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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『星空のビスクドール』 ~Section 3:メロンクリームソーダと、水辺の絶対君主~

 重厚なアンティーク調のテラスの扉を開け放つと、むせ返るような南国の熱気と、眼を射るような強烈な太陽の光が僕の全身を包み込んだ。

 視界いっぱいに広がるのは、抜けるような青空と、水平線の彼方まで続くエメラルドグリーンの大海原。そして、その大自然の絶景と完全に溶け合うように設計された、広大なインフィニティプールだった。真っ白な大理石のプールサイドには、透明度の高い水が静かに波打っており、海風がヤシの葉を揺らすサラサラという音だけが心地よく響いている。


 だが、僕の意識はその絶景よりも先に、プールサイドの特等席に設置された巨大な白いパラソルと、その下に置かれた純白のデッキチェアへと吸い寄せられてしまった。


 そこに、彼女がいたからだ。


 僕の夏休み最大の試練であり、月見坂市における絶対君主。

 如月瑠璃が、パラソルの涼やかな日陰の中で、脚を組んで優雅にくつろいでいた。

 僕はその姿を視界に捉えた瞬間、全身の血が瞬時に沸騰し、脳の処理能力が完全に限界を突破してショートするのを感じた。


 彼女は、水着姿だった。


 それも、学校の授業で着るような無難なものでは決してない。如月コンツェルンの令嬢が身に纏うに相応しい、計算し尽くされた最高級のリゾートスタイルだった。

 漆黒の生地で作られたセパレートタイプの水着。その最大の特徴は、肩のラインを大胆に露出したオフショルダーのデザインだった。胸元には幾重にも重なったエレガントなフリルがあしらわれており、それが彼女の華奢な体型――はっきり言ってしまえば幼児体型――を完璧にカバーし、むしろ豊かなボリューム感すら錯覚させている。フリルの間から覗く鎖骨のラインと、抜けるように白いデコルテの美しさは、まるで精巧なフランス人形(ビスクドール)のようだった。


 さらに、彼女の腰には透け感のある漆黒のシフォン素材のパレオが巻かれていた。海風に吹かれて薄い生地がふわりと揺れるたびに、その下にある滑らかな太もものラインが隠れん坊のように見え隠れする。ただ肌を露出するよりも遥かに扇情的で、大人びたセクシーさを醸し出しているのだ。


 黒のフリルとシフォン、そして透き通るような白い肌の強烈なコントラスト。

 普段の制服姿やイブニングドレス姿でも十分に人間離れした美しさだったが、この太陽と水辺という開放的なシチュエーションで見る彼女の破壊力は、もはや核兵器レベルだった。


 僕は完全に足の止め方を忘れ、テラスの入り口で彫像のように硬直してしまった。

 視線を外さなければいけない。そう頭では激しく警鐘が鳴り響いているのに、極限まで緊張した首の筋肉はピクリとも動かず、僕の目は彼女の姿から一ミリも離れることができなかった。女性に対する耐性が完全にゼロの僕にとって、これはあまりにも劇薬すぎた。このままでは数秒以内に鼻血を吹いて気絶し、太平洋の藻屑となる未来しか見えない。


「いつまでそこで間抜けな顔を晒しておるのだ、サクタロウ」


 不意に、氷のように冷たく、しかし鈴の音のように澄んだ声がプールサイドに響いた。

 デッキチェアで分厚い洋書を開いていた如月さんが、ゆっくりと顔を上げ、アンティーク調のサングラス越しの冷ややかな視線で僕を射抜いたのだ。


「ひぃっ!す、すみません!決して変な目で見ようとしたわけじゃなくて、ただその、景色があまりにも綺麗だったもので!」


 僕は弾かれたように視線を斜め四十五度の虚空へと逸らし、裏返った声で必死に弁解した。九千八百円のペラペラのサマースーツの下で、滝のような冷や汗が吹き出しているのが分かる。


「ふん。相変わらず見苦しい奴じゃな。その安っぽい服のままでは、熱中症で倒れるのがオチじゃぞ。そこにある更衣室で、適当なリゾート着にでも着替えてこい」


 如月さんは僕の激しい動揺など一ミリも気にする様子もなく、顎でプールサイドの端にある小さな建物をしゃくった。

 僕は「はいっ!」と軍隊のように返事をし、逃げるように更衣室へと駆け込んだ。


 数分後。

 僕は更衣室に用意されていた、高級なリネン素材の白い半袖シャツとショートパンツに着替え、再びプールサイドへと戻ってきた。通気性が良く、肌触りも最高なのだが、自分が着るとどうにも『借り物競争で間違えて他人の服を着てしまった人』感が拭えない。

