第3話『星空のビスクドール』 ~Section 4:晩餐会と、場違いな舌鼓~
紗霧島の空が、燃えるような茜色から深い群青色へとグラデーションを描き始めた頃。
僕と父さんは、本邸の奥にある天然温泉の広大な大浴場で、これまでの人生で最も緊張感のない、しかし最も贅沢な時間を過ごしていた。
貸し切り状態の露天風呂からは、沈みゆく夕日と水平線を一望できる。肌にまとわりつくようなトロトロのお湯は、旧市街の銭湯のカルキ臭いお湯とは天と地ほどの差があった。
「いやー、最高だな!まさか生きてるうちにこんな極楽を味わえる日が来るとは思わなかったぜ」
父さんは広い湯船の縁に頭を乗せ、手足を大の字に広げて豪快に笑った。
先ほど、応接室で如月コンツェルンの社長と一対一で面会するという、公開処刑のような時間を過ごしてきたはずの父さんだったが、その顔に疲労や怯えの色は全くない。
「父さん。如月社長と二人きりで、一体何を話してきたの?怒られたり、脅されたりしなかった?」
「馬鹿言え、如月社長はめちゃくちゃ話の分かる良い男だったぞ!俺が自動車整備工場の話をして、『最近のAI制御の車はブラックボックスばっかりで、職人の勘が通用しねえからつまらねえ』って愚痴ったら、社長も『技術の進歩は時にモノの温もりを奪いますね』なんて言って、妙に意気投合しちまってよ」
父さんは自慢げに鼻を鳴らした。
月見坂市を完璧なスマートシティへと作り変えた張本人を捕まえて、『最新の車はつまらない』と愚痴をこぼすなど、命知らずにも程がある。だが、どうやら父さんのその裏表のない態度が、逆に如月社長の懐に上手く入り込んでしまったらしい。
風呂から上がり、僕たちが客室に戻ると、畳の上に二着の浴衣が用意されていた。
如月家の気遣いなのだろう。僕たちが着てきた九千八百円のペラペラのサマースーツと、胡散臭いアロハシャツは綺麗に回収され、代わりに極上の手触りを持つ絹の浴衣が置かれていたのだ。
袖を通すと、まるで空気を纏っているかのような軽さと滑らかさに驚かされる。柄はシンプルで落ち着いた濃紺だが、生地が放つ上品な光沢が、これがとんでもない高級品であることを雄弁に物語っていた。
「定光様、光太郎様。晩餐の用意が整いました」
襖の向こうから、使用人の東郷さんの声が聞こえた。
僕たちは帯を締め直し、いよいよ最大の試練である晩餐会へと向かった。
案内されたのは、本邸の最も奥に位置する、百畳はあろうかという巨大な大広間だった。
開け放たれた障子の向こうにはライトアップされた枯山水の庭園が広がり、天井にはアンティークの巨大なシャンデリアが煌々と輝いている。和と洋が完璧なバランスで融合したその空間の中央に、黒檀でできた長大なダイニングテーブルが鎮座していた。
そして、そのテーブルの上座には、すでに如月一家の面々が勢揃いしていた。
「お待ちしておりました。定光殿、光太郎君」
テーブルの中央で静かに微笑んだのは、四十代半ばと思われる、長身で細身の男性だった。
柔和な笑みを浮かべてはいるが、その双眸には、一瞬で相手の力量から裏の裏までを見透かしてしまうような、恐ろしく冷徹で鋭い光が宿っている。この人が、如月コンツェルン社長であり、瑠璃の父親である『如月彰』氏だ。座っているだけで、周囲の空気がピンと張り詰めるような圧倒的な覇気を放っていた。
その隣には、昼間に玄関で出迎えてくれた、秘書であり妻でもある母の『如月菫』さんが、涼やかな薄紫の浴衣姿で優雅に微笑んでいる。
「どうぞ、お気楽に。今夜は無礼講ですからね」
菫さんの優しい言葉に僕がペコペコと頭を下げていると、その隣に座っていたもう一人の女性が、スッと立ち上がって僕の方へと近づいてきた。
