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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 1:出航の汽笛と、終わらないバカンス~

 紗霧島の東の空から昇った眩しい太陽が、すでに中天へと差し掛かろうとしている昼前。

 一泊二日で月見坂市のカビ臭い我が家へ帰れると思っていた僕のささやかな希望は、巨大財閥トップである如月彰社長の『ぜひもう一晩、定光殿と酒を酌み交わしたい』という鶴の一声によって、朝の時点でいとも容易く粉砕されていた。


 二泊三日。この圧倒的な富と権力が渦巻く絶海の孤島でのバカンスは、まだ折り返し地点を迎えたばかりだったのだ。昨夜の不条理な生ハム事件で使い果たしたはずの僕の精神力は、朝食の席で延長を告げられた瞬間にマイナスへと振り切れてしまっていた。


 本邸の客室に戻った僕と父さんは、い草の香りが残る畳の上で、用意された真新しい服に身を包んでいた。

 初日の晩餐会での父さんの胡散臭いアロハシャツ姿を見た如月社長の妻・菫さんが、『本日のランチクルーズには政財界の方々も多く乗船されますから、よろしければこちらを』と、さりげなく、しかし有無を言わさぬ絶対的な圧力で手配してくれたものだ。

 僕が着ているのは、仕立ての良さと生地の高級感が素人目にも分かる、真っ白なリネン素材のセットアップ。父さんは、上品なネイビーのサマーニットと細身の白いスラックスという、まるで海外の映画俳優の休日のような出で立ちだ。


「いやー、さすが如月グループの奥様だ!この服、通気性が抜群なのに全くシワにならねえ。俺みたいな油まみれのおっさんが着ても、なんだか新市街のセレブの仲間入りをした気分になるぜ!」


 父さんは客室の姿見の前でポーズを決めながら、上機嫌で白い歯を見せて笑った。

 確かに、初日のあの『旧市街のパチンコ帰り』のようなファッションに比べれば、百倍はマシに見える。それでも、服の中身は紛れもなくしがない自動車整備士と、そのオタク息子なのだ。高級な包装紙で包まれたところで、中身の庶民というルーツは絶対に隠しきれないと、僕は心の中で深いため息をついた。


 僕たちが本邸の広大な玄関を出ると、すでに如月一家の面々が出発の準備を整えて待っていた。

 今日のメインアクティビティは、島に併設されたプライベートポートから昼に出航する、豪華クルーズ船での数時間の小旅行だ。紗霧島からさらに南にある『鴨江島(かもえじま)』という無人島を経由して戻ってくるという、海と大自然のパノラマを満喫しながら極上のランチを味わうための、金持ちの優雅な遊びである。


「あら、光太郎君。そのリネンシャツ、とってもよく似合っているわよ。私の見立てたサイズ通りで安心したわ」


 日傘を差した翡翠さんが、蠱惑的な笑みを浮かべてこちらへ近づいてきた。

 今日の彼女は、鮮やかなエメラルドグリーンのサマードレスを着こなしており、大人の色香と圧倒的な美貌を周囲に振り撒いている。僕の服のサイズを、ただ一目見ただけで完璧に見抜いて手配したというのか。コンツェルンの経理を統括する彼女の『数字と計算』の能力は、他人の洋服のサイズにまで及ぶらしい。

 僕はその見透かすような視線と甘い香水の匂いにドギマギしてしまい、直立不動のまま真っ赤になってコクコクと首を縦に振ることしかできなかった。


「おい、姉よ。わしの下僕を朝からからかって遊ぶな。サクタロウの心拍数が上がって、暑苦しい息を吐き出しておるではないか」


 翡翠さんの背後から、氷点下の声が飛んできた。

 漆黒のオフショルダーのサマードレスに身を包んだ、我が校の絶対君主、如月瑠璃だ。

 頭にはつばの広い麦わら帽子を被り、大きなアンティーク調のサングラスをかけている。圧倒的な美少女でありながら、人を寄せ付けない冷酷なオーラは昨日と全く変わっていない。


