第4話『歯車とお守り』 ~Section 4:ラウンジの悲鳴と、消えた凶器~
一条玲奈の悲鳴は、一度きりでは終わらなかった。
静まり返ったVIP専用エリアの廊下に、狂乱したような叫びと、何かが激しく床を叩くような鈍い音が、絶望の連鎖となって響き渡る。
僕は瑠璃の背中を追い、絨毯の敷き詰められた長い回廊をなりふり構わず駆け抜けていた。豪華客船の贅を尽くした内装、金箔の額縁に飾られた名画や、アロマの香る落ち着いた照明。それらすべてが、今は血の匂いを孕んだ、悍ましい迷宮の壁にしか見えない。
角を曲がるたびに心臓が喉元まで跳ね上がり、呼吸が物理的な痛みとなって胸を締め付ける。一方で、前を走る瑠璃の動きは異様だった。漆黒のサマードレスの裾を一切乱すことなく、まるで見えない死の糸に導かれるかのような無駄のない動作で、最短距離を突っ切っていく。その背中からは、先ほど甲板で纏っていたあの氷点下の殺気が、目に見えるほどの濃度で立ち昇っていた。
悲鳴の源泉である『ロイヤル・スイート・壱号室』の前に辿り着いた時、そこにはすでに数人の人だかりと、騒然とした空気が渦巻いていた。
真っ先に駆けつけたのであろう白スーツ姿のガードマンたちが、廊下にへたり込んで震えている一条玲奈を介抱しようとしている。一条玲奈は、ラウンジで見せたあの気高いトップ女優の面影を完全に失っていた。真っ赤なドレスの肩口は乱れ、大きなサングラスは無残に床に転がっている。彼女の瞳は焦点が合わず、ただ虚空を指差して、喉の奥からヒューヒューと枯れた音を漏らしていた。
「先生が……時東先生が……あんな、あんな変わり果てた姿にっ」
彼女が震える指で示した、半開きになった豪華なマホガニー製のドア。
僕は瑠璃の肩越しに、その室内を覗き込んだ。そして次の瞬間、胃の底から熱い酸がせり上がってくるのを止められず、激しく咽せ込みながら口元を両手で押さえた。
そこは、一分前までは数億円の価値があったであろう『富の聖域』の成れの果てだった。
部屋の中央に鎮座する重厚なデスク。その背後にある高価な革張りの椅子に、時東誠也が座っていた。
いや、正確には、肉の塊と化した何かが、椅子の背もたれに寄りかかっていた。
真っ白な麻のスーツは、まるで赤いペンキをバケツごとぶちまけたかのように、見るも無惨な鮮血で染まっている。かつて傲慢な言葉を撒き散らしていたその頭部は、重い鈍器で何度も、それこそ執拗に叩きつけられたのだろう。側頭部から後頭部にかけての形状は完全に崩れ去り、砕けた骨と混じった何かが、背後の白い壁にまで飛び散って、不吉な抽象画のような模様を描いていた。
デスクの上では、飛び散った血飛沫が、時東が書きかけだったであろう書類のルーツを塗り潰している。床には飲みかけの高級ブランデーが、割れたクリスタルグラスと共に巨大な水溜まりを作っていた。
凄惨、という言葉だけでは足りない。それは明確な『殺意』、あるいは長年積み重ねられた『執念』によって、一人の人間が物理的に完膚なきまでに破壊された、絶望的な終着点だった。
「……酷い。これは、到底人間のやる事とは思えん」
僕の隣に、いつの間にか追いついていた黒田さんが並んだ。
如月家の強靭なボディガードである彼ですら、その頬をわずかに引き攣らせている。それほどの暴力が、この密室内で行われたのだ。
「騒ぐな、黒田。そして、不用意に足を踏み入れるな。この部屋に残された死の沈黙を乱す権利は、誰にもない」
瑠璃の声は、遺体を目にしてもなお、驚くほど平坦で冷徹だった。
彼女はゆっくりとサングラスを外すと、アメジストのような深い紫の瞳を細め、獲物を鑑定する鋭い眼差しで部屋全体を隅々まで舐めるように観察し始めた。