 僕はなるべく如月さんの視界の端に収まるように、パラソルの日陰の端っこにある丸椅子に、背筋をピンと伸ばしてちょこんと腰掛けた。相変わらず視線のやり場には困るため、ひたすらインフィニティプールの水面と、彼方の水平線の境目を見つめ続けるという苦行を自らに課す。


「それにしても、見事なまでに不釣り合いじゃな」


 如月さんが、手元にあるグラスのストローを咥えながら、面白くもなさそうに呟いた。

 彼女の傍らの小さなガラスのサイドテーブルには、この南国のリゾート地にはどう考えても似つかわしくない、ある飲み物が置かれていた。

 まるで分厚い氷を削り出したかのような美しいカットグラス。その中を満たすのは、透き通った深いエメラルドグリーンの液体。完璧な球体を描くバニラアイスと、頂点に鎮座する真っ赤なチェリー。

 メロンクリームソーダだった。


「あの、如月さん。こんな豪華な別荘のプールサイドで、メロンクリームソーダを飲んでるんですか?普通はトロピカルジュースとか、ココナッツとかじゃないですか?」


「馬鹿を言え。南国特有のあの甘ったるくて生ぬるいフルーツジュースなど、わしの喉を通るはずがなかろう。わしはあの旧市街の純喫茶でも言ったはずじゃぞ。人工的なシロップではなく、本物の果汁を使った正統派のクリームソーダしか口にせんと」


 如月さんは僕のツッコミを一刀両断し、グラスを軽く揺らした。カラン、と涼やかな氷の音が鳴る。


「これはな、如月コンツェルンの農業ドームで完全な温度管理のもと栽培された、最高級のクラウンメロンを贅沢に絞って作らせた特製のメロンソーダじゃ。どこにいようと、わしの渇きを癒すのはこの本物の緑色の液体と冷たいアイスクリームだけじゃよ」


 彼女は誇らしげに言い放ち、再びストローで緑色の液体を少しだけ吸い上げた。その所作すらも、まるで高級なヴィンテージワインをテイスティングしているかのように優雅で美しい。

 この人は、月見坂市の旧市街のレトロ喫茶だろうが、絶海の孤島の大富豪の別荘だろうが、自分の美学と好みを絶対に曲げない。その圧倒的なブレなさに、僕は一周回って感心してしまった。


「あの、如月さん。一つ聞いてもいいですか?」


 僕は勇気を振り絞り、ずっと胃の奥でつっかえていた疑問を口にした。


「如月さんのお父さんからのお手紙には、僕が如月さんの『パートナー』で、僕といると如月さんが楽しそうにしているから、父親として見定めたいって書いてあったんですけど。これって、どういうことなんですか?」


「くだらん」


 如月さんは洋書のページを乱暴にめくり、氷点下の声で吐き捨てた。


「父の勝手な気まぐれじゃ。わしが最近、あのカビ臭い図書室にこもらず、放課後によく外へ出歩くようになったものだから、家族の連中が勝手に『同級生の友人ができて、青春を謳歌している』などと脳内変換しおったのじゃ。わしはただ、マフィアが使っていたバカラグラスや、強盗犯が蹴り飛ばした碁石のような、極上の不純物のルーツを探るために動いているだけだというのに、全く度し難い連中じゃ」


 なるほど、と僕は深く納得した。

 マフィアの隠れ家や、強盗犯が立てこもる廃工場に突撃する令嬢の姿など、家族の誰も想像できるはずがない。彼らの目には、ただ単に『娘が最近、同じクラスの地味な男子生徒とよく遊びに出かけている』という、微笑ましい青春のワンシーンとして映ってしまっていたのだ。


「じゃあ、僕たちはただの勘違いで、こんな南の島まで連行されてきたってことですか?」


「いかにも。父はわしを溺愛しておるからな。わしの隣に立つような虫ケラがどんな面をしているのか、自分の目で確認して牽制しておきたかったのじゃろう。お主の父親まで呼び出したのも、身辺調査と財力の差を見せつけるための下劣なマウンティングに過ぎん」