「あら、ごめんなさい。あまりにもおもちゃとしての費用対効果が高いものだから、つい構いたくなっちゃうのよ。でも安心して。今日は船の上で、政界や財界の退屈なおじ様たちの相手をしなければならないから、光太郎君と遊んでいる暇はあまりなさそうだし」


 翡翠さんは肩をすくめ、呆れたように上品なため息をついた。


「行くぞ、サクタロウ。わしから離れるなよ。この無駄に日差しの強い南国で、迷子になられては面倒じゃからな」


 瑠璃が僕に一瞥をくれ、黒いフリルのついた自分の日傘を優雅に開いた。僕は「はいっ」と軍隊のように条件反射で返事をし、彼女の斜め後ろについて歩き始めた。絶対に彼女に迷惑をかけないよう、絶妙な距離感を保ちながら歩幅を合わせる。

 黒スーツに身を包んだ専属ボディガードの黒田さんを先頭に、僕たち一行は漆黒のリムジンに乗り込み、島の港へと向かった。


 十分後。

 島の南側に位置するプライベートポートに到着した僕と父さんは、目の前に停泊している巨大な物体を見て、完全に言葉を失ってしまった。

 それは『船』というよりも、海に浮かぶ白亜の超高級ホテルのようだった。

 全長は百メートルを優に超え、何層にも重なった流線型のデッキが、夏の強烈な太陽の光を反射して輝いている。月見坂市の港に停泊しているような貨物船やフェリーとは、根本的に次元が違う。これが、如月コンツェルンが所有し、紗霧島に滞在するVIPたちのためだけに運航されている豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』だった。


「すげええっ!なんだよこれ、タイタニック号か!?光太郎、見ろよあのデッキの広さ!」


「父さん、声が大きいってば。周りの人が見てるから静かにして」


 僕ははしゃぐ父さんのサマーニットの袖を引きながら、周囲の目を気にして小さく縮こまった。

 港には、すでに乗船を待つ数十名の客たちが集まっていた。

 ラフなリゾート着を着てはいるが、誰もがテレビのニュースや経済誌の表紙で見たことがあるような、凄まじいオーラと権力特有の匂いを放つ人々ばかりだ。大臣クラスの大物政治家、世界的企業のCEO、そして誰もが知る有名な女優の姿まである。この船自体が、日本の権力と富の縮図のような、ひどく息苦しい空間だった。


「全く、虫唾の走る空間じゃ」


 日傘の下で、瑠璃が心底不快そうに舌打ちをした。


「わざわざ南の島まで来ておきながら、仕事の延長線のような顔ぶれで群れ、くだらん腹の探り合いをする。あのような濁りきった連中のどこに、極上のルーツがあるというのじゃ」


「まあまあ、瑠璃。これもコンツェルンを円滑に回すための必要経費よ。ほら、父様と母様はもう挨拶回りを始めているわ。私たちも行くわよ、光太郎君も一緒にね」


 翡翠さんに促され、僕たちは重厚なタラップを登って船内へと足を踏み入れた。


 船内の中央に位置するメインラウンジは、もはや地上の五つ星ホテルを凌駕する広さと豪華さだった。

 床にはふかふかの赤い絨毯が敷き詰められ、天井からはいくつものクリスタルシャンデリアが眩い光を放っている。巨大なガラス窓からは大海原が一望でき、ラウンジの奥ではタキシードを着た生バンドが優雅なワルツを演奏していた。パリッとした制服のウェイターたちがシャンパングラスを乗せた銀のトレイを持って、客の間を滑るように歩き回っている。

 そして何より、ラウンジの中央に設けられたビュッフェカウンターには、昨夜の晩餐会に勝るとも劣らない、世界中から集められた極上の料理の数々が並べられていた。


「うおおおっ!キャビアだ!見たこともないようなデカいエビのマリネだ!さっきあんなにすげえ朝飯を食ったばっかりだってのに、こんなもん見せられたらまた腹が減っちまうじゃねえか!昼からこんな豪勢でいいのか!?」


