第3話『星空のビスクドール』 ~Section 5:星空のテラスと、生ハムを咥えた人形~
大人たちの笑い声と、高級な酒の匂いが充満する大広間を抜け出すと、外はすっかり南の島の静かな夜に包まれていた。
昼間はうだるような暑さだった空気が、夜の海風によって心地よく冷まされている。遠くから聞こえてくる波の音と、名も知らぬ虫たちの涼やかな鳴き声だけが、広大な日本庭園に静寂をもたらしていた。
「全く、姉の悪趣味には辟易する。わしの下僕をあのように見下した目で品定めするなど、万死に値する行為じゃ」
僕の前を歩く瑠璃が、不機嫌そうに夜空に向かって吐き捨てた。
僕は彼女から一定の距離を保ちながら、無言でその後ろをついて歩いていた。僕のような女性耐性皆無の人間が、夜の暗がりで同級生の美少女と二人きりになるなど、本来であれば心臓が破裂してもおかしくないシチュエーションだ。だが、先ほどの晩餐会での翡翠さんの大人の色香による圧倒的なプレッシャーを経験した直後だと、不思議と瑠璃の傲慢な背中が『安全地帯』のように感じられてしまうのだから恐ろしい。
もちろん、だからといって彼女の浴衣姿が目に毒ではないというわけではない。
深い藍色に白い百合が描かれた上質な絹の浴衣。そして、普段は肩にかかっている艶のある美しい黒髪が、今夜は色っぽく綺麗に結い上げられており、そこから透き通るようなうなじの白さが無防備に覗いている。歩くたびに微かに香る、石鹸と彼女自身の甘い匂い。僕はいざという時に物理的な盾になれるよう警戒しつつも、絶対に彼女の身体に触れてしまわないよう、そして変な場所を直視してしまわないよう、必死に視線のやり場をコントロールして歩を進めた。
本邸から続く長い渡り廊下を抜け、僕たちは昼間にも訪れた、あの瑠璃専用のエリアであるアンティーク洋館の離れへと到着した。
ライトアップされた赤煉瓦の壁と、月明かりを反射するインフィニティプールの水面。本邸の純和風の空間とは完全に切り離されたこの場所には、使用人や仲居さんの気配は一切なく、まるでこの島から僕たち以外の人間が消え去ってしまったかのような、不思議な孤独感があった。
「こっちじゃ、サクタロウ。屋上へ上がるぞ」
瑠璃は洋館の中へは入らず、建物の外壁に沿って設置された、アンティーク調の螺旋階段へと足を向けた。黒い鉄製の冷たい手すりに手をかけ、一段ずつ優雅に登っていく。
僕も下から彼女の浴衣の裾を踏まないように気をつけながら、慎重に階段を登った。
やがて、屋上のテラスへと出た瞬間、僕は思わず「あっ」と声を漏らして足を止めた。
そこには、月見坂市の新市街や旧市街では絶対に一生見ることのできない、圧倒的な絶景が広がっていたのだ。
空という空のすべてを、無数の星が埋め尽くしている。
街灯もネオンサインもない絶海の孤島だからこそ見える、本物の星空。まるで漆黒のベルベットの布に、砕いたダイヤモンドを惜しげもなくぶちまけたかのような輝きだった。夜空を横切るように流れる天の川の帯が、肉眼でもはっきりと、白く淡い光の川となって見えている。
周囲を遮るものは何一つなく、ただただ広大な星空と、それを映し出す真っ暗な海だけがそこにあった。
「す、すごい。こんな星空、プラネタリウムでしか見たことないですよ」
僕は完全に圧倒され、口を開けたまま夜空を見上げた。
だが、瑠璃はそんなロマンチックな天体ショーには一瞥もくれず、テラスの床に敷き詰められたテラコッタのタイルをカツカツと鳴らして、中央に設置されたガーデンテーブルへと向かっていった。
「くだらん。星など、ただの遠くで燃えているガスの塊じゃろう。あのような法則通りに動くだけの無機物に、何のルーツの面白みがあるというのじゃ」
この絶対君主の情緒のなさは、絶海の孤島の星空をもってしても治らないらしい。
瑠璃は呆れたように言い捨てると、ガーデンテーブルの周りに置かれた、精巧な装飾が施された白い錬鉄製のアンティークチェアに腰を下ろそうとした。
しかし、その動きがピタリと止まった。
「おや」
