第3話『星空のビスクドール』 ~Section 6:浴衣の夜歩きと、消えたスリッパ~
絶海の孤島の、満天の星空の下。
波の音だけが聞こえるアンティーク洋館の屋上テラスで、如月瑠璃は生ハムを咥えた不気味なビスクドールを、なんの躊躇いもなくガシッと小脇に抱え込んだ。
「行くぞ、サクタロウ。まずは本邸の厨房じゃ。この生ハムが切り出された現場を抑える」
「ちょ、ちょっと待ってください如月さん!まさかその人形、持っていくつもりですか!?」
僕は慌ててスマートフォンのライトを揺らし、悲鳴に近い声を上げた。
深い藍色の浴衣を着た美しい黒髪の少女が、赤黒い肉を咥えた無表情なフランス人形を抱えて夜道を歩く。もはやホラー映画のパッケージそのものである。こんな姿をもし大広間で酒盛りをしている父さんや如月社長に見られでもしたら、僕たちは間違いなく正気を疑われてしまう。
「当然じゃろう。これは極上のルーツを解き明かすための、最も重要な証拠品じゃ。現場に放置しておく馬鹿がどこにおる」
瑠璃は僕の恐怖など一ミリも理解できないという顔で鼻を鳴らし、テラスの螺旋階段を軽快な足取りで降り始めた。
僕は「落とし物を元の場所に残しておかない馬鹿がどこにいるんですか」という正論を喉の奥で飲み込み、ため息をつきながら彼女の背中を追った。
夜の紗霧島は、昼間の凶暴な日差しが嘘のように涼しく、静まり返っていた。
ライトアップされたプールの水面を横目に、僕たちは再び本邸の純和風の建物へと戻る。磨き上げられた檜の渡り廊下を歩くたび、足袋を履いた足裏から心地よい木の感触が伝わってくる。
大広間の方からは、まだ父さんの豪快な笑い声と、彰社長の楽しげな声が微かに聞こえてきていた。どうやら大人の酒盛りは絶好調らしく、しばらくはこちらに気を留めることはなさそうだ。姉の翡翠さんがどこにいるのか分からないのが最大の懸念事項だが、彼女とてこんな夜更けに厨房をうろついているとは思えない。
「足音を立てるなよ、サクタロウ。面倒な大人に見つかったら厄介じゃからな」
瑠璃が小声で指示を出し、僕たちはまるで泥棒のように身を潜めながら、本邸の入り組んだ廊下を進んでいった。
浴衣姿で、暗い屋敷の中を息を潜めて歩く。同時に、前を歩く瑠璃の艶やかなうなじや、浴衣の裾からチラリと覗く白い足首は、ビスクドールの不気味さとは別の意味で心臓に悪い。絶対に触れてはいけない、そして見とれてはいけないと自分に強く言い聞かせながら、僕はひたすら床の木目だけを見つめて歩いた。
やがて、屋敷の裏手にあたる、巨大な厨房へと辿り着いた。
本邸の客室や広間が完全な純和風の造りであるのに対し、厨房の内部は完全に最新鋭の業務用設備で統一されていた。壁一面の巨大なシステム冷蔵庫、ピカピカに磨き上げられたステンレス製の調理台、そしていくつも並んだ巨大なガスオーブン。
当然、料理長やスタッフたちはすでに大広間での仕事を終えて引き上げた後であり、厨房の照明は落とされ、冷蔵庫のモーター音が低く唸っているだけだった。
「サクタロウ、ライトで調理台の上を照らせ」
瑠璃の指示に従い、僕はスマホのライトを真っ暗な厨房の中央へと向けた。
ステンレスの冷たい輝きの中に、先ほどの晩餐会で見たあの巨大な『イベリコ豚の原木』が、専用の木製の固定台に乗せられたまま鎮座しているのが浮かび上がった。
瑠璃はビスクドールを小脇に抱えたまま調理台へと近づき、目を細めて原木の表面を観察し始めた。
「やはりな。サクタロウ、この切り口を見てみろ」
僕がライトを原木の断面に近づけると、そこには素人の僕の目から見ても明らかな『違和感』があった。
先ほど大広間で料理長が専用のナイフで削り出した部分は、まるでガラスの表面のように滑らかで、美しいルビー色をしていた。だが、その滑らかな断面の一部が、無理やりむしり取られたように、ギザギザと不格好に削り取られていたのだ。
