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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『星空のビスクドール』 ~Section 8:別れの晩餐と、極上のルーツ~

古びた管理人棟のドアが開き、顔面を蒼白にしたおじいさんと、その足元で震える小さな少女が姿を現した。


 夜の静寂の中、オレンジ色の裸電球に照らされた光景は、あまりにもシュールで異様だった。

 深い藍色に白い百合が描かれた最高級の絹の浴衣を着た、美しき財閥の令嬢。しかしその華奢な肩には、豚の足が丸ごと一本固定された巨大な木製の台――三年熟成の最高級イベリコ豚の生ハムの原木が、まるで凶器のように担ぎ上げられている。そしてその背後には、湯上がりに如月家からあてがわれた極上の手触りを持つ濃紺の絹の浴衣を着た僕が、生ハムを口にねじ込まれた不気味なフランス人形を抱えてオロオロと立ち尽くしているのだ。


「る、瑠璃お嬢様!この度は孫の結衣が、とんでもないことをしでかしまして!」


 おじいさんは土間に膝をつかんばかりの勢いで、深く、何度も頭を下げた。


「厨房に忍び込んでお肉を盗み出したばかりか、お嬢様専用の洋館のテラスにまで入り込むなど、決して許されることではありません!全ては私の管理不足、どんな罰でも受けますので、どうかこの子だけはご容赦を!」


「おじいちゃん、ごめんなさい。それから、お姉ちゃん、勝手にお庭とお家に入って、本当にごめんなさいっ」


 結衣ちゃんと呼ばれた少女も、おじいさんのズボンを強く握りしめたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼして必死に謝罪した。

 祖父に対する申し訳なさと、目の前に立つ絶対的な権力者への恐怖。小さな子供なりに、自分がどれほど取り返しのつかない悪いことをしてしまったのかを理解し、震えながら頭を下げているのだ。

 僕はいたたまれなくなり、思わず口を挟みそうになった。いくらコンツェルンの絶対的なルールがあるとはいえ、明日この島を出ていく小さな子供に、これ以上の恐怖を与える必要はないはずだ。

 だが、僕が声を出すよりも早く、瑠璃は肩に担いでいた巨大な原木を、小屋の前の木製ベンチへと無造作に、しかし恐ろしいほどの腕力で音を立てて下ろした。


 ズシンッ!という重たい音が響き、おじいさんと結衣ちゃんの肩がビクッと跳ねる。


「騒々しい。わしは見苦しい謝罪など聞きに来たわけではない」


 瑠璃は原木を下ろした肩を軽く回しながら、氷のように冷たい視線を結衣ちゃんへと向けた。

 艶やかな美しい黒髪が夜風に揺れ、彼女の纏う絶対的なオーラが、この小さな空間を完全に支配している。


「お主が、わしのテラスを無断で晩餐会の会場に指定した不届き者か」


「ひぐっ、はい……ごめんなさい」


「サクタロウ。その人形の口に詰め込まれた肉を、よく見せてやれ」


 僕は促されるまま、抱えていたビスクドールをゆっくりと前に差し出した。

 ライトアップもされていない薄暗い場所だが、人形の口元から無残に垂れ下がる生ハムの切れ端は、誰の目にも明らかだった。


「見よ。この無残な有様を」


 瑠璃は人形の口元を指差し、心底不快そうに眉をひそめた。


「せっかくの最高級ハモン・イベリコが、まるで野良犬が引きちぎったような切り口になっておる。肉の繊維は潰れ、脂の美しさも完全に台無しじゃ。これでは、手塩にかけて豚を育てたスペインの農家も、熟成を見守った職人も泣くというものじゃ」


「だって、お台所のナイフ、すごく重くて……うまく切れなくて」


 結衣ちゃんがしゃくり上げながら、消え入りそうな声で弁解した。


「当然じゃ。素人の子供が扱える代物ではない。だが、結果がすべてじゃ。わしの縄張りであるテラスで、自分の親友とやらにあのような不完全なゴミを食わせようとした罪は、万死に値する」


