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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『白と黒』 ~Section 10:メロンクリームソーダと、厄介な日常~

 月見坂市を揺るがした『月見坂第一銀行・武装強盗立てこもり事件』は、発生からわずか数時間という異例のスピードで解決の運びとなった。


 翌日の朝、新市街の巨大な街頭ビジョンや各局のニュース番組は、こぞって警察の鮮やかな手腕を褒め称えていた。ニュースキャスターたちは口を揃えて、「『特殊事件捜査係(SIT)』の迅速かつ的確な強行突入により、犯人グループ四名は一人残らず逮捕。人質も無傷で保護され、奪われた現金も全額回収されました。民間人の死傷者はゼロという、完璧な制圧劇です」と原稿を読み上げていた。


 だが、そのニュース映像の中に、漆黒のリムジンや、強盗犯たちを一瞬で物理的に排除した黒スーツの巨漢たちの姿は一秒たりとも映っていない。当然だ。民間人である如月コンツェルンの私兵が、警察の制止を振り切って完全武装の強盗犯のアジトを制圧したなどという事実が公になれば、警察の威信は完全に失墜する。


 如月グループの強大な裏の力は、あの廃工場での数分間の出来事を、警察上層部との極秘の交渉によって綺麗に『なかったこと』にしてしまったのだ。すべては警察のお手柄であり、如月瑠璃という令嬢はあの現場に存在すらしなかった。それが、この月見坂市における『最適解』というわけだ。


 しかし、公式の記録からは完全に消し去られても、現場にいた人間の記憶と狂信的な熱情までは消去できなかったらしい。


「あー、もう。本当に重いし、目立つし、最悪だよ」


 数日後の放課後。


 僕は旧市街の石畳の路地を、一人でトボトボと歩いていた。両手には、僕の上半身が完全に隠れてしまうほど巨大な、百本の真っ赤なバラの花束が抱えられている。さらに肩からは、ずっしりと重い高級な和紙の紙袋を提げていた。


 すれ違う旧市街の住民たちが、僕を見てヒソヒソと笑いながら振り返る。普段からなるべく他人の視界に入らないようにひっそりと生きているこの僕が、真紅のバラの花束を抱えて街を歩くなど、公開処刑以外の何物でもない。


 事の発端は一時間前、我が校の校門前での出来事だった。


 放課後のチャイムが鳴り、僕が下駄箱を出て校門に向かうと、そこには仕立ての良いネイビースーツを着こなした長身の男が、この巨大な花束を抱えて仁王立ちしていたのだ。


 神宮寺海斗刑事である。


 顔面偏差値が異常に高い大人の男が、高級車に寄りかかって百本のバラを持っている姿は、下校中の女子生徒たちの黄色い悲鳴を巻き起こしていた。だが、神宮寺刑事はそんな女子たちには一瞥もくれず、僕の姿を見つけるなり猛ダッシュで駆け寄ってきたのだ。


『君!瑠璃様は今日もこの後、あの旧市街の喫茶店に向かわれるのだろう!私は警察官としての立場上、これ以上あの店に近づいて彼女の平穏な日常を乱すことはできん。だから、私の魂の結晶であるこの品々を、どうか瑠璃様に届けてくれ!』


 そう言って、神宮寺刑事は有無を言わさず僕にバラの花束と紙袋を押し付けてきた。


 僕が断ろうとする暇すら与えず、彼はさらに僕の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで顔を近づけ、ギリッと歯ぎしりをした。


『君のような一般市民の少年が、瑠璃様の隣という特等席にいることは、未だに全く納得がいっていない!だが、あの方の孤独な戦いを一番近くで見守るのが君の役目だと言うのなら、せめてこの神宮寺海斗の燃えるような忠義だけは、確実に伝えてくれ!頼んだぞ!』