「ひどい切り口じゃ。あの誇り高き料理長が、自分の作品にこんな無様な真似をするはずがない。これは明らかに、小さな手で不器用に千切り取られたか、あるいはテーブルナイフのようなもので無理やり削ぎ落とされた痕跡じゃな」
瑠璃は原木の傍らに置かれていた、小さなペティナイフを顎でしゃくった。
刃の表面には、うっすらと生ハムの脂が残っている。どうやら犯人は、厨房に忍び込み、見よう見まねでこのナイフを使って最高級の生ハムを削り取ったらしい。
「本当に、子供の仕業なんですね。でも、どうして生ハムなんかを? 普通、子供が厨房に忍び込んで盗み食いをするなら、ケーキとかアイスクリームとか、もっと甘いものを狙うんじゃないですか?」
「決まっておろう。今日この別荘に持ち込まれた食材の中で、これが一番『特別で、高価で、美味しそうなごちそう』に見えたからじゃ」
瑠璃は冷たく笑い、ビスクドールの口に詰め込まれた生ハムを指差した。
「この人形のドレスを手作りした犯人は、自分の親友であるこの人形に、この島で一番の星空と、一番のごちそうをプレゼントしたかったのじゃ。甘いお菓子ではなく、大人たちが大騒ぎして喜んでいた『特別な肉』こそが、晩餐会には相応しいと考えたのじゃろうな」
親友に、一番のごちそうを。
その言葉を聞いて、僕は少しだけ胸の奥がチクリと痛んだ。
もしそれが本当なら、その子供はただ純粋な愛情から、このシュールな晩餐会を企画したことになる。数百万のアンティーク人形だということも、生ハムが三年熟成の最高級品だということも知らないまま、ただ『喜ばせたい』という一心で。
「同情しているような顔じゃな、サクタロウ」
瑠璃が僕の顔を下から覗き込み、意地悪く目を細めた。
「どんな純粋な理由があろうと、他人の所有物に勝手に細工をし、わしのテラスを無断で使用した罪は重い。この不条理なアートを完成させた傲慢な芸術家の顔を、何としても拝んでやらねば気が済まん。追跡を続行するぞ」
瑠璃は再びビスクドールを抱え直し、厨房の床に視線を落とした。
「犯人は子供じゃ。プロの泥棒のように痕跡を完全に消すことなどできん。よく探せ。必ずどこかに、逃走経路を示すルーツが残されているはずじゃ」
僕はスマホのライトを床に向け、二人の足元を照らしながらゆっくりと厨房の奥へと進んだ。
すると、勝手口へと続く短い廊下の床に、点々と、何か小さなシミのようなものが落ちているのを見つけた。
「如月さん、これ。油のシミみたいです」
「でかしたぞサクタロウ。生ハムの脂を触った手でナイフを握り、そのまま肉を抱えて逃げたのじゃ。ぽたぽたと脂が落ちるのも無理はない」
シミは厨房の裏口にあたる、分厚い木製の勝手口のドアへと続いていた。
瑠璃が勝手口のドアノブを照らすよう指示を出す。真鍮製の丸いドアノブには、やはり小さな指で触ったような、ベタベタとした脂の跡がくっきりと残されていた。
「ここから外へ出たのは間違いないですね」
「うむ。開けろ、サクタロウ」
僕がドアノブを回して重い扉を押し開けると、そこは本邸の裏庭だった。
美しく整えられた表の枯山水とは違い、裏庭は実用的な空間だ。島に自生する木々が防風林のように鬱蒼と茂り、その間を縫うように、コンクリートで舗装された細い小道が奥へと続いている。
そして、勝手口の土間から外へと続く飛び石の上に、決定的な証拠が残されていた。
「如月さん!見てください、スリッパが片方だけ落ちてます!」
月明かりに照らされた飛び石の上に、ポツンと一つだけ、不自然なものが転がっていた。
それは、この荘厳な別荘の雰囲気を完全にぶち壊すような、派手なピンク色をした子供用のビニールスリッパだった。甲の部分には、テレビアニメでよく見る魔法少女のキャラクターがデカデカとプリントされている。
