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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『星空のビスクドール』 ~Section 9:孤島の朝と、終わらない夏休み~

 裏庭の暗い小道を抜け、僕と瑠璃が本邸の大広間へと戻ってきた時、大人たちの宴はまさに最高潮に達していた。

 黒檀の長大なダイニングテーブルの上には、空になった高級ワインや日本酒のボトルが何本も並び、豪勢な料理の数々はすっかり平らげられている。そして上座の方では、我が父である朔定光と、如月コンツェルン社長の如月彰氏が、肩を組む一歩手前のような距離感で熱く語り合っていた。


「だーかーら!今時のハイブリッドエンジンは優等生すぎるんですよ!アクセルを踏み込んだ時の、あのガソリンが爆発して鉄の塊が咆哮するような『じゃじゃ馬感』が足りねえんです!」


 父さんが真っ赤な顔で身振り手振りを交えながら熱弁を振るうと、彰社長はネクタイこそ締めていないものの、社長としての威厳をわずかに崩し、心底楽しそうに相槌を打った。


「なるほど、じゃじゃ馬感ですか。確かに、我がコンツェルンが推進する完全自動運転のスマートシティ構想は、安全性と引き換えに、人間が機械を操るという根源的な喜びを奪ってしまったのかもしれませんね。定光殿の現場からのご意見、非常に耳が痛いと同時に、興味深いですな」


 月見坂市を支配する巨大財閥のトップと、旧市街のしがない自動車整備士。

 本来なら一生交わることのないはずの二つのルーツが、極上の酒と車への情熱という共通言語によって、完全に盤上で融け合っている。僕はこの信じられない光景を前に、開いた口が塞がらなかった。父さんのコミュ力と図太さは、間違いなく世界に通用するレベルだ。


「あら、おかえりなさい光太郎君。瑠璃と二人で、随分と長い夜のお散歩だったのね」


 大広間の入り口で立ち尽くす僕に、テーブルの端から艶やかな声がかけられた。

 真紅の浴衣を着崩した姉の翡翠さんが、ワイングラスを片手に悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ている。その視線は、僕と瑠璃の間に何か『青春の甘いハプニング』でもあったのではないかと、面白おかしく探っているようだった。


「ただ涼んでいただけです!何もありませんし、何かに巻き込まれそうになったのを全力で回避してきたところです!」


 僕が必死に両手を振って否定すると、翡翠さんは「ふふっ」と喉の奥で笑い声を立てた。


「照れなくてもいいのよ。でも、うちの妹は本当に手がかかるから、いざとなったら私のお部屋に逃げ込んできてもいいわよ?経理の計算より、ずっと優しく癒してあげるから」


 翡翠さんが蠱惑的なウインクを投げてくる。女性耐性が皆無の僕は、その大人の色香に耐えきれず、顔を真っ赤にして視線を床へと落とすことしかできなかった。


「姉よ、いい加減にせぬか。酒臭い息でわしの下僕をからかうな。それより父よ、わしはもう自室に戻って寝るぞ。明日の朝食も、適当な時間に持ってこさせよ」


 瑠璃は翡翠さんの言葉を冷たく一蹴すると、彰社長に向かって一方的に宣言し、僕には一瞥もくれずに大広間を去っていった。

 あれだけ重い生ハムの原木を担いで裏庭を往復したというのに、彼女の足取りには一ミリの疲労も、浴衣の乱れも見られない。その堂々たる後ろ姿を見送りながら、僕は今日という一日が、どれほど濃密で非日常的なものだったかを改めて噛み締めていた。

 僕も父さんに「先に寝るよ」と小声で伝え、逃げるように大広間を後にして、自分にあてがわれた客室へと向かった。


 案内された客室は、旧市街の我が家のリビングよりも遥かに広い和室だった。

 い草の新しい香りが漂う畳の上には、雲のようにふかふかな高級羽毛布団が敷かれている。僕はそこに倒れ込むようにして横になり、長く、そして重い深呼吸を繰り返した。

 九千八百円のペラペラのスーツで乗り込んだヘリコプター。絶海の孤島の豪華な別荘。水着姿の絶対君主。度肝を抜かれる晩餐会。そして、星空のテラスで発見した、生ハムを咥えたビスクドール。

