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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 2:船上の狂騒と、逃げ出す令嬢~

 豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』は、鏡のように穏やかな夏の海を滑るように進んでいた。

 メインラウンジの喧騒は、分厚い強化ガラスの扉一枚を隔てただけで、遠い世界の出来事のように静まり返る。僕は結局、瑠璃が一人で出ていった数分後、父さんが彰社長と車のサスペンションの構造について熱く語り始めたのを機に、自分もそっとラウンジを抜け出した。

 さすがにあの欲望と権力が渦巻く空間に一人で残されるのは、旧市街の路地裏で野良犬の群れに囲まれるより胃に悪かったからだ。


 潮風が吹き抜けるデッキに出ると、そこにはラウンジの人工的な芳香とは違う、本物の海の匂いが満ちていた。

 真っ白な手すりに捕まりながら、僕は大きく一つ深呼吸をする。

 視界の端には、一人で海を眺めている瑠璃の背中が見えた。彼女はデッキの最前部、風が最も強く吹き抜ける場所に立ち、水平線の彼方をじっと見つめている。漆黒のサマードレスの裾が波打つように揺れ、結い上げられた艶やかな黒髪からこぼれた数筋の髪が、彼女の白い頬を撫でていた。

 その姿は、あまりにも完成された一枚の絵画のようで、僕のような下僕が不用意に近づくことを躊躇わせるような、神聖な静寂を纏っている。

 僕は彼女の邪魔をしないよう、少し離れたベンチに腰を下ろし、借りてきた猫のように小さくなって海を眺めることにした。


「あら、光太郎君。あなたもあの『タヌキたちの品評会』に嫌気が差したのかしら」


 不意に、背後から軽やかな声がかけられた。

 驚いて振り返ると、そこにはエメラルドグリーンのドレスを美しくなびかせた翡翠さんが立っていた。彼女もまた、退屈な挨拶回りを抜け出してきたらしい。


「翡翠さん。あ、はい。如月社長たちはまだお話し中でしたけど、僕には少し場違いすぎて」


 僕が慌てて立ち上がると、翡翠さんは「座ったままでいいわよ」と手で制し、僕の隣に優雅に腰を下ろした。

 すぐ隣から、高価な香水の香りと、彼女が纏う圧倒的な『大人の余裕』が伝わってくる。女性耐性が皆無の僕は、それだけで心臓が激しいドラムを叩き始め、視線をどこに向ければいいのか分からなくなってしまった。


「無理もないわ。あのラウンジにいるのは、数字と権力のことしか頭にない人種ばかりだもの。コンツェルンの経理を統括している私ですら、あの淀んだ空気の中に一時間以上いると、頭の中の計算機がオーバーヒートしそうになるわ」


 翡翠さんはそう言って、手すりの向こうに広がる青い海に目を細めた。

 その視線は、妹である瑠璃が立っている場所へと向けられる。


「瑠璃ったら、あんなところで一人で何を見ているのかしらね。あの不愛想な背中を見ていると、時々、あの子だけがこの世界とは違う(ことわり)で動いているんじゃないかって不安になることがあるわ」


「如月さんは、いつもあんな感じですよ。僕には、何か『極上のルーツ』とやらを探しているようにしか見えませんけど」


 僕が苦笑まじりに答えると、翡翠さんは「そうね」と楽しげに笑った。


「あの子にとって、この世の全ては鑑定の対象でしかないのよ。人間関係も、感情も、地位も名誉も。あの子の目に映るのは、そのモノが持つ純粋な価値と、そこに含まれる不純物だけ。……だからこそ、あの子は誰にも媚びないし、誰にも理解されない。光太郎君、あなたみたいな『理解不能な不純物』がそばにいてくれるのは、あの子にとって実はとても幸運なことなのかもしれないわね」


「僕が幸運の不純物、ですか。ただの日傘持ち兼、パシリな気がしますけど」


 僕が自嘲気味に肩を落とすと、翡翠さんは「ふふっ」と声を弾ませ、僕の顔を覗き込んできた。


「あら、自覚がないのね。あの子が自分のテリトリーに他人を、しかもあなたのような庶民のルーツを地で行くような子を置き続けるなんて、普通じゃ考えられないことなのよ。私も、もう少し詳しくあなたのルーツを精査してみたくなっちゃったわ」


 翡翠さんはそう言って、僕の耳元に顔を近づけてきた。

 あまりの至近距離に、僕は頭が真っ白になり、危うくベンチから転げ落ちそうになった。彼女の冗談とも本気ともつかないからかいは、僕のような未熟な高校生には刺激が強すぎる。


