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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『星空のビスクドール』 ~Section 1:招待状と、不釣り合いな親子~

 月見坂市のうだるような暑さが、僕の住む旧市街の古い市営団地にも容赦なく照りつけていた。


 網戸越しに聞こえてくる油蝉のけたたましい鳴き声と、首を振るたびにジーッと古びたモーター音を鳴らす扇風機。僕、朔光太郎(さく こうたろう)の夏休みは、絵に描いたような旧市街の庶民の日常風景と共に幕を開けていた。


 一学期の間、僕は同じクラスの如月瑠璃(きさらぎ るり)という絶対君主によって、放課後のたびに『ありえないモノ』の鑑定という名の理不尽なミステリーツアーに連れ回されていた。西園寺社長の拉致事件から始まり、メガバンクの武装強盗立てこもり事件に至るまで、僕の寿命は確実に十年単位で縮んでいる。


 だが、今は待ちに待った夏休みだ。学校がない以上、あのカビ臭い旧校舎の図書室に呼び出されることもない。いくらなんでも、わざわざ休みの日にまで僕のような平民を呼び出してこき使うことはないだろうと、僕は冷えた麦茶を飲みながら心底安堵していた。


 その甘すぎる希望が粉々に打ち砕かれたのは、夏休みに入って一週間が過ぎた、ある日の午後のことだった。


 ピンポーン、と。

 我が家のサビだらけのドアチャイムが、控えめに、しかし確かな自己主張を持って鳴らされた。

 僕が気怠い足取りで玄関のドアを開けると、そこには旧市街の団地には完全に場違いな、仕立ての良い黒スーツに身を包んだ大柄な男が立っていた。如月さんの専属ボディガード、黒田さんだった。


「突然の訪問、失礼いたします。光太郎さん」


「く、黒田さん!?どうして僕の家を知って……いや、如月コンツェルンの情報網なら僕の住所なんて五秒で分かりますよね。一体どうしたんですか。如月さんに何か?」


「お嬢様からではありません。本日は、如月コンツェルン社長である『如月彰(きさらぎ あきら)』様より、光太郎様へのお手紙をお預かりして参りました」


 黒田さんは恭しく頭を下げると、懐から一通の封筒を取り出した。

 僕は震える手でそれを受け取った。分厚く、微かに上品な香木の匂いがする高級和紙の封筒。しかも、宛名の『朔 光太郎様』という文字は、プロの書道家が書いたような恐ろしく流麗な筆文字だった。

 月見坂市を支配する巨大財閥、如月コンツェルン。そのトップであり絶対的な当主は如月さんの祖父である弦十郎(げんじゅうろう)氏だが、現在グループの頂点に立って実質的な舵取りをしている社長が、彼女の父親である如月彰氏だ。そんな雲の上のさらに上の存在から、なぜただの男子高校生である僕に手紙が届くのだろうか。


「黒田さん、あの、これって」


「中身の確認をお願いいたします。それでは、私はこれで」


 黒田さんは僕の質問には答えず、完璧な礼をして踵を返し、団地の階段を音もなく降りていった。窓の外を見ると、路地裏に停められた漆黒のリムジンが静かに走り去っていくところだった。

 僕は冷や汗を拭いながらリビングに戻り、扇風機の前で封筒を開封した。

 中には、これまた高級な便箋が三枚入っていた。


『朔 光太郎君。突然の手紙で驚かせたこと、どうかお許しください。私は如月瑠璃の父、彰と申します。

 単刀直入に申し上げます。この夏休み、我が如月家の所有する孤島『紗霧島(さぎりじま)』の別荘へ、君を招待したいのです。

 瑠璃は如月学園に入学してからも、相変わらず一人で奇妙なモノの鑑定にばかり熱中し、他者との関わりを極端に避けてきました。しかし、君という同級生と出会ってからの娘は、どこか楽しそうに、そして生き生きとしているように私たち家族には見えるのです。

 娘のパートナーとして、君がどのような少年なのか。父親として、一度ゆっくりとお会いして言葉を交わしてみたい。

 つきましては、明日の朝九時。如月学園のヘリポートに自家用ヘリを用意させます。なお、未成年を遠方へお招きする以上、ご家族の承諾と安心も必要です。君の父親である朔定光(さく さだみつ)殿も、必ず同伴していただくようお伝えください。

 美しい紗霧島の海と空が、君たち親子を歓迎することを約束します』


 僕は便箋を持ったまま、完全に石化した。

 情報量が多すぎる。


 パートナー?楽しそう?父親として見定めたい?