一条玲奈の慟哭と、遠くから近づいてくる野次馬たちの足音。しかし、瑠璃の周囲だけは、真空のような冷たい静寂が支配している。彼女が見ているのは、もはや人間の死体ではない。その死を引き起こした原因――モノとしての『凶器』の不在に、彼女の意識は注がれていた。
「時東先生!先生、何があったのですか!」
廊下の奥から、一人の男が血相を変えて駆け込んできた。
時東の第一秘書、桐谷だ。
彼は人だかりを強引に掻き分け、部屋の惨状を目にした瞬間、膝から崩れ落ちるようにして絶叫した。
「ああ、先生!なんということに……!誰だ、誰がこんな非道な真似を!私が少し目を離した隙に!」
桐谷は銀縁の眼鏡を歪ませ、時東の遺体に取りすがろうとした。
だが、その動きを制したのは、瑠璃の、氷の刃のような鋭い一言だった。
「止まれ、秘書。その足元には、お主が仕えた主人の最期の『ルーツ』が散らばっておる。それを無知に踏みにじるのが、秘書としての最期の勤めか」
桐谷の動きが、凍りついたように止まった。
彼はゆっくりと瑠璃を見上げ、それから震える指で眼鏡のブリッジを直すと、深く頭を下げて後退した。
「失礼いたしました……。私は、あまりの衝撃に理性を失っておりました。……しかし、お嬢様。時東先生は、この国の未来を担う宝でした。このような場所で、このような無惨な最期を迎えられるなど、秘書として、到底受け入れられません」
桐谷は、悲痛な表情を浮かべ、声に震えを混ぜながらも、数秒前までの激情が嘘のように、急速に『完璧な秘書』としての冷静さを取り戻し始めていた。その立ち振る舞いは、あまりにも合理的で、あまりにも隙がない。悲しみに暮れる秘書という『役割』を、瞬時に脳内で再構築したかのような違和感を、僕は感じずにはいられなかった。
「黒田、このエリアを直ちに封鎖せよ。野次馬は追い払え。父と母にはお主から報告を上げろ。……それから、一条玲奈を別室へ運び、落ち着かせるのじゃ。情報の流出は最小限に留めよ」
瑠璃が迷いのない口調で指示を飛ばす。
如月コンツェルンの令嬢としての、有無を言わさぬ絶対的な指揮権。現場にいたガードマンたちは、船長や警察の到着を待つまでもなく、瑠璃の言葉に従って機械のように動き出した。
「如月さん……。本当に、取り返しのつかない殺人事件なんですね。どうすればいいんですか、僕たち」
僕は震える声で彼女の背中に問いかけた。
だが、瑠璃は答えなかった。彼女の紫の瞳は、遺体でも、嘆き悲しむ桐谷でもなく、デスクの周囲の『床』と、開いた窓の周辺を執拗に追っていた。
「……妙じゃな。実に妙じゃ」
瑠璃が、独り言のように呟いた。その声には、謎を見つけた喜びよりも、先ほど感じていた怒りの余韻が混じっていた。
「妙?何がですか。こんなに凄惨な現場なのに、何が不自然なんですか」
「サクタロウ。お主、この遺体の傷をよく見ろ。時東の側頭部は、一撃か二撃、極めて重く鋭い『何か』で、それこそ粉砕されておる。この出血量、そして骨の砕け方。相当な重量と、恐るべき殺傷能力を持った物体が、正確無比な力で叩きつけられたのは明白じゃ」
瑠璃はデスクを一歩も動かずに見つめたまま、言葉を続ける。
「だが、どうだ。この完全な密室の中、どこを探しても『凶器』が見当たらんではないか。犯人が持ち去ったのなら、血塗れの人間が廊下を通ったはずじゃが、そんな目撃はない。そして何より、これほどの惨状を引き起こした物体が、どこにも、欠片すら残っていないのじゃ」
言われてみれば、そうだった。
時東の頭蓋をこれほどまでに容易く破壊した物体があるなら、デスクの上か、あるいは床に転がっているはずだ。返り血を浴び、時東の肉や髪が付着した凄まじい凶器が。