「父さん、お願いだから落ち着いて!ここは月見坂市の食べ放題バイキングじゃないんだから!」


 父さんは早速白い陶器の皿を手に取り、目を輝かせてビュッフェの列へと突撃していった。如月社長が「ははは、定光殿、遠慮はいりませんよ。海風を浴びる前の優雅なランチタイムです。こちらの年代物のシャンパンもいかがですか」と笑顔で付き合ってくれているのが唯一の救いだが、僕の胃は早くもキリキリと限界に近い痛みを訴え始めていた。


 だけど、僕も最初は気後れしていたのだが、目の前に並ぶ芸術品のようなローストビーフや、色鮮やかなシーフードの誘惑には勝てなかった。おずおずと皿に料理を取り、一口食べてみて、その圧倒的な美味しさに目を見開いた。高校生特有の消化器官の若さも手伝って、朝の豪勢な和食はすでに胃袋の中でリセットされているらしい。

 ふと周囲を見渡すと、瑠璃は食事をとることもなく、遠くの席で不機嫌そうに大人たちを睨みつけている。どうやら今の彼女の関心は、僕への命令よりも『この退屈な空間に対する嫌悪感』の方が勝っているらしい。

 僕は少しだけホッと胸を撫で下ろした。彼女の気まぐれに付き合わされることなく、この極上の料理を堪能できるのであれば、このクルーズ旅行も悪くないかもしれない。僕は父さんと一緒に、すっかりバカンス気分を満喫し始めていた。


 だが、僕が美味しい食事に舌鼓を打っているすぐ横では、大人たちの静かで冷酷な腹の探り合いが繰り広げられていた。


「はっはっは!彰社長、今回のクルーズも素晴らしい手配だ。我が党の連中も、この紗霧島のホスピタリティには大満足ですよ」


 声の主は、真っ白な麻のスーツを着た、恰幅の良い初老の男だった。

 テレビの国会中継で何度も顔を見たことがある。与党の大物議員であり、次期総裁候補とも噂されている絶対的な権力者、『時東誠也(ときとう せいや)』だ。太い葉巻を指に挟み、周囲の人間を見下すようなその横柄な態度は、絵に描いたような悪徳政治家そのものだった。

 時東のすぐ斜め後ろには、彼の影のように寄り添う、三十代半ばと思われる一人の若い男性が立っていた。

 銀縁の眼鏡をかけ、仕立ての良い細身のスーツを隙なく着こなしている。彼が時東の第一秘書である『桐谷(きりや)』という男だった。桐谷は時東が葉巻の灰を落とそうとするよりも早く、スッと懐から携帯用の灰皿を差し出し、周囲の邪魔にならないよう完璧な動線で立ち回っている。自己主張を完全に消し去った、まさに機械のように精密で有能な秘書だ。


「しかし時東先生。随分と余裕ですね。最近、先生の過去の建設事業を巡って、随分と香ばしい噂を嗅ぎ回っている野良犬がいると聞いておりますが」


 不意に、冷ややかな声が時東の言葉を遮った。

 声の主は、時東に負けず劣らずの高級なスーツを着た、鋭い目つきの男だった。野党の有力議員であり、時東の政敵である『醍醐(だいご)』という男だった。


「おいおい、醍醐先生じゃないか。せっかくのバカンスに、野暮な話はよしていただきたいね」


 時東は葉巻を咥えたまま、醍醐を鼻で笑った。


「下請けの工場が勝手に起こした事故の責任など、私には微塵も関係のないことだ。あの三流の工場長が勝手に責任を感じて首を括っただけの話を、いつまで蒸し返すつもりかね。それとも、私の足を引っ張るのに必死なのかな?」


