第3話『星空のビスクドール』 ~Section 2:紗霧島と、大富豪の別世界~
エメラルドグリーンの海の上を飛ぶこと、約一時間。
窓の外に広がる単調な水平線に僕の胃の痛みが限界を迎えようとしていた頃、巨大なヘリコプターはゆっくりと高度を下げ始めた。
紺碧の海にぽっかりと浮かぶ、緑豊かな巨大な島。それが、政界の大物や世界的スター、そして如月コンツェルンのような巨大財閥のトップたちがこぞって別荘を構えるという幻のリゾート地、『紗霧島』だった。
「おい光太郎、見ろよ!島全体がまるで要塞みたいだぞ!港にはとんでもねえサイズのクルーザーが何隻も停まってる!」
父さんは窓ガラスにへばりつき、興奮しきった声で叫んだ。
確かに、上空から見下ろす紗霧島は、僕たちが知っているようなひなびた離島とは次元が違った。島を取り囲むように整備された真っ白なプライベートビーチ。鬱蒼とした深い森の合間から顔を覗かせるのは、近代美術館のようなガラス張りの豪邸や、中世ヨーロッパの古城を模したような規格外の建築物ばかりだ。一般の観光客が立ち入れるような定期船の港はなく、島全体が完全なプライベート空間として外界から隔絶されていることが、空から見てもはっきりと理解できた。
「当機はこれより、紗霧島ヘリポートへ着陸いたします」
パイロットのアナウンスの直後、ヘリコプターは島の高台に整備された広大な専用ヘリポートへと、まるで絹の布の上に降り立つかのように滑らかに着陸した。
キャビンアテンダントの男性が恭しくドアを開けると、夏の南の島特有の、むせ返るような熱気と潮風がキャビンに流れ込んでくる。
「うおおおっ、南国だ! 光太郎、空の青さが月見坂市の新市街と全然違うぞ!」
タラップを降りた父さんは、アロハシャツの胸元をパタパタと煽りながら、子供のように両手を広げて深呼吸をした。僕もペラペラのサマースーツの襟元を緩めながら、強烈な日差しに目を細める。
だが、南国の情緒に浸る暇など一秒も与えられなかった。ヘリポートのすぐ脇には、すでに一台の漆黒の超高級リムジンが、アイドリング音すら立てずに僕たちを待ち構えていたからだ。月見坂市で如月さんが普段乗っているものよりも、さらに一回り長い特注モデルに見える。
「朔定光様、光太郎様。紗霧島へようこそおいでくださいました。これより、如月家の別荘までご案内いたします」
リムジンの傍らに立っていた白手袋の運転手が、完璧な角度でお辞儀をして後部座席のドアを開けた。
「お、おう。ご苦労さん!」
父さんは変に堂々とした態度を作ってリムジンに乗り込んだが、その足取りが少しだけ震えているのを僕は見逃さなかった。僕も急いで後に続き、ふかふかの革張りシートに身を沈める。
車が走り出すと、父さんは周囲の目を盗んで内装のあちこちを触り始めた。
「すげえなこの車。防弾ガラスの厚みが半端ねえし、サスペンションの構造がどうなってるのか全く振動がこねえぞ。俺の工場じゃ絶対に整備できねえ代物だ」
自動車整備士としての職業病を爆発させる父さんをなだめながら、僕は窓の外の景色に目を向けた。
島内を走る道路は、チリ一つ落ちていないほど完璧に舗装されていた。道の両脇には南国特有のヤシの木や色鮮やかなハイビスカスが咲き乱れているが、よく見ると木々の陰には最新鋭の監視カメラやセンサーが、自然の景観を損なわないように巧妙に隠されている。月見坂市の新市街と同じ、いや、それ以上に徹底された如月コンツェルンの『完璧な管理網』が、この自然豊かな孤島にも張り巡らされているのだ。
やがてリムジンは、島の最も見晴らしの良い高台へと続く、緩やかな坂道を登り始めた。
道の突き当たりに見えてきたのは、近代的なリゾートヴィラでも、西洋の城でもなかった。
「おいおい。嘘だろ。ここは時代劇の撮影セットか何かか?」
父さんが呆然とした声で呟いた。僕も全く同じ感想だった。
リムジンが横付けされたのは、樹齢何百年という巨大な黒松に囲まれた、圧倒的な重厚感を誇る純和風の『武家屋敷の長屋門』だったのだ。瓦屋根の堂々たる門構えは、ここが南の島のリゾート地であることを完全に忘れさせるほどの威圧感を放っている。
運転手が降りて門の横のインターホンを操作すると、分厚い木製の門扉が、重々しい地響きと共に自動でゆっくりと開いていった。
「到着いたしました。お足元にお気をつけてお降りください」
促されるままにリムジンを降り、門をくぐった僕たちは、その先に広がる光景に完全に言葉を失った。
広大、という言葉では到底表現しきれないほどの巨大な日本庭園がそこにはあった。
白い玉砂利が波の模様を描く枯山水の庭。苔むした巨大な庭石の数々。そして、敷地の中央を占める巨大な池には、小さな子供くらいはありそうな極彩色の錦鯉が優雅に泳いでいる。
その庭園を取り囲むようにして建っているのは、平屋建ての広大な和風建築の本邸だった。磨き抜かれた木の廊下が縁側となって建物の外周をぐるりと囲み、深い軒の張り出しが、強烈な南国の日差しを柔らかく遮っている。どこからか、微かに硫黄の匂いが漂ってきていた。