瑠璃の声のトーンが、わずかに低く、そして鋭く変化した。
僕は星空から視線を下ろし、彼女の視線の先を追った。
夜のテラス。星明かりと、足元を照らす小さなフットライトの微かな光だけが頼りの薄暗い空間。
そのテーブルを囲む四脚の椅子のうちの一つに、何かが『座って』いたのだ。
「如月さん。誰かいるんですか?」
「サクタロウ、スマホのライトでそこを照らせ」
「えっ、はい」
僕は慌てて、浴衣の左の袂にしまっていたスマートフォンを取り出し、ライトの機能をオンにして、瑠璃が指差す椅子へと光を向けた。
白いLEDの光が暗闇を切り裂き、その『物体』の正体をくっきりと浮かび上がらせる。
僕の目にその全貌が飛び込んできた瞬間、全身の毛穴が総毛立ち、危うくスマホを取り落としそうになった。
「ひぃっ!に、人形!?」
そこに座っていたのは、人間の子供くらいの大きさはあろうかという、不気味なアンティーク人形だった。
透き通るような白い陶磁器の肌を持つ、フランス製のビスクドール。頭にはくすんだ金色の巻き毛が植え付けられており、ガラス玉で作られた青い瞳が、ライトの光を反射して無機質にこちらを見つめ返している。
ただでさえ夜の暗がりで見れば悲鳴を上げかねない代物だが、この人形の異常性はそこではなかった。
「な、なんですかこれ。口に、何か咥えさせられてる」
僕の声は恐怖で完全に上ずっていた。
ビスクドールの小さく開かれた陶器の唇。そこに、赤黒い肉の塊のようなものが、無理やりねじ込まれるようにして詰め込まれていたのだ。
呪いの儀式か何かか。それとも、ホラー映画の悪趣味なイタズラか。
僕は得体の知れない恐怖に後ずさりし、「き、如月さん!本邸に戻って東郷さんたちを呼びましょう!誰かがこの別荘に不法侵入して、こんな気味の悪いものを!」と叫んだ。
だが、瑠璃は逃げるどころか、むしろその人形に顔がぶつかるほど至近距離まで近づき、ガラス玉の瞳と肉の塊を食い入るように見つめていた。
艶やかな黒髪が夜風に揺れ、彼女の双眸に、あの『極上の不純物』を見つけた時特有の、危険で残酷な知的好奇心の光が灯っている。
「騒ぐな、サクタロウ。大人など呼ぶ必要はない。これは、とびきり面白いぞ」
瑠璃は人形の口元に鼻を近づけ、フンッと匂いを嗅いだ。
「サクタロウ。この人形が咥えさせられている肉の塊が、何だか分かるか」
「分かるわけないじゃないですか!呪いの肉とか、動物の生肉とか、そういうヤバいやつですよ絶対に!」
「馬鹿者。匂いを嗅いでみろ。つい先ほど、どこかで覚えがあるはずじゃ」
僕は瑠璃に促され、おっかなびっくり人形の顔に近づいた。
すると、生臭い血の匂いなどではなく、芳醇で香ばしいナッツのような香りと、上質な脂の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
大広間での晩餐会で、父さんが大騒ぎしながら食べていたあの匂いだ。
「こ、これって。まさか」
「いかにも。先ほどの晩餐で、料理長が原木から切り出していた最高級品。三年熟成のイベリコ豚の生ハム、『ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ』じゃ」
瑠璃は指先で、人形の口から垂れ下がっている生ハムの端をツンと突いた。
間違いない。スーパーで売っているような丸いハムではなく、原木からナイフで削り出された証拠である、不規則で薄いセロハンのような形。そして常温でとろけ出している真っ白な脂身。
なぜ、こんな不気味なアンティーク人形が、世界最高峰の生ハムを咥えているのだろうか。
「ありえない場所に、ありえないモノがある。まさに極上のルーツの匂いがするぞ」
瑠璃は口角を歪め、三日月のような邪悪な笑みを浮かべた。
彼女の鑑定士としてのスイッチが、完全にオンになった瞬間だった。
「まず、この人形そのものについてじゃ」
瑠璃は人形の陶器の肌を指先でなぞりながら、即座にプロファイリングを開始した。