しかし、床にあるのは割れたブランデーグラスの破片と、一条玲奈が落としたであろうサングラス、そしてデスクの上の書類だけだった。
犯人が持ち去ったのか。だが、一条玲奈が悲鳴を上げてから、ガードマンが到着するまで数十秒。この一本道の長い廊下を、血塗れの大きな凶器を持って逃げることなど、物理的に不可能なはずだ。
「凶器は、この部屋から『消失』したのじゃ。あるいは、わしが先ほど手にしたあの傑作が、自ら意思を持って外へと飛び出したか」
瑠璃のアメジストの瞳が、妖しく光った。
彼女は自分のドレスのポケットに隠された、あの『血塗られた歯車とお守り』の冷たい感触を、指先で確かめているようだった。
甲板で拾った、あの不条理な拾得物。
それこそが、この密室から消えた凶器であることは、もはや疑いようがない。
だが、なぜそれが欄干の外側に、あんな風に引っかかっていたのか。犯人はどのようにして、この密室から外の海へと、凶器を葬り去ったのか。その物理的なルーツが、まだ見えてこない。
「お嬢様。何か、犯人の手がかりになるようなものがございましたか」
桐谷が、伏せ目がちに瑠璃に問いかけた。
その声には、一切の棘はなく、ただ純粋に主人を失った悲しみと、犯人への抑えきれない怒りが混じっているように聞こえた。
「何もない。……だが、不純物はあまりにも多いな。この部屋全体が、嘘と澱みで塗り潰されておる。死臭よりも酷い匂いじゃ」
瑠璃は桐谷を真っ向から見据え、冷たく言い放った。その視線は、桐谷の眼鏡の奥にある瞳を、解剖するように貫いていた。
「秘書。お主、事件当時どこにおった。主人がこれほど無残に殺されている間、何をしていたのじゃ」
「私は、事務局との打ち合わせで、反対側のデッキにある会議室におりました。如月社長のスタッフの方々も含め、多くの証人がおります。時東先生からは『一条さんと打ち合わせをするから、邪魔をせずに席を外せ』と厳命されておりましたので、私は忠実にそれに従ったまでです」
桐谷は淀みなく、一切の動揺を見せずに答えた。
完璧なアリバイ。そして、主人のプライバシーを守ろうとした忠実な配慮。
一条玲奈が悲鳴を上げた瞬間、彼は物理的に現場から最も遠い場所にいたと主張しているのだ。
「……そうか。ならば、その完璧なアリバイとやらを、いずれ精査してやろう。わしの目に狂いがないか、確かめてやるわ」
瑠璃はそれ以上は何も言わず、踵を返して現場を離れた。
僕も慌てて彼女の後に続く。
廊下には、騒ぎを聞きつけた醍醐議員や、カメラを隠し持った不気味なジャーナリストたちが集まり始め、騒然となっていた。
「如月さん、どうするんですか。警察は、船が着くまで来られませんよ。僕たちは、ただ待つしかないんですか」
「警察など待っておれるか。この船が港に着くまでの約一時間。それが、この極上の不純物を鑑定するために与えられた猶予じゃ」
瑠璃は足を止めず、真っ直ぐにメインデッキへと向かう。
彼女の歩みは、もはや下校時のそれとは全く違っていた。
犯人を追い詰める探偵のそれですらない。
奪われた価値を、汚されたルーツを、自らの手で奪還しようとする、高潔で傲慢な鑑定士の進軍だった。
「サクタロウ。お主の地元の『魂』が、なぜ人殺しの道具に使われ、これほどまでに真っ赤に染められなければならなかったのか。そのルーツの裏側に隠された、真っ黒な感情を今からすべて引きずり出してやる。……覚悟しておけ。この船は、これからわしの審判場となる」
背後で船全体の非常用アナウンスが流れ始め、客たちの悲鳴と混乱が渦巻く中、瑠璃の言葉だけが、僕の耳に冷たく、そして力強く突き刺さった。
僕の長い夏休みは、今、本物の血塗られた迷宮へと足を踏み入れたのだ。