「姉よ。あまりわしの玩具で遊ぶな。その男は、ただでさえ演算能力が低いのだ。これ以上脳を揺らせば、使い物にならなくなる」


 その時、いつの間にか僕たちの背後に戻っていた瑠璃が、冷ややかな声を投げかけてきた。

 大きなサングラスを外し、アメジストのような深い紫色の双眸で僕たちを射抜くように見つめている。その瞳には、すべてを見透かすような冷徹さと、気高い美しさが宿っていた。


「おや、瑠璃。一人で海を眺めるのは飽きたの?」


「海など、ただの塩水の塊じゃ。一度見ればルーツは知れる。それよりも姉よ。お主がここにいるということは、本邸の書斎に隠していた、わしのアンティークカタログを勝手に持ち出した犯人はお主だな?」


 瑠璃の矛先が翡翠さんへと向けられる。

 どうやら、この姉妹の間には僕の知らない小さな小競り合いが日常的に存在しているらしい。翡翠さんは「あら、人聞きの悪い。私はただ、経理上の資産評価のために少し参照しただけよ」と涼しい顔で受け流している。


「嘘をつけ。お主はただ、わしの執着するモノを見て、わしをからかう材料を探していただけじゃろう。サクタロウ、この女の甘言に乗るなよ。お主のような単細胞は、一瞬で骨まで計算し尽くされるのが関の山じゃ」


「了解しました。肝に銘じておきます」


 僕は板挟みになりながら、ただひたすら頷くしかなかった。

 如月家の令嬢二人。一人は冷酷な絶対君主、もう一人は蠱惑的な計算の怪物。僕のような平凡な庶民にとって、この姉妹に囲まれている状況は、まさに『前門の虎、後門の狼』という言葉が相応しかった。


 しかし、そんな僕たちの奇妙なやり取りを、少し離れた場所から見つめている視線があることに、僕はまだ気づいていなかった。


 デッキのさらに上の階、プライベートエリアへと続く階段の踊り場。

 そこには、先ほどラウンジで見かけた第一秘書の桐谷が立っていた。

 彼は手すりに手をかけ、無表情に僕たちを見下ろしていたが、その眼鏡の奥の瞳は、まるで何かのタイミングを計っているかのように鋭く、そして暗く沈んでいた。


 彼だけではない。


 ラウンジの窓際では、一条玲奈が一人でカクテルを飲みながら、時折不安げに時計を気にしている。潜入ジャーナリストの男は、客を装いながら不自然なほど頻繁にカメラを構え、船内の動線を記録しているようだった。


 船は、目的地の鴨江島へと向かって、着実に沖合へと進んでいく。

 時折、波を切る音が大きく響く以外は、静穏な航海だった。

 だが、その静寂は、何かが破綻する直前の不気味な溜めのように感じられてならなかった。

 父さんは今頃、ラウンジで美味しい料理を頬張りながら、彰社長と楽しい時間を過ごしているだろう。

 僕も、このまま何事もなく、如月姉妹のからかいを受け流しながら、夕方には紗霧島の港に戻れるのだと、自分に言い聞かせていた。


「サクタロウ。何を呆けた顔をしておる。喉が渇いた。わしの部屋から、冷やしたペリエを持ってこい。お主の分も許可してやる」


 瑠璃の傲慢な命令が飛ぶ。

 僕は「了解しました」と答え、彼女から渡された客室のカードキーを受け取った。

 彼女たちのプライベートスイートは、このデッキのすぐ奥にある特別なエリアだ。

 僕は慣れない豪華な廊下を、迷わないように慎重に歩き出した。

 豪華な絨毯が足音を消し、静まり返った客室エリア。

 そこは、ラウンジの喧騒からも、デッキの開放感からも切り離された、死角の多い迷宮のようだった。


 この時、僕がそのまま瑠璃の部屋へ直行していれば。

 あるいは、翡翠さんが僕を呼び止めて、もっと別のからかいを続けていれば。

 後の凄惨な事件は、あるいは別の形になっていたのかもしれない。

 しかし、運命の歯車はすでに回り始めていた。

 僕は自分の運命の悪戯を呪いながら、誰もいない廊下の角を曲がった。


 その先で、瑠璃が後に『極上の不純物』と称することになる、あの奇妙な拾得物と遭遇することになるまで、あと数分。

 洋上の狂騒は、静かに、しかし確実に、血の匂いを孕んだ悲劇へと加速していた。



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