第3話『星空のビスクドール』 ~Section 7:管理人室と、星降る夜の秘密~
古びた平屋の木造建築。その薄いガラス窓の向こうから漏れ聞こえてきたのは、幼い少女のしゃくり上げるような泣き声だった。
僕は息を潜め、漆黒の夜闇に紛れるようにして、瑠璃の隣に並んで立った。
周囲には、南国特有の大きな葉を持つシダ植物が生い茂り、風に揺れるたびにカサカサと乾いた音を立てている。窓枠の隙間からは、オレンジ色の温かい裸電球の光が、僕たちの足元の土をぼんやりと照らし出していた。
隣に立つ瑠璃は、深い藍色の浴衣姿のまま、生ハムを咥えた不気味なビスクドールを小脇に抱え、微動だにせず窓の内側の気配に耳を澄ませていた。月明かりに照らされた彼女の美しい横顔は、一切の感情を読み取れないほど冷たく、そして静かだった。
「泣かなくていい。暗い夜道で転んだりしなくて、本当によかったよ」
部屋の中から、しわがれた、しかしひどく優しい老人の声が響いた。
昼間に瑠璃が言っていた、この別荘の裏庭を一人で管理しているという地元の老人だろう。
「でも、お人形が。あの子、ずっと暗いテラスに一人ぼっちになっちゃった」
少女の声は、恐怖よりも、何か大切なものを置いてきてしまった激しい後悔に震えていた。
僕は思わず、瑠璃の腕の中に抱えられているビスクドールへと視線を落とした。ガラス玉の無機質な青い瞳と、口に無理やり詰め込まれた最高級の生ハム。どう見ても呪いの儀式にしか見えなかったこのシュールな物体が、窓の向こうで泣いている少女にとっては、かけがえのない大切な存在であるという事実が、僕の胸を静かに締め付け始めていた。
「結衣。お前があのフランス人形を宝物にしているのは知っているが、どうしてあんな夜更けに、一人で洋館の屋上なんかに登ったんだい?」
おじいさんが、諭すように優しく問いかける。
結衣と呼ばれた少女は、何度も鼻をすすりながら、途切れ途切れの言葉でその理由を語り始めた。
「だって、明日の朝には、もう船に乗らなきゃいけないから。本土の、おばさんの家に行くんでしょう?だから、最後のお別れだったの」
その言葉を聞いて、僕はハッと息を呑んだ。
この紗霧島は、大富豪たちが夏の間だけ訪れるための完全なプライベートリゾートだ。学校もなければ、同年代の子供が遊ぶような場所もない。管理人の孫としてこの島に引き取られた彼女は、おそらく本土の学校に通うために、明日この島を離れなければならないのだろう。
「あの子、おじいちゃんが倉庫から見つけてきてくれるまで、ずっと一人ぼっちで暗い箱の中にいたでしょう。私もこの島にはお友達がいなかったから、あの子が私の一番の親友だったの」
少女の悲痛な声が、薄いガラス窓を通して夜の裏庭に響く。
数十年前、瑠璃の父親がオークションで落札し、瑠璃本人が全く興味を示さずに倉庫に放り込んでいた数百万のアンティーク人形。それは、巡り巡って、絶海の孤島に住む孤独な少女の、たった一人の「親友」になっていたのだ。ツギハギだらけの不格好な手作りの木綿のドレスは、少女が自分の親友のために、一生懸命に縫い上げたプレゼントだったに違いない。
「だから、約束したの。この島を出る前に、あの子に、この島で一番綺麗な星空を見せてあげるって。屋上のテラスなら、お星さまに一番近いから」
少女の純粋すぎる動機に、僕は言葉を失った。
あの見事なまでの星空を、ただ単なるガスの塊だと一蹴した隣の絶対君主とは大違いだ。少女は本当に、自分の大切な親友に、最高の景色を見せてあげたかっただけなのだ。
「そうだったのか。でも、結衣。お肉はどうしたんだい。厨房から、勝手に持ち出してしまったんだろう?」
おじいさんのその問いかけに、少女はさらに大きな声で泣きじゃくった。