 違う、絶対に誤解だ。僕はパートナーでもボーイフレンドでもなく、ただ理不尽に振り回されている下僕のような同級生だ。如月さんが生き生きしているのは僕と過ごしているからではなく、『〇・三ミリの段差に発狂した強盗犯』のような極上の不条理ルーツを見つけて嘲笑っている時だけだ。

 しかも、月見坂市から南に二百キロも離れた絶海の孤島、紗霧島。そこに如月コンツェルン社長の自家用ヘリで向かい、雲の上の存在である如月一家の面々と顔を合わせる?さらに最悪なことに、僕の父親まで巻き添えにして?


 これはもう、夏休みのバカンスなどという生易しいものではない。巨大財閥による、朔家への身辺調査という名の公開処刑だ。


 ガチャリ。


 僕が絶望の底に沈んでいると、玄関のドアが開く音がした。


「おう光太郎、今帰ったぞ!いやー、今日も外はサウナみたいに暑かったな!」


 首にタオルを巻き、作業着姿で汗だくになった中年男性が、ドスドスと重い足音を立ててリビングに入ってきた。僕の父親、朔定光(さく さだみつ)だ。

 父さんは自動車整備工場で働いている、絵に描いたようなブルーカラーの職人だ。性格は豪快で大雑把、細かいことは気にしない典型的な下町気質。僕のような内向的なオタク息子とは正反対の、明るくてやかましい父親である。


「おっ、光太郎、その手に持ってる立派な手紙はどうした?ラブレターか?」


 父さんは冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて開けながらニヤニヤと笑った。


「父さん。落ち着いて聞いてね。これ、如月コンツェルンの社長からのお手紙なんだ」


「ぶふぉッ!?」


 父さんは口に含んだビールを盛大に吹き出した。


「き、きさ、如月コンツェルン!?お前、あの新市街を牛耳ってる如月財閥か!?なんでお前なんかにそんなお偉いさんから手紙が来るんだよ!」


「僕のクラスメイトに如月瑠璃さんっていう令嬢がいて、なぜか僕、その人の助手みたいなことをさせられてるんだ。それで。そのお父さんが、僕たち親子を南の島の別荘に招待したいって」


 僕は手紙を父さんに渡した。

 父さんはタオルで口元を拭いながら、目を皿のようにして便箋の文字を追った。そして数秒後、彼の顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。


「おい、光太郎。明日の朝九時って書いてあるぞ。しかもヘリコプターで移動って」


「うん。僕たちが断れるような相手じゃないと思う」


「馬鹿野郎!なんでそういう大事なことをもっと早く言わないんだ!」


 父さんはビール缶をテーブルに叩きつけ、頭を抱えてリビングをウロウロし始めた。


「如月グループの社長と面会するんだぞ!?豪華な別荘にお呼ばれするんだぞ!?俺たち親子、あんな場所に着ていけるようなまともな礼服なんて一着も持ってねえじゃねえか!俺のクローゼットにあるのは、作業着と、ヨレヨレのジャージと、パチンコに行く時のスウェットだけだぞ!」


「僕だって学校の制服以外は、アニメのプリントTシャツとジーパンしかないよ!」


 僕たちは顔を見合わせ、同時にお互いの絶望的なワードローブを悟った。

 財閥のトップに会うのに、作業着やアニメTシャツで行けるわけがない。間違いなく、旧市街の恥として月見坂市を二分するあの巨大な川の冷たい底に沈められてしまう。


「行くぞ光太郎!財布を持て!旧市街の商店街に走るぞ!」


 父さんは慌てて財布と車の鍵を掴み、僕の腕を引っ張った。

 こうして僕たちは、優雅なバカンスの準備とは程遠い、生き残りを賭けた服探しのデスゲームへと強制参加させられることになったのだ。


**


 その日の夕方。

 僕たちは旧市街のシャッターが半分閉まりかけたアーケード街を駆け回り、一番奥にある古びた紳士服店『マルミツ洋品店』へと飛び込んでいた。


「おやっさん!一番安くて、でも一番高そうに見える夏物のスーツを出してくれ!明日、とんでもねえお偉いさんに会わなきゃならねえんだ!」


 父さんの無茶苦茶な注文に、店主のおじさんは呆れながらも店の奥から数着の服を見繕ってくれた。

 結果として、僕は上下セットで九千八百円という破格の安売りサマースーツを。父さんは、なぜか『南の島の別荘なら、こういうちょっと崩したダンディな大人の余裕が必要だろう』という謎の持論を展開し、麻混紡のヨレっとしたジャケットと、その下に着るための少し派手な柄のアロハシャツを購入した。


「どうだ光太郎。これなら、億万長者の前に出ても恥ずかしくない、ちょいワル親父の休日って感じがするだろう?」


 アロハシャツの上にジャケットを羽織り、鏡の前でポーズを決める父さんを見て、僕は頭痛を覚えた。どこからどう見ても、旧市街のパチンコ屋で大負けしてやけ酒を飲んでいるおじさんにしか見えない。