 瑠璃の容赦のない言葉に、結衣ちゃんはついに両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。

 僕はもう限界だった。いくらなんでもやりすぎだ。


「如月さん!もういいじゃないですか 結衣ちゃんは、親友のお人形に一番の星空とごちそうをプレゼントしたかっただけなんですよ!切り方が下手だったとか、そういう問題じゃないでしょう!」


「黙れサクタロウ。お主は何も分かっておらん」


 瑠璃は僕を鋭く一瞥して黙らせると、再び結衣ちゃんを見下ろした。


「純粋な想いがあれば、結果はどうでもいいとでも言うのか?否じゃ。極上の星空を借景にし、わしのテラスを舞台にするのであれば、それに見合う完璧なルーツを完遂する義務がある。あのような中途半端な残骸を放置して逃げるなど、三流のやることじゃ」


 瑠璃はそう言い放つと、ベンチの上に置いた巨大な生ハムの原木をバンッと手のひらで叩いた。


「ゆえに、これは場所代の請求じゃ」


「え?」


 おじいさんと結衣ちゃんが、同時に顔を上げた。

 僕も、瑠璃の言葉の意味が分からず目を瞬かせた。場所代?この数百万は下らないであろう最高級の原木が?


「おい、そこの爺。お主、長年この島で植物の手入れや大工仕事をしてきた腕があるなら、専用のナイフがなくとも、この肉を極限まで薄く削ぎ落とすことくらい造作もなかろう」


「え、あ、はい。包丁仕事や小刀の扱いには、いささか自信がございますが……」


 おじいさんが戸惑いながら答えると、瑠璃は満足げに頷き、そして結衣ちゃんに向かってビシッと指を突きつけた。


「ならば今すぐ、その爺に肉を薄く削り出させよ。そしてお主は明日、この島を出るのじゃろう。ならば夜が明けるまで、その人形と共に、この肉を極限まで食い尽くせ。一切れの肉も残さずにな。それが、わしのテラスを汚した罰じゃ」


 夜の風が、ざわわと木々の葉を揺らした。

 僕は、自分の耳を疑った。

 罰として、この最高級の生ハムを、朝まで人形と一緒に食い尽くせ?

 それはつまり。


(この人は……最初から、この原木をあげるために、わざわざここまで担いできたのか?)


 僕は呆然と瑠璃の横顔を見つめた。

 大広間の晩餐会で、誰よりもこの生ハムの価値とルーツを絶賛していたのは彼女だ。その彼女が、ただの嫌がらせや罰のために、これほど高価なものを泥だらけの小屋の前に放置するはずがない。


 彼女は怒っていたのではない。


 結衣ちゃんが、自分の親友とのお別れ会に『無残に引きちぎられた肉の切れ端』しか用意できなかったこと。そして、足音に怯えてその晩餐を途中で投げ出してしまったこと。その『不完全さ』が許せなかったのだ。

 だから彼女は、圧倒的な富と傲慢さをもって、その不器用な愛情を『完璧な晩餐会』へと強制的にアップグレードしに来たのだ。わざわざ浴衣姿のまま、重い原木を肩に担いで、暗い裏庭の道を歩いてまで。


「サクタロウ。その不気味な人形をそこに置け。腕が痺れておるのじゃろう」


「あ、はい」


 僕は促されるまま、小屋の縁側にビスクドールをそっと丁寧に置いた。

 結衣ちゃんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、縁側に座る親友のお人形と、目の前にある巨大な生ハムの原木を交互に見比べた。


「綺麗なお姉ちゃん……これ、本当に私とお人形に、くれるの……?」


「勘違いするな。罰だと言っておろうが。わしは料理長の中途半端な切り口が気に入らなかったから、不用品を押し付けただけじゃ。残したら、コンツェルンの力でお主の引越し先まで追い込みをかけてやるからな」