「ごめんなさい、おじいちゃん。お肉、勝手にナイフで切っちゃった。だって、お昼に大きな船で運ばれてきたあの大きなお肉を見て、大人の人たちがみんなですごく大騒ぎしてたから。あれがきっと、世界で一番おいしいごちそうなんだって思ったの」
少女の言葉が、僕の脳裏にあの晩餐会の光景をフラッシュバックさせた。
三年熟成の、最高級イベリコ豚の生ハム。大広間で父さんが歓声を上げ、彰社長や翡翠さんがワイングラスを傾けていた、あの贅沢の極み。
少女は、あの巨大な原木がどれほど高価なものかなど知る由もなかったはずだ。ただ、大人たちが嬉しそうに扱っているのを見て、『これがあれば、最高のお別れ会になる』と信じたのだろう。
「一番綺麗な星空と、一番おいしいごちそうを、あの子にあげたかったの。なのに、階段を登ってくる足音が聞こえて、怖くて逃げちゃった。靴も落としちゃったし、お肉も、ちゃんとお口に入れてあげられなかった」
少女の告白は、そこで嗚咽にかき消された。
僕は深く、静かに息を吐き出した。
謎はすべて解けた。呪いの儀式でも、悪趣味なイタズラでもなかった。
ありえない場所に置かれていた、ありえないモノ。そのルーツは、明日島を離れる少女が、自分のたった一人の親友に贈ろうとした、不器用で、切実で、そして最高に純粋な『お別れの晩餐会』の跡だったのだ。
見よう見まねで重いペティナイフを握り、自分の小さな手でなんとか削り取った生ハム。それを落とさないように必死に抱えながら、暗い夜の階段を登った小さな足取り。そのすべてを想像すると、胸の奥がギュッと締め付けられるような気がした。
「結衣の優しい気持ちは、きっとお人形にも伝わっているよ。でも、勝手にお肉を切ってしまったことは、明日、船に乗る前に一緒に社長様へ謝りに行こうな」
おじいさんの温かい声が、泣きじゃくる少女を優しく包み込んでいた。
もう十分だ。これ以上、僕たちがここにいる必要はない。
僕は隣に立つ瑠璃の方へと振り返った。
このまま静かに立ち去り、生ハムを咥えた人形は、明日の朝にでもさりげなくこの小屋の前に置いておいてあげればいい。そう提案しようと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
「実に、くだらん」
瑠璃が、夜の静寂を切り裂くような、氷点下の声で吐き捨てたのだ。
僕はギョッとして彼女の顔を見た。
彼女は、小脇に抱えたビスクドールの口に詰め込まれた生ハムを、心底見下したような、冷酷な目で睨みつけていた。
「き、如月さん。声が大きいですって。それに、くだらないだなんてそんな言い方」
僕が慌てて小声で制止しようとするが、瑠璃は全く聞く耳を持たなかった。
「くだらんと言っておるのじゃ。親友との別れの晩餐に、あのような無様な切り口の肉の切れ端を食わせるなど。しかも、足音に怯えて途中で放り出して逃げるなど、三流のやることじゃ。美学の欠片も感じられん」
瑠璃の言葉に、僕は思わずムッとしてしまった。
いくらなんでも、それは冷酷すぎる。相手は小さな女の子だ。高級フレンチのマナーを知っているわけでも、プロの料理人のようなナイフ捌きができるわけでもない。
「如月さん、今の話を聞いていたでしょう。彼女はただ、自分なりに精一杯のお別れをしたかっただけで」
「分かっておる。だからこそ腹立たしいのじゃ」
瑠璃は僕の言葉を鋭く遮り、浴衣の袖を乱暴に払った。
「わしのテラスを無断で使用し、極上の星空を背景に晩餐会を開くというなら、それ相応の完璧なルーツを用意すべきじゃ。あのような不完全で滑稽な残骸をわしの縄張りに放置するなど、コンツェルンの令嬢たるこの如月瑠璃に対する侮辱以外の何物でもないわ」
