ないほど強力な、三人の捜査が開始された。


「まず、状況を整理するわよ」


 翡翠さんがタブレットの画面を、まるで獲物を切り刻むような鋭い指つきでフリックしながら、低い声で話し始めた。


「被害者は時東誠也。与党の大物で、次期総裁候補の筆頭。死因は未知の重い鈍器による頭部挫滅。発見時刻は今から約二十分前。第一発見者は女優の一条玲奈。……そして、容疑者候補はこの船に乗っている全員だけど、特に動機が見え隠れするのは、先ほどまでラウンジで彼と激しい火花を散らしていた連中ね」


「醍醐議員に、あのカメラを隠し持っていたジャーナリストの男……。それに、あの第一秘書の桐谷もですね」


 僕は震える声で付け加えた。一条玲奈の悲鳴を聞いた時の、あの桐谷の完璧すぎる、まるで台本を秒単位でなぞったかのような悲嘆の演技。そして、主人の遺体を前にして瞬時に冷静さを取り戻したあの『機械的な切り替え』。それがどうしても僕の心の中に、拭い去れない油汚れのような不快な違和感としてこびりついていた。


「桐谷、か。あやつのルーツは一見すると無機質で献身的な秘書に見えるが、わしの目には、過剰に磨き上げられた『偽物』の匂いがしたわ。……あまりに欠点なく磨きすぎたモノは、かえってその卑しい素性を隠そうとする、醜い意図が見えるものじゃ」


 瑠璃は瞳を細め、甲板の向こう、急速に厚い雲に覆われ、鉛色に変色し始めた空を見つめた。


「サクタロウ。お主はこれから、一条玲奈が今収容されている別室の周辺を探れ。女の絶叫の裏側に隠された、別の『音』が落ちていないか見てくるのじゃ。……姉よ、お主は時東の過去十年の『カネ』の流れを洗え。この歯車が、なぜ政治家の頭を砕かなければならなかったのか。その経済的因果関係を見つけ出すのじゃ」


「了解。光太郎君、ちゃんと仕事しないと、帰りのヘリコプターの燃料代を、あなたのバイト代から千円単位で天引きして、さらに延滞利息を複利で乗せてあげるわよ?」


 翡翠さんの恐ろしい冗談を背に、僕は一人、一条玲奈が運ばれたという二階デッキのサロンへと走り出した。

 豪華な絨毯の上を走る僕の足音は、船の巨大なエンジン音にかき消されていく。


 廊下を全力で駆け抜けながら、僕は自分の記憶の底にある、錆びついた引き出しを必死に手繰り寄せていた。


 烏森神社のお守り。

 小さな頃、不器用でいつも爪の間を真っ黒にしていた父さんに連れられて行った、あの古びた神社の境内。そこには、近所の町工場の社長さんたちが奉納した、無数の精密部品の絵馬や、役目を終えた旋盤のバイトが、職人たちの守り神として飾られていた。

 職人の街である旧市街にとって、精度は命であり、妥協なき仕事への誇りそのものだった。

 あの血塗られた歯車。あんなにも美しく、冷たい幾何学的な輝きを放っていたモノが、なぜ、誰の恨みを買い、どのような凄惨な経緯でこの豪華客船で人の命を奪うことになったのか。


(……僕にしか、分からないことがあるはずだ。あの街で、油にまみれてプライドを守り抜こうとしていた人たちの気持ちが。この『不純物』の意味が)


 僕は自分の庶民としてのルーツ、旧市街で油と鉄粉にまみれて生きてきた記憶だけを唯一の武器に、一条玲奈が籠もるサロンの扉の前に辿り着いた。

 重厚な扉の隙間からは、彼女の抑制された、しかし魂の底から怯えきったような激しいすすり泣きが、呪詛のように漏れ聞こえていた。


 洋上の密室。三人の異質な探偵たち。

 それぞれの思惑と能力が複雑に、かつ残酷に交錯する中、事件のルーツは、豪華な船体の深層部へと、そして月見坂市の高度経済成長の影に葬り去られた、暗い歴史へと深く根を伸ばしていた。

 僕たちはまだ知らなかった。この事件を解き明かすことが、単なる犯人探しではなく、ある誠実な町工場の絶望と、歪められた精度の真実を掘り起こすことになるのだということを。


 僕は扉のノブに手をかけ、一つ、深く呼吸をした。

 窓の外では、紗霧島の白い影が少しずつ遠ざかり、荒れ始めた波が船体を不気味に、そして重く揺らしていた。

 僕の、そして如月瑠璃の本当の戦いは、この扉の向こう側から始まるのだ。



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