 熱血刑事はそれだけを嵐のように捲し立てると、一方的な嫉妬の炎で僕を睨みつけ、足早に去っていったのだった。


 なぜ僕が、大人の男からあんな理不尽な殺気を向けられ、お使いまでさせられなければならないのか。しかも、届け先はあの絶対君主である。


 僕は重い足取りのまま、例のレトロな純喫茶『羅針盤』の前に到着した。飴色に変色した重厚な木製の扉を開けると、カランと鈍いベルの音が響き、珈琲の良い香りが鼻腔をくすぐる。


「いらっしゃいませ。おや、ずいぶんと立派なお花ですね」


 カウンターの奥でサイフォンを磨いていた初老のマスターが、僕の抱える巨大な花束を見て目を丸くした。


「あはは……ちょっと、知り合いから預かり物でして。あの、如月さんはもう来てますか?」


「ええ。いつもの一番奥のお席でお待ちですよ」


 マスターに案内され、帆船の模型やアンティークランプが並ぶ薄暗い店内を進むと、深紅のベルベットの椅子に深く腰掛け、分厚い洋書を読んでいる見慣れた制服姿があった。


 如月瑠璃だ。


 彼女は僕の足音に気づくと、ゆっくりと本を閉じ、そして僕が抱えている巨大なバラの花束を見て、露骨に顔をしかめた。


「サクタロウ。お主、ついに頭がおかしくなったのか?わしにそんな成金趣味の花束を捧げて許されるとでも思っておるのか」


「違いますよ!僕がこんな目立つものを買うわけないじゃないですか!これは、あの神宮寺刑事からの預かり物です! 校門の前で待ち伏せされて、無理やり押し付けられたんですよ!」


 僕は急いで花束と紙袋をテーブルの端に置き、逃げるように向かいの席へと腰を下ろした。


「神宮寺……。ああ、あの騒々しい犬のおまわりさんか」


 如月さんは、まるで汚物でも見るかのような冷ややかな視線を真紅のバラに向けた。


「前回、月見坂市のマスコットキャラクターのぬいぐるみを送りつけてきたから、『警察の量産品グッズなど何一つルーツのない無価値なゴミだ』と突き返してやったのじゃが。まさか今度は花束を送ってくるとはな」


「刑事さん、めちゃくちゃ熱く語ってましたよ。『警察グッズがゴミだというのなら、せめて私の魂の結晶である美しいものを』って。それで、この花束と一緒に、この紙袋も渡してくれって言われました」


 僕は和紙の紙袋の中から、仰々しい金色の額縁に入った『感謝状』と、分厚い封筒を取り出した。


「感謝状は、前回と同じく警視庁捜査一課からの公式なものみたいです。『人質の救出および強盗犯逮捕への多大なる貢献を讃えて』って書いてありますね。もちろん、如月グループの力で世間には非公表という扱いになってるみたいですが」


「不要じゃ。そんな紙切れ、わしのコレクションの足しにもならん。すぐに破り捨てよ」


「いや、さすがに警視庁の公式な感謝状を僕が破り捨てるのは犯罪の匂いがするので勘弁してください。僕が責任を持って、前回のツキマロくんのぬいぐるみの横にでも飾っておきますから」


 僕はため息をつきながら、感謝状をリュックの中に丁寧にしまった。


 問題は、もう一つの分厚い封筒だ。表書きには『神宮寺海斗より、気高き正義の女神へ』と、達筆すぎる筆ペンで書かれている。


「如月さん。これ、神宮寺刑事からの個人的な手紙みたいですよ。読みますか?」


「読むわけがなかろう。どうせまた、反吐が出るようなポエムが連なっているに決まっておる」


「じゃあ、僕が少しだけ確認しますね」


 僕は封筒を開け、便箋を数枚広げてみた。そこには、予想を遥かに超える凄まじい熱量の文章が、みっちりと書き込まれていた。


『瑠璃様。貴女様があの廃工場で、強盗犯から白と黒の碁石だけを回収し、現金には目もくれずに去っていったあの気高き後ろ姿。私の網膜に永遠に焼き付いて離れません。白と黒。光と闇。正義と悪。貴女様はあの二つの石を通じて、この月見坂市に潜む不条理な悪を監視し、盤外から裁きを下すという崇高な使命を私に示してくださったのですね……』