瑠璃の理不尽な怒りのベクトルに、僕は完全に頭を抱えた。
彼女は、生ハムを盗まれたことでも、テラスに侵入されたことでもなく、『晩餐会のクオリティが低かったこと』に対して激怒しているのだ。この絶対君主の美学のハードルは、小さな子供の純粋な愛情すらも容赦なく薙ぎ払ってしまうらしい。
「サクタロウ、少しそこで待っておれ」
瑠璃はそう言い残すと、人形を僕の胸に無理やり押し付け、踵を返して本邸の方へとスタスタと歩き出してしまった。
「えっ、ちょ、如月さん!?どこに行くんですか!」
僕は生ハムを咥えた不気味なフランス人形を抱きかかえたまま、夜の裏庭に取り残されてしまった。
彼女が何を考えているのか全く分からない。まさか、黒田さんたちを呼んで、本当にこのおじいさんと女の子を島から追放する気だろうか。いや、明日には本土へ行くのだから同じことかもしれないが、如月コンツェルンの力を使えば、彼らのその後の生活すらも完全に破壊することなど造作もないことだ。
僕は暗闇の中で冷や汗を流しながら、窓の向こうから聞こえる微かな泣き声と、手の中にある冷たい陶器の感触に挟まれて、生きた心地がしない数分間を過ごした。
ザッ、ザッ、と。
やがて、コンクリートの小道を歩く足音が近づいてきた。
戻ってきた瑠璃の姿を見て、僕は自分の目を疑った。
「き、如月さん。それ、一体何を」
月明かりの下、浴衣姿の美しい少女が、その細腕には到底不釣り合いな、巨大で異様な物体を担いでいたのだ。
それは、先ほど厨房の調理台に乗っていた、あの豚の足が丸ごと一本固定された木製の台。
三年熟成の最高級イベリコ豚の生ハムの『原木』そのものだった。
大人の男でも持ち上げるのに苦労するような代物を、瑠璃は息一つ乱さず、まるでバーベルでも担ぐかのように肩に担ぎ上げている。浴衣の裾が乱れ、彼女の常人離れした身体能力が遺憾無く発揮された、シュールを通り越して狂気すら感じる光景だった。
「何をしているかだと?見れば分かるじゃろう」
瑠璃は原木を肩に担いだまま、冷ややかな笑みを浮かべた。
「わしのテラスを勝手に使った場所代を、これから直接取り立ててやるのじゃ。あの不器用な芸術家の顔を、至近距離で拝んでやらねば気が済まんからな」
瑠璃はそう宣言すると、僕の制止を完全に無視し、管理人棟の古びた木製のドアの前に立ち塞がった。
「待ってください如月さん!本当に怒鳴り込む気ですか!相手は泣いてる女の子ですよ!」
僕が慌てて駆け寄り、人形を抱えたまま必死に声を落として懇願する。
だが、瑠璃の決意が揺らぐはずもなかった。
彼女は原木を担いでいない方の空いた手で、木製のドアを躊躇いなく、バンッ!バンッ!と乱暴に叩き始めたのだ。
「誰かおるか。開けよ。如月瑠璃じゃ」
夜の静寂を切り裂く、冷徹で通る声。
部屋の中の泣き声がピタリと止まり、ガタガタと慌ただしく動く物音が聞こえた。
数秒後、ギィッと音を立ててドアが開き、顔面を蒼白にしたおじいさんが姿を現した。その足元には、涙で目を真っ赤に腫らした結衣ちゃんが、おじいさんのズボンの裾を強く握りしめて隠れるように震えている。
「る、瑠璃お嬢様!こんな夜更けに、一体どのようなご用件で」
おじいさんは、目の前に立つ令嬢の姿と、彼女が肩に担いでいる巨大な肉の塊、そして僕が抱えている生ハムを咥えた人形を見て、完全にパニックに陥っていた。
「用件など一つしかないじゃろうが」
瑠璃は氷のように冷たい視線を、おじいさんの足元で震えている小さな少女へと真っ直ぐに向けた。
僕の胃が、今日一番の悲鳴を上げた。
令嬢による、容赦のない断罪が始まる。僕は少女の傷つく顔を見たくなくて、思わず目をギュッと瞑ってしまったのだった。