「これは偽物のレプリカなどではない。十九世紀後半のフランスで作られた、正真正銘のアンティークのビスクドールじゃ。この精巧な作りと保存状態からして、市場に出せば数百万の価値は下らんじゃろうな。……思い出したぞ。これはわしが幼い頃、父が海外のオークションで落札してプレゼントしてきたものじゃ。わしは人形遊びなどという下らない遊戯に一ミリも興味がなかったゆえ、この離れの倉庫に放り込んだまま完全に忘れておった」
「じゃあ、如月家の所有物ってことですか。でも、誰が倉庫から出して、こんなテラスの椅子に座らせたんですか?」
「それが問題なのじゃよ、サクタロウ」
瑠璃は人形の身体に触れ、その着ている服の生地を指先で擦った。
「この人形の顔や身体は数百万の価値があるアンティークじゃが、着ているこのドレスはどうだ。見ろ。元々着ていたはずの豪奢なシルクのドレスではなく、安い木綿の布で不格好に縫い合わされた手作りの服に着せ替えられておる」
言われてみれば、確かにそうだ。
顔は美術館に飾られていてもおかしくないほど精巧で美しいのに、着ている服はツギハギだらけで、縫い目もガタガタだった。まるで、小さな子供が家庭科の授業で一生懸命に作ったような、不格好だがどこか温かみのある服。
「そして何より、この口に詰め込まれた生ハムじゃ」
瑠璃は再び、人形の口元に視線を戻した。
「この生ハムは、先ほどの晩餐会のために、料理長が今日この島へ持ち込んだ原木から切り出されたものじゃ。つまり、この人形に生ハムを咥えさせた犯人は、つい先ほどから現在までのごく短い時間の間に、本邸の厨房に忍び込んで生ハムを盗み出し、この離れのテラスまでやってきて人形の口に突っ込んだということになる」
「そんなこと、可能なんでしょうか」
僕は周囲の暗闇を見回した。
この紗霧島は、如月コンツェルンの最新鋭のセキュリティに守られている。さらに今日は、社長一家が滞在しているのだ。外部からの不審者が島に侵入し、本邸の厨房から生ハムを盗み出して離れに人形を置くなど、物理的に不可能に思える。
「外部犯ではない。犯人は、この別荘の敷地内にいる誰かじゃ」
瑠璃の断言に、僕は息を呑んだ。
「さらに言えば、これは悪質なイタズラや、何かのメッセージなどという高尚なものではない。もっと不器用で、切実で、滑稽な理由によるものじゃ」
「どうしてそこまで分かるんですか?」
「見れば分かるじゃろうが。この生ハムの『咥えさせ方』を」
瑠璃が指差す先をよく見ると、人形の口元は、ただ無造作に肉を詰め込まれているわけではなかった。
少しだけ開いた陶器の唇の奥まで、まるで『食べさせよう』とするかのように、指で押し込まれたような跡があった。
そして。
「サクタロウ、ライトでこの人形の頬を照らしてみろ」
僕が言われた通りにスマホのライトを近づけると、ビスクドールの白い陶器の頬に、微かな汚れがついているのが分かった。
それは、小さな、本当に小さな『指の跡』だった。
生ハムの脂がついた指で、人形の頬を愛おしげに撫でたような、子供の小さな指紋の跡。
「手作りの不格好なドレス。最高級の生ハム。そして、油のついた小さな指紋」
瑠璃は満足げに頷き、テラスの椅子に座る不気味な人形を見下ろした。
「すべてが繋がったぞ。これは呪いでもイタズラでもない。敷地内に出入りできる小さな子供が、自分の『親友』に、この世で一番の星空を見せ、一番のごちそうを食べさせてやろうとした。最高に滑稽で、純粋な『晩餐会』の跡じゃ」
満天の星空の下、波の音だけが静かに響いている。
数百万の価値を持つアンティーク人形と、最高級の生ハム。本来なら決して交わることのない二つの極上の品が、名も知らぬ子供の不器用な愛情によって、このテラスで一つの不条理なアートとして完成してしまったのだ。
「行くぞ、サクタロウ。極上の不純物のルーツを探る時間じゃ」
瑠璃は浴衣の袖を優雅に翻し、美しい黒髪を揺らして冷たい笑みを浮かべた。
僕の平和で退屈な夏休みの夜は、生ハムを咥えたビスクドールというシュールすぎる謎によって、またしても彼女の知的好奇心の生贄として捧げられることになってしまったのだった。




