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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 12:盤面の反転と、完璧な秘書の綻び~

「物理的なアリバイというお主の盾は、凶器が現場ではなく後方デッキで投棄されたという事実によって、すでに半分以上が腐り落ちておる。……だが、まだ己の無実を強弁するつもりじゃな、桐谷」


 瑠璃の突き放すような冷徹な声に対し、第一秘書・桐谷は首をわずかに傾け、口元に薄い笑みすら浮かべてみせた。


「詭弁です、如月のお嬢様。凶器が後方デッキから捨てられた可能性は否定しません。ですが、それが私に結びつく証拠には全くなりません。一条玲奈さんが悲鳴を上げたあの十二時五分という時間、私が現場から遠く離れたティーラウンジにいた事実は変わりません。投棄場所がどこであろうと、私には犯行不可能です」


 堂々たる反論だった。彼のアリバイの核は『十二時五分に自分は遠くにいた』という一点に集約されており、そこを崩されない限り、どれほど状況証拠を積み上げられようと致命傷にはならないと踏んでいるのだ。


 だが、瑠璃はその言葉を待っていたとばかりに、背後に控える姉へと優雅に視線を送った。


「姉よ。この男は、まだ自分の作り上げた『偽りの時間軸』という盤面の上で勝負ができると思い込んでおる。……その盤面ごと、容赦のない数字の暴力でひっくり返してやれ」


「ええ、任せてちょうだい。この程度の安っぽいアリバイ工作、私のタブレットのバッテリーを数パーセント消費する価値すらないわ」


 翡翠さんが蠱惑的な笑みを浮かべながら前に進み出ると、再びラウンジの壁面に巨大なホログラムプロジェクターの光が投射された。


 そこに映し出されたのは、時東誠也の過去の不正資金ルートではない。この豪華客船『シンフォニー・オブ・サギリ』の精密な立体見取り図と、船の航行ログ、そして気象レーダーが記録した『風速と風向のグラフ』だった。


「まず、凶器が投棄された『正確な時間』を数字で確定させるわ。犯人は、一条玲奈さんが悲鳴を上げた十二時五分に殺人を犯したわけじゃない。その時間、時東誠也はすでに頭を砕かれ、冷たい死体となって部屋に転がっていただけよ」


 翡翠さんの長く美しい指先が、空間に浮かぶ風速データのグラフを鋭くタップした。


「瑠璃が欄干で発見した、あの歯車とお守り。重厚な金属の塊が海へ落ちず、結びつけられた軽いナイロン紐だけが風に煽られて欄干のボルトに絡みつくという『奇跡』が起きるためには、物理的に極めて限定的な条件が必要になるわ。重力による落下速度を上回るだけの、強烈な下からの吹き上げの風よ」


 スクリーン上で、船の立体図と風の矢印が複雑に交差するシミュレーション映像が再生される。


「この船の気象データログと航海日誌を照らし合わせた結果、船体後方の展望デッキで、そのような特殊な乱気流……秒速二十メートルを超える強烈な吹き上げが発生したタイミングは、出航から現在までの間でただ一度きり。船が鴨江島の岩礁を迂回するために、大きく右へ舵を切ったあの瞬間だけよ。……正確な時間は、午前『十一時四十八分』。この瞬間に、犯人は後方デッキの欄干から、あの歯車を海へ向かって投げ捨てたの」


 翡翠さんの冷徹な計算結果が示された瞬間、桐谷の顔から初めて、目に見える形でスッと血の気が引いていくのが分かった。


 十二時五分という悲鳴の時間は、もはや何の意味も持たない。凶器が投げ捨てられ、殺人が『完了』したのは、十一時四十八分だったのだ。


「さて、光太郎君。あなたの出番よ。犯人が凶器を捨てた時間が確定したところで、現場の物理的な距離と時間の矛盾を、あなたのその泥臭い足で完全に証明してあげなさい」


 翡翠さんからの合図を受け、僕は大きく一歩前に出た。


 ラウンジの全員の視線が僕に突き刺さる。僕は緊張で乾いた唇を舌で舐め、先ほど瑠璃に命じられて船内を死に物狂いで走り回った時の、あの肺が焼け付くような感覚と、潮風の匂いを思い出しながら口を開いた。


「事件が発覚する前、桐谷さんは『十一時四十五分に時東先生の部屋を出て、十一時五十分からティーラウンジでスタッフと打ち合わせをしていた』と証言しました。……でも、その動線には大きな空白があります」


 僕はスクリーンの立体見取り図を見上げながら、自分の足で確認したルートを指差した。


「時東先生のいたVIPルームから、桐谷さんが現れたティーラウンジまでは、大人の足で普通に歩けばたったの『一分半』で着く距離です。……十一時四十五分に部屋を出たなら、遅くとも十一時四十七分にはティーラウンジに着いていなければおかしい。桐谷さん、あなたは残りの『三分間』、一体どこで何をしていたんですか?」


 僕の真っ直ぐな問いかけに、桐谷は奥歯を強く噛み締めた。その頬の筋肉が、微かに、しかし確かに痙攣している。


「私は……途中でひどい目眩を感じ、VIPエリアの廊下にあるトイレの個室に入って休憩していました。ほんの数分間のことです。ただそれだけのことです」


「嘘だ」


 僕は桐谷の苦し紛れの弁明を、容赦なく否定した。


「僕は先ほど、如月さんに命じられて、実際にこの船の中を全力で走って時間を計測しました。時東先生のVIPルームから、乗客の目に触れない『従業員用の裏階段』を使って、船の一番後ろにある展望デッキまで全力で駆け下りる。そこで凶器を海へ投げ捨て、すぐにまた裏階段を駆け上がり、息を整えてティーラウンジへと向かう。……この一連の動作にかかる時間は、僕の足で全力で走って、ちょうど『五分』でした」