瑠璃をそのまま数年分大人にしたような、妖艶で華やかな美貌を持つ女性。透けるような白い肌に、鮮やかな真紅の浴衣がよく似合っている。彼女が、瑠璃の姉である『如月翡翠』さんだ。
「あなたが光太郎君ね。ふふっ、妹から話は聞いているわ。私は姉の如月翡翠。コンツェルンの経理を統括しているの」
「あ、初めまして!朔光太郎です。いつも如月さんにはお世話になっております!」
僕が直立不動で挨拶をすると、翡翠さんは蠱惑的な笑みを浮かべ、僕の顔を覗き込むように至近距離まで顔を近づけてきた。ふわりと、甘い高級な香水の匂いが鼻をくすぐる。
女性耐性がゼロの僕は、あまりの美貌と距離の近さに完全にフリーズしてしまった。
「経理という仕事柄、私は何事も数字と利益で計算してしまう癖があるのだけれど。あなたのその初々しくて純粋な反応、すごく費用対効果が高くて気に入ったわ。ねえ、瑠璃なんかの下僕にしておくのは勿体ないわ。うちの部署で特別に飼ってあげようか?」
「えっ!?か、飼うって、あの、僕は犬とか猫じゃなくて人間でして!」
「あら、冗談よ。でも、からかった時の反応の良さは百点満点ね。お姉さん、あなたのことすごく好きになっちゃったかも」
翡翠さんは悪戯っぽくウインクをして、僕の周囲を値踏みするように一周した。
美しくて、知的で、エリート。なのに、言うことや行動がどこか常識からズレていて、僕のような一般人を容赦なくおもちゃにしてくる。さすがはあの如月瑠璃の姉だ。如月家の血筋には、僕の胃に穴を開けるための特殊な遺伝子でも組み込まれているに違いない。
「おい、姉。わしの私物に勝手にちょっかいを出すな。汚れるじゃろうが」
テーブルの一番端の席から、氷点下の声が飛んできた。
深い藍色をベースに、アンティーク調の大きな白い百合の花が描かれた浴衣を着た瑠璃が、不機嫌そうに頬杖をつきながらこちらを睨んでいた。普段の彼女と全く変わらない、尊大で傲慢な口調だ。相手が姉であろうと父親であろうと、この絶対君主の態度は一ミリもブレないらしい。
水着姿の時のような直接的な露出はないはずなのに、上質な絹の生地越しに伝わってくる華奢な身体のラインと、その圧倒的な存在感に、僕は再び心臓が早鐘のように打ち始めるのを自覚した。
「あら、ごめんなさい。あまりにも可愛らしい反応をするものだから、つい手を出したくなっちゃったのよ」
翡翠さんは全く堪えた様子もなく、クスクスと笑いながら自分の席へと戻っていった。
僕と父さんは、東郷さんに案内されるまま、如月一家と向かい合う形で末席へと腰を下ろした。
「さて、皆揃ったようですね。紗霧島の恵みと、我が家の料理長が腕によりをかけた品々を、存分に楽しんでいただきたい」
彰社長のその言葉を合図に、静かな大広間に次々と料理が運び込まれてきた。
それは、僕たち親子の想像を遥かに絶する光景だった。
伊勢海老よりも遥かに巨大な、紗霧島近海で獲れたという黄金色のエビの姿造り。A5ランクなどという枠組みを軽々と超えた、芸術的なサシの入った最高級和牛の炭火焼き。さらに、見たこともないような色彩豊かな南国野菜のテリーヌや、金箔が散らされたコンソメスープなど、和洋折衷の極限とも言える料理が、テーブルの上を埋め尽くしていく。
「うおおおっ!すげえ!なんだこれ、宝石箱かよ!」
父さんは目を丸くし、完全に歓声を上げてしまっていた。
大富豪の晩餐会という格式高い場において、こんな子供のようにはしゃぐなど言語道断のマナー違反だろう。僕は慌てて父さんの浴衣の袖を引っ張ったが、彰社長は不快に思うどころか、むしろ嬉しそうに目尻を下げた。
「遠慮はいりませんよ、定光殿。冷めないうちにどうぞ」
「いただきます!うまっ!なんだこれ、肉が口の中で一瞬で溶けたぞ!?エビもプリップリ通り越してパッツンパッツンじゃねえか!」