「見事なまでの不純物じゃな。この安っぽい化学繊維の塊が、如月家の別荘の裏庭に落ちているなど、本来であればありえない光景じゃ」
瑠璃は落ちているスリッパを冷ややかに見下ろし、そして納得したように頷いた。
「どうやら犯人は、わしらが螺旋階段を登る足音を聞いて、慌ててテラスから逃げ出したようじゃな。急いで厨房を抜け、この勝手口から裏庭へ飛び出した拍子に、スリッパが脱げてしまったのじゃろう。拾う余裕すらないほど、よほどパニックになっておったと見える」
「でも、このスリッパ……お客さん用のものではないですよね。如月家がこんなキャラクターもののスリッパを用意しているはずがないですし」
僕の疑問に、瑠璃はフッと鼻で笑った。
「当然じゃ。これは『住人』のものじゃよ。昼間、お主に話したじゃろう。この別荘の裏庭の周辺を管理している、地元の頑固な老人がいると」
「あ、はい。管理人の……」
「その爺さんにはな、息子夫婦を事故で亡くし、自分が引き取って育てている小さな孫娘がおったはずじゃ。このキャラクターの趣味と足のサイズからして、十歳にも満たない女児じゃろう」
瑠璃は迷うことなく、コンクリートの小道が続く暗い森の奥へと視線を向けた。
その先には、木々の隙間から微かに、小さな建物の窓の明かりが漏れているのが見えた。おそらく、管理人が住み込みで使っている小屋なのだろう。
「すべて繋がったな。犯人は管理人の孫娘。そして逃走先は、あの管理人棟じゃ」
瑠璃はビスクドールを抱えたまま、迷うことなく暗い小道へと足を踏み出した。
「ちょ、如月さん!本当に行くんですか!?相手は小さな女の子ですよ?イタズラを怒るくらいなら、明日、大人の人から言ってもらえば……」
「黙れ。わしは怒るために行くのではない。この極上の不条理アートを創り上げた芸術家の、その滑稽な顔を特等席で鑑賞しに行くのじゃ。この人形を返して、どんな無様な言い訳をするのか、今から楽しみで仕方がないわ」
瑠璃の背中からは、隠しきれない邪悪なオーラが立ち昇っていた。
やはりこの人は、血も涙もない絶対君主だ。純粋な子供の愛情だろうがなんだろうが、自分の知的好奇心を満たすためのエンターテインメントとしてしか捉えていないのだ。
僕は泣き出しそうな女の子の顔を想像して胃を痛めながらも、瑠璃がこれ以上暴走しないよう見届ける義務を感じ、慌てて彼女の後を追った。
夜の裏庭は、表の庭園とは全く違う、南国の手つかずの自然の匂いがした。
ハイビスカスやヤシの木の代わりに、名も知らぬシダ植物が足元を覆い、湿気を帯びた土の匂いが立ち込めている。
片方のスリッパを無くした小さな女の子は、この暗くて恐ろしい夜道を、どんな気持ちで駆け抜けたのだろうか。親友であるお人形に、最高のごちそうを食べさせてあげられなかったことを後悔しているのだろうか。それとも、怖い大人に見つかって怒られることに怯えているのだろうか。
「着いたぞ、サクタロウ」
瑠璃の立ち止まった先には、本邸の豪華さとは対極にある、古い平屋の木造建築があった。
建物の周囲には、使い込まれた農具や、古びた自転車が整然と並べられている。コンツェルンの最新設備ではなく、人の手によって丁寧に、そして泥臭く管理されている生活のルーツがそこにはあった。
窓からは、オレンジ色の温かい電球の光が漏れている。
そして、その薄っぺらいガラス窓の向こうから、微かに、小さな子供のしゃくり上げるような泣き声が聞こえてきた。
「ヒック……ごめんなさい、おじいちゃん……お人形、おいてきちゃった……」
僕は息を呑み、足音を忍ばせて瑠璃の横に並んだ。
木造の壁の向こうで、少女の切実な涙の理由が、いよいよ僕たちの前で明らかになろうとしていた。