「おい光太郎。この匂い、温泉か?まさかこんな島に天然温泉が湧いてるのか?」
「そうみたいだね。如月さんの財力なら、温泉を掘り当てるくらい造作もないことなんじゃないかな」
僕は自分の着ている九千八百円のサマースーツが、この荘厳な日本建築の中でいかに場違いで滑稽であるかを自覚し、縮み上がるような思いだった。父さんのアロハシャツとジャケットの組み合わせに至っては、もはや不審者として通報されないのが不思議なレベルだ。
「お待ちしておりました。朔定光様、ならびに光太郎様」
玄関の広い上がり框で僕たちを出迎えたのは、涼しげな、しかし極めて上質な絹の和服を完璧に着こなした美しい大人の女性だった。その後ろには、初老の男性使用人と、仲居のような女性たちが数名、深々と頭を下げて控えている。
出迎えた女性の顔立ちを見て、僕はハッと息を呑んだ。透き通るような白い肌と、冷たくも知的な光を宿す双眸。如月瑠璃の数十年後の姿をそのまま具現化したような、圧倒的な気品と美貌を備えた人だった。
「遠路はるばる紗霧島までお越しいただき、誠にありがとうございます。私は如月コンツェルン社長の彰の妻であり、現在は社長秘書を務めております、如月菫と申します」
「あ、いや、こちらこそ!この度はご招待いただき、光栄の極みであります!」
父さんは慣れない敬語を駆使し、直角に腰を曲げてお辞儀をした。如月さんの母親である菫さんは、そんな父さんの胡散臭い服装を全く気にする素振りも見せず、余裕のある柔和な笑みを浮かべてみせた。
「定光様。夫の彰は、すでに奥の応接室でお待ちしております。ご子息の学園でのご様子など、ぜひ定光様とゆっくりお茶を交わしながらお話ししたいと申しておりました。長女の翡翠も後ほどご挨拶に伺うかと存じます。どうぞ、こちらへ」
「お、おう!行きましょう!光太郎、父さんは一足先に行って、大人の挨拶を済ませてくるからな!お前はお嬢様と仲良くしてなさい!」
父さんは僕に向かってビシッと親指を立ててみせると、菫さんの案内に従って、まるで敵陣に乗り込む決死の兵士のような足取りで、長い木造の廊下の奥へと消えていった。
残された僕は、ただ一人、広大な玄関に取り残されてしまった。父さんがいなくなった途端、強烈な孤独感とプレッシャーが重くのしかかってくる。
「光太郎様。私は当家の使用人を務めております、東郷と申します」
先ほど菫さんの後ろに控えていた初老の男性が、静かに一歩前に進み出た。
「瑠璃お嬢様は現在、本邸の奥にある離れのプールでお待ちでございます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「離れ、ですか」
「はい。瑠璃お嬢様は純和風の設えよりも、古き良き西洋のアンティークを好まれますので。当主である大旦那様が、お嬢様が幼い頃に専用のエリアとして特別に増築された洋館がございます」
僕は促されるままに革靴を脱ぎ、磨き上げられた檜の廊下に足を踏み入れた。
東郷さんの後ろをついて本邸の奥へと進み、渡り廊下を抜けた先で、周囲の空気が一変した。
鬱蒼とした木々に囲まれた一角に、突如として赤煉瓦と美しいステンドグラスで彩られた、西洋のアンティーク洋館が姿を現したのだ。建物の外壁には蔦が絡まり、まるで何百年も前からそこに存在していたかのような重厚な歴史を感じさせる。本邸の純和風の空間とは完全に切り離された、瑠璃の美学と趣味が凝縮された『お城』だった。
そして、その洋館に隣接するようにして、真っ白な大理石が敷き詰められた広大なプライベートプールが広がっていた。
僕はその光景を前に、自分の心臓が早鐘のように打ち始めているのを感じていた。
目的地は、プールだ。
つまり、水辺である。
そこに、あの絶対君主である如月瑠璃が待っている。
普段は我が校の制服か、あるいは高価なイブニングドレス姿しか見たことがない彼女が、まさかジャージや普段着でプールサイドにいるわけがない。
僕は基本的に女性に対する耐性が皆無だ。クラスの女子とすれ違うだけで目を逸らしてしまうような、筋金入りの内向的オタクである。そんな僕が、あの息を呑むほど美しい同級生の、水着姿を直視することなどできるのだろうか。いや、できるわけがない。万が一にも目を合わせてしまえば、僕の脆弱な理性は跡形もなく消し飛び、不敬罪で黒田さんたちに海へ沈められる未来しか見えない。
「光太郎様。このテラスの先が、プールでございます。私はここで失礼いたします」
東郷さんが一礼して去っていく。
目の前には、海と一体化しているように見えるインフィニティプールと、そのプールサイドに設置された巨大な白いパラソルが見えた。
僕は大きく深呼吸をし、九千八百円の安物スーツの襟を無駄に正した。
相手は孤島の別荘という非日常の空間にいる、絶対的な令嬢だ。油断すれば一瞬で呑み込まれる。僕は決死の覚悟を決め、「失礼します」と掠れた声を絞り出して、アンティーク洋館のテラスの扉を開け放った。
僕の夏休み最大の試練が、いよいよ幕を開けようとしていた。