父さんは箸を休めることなく、次から次へと高級食材を口に運び、そのたびに「美味い!」「最高だ!」と大きな声で絶賛した。
高級フレンチや料亭の作法など一ミリも知らない、庶民全開の食べっぷりだ。だが、不思議なことに、その豪快で裏表のない姿は、この洗練されすぎた空間において逆に清々しさすら感じさせた。
「ふふふ。定光様は、本当に美味しそうに召し上がりますね」
菫さんが、口元を扇子で隠しながら上品に笑う。
「普段、私の前で食事をする人間は、皆一様に緊張で味など分かっていないか、あるいは私に媚びへつらうことに必死で、料理そのものを純粋に楽しむ余裕などありませんからな。定光殿のように、心から食のルーツを味わってくれる方が客人にいると、料理長もさぞかし作り甲斐があるというものです」
彰社長も、自分の手元のグラスに入ったワインを揺らしながら、満足げに頷いていた。
どうやら、父さんのその圧倒的な『気にしなさ』は、常に周囲から恐れられ、顔色を窺われている財閥のトップたちにとって、最高に新鮮なエンターテインメントとして機能しているらしかった。
「ほら光太郎、お前も遠慮しないで食えよ!こんな美味いもん、一生に一度しか食えねえぞ!」
父さんに背中をバンバンと叩かれ、僕も恐る恐る和牛の炭火焼きを口に運んだ。
途端に、強烈な肉の旨味と甘い脂が舌の上で弾け、噛む必要すらないほど滑らかに溶けて消えていった。
「お、おいしい」
僕は思わず、感嘆の声を漏らしてしまった。恥ずかしいけれど、父さんの言う通りだ。こんなにも美味しいものを前にして、冷静でいられる人間などいるはずがない。僕は胃痛や緊張を一時的に忘れ、無我夢中で料理に舌鼓を打った。
その時だった。
「皆様。本日のメインディッシュの一つでございます」
白衣を着た初老の料理長が、数人のスタッフを引き連れて大広間へと現れた。
彼らが恭しくワゴンに乗せて運んできたものを見て、僕と父さんは再び度肝を抜かれた。
それは、豚の足が丸ごと一本、蹄がついた状態のまま専用の木製の台に固定された、巨大な肉の塊だった。表面は乾燥して黒っぽく変色しており、独特の熟成された香りを放っている。
「おお。イベリコ豚の生ハム、『ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ』の原木ですね。今年の出来はどうですか、料理長」
彰社長が尋ねると、料理長は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「最高でございます。スペインの専用農場で、どんぐりのみを与えて育てられた最高級品の豚を、三年間じっくりと熟成させた幻の逸品です。今、この場で切り分けさせていただきます」
料理長は細く鋭い専用のナイフを取り出すと、巨大な豚の足から、まるで薄いセロハンのように透き通った生ハムを、滑らかな手つきで次々と削り出していった。
切り出されたばかりの生ハムは、空気に触れた瞬間から美しいルビー色に輝き、真っ白な脂身が常温でとろりと溶け出している。それが一枚ずつ、氷の上に美しく盛り付けられていく様は、まさに芸術だった。
「さあ、お召し上がりください。オリーブオイルなどは一切かけず、そのまま肉の旨味を味わっていただくのが一番です」
僕たちの目の前に、削りたての生ハムが並べられたお皿が置かれた。
僕は一枚を箸でつまみ、口の中へ入れた。
その瞬間、今までの『生ハム』という食べ物の概念が完全に覆された。
スーパーで売っているような塩辛くて水っぽいハムとは次元が違う。口に入れた瞬間に上質な脂の甘みが広がり、噛めば噛むほど、どんぐりの香ばしい風味と、三年間の熟成が生み出した深い旨味が爆発するのだ。
「うおおおっ!?なんだこの生ハム!口の中で脂が溶けたぞ!しかもすげえナッツみたいな匂いがする!」