「ほざけ。お前のその強引で汚いやり方が、いつか自分の首を絞めることになると忠告してやっているんだ。せいぜい夜道と、足のつかない海の上には気をつけることだな」


 醍醐は憎々しげに時東を睨みつけると、シャンパングラスを乱暴にテーブルに置き、ラウンジの奥へと去っていった。

 周囲の空気が一瞬だけ凍りついたが、時東は全く気にした様子もなく、再び豪快な笑い声を上げて葉巻の煙を吐き出した。第一秘書の桐谷も、表情一つ変えずに黙ってその後ろに控えている。


 僕がローストビーフを噛み締めながらその大人の諍いを遠巻きに見ていると、今度は別の方向から、ふわりと甘い香水の匂いが漂ってきた。


「時東先生。こんなところにいらしたんですね。ご挨拶が遅れてごめんなさい」


 現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。

 大きなサングラスを頭に乗せ、タイトな赤いドレスで完璧なプロポーションを強調している。現在、テレビや映画で絶大な人気を誇るトップ女優の『一条玲奈(いちじょう れいな)』だ。

 彼女は時東の隣にすり寄り、甘ったるい声を出した。


「玲奈くんじゃないか。君もこのクルーズに乗っていたとは奇遇だね。後で、私のプライベートルームでゆっくりと、次の映画のスポンサーの件について打ち合わせでもしようじゃないか」


「ええ、喜んで。先生にはいつもお世話になっておりますもの」


 一条玲奈はにっこりと完璧な作り笑いを浮かべた。

 だが、僕が立っていた位置からは、彼女が時東から顔を背けた瞬間に見せた、その瞳の奥の『氷のような冷たい侮蔑の色』がはっきりと見えた。親しげな態度の裏側に、吐き気を催すほどの嫌悪感を隠し持っている。大人の世界は、本当に恐ろしい。


 さらに僕の視界の端で、もう一人の不審な人物が動いた。

 ウェイターの制服を着た、少し猫背の若い男だ。彼は銀のトレイを持ちながら、時東と一条玲奈の会話を、少し離れた柱の陰からじっと聞き耳を立てていた。その男の胸元からは、小型のボイスレコーダーのような黒い機械の先端がわずかに覗いている。

 おそらく、週刊誌か何かのフリージャーナリストだろう。このVIPだらけの豪華客船に、身分を偽って潜り込んできたに違いない。


 政敵の憎悪。女優の冷たい殺意。そして、スキャンダルを狙うハイエナの眼光。

 この豪華絢爛なメインラウンジは、見た目の美しさとは裏腹に、欲望と憎しみがドロドロと渦巻く、極めて危険な空間だった。


「全く。人間の醜いルーツの展示会のような場所じゃな。空気が濁っていて息苦しいわ」


 不意に、少し離れた席にいたはずの瑠璃が立ち上がった。

 彼女は周囲の大人たちを心底見下したような目で一瞥すると、艶やかな黒髪を揺らし、僕にも誰にも告げることなく、一人でラウンジのガラス扉へと歩き出した。


「わしは甲板に出る。こんな場所で下劣な人間観察をするくらいなら、何もない海を眺めている方が数倍マシじゃ」


 独り言のようにそう吐き捨て、彼女の姿はデッキの向こうへと消えていった。

 僕は彼女の背中を見送ったが、追いかけることはしなかった。今日の彼女は僕に用はないらしいし、何より目の前の極上のシーフードマリネを手放すには惜しかったからだ。


 ボーーーッ、と。


 その時、船全体を震わせるような重く低い汽笛の音が鳴り響いた。

 窓の外を見ると、紗霧島の白い港がゆっくりと遠ざかり始めている。

 豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』は、これから数時間、誰一人として降りることのできない洋上の巨大な密室となる。


 僕たちはまだ知らなかった。

 美味しい料理に舌鼓を打つこの平穏な時間が、一つの奇妙な落とし物と、取り返しのつかない凄惨な事件によって、いとも容易く砕け散ってしまうことを。

 強烈な海風が吹き抜ける中、僕の二泊三日の終わらない夏休みは、いよいよ引き返すことのできない沖合へと進み始めていた。



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