 瑠璃はあくまでも冷酷な悪役の態度を崩さず、フンと鼻を鳴らした。

 だが、その不器用すぎる優しさは、小さな少女にもしっかりと伝わったようだった。結衣ちゃんは大きく深呼吸をすると、両手でゴシゴシと乱暴に涙を拭い、そして、満面の笑みを浮かべた。


「うん!絶対に残さない!おじいちゃんとお人形で、全部食べる!」


「……る、瑠璃お嬢様。何から何まで、本当に……何とお礼を申し上げたらよいか」


 おじいさんはその場に崩れ落ちるようにして両手をつき、ポロポロと涙を流しながら何度も頭を下げた。巨大財閥の令嬢が、自分たちのような使用人の末端にまで見せた破格の情け。それは、彼らの今後の人生において、どれほど大きな救いになるだろうか。


「感謝など不要じゃ。わしの極上のルーツ探しを邪魔した罪、その肉の味と共に腹の底に沈めておくがいい」


 瑠璃はそれだけを言い捨てると、優雅に浴衣の裾を翻し、元来た暗い小道へと踵を返した。

 美しい黒髪が、月明かりの下でサラリと揺れる。

 僕は慌てておじいさんと結衣ちゃんに深くお辞儀をし、「それじゃあ、気をつけて引っ越してね!」と声をかけてから、瑠璃の背中を全力で追いかけた。


 帰り道は、行きよりもずっと足取りが軽く感じられた。

 前を歩く瑠璃は相変わらず無言で、背筋をピンと伸ばしたまま、堂々とした足取りで裏庭の小道を進んでいく。

 僕は彼女の少し後ろを歩きながら、胸の奥で温かいものがじんわりと広がっていくのを感じていた。

 彼女は、絶対に自分の手を汚して誰かを直接助けたり、優しい言葉をかけたりはしない。いつでも傲慢で、尊大で、自分の知的好奇心と美学だけを最優先に行動する。

 だが、その徹底したエゴイズムの果てに、彼女はいつも、不条理に歪んでしまった誰かの『ルーツ』を、本来あるべき美しい形へと戻していくのだ。マフィアに誘拐された社長の時も、強盗犯に巻き込まれた碁会所の時も、そして今回も。


「……あの、如月さん」


「なんじゃ、騒々しい。まだ何か文句があるのか」


「いえ。ただ、その……重い原木を担いでくれて、ありがとうございました。僕、如月さんが本当にただ怒鳴り込みに行くのかと思って、ヒヤヒヤしてました」


 僕が素直な気持ちを口にすると、瑠璃の足取りが一瞬だけピタリと止まった。

 彼女は振り返らず、夜空を見上げたまま、不快そうに小さく舌打ちをした。


「お主は本当に度し難い馬鹿じゃな。わしは自分のテラスの利用料を取り立てに行っただけじゃと言っておろう。あのような安っぽい美談に変換するなど、虫唾が走るわ」


「はいはい、そういうことにしておきますよ」


 僕は思わずクスッと笑ってしまった。

 この絶対君主の下僕としてこき使われる日々は、確実に僕の寿命を縮めているし、胃痛の種は尽きない。今日もこれから本邸に戻れば、あの大人の余裕たっぷりの姉、翡翠さんからの強烈なからかいが待っているかもしれない。

 それでも、こんな風に誰も知らない場所で、不器用で最高に格好良い彼女の背中を見ることができるのなら。この理不尽な夏休みも、決して悪いものではないのかもしれない。


 木々の隙間から見上げる紗霧島の夜空には、数え切れないほどの星が瞬いていた。

 今頃あの小さな小屋の縁側では、おじいさんが切り分けた極上の生ハムを囲んで、小さな少女とアンティークのビスクドールによる、世界で一番幸せなお別れの晩餐会が開かれていることだろう。

 ありえない場所にあった、ありえないモノ。

 そのルーツを解き明かした僕たちは、遠くから聞こえる静かな波音に包まれながら、大広間の明かりが待つ本邸へと、並んで歩き続けたのだった。



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