 小さな少女の純粋な想いと、それを『完璧な晩餐会』へと昇華させた、瑠璃の不器用で傲慢な優しさ。

 目を閉じると、おじいさんの足元でポロポロと涙をこぼしていた結衣ちゃんの顔と、原木をプレゼントされてパッと輝いたあの満面の笑みが、交互に脳裏に浮かんできた。


(……今頃、あの大きなお肉、お腹いっぱい食べてるかな)


 僕は布団の中で寝返りを打ちながら、そんなことをぼんやりと考えた。

 あの見事な星空の下で、不気味なアンティーク人形と小さな少女が、原木から切り出した生ハムを囲んでいる光景。それはきっと、この紗霧島という隔絶された空間の中でしか成立しない、奇跡のように美しくてシュールなおとぎ話なのだ。

 波の音が、遠くから静かに子守唄のように聞こえてくる。

 僕の意識は、その心地よいリズムに溶けるようにして、深い眠りの底へと沈んでいった。


**


 翌朝。

 僕は障子越しに差し込む強烈な南国の太陽の光と、けたたましいセミの鳴き声で目を覚ました。

 時計を見ると、すでに朝の八時を回っている。普段ならとっくに起きている時間だが、昨夜の精神的な疲労が抜けきっていなかったらしい。隣に敷かれた布団はすでにもぬけの殻で、父さんの姿はなかった。


「よく眠れましたか、光太郎様。朝食の準備が整っております」


 僕が着替えて廊下に出ると、使用人の東郷さんが静かに一礼して迎えてくれた。

 案内された朝食の席も、昨夜と同じ大広間だったが、窓が開け放たれ、朝の爽やかな海風が部屋全体を吹き抜けていた。

 テーブルの上には、これまた想像を絶するような豪勢な和朝食が並んでいた。伊勢海老の頭が丸ごと入った豪快な味噌汁に、脂の乗った巨大な金目鯛の煮付け。ふっくらと炊き上がった土鍋の白米が、宝石のようにキラキラと輝いている。


「おう、光太郎!遅えぞ! この伊勢海老のダシ、五臓六腑に染み渡る美味さだぜ!」


 父さんはすっかり二日酔いも抜けた様子で、どんぶり飯を片手に豪快に味噌汁を啜っていた。その向かい側では、彰社長も穏やかな笑顔で箸を進めている。

 どうやら、瑠璃と姉の翡翠さんはそれぞれの部屋で朝食をとっているらしく、この大広間に姿はなかった。僕は少しだけホッと胸を撫で下ろし、絶品の朝食を胃袋に流し込んだ。


 朝食を終えた僕は、腹ごなしを兼ねて一人で本邸の縁側に出た。

 枯山水の庭園の向こうには、エメラルドグリーンの海がどこまでも広がっている。

 ふと、高台にあるこの庭園の木々の隙間から、島にある小さな港の方角が見えた。

 そこには、一隻の小さな白いフェリーが停泊しており、ちょうど太いロープが外され、ゆっくりと岸から離れようとしているところだった。


「……出発したか」


 不意に、すぐ隣から聞き慣れた声がした。

 驚いて振り返ると、いつの間にか、純白のサマードレスに着替えた瑠璃が僕の隣に立っていた。艶やかな黒髪が海風にサラリと揺れ、その美しい双眸は、遠くのフェリーを静かに見つめている。


「如月さん。あの子、乗ってるんでしょうか」


「当然じゃ。あの船は、島で働く人間や物資を運ぶための週に一度の定期船じゃからな。あの管理人の爺と孫娘は、あれに乗って本土へと向かっておるはずじゃ」


 瑠璃はそう言うと、持っていた日傘をパッと開いた。


「あの馬鹿げた量があった生ハムの原木を、本当に一晩で食い尽くしたかどうか。次にあの爺が島の手入れに戻ってきた時に、しっかりと尋問してやらねばならんな。一切れでも残していれば、容赦なく罰を与えるゆえ」