 如月さんは特製メロンクリームソーダのチェリーを口に含み、冷たく笑った。


「安心しろ。先ほど本邸の玄関で、お主の父親が着ていたあの無残なアロハシャツとジャケットの組み合わせを母の菫が見たことで、すぐに父の耳にも『こいつらはわしの愛娘を脅かすようなレベルの存在ではない』と伝わったはずじゃ。もはやお主らは、如月家にとって無害な雑草と同義じゃよ」


「それはそれで、めちゃくちゃ腹が立ちますし、男のプライドが傷つくんですが」


 僕は深いため息をついた。

 父さんのあの胡散臭い『ちょいワル親父』のファッションが、結果的に僕たちを如月コンツェルンの脅威から守る盾になってくれたのだとしたら、こんなに悲しくて滑稽な話はない。


「まあよい。わざわざこんな辺境の島までご足労いただいたのじゃ。せめてこの二日間くらいは、わしのことは気にせず、好きに過ごすがいい。本邸の天然温泉に入るなり、このプールで泳ぐなり、お主の自由じゃ」


 如月さんはそう言うと、完全に僕への興味を失ったように、再び分厚い洋書の世界へと没頭し始めた。

 『好きに過ごせ』と放置宣言をされたわけだが、僕のような一般庶民が、この非日常の空間で好きに過ごせるわけがない。

 プールで泳ぐといっても、すぐ数メートル先には圧倒的な水着姿の令嬢が寝そべっているのだ。万が一僕が水しぶきでも飛ばして彼女の読書の邪魔をしようものなら、即座に黒田さんたちが飛んできて太平洋の真ん中へ放り込まれるだろう。温泉に行くにしても、本邸の方にはあの如月社長や菫さんがいるかもしれないと思うと、恐ろしくて足を踏み入れる気になれなかった。


 結局のところ、僕にできることといえば、この日陰の丸椅子に座ったまま、ひたすら時間が過ぎるのを待つことだけだった。


 静かな時間が流れる。

 僕は視線を海に向けたまま、時折、このアンティークな洋館の離れやプールの様子をさりげなく観察した。

 赤煉瓦の外壁やステンドグラスは美しく磨き上げられ、プールサイドの大理石にもチリ一つ落ちていない。しかし、本邸の玄関にいたような仲居さんや使用人の姿は、この離れの周辺には全く見当たらなかった。静寂が、空間全体を支配している。


「如月さん。この別荘って、普段は誰も住んでいないんですか?」


 沈黙に耐えきれなくなり、僕はぽつりと尋ねた。


「当然じゃ。こんな孤島に常駐するなど、時間の無駄じゃからな。我が如月家がこの紗霧島の別荘を使うのは、一年のうち、この夏の数日間だけじゃ」


 如月さんは本から目を離さずに答えた。


「じゃあ、この手入れの行き届いたお城みたいな離れやプールは、どうやって維持してるんですか? 使う前日だけ業者を入れるとか?」


「いや。本邸の管理や清掃は、月見坂市から派遣した専門の業者が定期的に行っておる。じゃが、この離れや裏庭の周辺に関しては、この島に昔から住んでいる地元の老人に、年間の管理を任せているのじゃ」


「地元の管理人さん、ですか」


「うむ。祖父の代から付き合いのある、頑固な爺さんでな。コンツェルンの最新鋭のセキュリティシステムなど信用せず、毎日自分の足で見回りをしないと気が済まんらしい。そのおかげで、このアンティークの洋館も朽ちることなく、良い状態を保っておるというわけじゃ」


 なるほど、と僕は納得した。

 完全無欠のスマートシティを築き上げる如月コンツェルンにあって、この別荘の裏側には、そんなアナログで泥臭い管理のルーツが残されているのか。如月さんがこの離れを気に入っている理由も、もしかしたらそんな『人の手による管理』の匂いが残っているからかもしれない。


 そんなことをぼんやりと考えているうちに、太陽は少しずつ西の空へと傾き始めていた。

 海風が僅かに涼しさを帯び、エメラルドグリーンの海面が、夕日に照らされて黄金色に輝き出している。

 僕の胃痛は一向に治まる気配がなかった。

 なぜなら、この静かなプールサイドでの時間が終われば、いよいよ本邸へと戻り、あの如月社長たちを交えた『晩餐会』という名の最大の試練が待ち受けているからだ。

 僕と父さんは、果たしてあの圧倒的な富と権力の前で、無事に生きて夕食を終えることができるのだろうか。

 僕の不安をよそに、紗霧島の空はゆっくりと、しかし確実に、夜の帳を下ろそうとしていた。



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