「……」


 僕は無言で手紙を折りたたみ、封筒に戻した。


「どうした、サクタロウ。途中で声が消えたぞ」


「読まなくて正解でした。如月さんが〇・三ミリの厚みの違いに発狂したバカを笑いに行って、碁石を碁会所に返しに行っただけの行動が、完全に『この街の光と闇の境界線を監視するダークヒーローの覚悟』みたいな超次元の解釈に変換されてました。これ以上読むと僕の胃に穴が開きそうです」


 如月さんは呆れたようにため息をつき、長い銀色のスプーンを手に取った。


「全く、度し難い男じゃな。対象の真のルーツを直視せず、自分に都合の良い『正義』というフィルターを通してしか世界を見られない。あの犬のおまわりさんは、一生わしの美学を理解することはできんじゃろう」


 如月さんの視線が、テーブルの端に置かれた巨大なバラの花束へと向けられた。


 美しい真紅のバラ。一本一本が丁寧に育てられた高級品であることは、素人の僕の目から見ても明らかだった。


「わしは、美しい花そのものは嫌いではない。丹精込めて育てられた植物には、確かなルーツと美しさが宿るからな。……じゃが、このバラだけは例外じゃ」


 如月さんは、心底嫌悪感に満ちた表情で鼻を覆った。


「このバラには、あの犬の暑苦しい正義感と、わしに対する盛大な勘違い、そしてお主に対する理不尽な嫉妬という、この世で最も泥臭くて厄介なルーツがたっぷりと染み付いておる。そんな不純な念が込められたモノを、わしの視界に入れるのもおぞましいわ。サクタロウ、今すぐその花束をどこかへ処分せよ。燃やすなり、川へ捨てるなり、好きにしろ」


「ええっ!?いくらなんでも百本のバラを川に捨てたら、僕が不法投棄で警察に捕まっちゃいますよ!あの神宮寺刑事に逮捕されるなんて冗談じゃないです!」


 僕が慌てて抵抗すると、ちょうどそこへ、マスターが銀色のトレイにお冷とおしぼりを乗せてやってきた。


「どうなさいましたか、お二人とも。そんなに立派なバラの花束を前にして」


 マスターの穏やかな声に、僕は救いの神を見つけたような気分になった。


「あ、マスター!実はこの花束、知り合いに押し付けられちゃって、二人とも持って帰るのが大変で困ってたんです。もしよければ、お店に飾ってもらえませんか?ほら、このお店のベルベットの椅子の色も深紅だから、真っ赤なバラは絶対に似合うと思うんです!」


 僕の提案に、如月さんは少しだけ目を見開いたが、すぐに「ふん、勝手にせよ」と興味なさそうに視線を外した。


 マスターは花束と、この店のレトロな内装を交互に見比べ、優しく微笑んだ。


「なるほど、確かにこの店の雰囲気に合うかもしれませんね。ただ、百本すべてを一つの花瓶に飾るのは難しいですから、いくつかのアンティークの壺に分けて、店内のあちこちに飾らせていただきましょう。こんなに美しい花を、ありがとうございます」


 マスターが花束を抱えてカウンターの奥へと戻っていくのを見て、僕は心底ホッと胸を撫で下ろした。


 これで、僕の部屋が巨大なツキマロくんのぬいぐるみとバラの花束で埋め尽くされるという最悪の事態は回避できた。神宮寺刑事の重すぎる愛と正義は、この薄暗い純喫茶のインテリアの一部として昇華されることで、ようやく無害なものへと浄化されたのだ。