 僕自身の九千八百円のスーツも、生地がペラペラで、少し動くだけでカサカサと安っぽい音が鳴る。如月さんの着ている、一着何十万円もするであろう仕立ての良い服とは、天と地ほどの差があるのは火を見るより明らかだった。


「父さん、やっぱり僕たち、行かない方がいいかもしれない。別世界すぎるよ」


「馬鹿言うな。相手はあの如月グループだぞ。ここでヘタを打ったら、俺の勤めてる整備工場ごとペチャンコに潰されかねねえ。それに」


 父さんは少しだけ真面目な顔になり、僕の肩をポンと叩いた。


「お前が学校で、どんなすごいお嬢様と仲良くやってるのか、父親としてちょっと見てみたいってのもあるしな。安心しろ、いざとなったら大人の俺が全部上手く誤魔化してやる!」


 父さんのその根拠のない自信が、僕の胃痛をさらに加速させることなど、この時の彼には知る由もなかった。


**


 翌朝。

 僕たち朔親子は、ペラペラのサマースーツと、アロハにジャケットという絶妙に胡散臭い出で立ちで、新市街の端に位置する『如月学園』の広大な敷地内に足を踏み入れていた。

 今日指定されたのは、我が校が誇る全面ガラス張りの最新鋭の設備を備えた新校舎、その広大な屋上に設置されたコンツェルン専用のヘリポートである。山を削るような無粋な自然破壊は一切行わず、都市機能の最上階に空への玄関口を設けるという、如月グループらしい『最適解』の結晶だった。


「す、すげえ。なんだよここ、本当に高校の屋上なのかよ」


 父さんはヘリポートのあまりの広さと、そこに駐機している流線型の巨大な白いヘリコプターを見て、完全に子供のようにはしゃいでいた。彼はポケットからスマートフォンを取り出し、色々な角度からヘリの写真を撮り始めている。


「父さん、やめてよ恥ずかしい!落ち着いてってば!」


 僕が必死に父さんの服の袖を引っ張っていると、ヘリコプターのタラップの前に立っていた黒スーツの男性が、恭しく頭を下げてこちらへ近づいてきた。


「朔光太郎様、ならびにご尊父の定光様ですね。お待ちしておりました。当機のパイロットとキャビンアテンダントを務めさせていただきます。紗霧島までの約一時間のフライト、どうぞおくつろぎください」


「お、おう!よろしく頼むぜキャプテン!」


 父さんは変に胸を張り、慣れない作り笑いを浮かべてタラップを登っていった。僕は穴があったら入りたい気分で、ペコペコとお辞儀をしながら後に続く。


 ヘリコプターの内部は、僕の知っている『乗り物』の概念を根底から覆すものだった。

 騒々しい空間を想像していたのだが、そこはまるで高級ホテルのスイートルームだった。床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、座席はすべて本革張りのリクライニングシート。中央にはマホガニー材の小さなテーブルが置かれ、そこにはすでに冷えたシャンパンとオレンジジュースのグラスが用意されていた。


「す、すげえ。光太郎、これ座ってもいいのか?俺の服のシワとかつかないかな」


「父さん、もう座らないと出発しちゃうよ」


 僕たちは恐る恐る、高級な革張りシートに腰を下ろした。

 備え付けのノイズキャンセリングヘッドホンを装着すると、外の巨大なローターが回転し始める轟音すら、遠くの波音のようにしか聞こえなくなる。


「これより当機は離陸いたします。紗霧島へ向けて出発します」


 パイロットの静かなアナウンスと共に、ふわりとした独特の浮遊感が僕の体を包み込んだ。

 窓の外を見ると、月見坂市の景色がみるみるうちに小さくなっていく。

 嘘くさいほどに青い空と、太陽の光を反射して輝く新市街のガラス張りの超高層ビル群。そして、巨大な川を隔てた向こう側には、僕たちが住む旧市街の、赤茶けたレンガの屋根と迷路のような路地裏が、まるでミニチュアのジオラマのように広がっていた。


「すげえ景色だ。俺たちの住んでる街があんなに小っちぇえ」


 父さんは窓に額をこすりつけるようにして、眼下の景色に見入っていた。その横顔は、日々の仕事の疲れを忘れた少年のように輝いている。

 僕は窓の外から視線を外し、手元のオレンジジュースのグラスを見つめた。

 これから向かうのは、僕たちのような旧市街の庶民が一生足を踏み入れることのない、政財界の大物たちが集う絶海の孤島だ。そしてそこで待ち受けているのは、月見坂市を支配する巨大財閥の社長一家と、あの絶対に予測不可能な令嬢、如月瑠璃である。


 ヘリコプターは高度を上げ、果てしなく広がるエメラルドグリーンの大海原へと進路を取った。

 僕の胃の奥でキリキリという鈍い痛みが鳴り始めた。僕の平和で退屈な夏休みは、はるか上空の豪華なキャビンの中で、完全に終わりを告げたのだった。



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