 ラウンジの中が、水を打ったように静まり返った。


 僕が足で稼いだ泥臭いアナログの検証結果と、翡翠さんが弾き出した冷徹なデジタルの計算が、この瞬間、完璧な形で一つの真実へと結びついたのだ。


「つまり、こういうことだ」


 瑠璃が僕の言葉を引き継ぎ、処刑の宣告を下すように冷たく言い放った。


「桐谷。お主は十一時四十五分に時東の部屋を退出したわけではない。その時間に、自らの手で持参したあの歯車で、油断しきっていた時東の頭蓋骨を背後から叩き割ったのじゃ。そして、溢れ出る血を避けて部屋を飛び出し、裏階段を使って後方デッキへと全力で走り、船が旋回した十一時四十八分の強風の中で凶器を海へ投げ捨てた。……その後、乱れた息を整えながら再び階段を駆け上がり、何食わぬ顔で十一時五十分にティーラウンジへと姿を現した」


 瑠璃は桐谷の目の前まで歩み寄り、その紫の瞳で、秘書の仮面の下にある怯えを覗き込んだ。


「お主は『自分が現場にいなかった時間』をアリバイとして主張したつもりじゃったろうが、逆じゃ。お主がティーラウンジで複数のスタッフに自分の姿を意図的に見せつけていたあの時間こそが、殺人を終え、凶器を処分した後の『逃走完了の証明』に過ぎなかったというわけじゃ。……悲鳴が上がった十二時五分という時間は、お主が現場から遠ざかるために、一条玲奈という女の訪問時間を巧みに利用した、ただのブラフじゃったな」


 盤面は完全に反転した。


 桐谷が自らの身を守るために構築した「完璧なアリバイ」は、今や、彼自身が犯人であること、そして彼にしかこの短時間での犯行と投棄が不可能であったことを証明する、逃げ場のない鉄の檻へと変貌してしまったのだ。


「……憶測に過ぎません。すべては、あなた方の都合の良い妄想です」


 桐谷の声は、すでに先ほどの氷のような冷静さを失い、ひび割れたガラスのように震えていた。


 彼はスーツのポケットに手を入れたまま、後ずさるように一歩下がった。


「私が走ったという証拠はない。そもそも、私がトイレにいたという証言を覆す客観的な証拠がどこにあるんですか!?」


「あら、そんなもの、コンツェルンのシステムに入り込めば一秒で引き出せるわよ」


 翡翠さんが呆れたようにため息をつき、タブレットの画面を切り替えた。


「この豪華客船のVIPエリアのトイレには、最新の節水システムとスマートロックが導入されているの。……十一時四十五分から十一時五十分の間、あのエリアのトイレの個室は一度も施錠されていないし、水道メーターの数値も一ミリたりとも動いていないわ。あなた、トイレのドアノブにすら触れていないじゃない」


「なっ……!」


「それに、あなたが『私が烏森桐人であるという証拠もない』と強弁するなら、それも数字で叩き潰してあげるわ。私は幽霊を相手に経理の仕事をする趣味はないの」


 翡翠さんの指先が、画面上の送金記録を次々とハイライトしていく。そこに映し出されたのは、ある公的な身分証明書の画像と、それに紐づく不可解な暗号資産の動きのデータだった。


「あなたが必死にすがりついている『桐谷』というその名前。それは、五年前に東南アジアで事故死した、天涯孤独の日本人の戸籍よ。……あなたは、時東の裏金から少しずつ横領した莫大な資金を使って、ダークウェブのブローカー経由でこの死人の戸籍を買い取り、自分の経歴を完全にロンダリングしたの」


「違う……私は……!」


「あなたの本当のルーツは、あの旧市街で油にまみれて誇り高く生きていた、烏森精密の主人の息子……烏森桐人よ。あなたがどれほど高級なスーツを着込み、銀縁の眼鏡で素顔を隠そうとも、この電子の海に刻まれた『戸籍売買の送金記録』という数字の痕跡は、絶対に消すことはできないわ。……さあ、チェックメイトよ。残高ゼロの偽りの人生に、これ以上の言い訳が残っているかしら?」


 その決定的な一撃が突き刺さった瞬間。


 桐谷……いや、烏森桐人の身体から、まるで糸が切れた操り人形のように、すべての力が抜け落ちた。


 彼の顔に五年もの間張り付いていた完璧な「第一秘書」という無機質な仮面は音を立てて崩れ去り、その下から、ドロドロの暗闇の中で憎悪と復讐心だけを食べて生き延びてきた、一人の孤独で哀れな青年の素顔が露わになった。


「あ、あぁ……」


 烏森桐人は膝から崩れ落ち、豪華な絨毯の上に両手をついた。


 彼が絞り出すように漏らしたその声は、もはや人間の言葉ではなく、致命傷を負った獣のうめき声のようだった。完璧な殺人を企て、自らの人生のすべてを復讐の機械へと作り変えた男が、如月姉妹の圧倒的な鑑定眼と計算の前に完全に屈服し、そのルーツを白日の下に晒されたのだ。


「お主の負けじゃ、烏森」


 瑠璃は崩れ落ちた青年の前に立ち、血塗られた歯車を冷たく見下ろした。


 勝負はついた。すべての謎は解き明かされ、盤面は完全に制圧された。残るは、この男が犯した罪と、彼が捨て去った誇りに対する、令嬢からの最後の断罪だけだった。



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