父さんはあまりの衝撃に立ち上がりかけ、慌てて座り直してもう一枚を口に放り込んだ。
「これだよこれ!ビール持ってきてくれ!いや、ワインでも日本酒でも何でもいい!これをつまみに一生飲んでられるぜ!」
「父さん、いくらなんでも声が大きすぎるってば!」
僕は真っ赤になって父さんを止めようとしたが、斜め向かいの席に座る翡翠さんは、再びお腹を押さえてクスクスと笑い転げていた。
「あははっ!本当に面白い親子ね。ねえ光太郎君、あなたお酒はまだ飲めないでしょうけど、私が特別に極上のノンアルコールカクテルを作ってあげましょうか?経理の計算と同じで、カクテルの分量計算も完璧なのよ」
翡翠さんがグラスを手に持ち、僕に向かって妖艶な視線を投げかけてくる。僕はどう対応していいか分からず、ただ愛想笑いを浮かべて首を横に振ることしかできなかった。
「姉よ、先ほども言ったはずじゃ。わしの玩具にこれ以上ちょっかいを出すなら、コンツェルンの経理システムに細工をして、姉の部署の予算を半分に削ってやるぞ」
瑠璃が冷ややかな目で翡翠さんを睨みつけ、威嚇するように言い放った。
家族間であっても一切容赦のない姉妹の静かな火花が散る中、瑠璃は自分の皿に乗った生ハムを一枚、箸で上品に口に運び、目を細めてその香りを味わった。
「それにしても、見事な熟成具合じゃな。この深い旨味と香りは、時間という『ルーツ』が肉に刻み込んだ極上の魔法じゃ。さすがは料理長が厳選した原木だけのことはある」
瑠璃は満足げに頷き、珍しく素直な称賛の言葉を口にした。
彼女がここまで褒める食べ物は、あの本物のメロンクリームソーダ以外では初めて見たかもしれない。それほどまでに、この削りたての生ハムは圧倒的に美味しかったのだ。
食事が終わり、テーブルの上が綺麗に片付けられると、彰社長や父さんたち大人の前には、年代物の高級な日本酒やワイングラスが並べられた。
「定光殿、今夜はとことん飲み明かしましょう。車のエンジンについての深い話を、もっと聞かせていただきたい」
「おう!あなたがその気なら、いや違った、社長がその気なら、朝まで付き合いますぜ!」
すっかり意気投合してしまった二人の姿を見て、僕は胃の痛みが完全に消え去っていることに気がついた。
だが、大人の酒盛りの雰囲気に、未成年である僕がいつまでも同席しているのは少し居心地が悪い。それに、向かいの席からは翡翠さんが、まだ僕のことを面白そうに観察し続けているのだ。
「わしはもう下がる。酒の匂いが充満する部屋は息苦しくてかなわん」
瑠璃がスッと立ち上がり、誰に許可をとるわけでもなく堂々とした足取りで大広間の出口へと向かった。
そして、襖に手をかけたところで、わずかに振り返り、僕の方を一瞥した。
「サクタロウ。お主もそこで変態女の視線に怯えておるくらいなら、わしについて来い。夜風に当たりに屋上のテラスへ行くぞ」
「えっ?あ、はい!すみません、お先に失礼します!」
僕は大人の皆さんにペコペコと頭を下げながら、慌てて瑠璃の後を追った。
背後からは、「あらあら、変態だなんてひどいわ。でも逃げ足の速い男の子も嫌いじゃないわよ」という翡翠さんの楽しそうな声が聞こえてきたが、僕はあえて聞こえないふりをして廊下へと飛び出した。
お腹は限界まで満たされ、緊張感からも解放された。
このまま何事もなく、屋上のテラスで涼しい海風に当たりながら星空を眺めれば、僕の夏休みのバカンスは完璧な形で締めくくられるはずだった。
だが、この孤島における平穏な夜が、そう簡単に終わるはずがないのだ。
瑠璃に連れられて向かった屋上のテラスで、僕たちはこの圧倒的な豪華さとは全く無縁の、あまりにもシュールで不条理な『一つの奇妙な落とし物』と遭遇することになるのだった。