 彼女の口ぶりは相変わらず傲慢で冷酷だが、その横顔には、自分の手で完成させた『極上のルーツ』に対する確かな満足感が漂っていた。

 あのフェリーに乗っている結衣ちゃんは、きっと大きな荷物と一緒に、親友のビスクドールをしっかりと抱きしめているはずだ。最高のお別れ会を済ませた彼女の心には、もう悲しみよりも、これから始まる新しい生活への希望の方が大きく膨らんでいることだろう。


 フェリーが白い波の軌跡を残しながら、水平線の彼方へとゆっくりと小さくなっていく。

 僕はその景色を眺めながら、大きく一つ背伸びをした。

 これで、すべてが終わったのだ。

 結衣ちゃんは本土へ旅立ち、僕たちの紗霧島での非日常的な一夜も幕を下ろした。あとは、荷物をまとめてあの豪華なヘリコプターに乗り、月見坂市の旧市街にあるカビ臭い我が家へと帰るだけだ。


「いやー、それにしても見事な景色だったな!如月さん、昨夜は光太郎が色々とお世話になったみたいで、どうもありがとう!」


 背後から、食後の緑茶を飲み終えた父さんが陽気な声で歩み寄ってきた。


「父さん。もう帰る準備はできた?僕は荷物なんてないようなものだから、いつでもヘリポートに行けるよ」


 僕が振り返ってそう告げると、父さんはきょとんとした顔で首を傾げた。


「あん?何言ってんだお前。帰る準備って、俺たちはまだ帰らねえぞ」


「……え?」


 僕の思考が、一瞬完全に停止した。

 今、父さんは何と言った? まだ帰らない?


「お前、彰社長からの手紙をちゃんと読んでなかったのか?今回の招待は、一泊二日じゃなくて『二泊三日』だぞ。社長が『ぜひもう一晩、定光殿と酒を酌み交わしたい』って言ってくださってな。今日も一日、この島で思いっきりバカンスを楽しめるってわけだ!」


 父さんは親指をビシッと立て、白い歯を見せて爽やかに笑いかけた。

 ドクン、と。僕の胃の奥で、治まっていたはずの鈍い痛みが鮮やかに蘇った。


 二泊三日。

 つまり、僕はこの圧倒的な富と権力が渦巻く絶海の孤島に、あと丸一日滞在しなければならないということだ。あの強烈な個性を持つ翡翠さんのからかいを躱し、何が起こるか分からない絶対君主の気まぐれに付き合い続けなければならない。


「ふははっ。見事なまでに絶望に染まった良い顔じゃな、サクタロウ」


 隣に立つ瑠璃が、僕の顔を見て心底楽しそうに笑い声を上げた。

 その三日月のように歪んだ極上の笑みを見て、僕は確信した。彼女は最初から、僕たちが今日帰れないことを知っていたのだ。知っていて、僕が『これで終わった』と安堵するこの瞬間を、特等席で嘲笑うために待っていたのだ。


「さて、今日は何をして時間を潰そうか。昨夜はあのシュールな人形のおかげで退屈せずに済んだが、今日は日差しも強いことじゃし、またプールサイドで本でも読むとするかのう。当然、お主も日傘持ちとして横に控えておれよ、サクタロウ」


 瑠璃は日傘をくるりと回し、僕を見下ろすようにして冷酷な命令を下した。


「そ、そんな……。僕、もう帰って部屋でゲームがしたいです……」


「却下じゃ。わしの下僕に、夏休みの自由など存在せんと知れ」


 僕のささやかな抵抗は、南国の熱風と共に一瞬でかき消された。

 エメラルドグリーンの海と、抜けるような青空。絶海の孤島『紗霧島』での、長くて理不尽な僕たちの夏休みは、まだ折り返し地点を迎えたばかりだったのだ。



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