「お待たせいたしました。当店の看板メニュー、自家製メロンクリームソーダでございます」


 やがてマスターが、カットグラスの宝石箱のような、美しいエメラルドグリーンの液体が入ったグラスを運んできた。


 完璧な球体を描くバニラアイスと、王冠のように添えられた真っ赤なチェリー。数日前にこの店を訪れた時と全く同じ、見事な芸術品だ。


「いただきます」


 如月さんは背筋をピンと伸ばし、白手袋を外した指先で銀色のスプーンを持ち上げた。


 アルコールランプの揺らめく炎が彼女の整った横顔を照らし、グラスの緑色が白い肌に反射している。その優雅で美しい所作は、先ほどまで『完璧主義者のバカ』を嘲笑っていた冷酷な鑑定士と同一人物だとは到底思えない。


 僕はまたしても目のやり場に困り、自分の前に置かれたアイスコーヒーのストローに口をつけた。


 静かな時間が流れる。


 BGMは微かなクラシック音楽と、マスターがサイフォンで珈琲を淹れるポコポコという音だけ。


 そして。


「おや」


 如月さんが、不思議そうに足元を見た。


 僕も釣られてテーブルの下を覗き込む。


 数日前、彼女のつま先に白と黒の碁石が当たった、あのテーブルの右奥の脚だ。


 如月さんが少し体重をかけてみても、今度は微かなガタつきも、カランという氷の音も鳴らなかった。


「マスター。このテーブル、以前は少し脚がガタついておったじゃろう。直したのか?」


 如月さんの問いかけに、マスターはカウンターから顔を上げ、朗らかに笑った。


「ええ、実はお嬢様たちが前回いらっしゃった後、業者を呼んでしっかりと修理してもらったのですよ。紙ナプキンや、何か硬いものをくさび代わりに挟んで誤魔化すのではなく、脚のボルトの長さを数ミリ単位で調整して、床と完全に水平になるように直しました。古いものですから手はかかりますが、やはりきちんとしたルーツと方法で直してやるのが、モノに対する礼儀ですからね」


 紙ナプキンや硬いもの(碁石)で誤魔化すのではなく、きちんとした方法で直す。


 その言葉を聞いて、如月さんの口角がゆっくりと上がり、極上の笑みが浮かんだ。


「素晴らしい。その通りじゃ。〇・三ミリの段差から逃げずに向き合ったマスターの姿勢、大いに評価するぞ」


 如月さんは嬉しそうに頷き、再びメロンクリームソーダにストローを差した。


 あの矮小な完璧主義者の強盗犯は、この〇・三ミリの段差のせいでイラつき、すべてを台無しにした。だが、この店の主は、その段差を職人の手によって完璧に解消し、このレトロな空間の静寂を取り戻したのだ。


 盤外に落ちていた白と黒の碁石は、すでに本来の碁会所へと帰還している。


 そして今、この純喫茶の赤いテーブルの上には、微塵のガタつきもない完璧な平坦さが広がっていた。


 僕はアイスコーヒーを飲みながら、目の前でクリームソーダの最後の一口を惜しむように味わっている同級生の姿を見つめた。


 ありえない場所にある、ありえないモノ。


 彼女の異常な知的好奇心に関われば、僕の平穏な日常はこれからも幾度となく破壊され、血の気の多い刑事から殺気を向けられ、命の危険にすら晒されることになるだろう。


 巨大な財閥の令嬢と、血の気の多い熱血刑事。どうやら僕の周りには、他人の都合を一切考慮しない自分勝手な大人ばかりが集まってくる運命らしい。


 それでも。


 〇・三ミリの段差から生まれた最高に不条理な喜劇と、美しき伝統工芸品が本来のルーツへと帰っていく不思議な旅路を特等席で見ることができるのなら。この理不尽な下僕生活も、ほんの少しだけなら、我慢してやってもいいかもしれない。


 夕焼けに染まる旧市街の空の下、静かな純喫茶の奥で、僕は今日一番の深いため息をつきながら、再び平穏を取り戻した静かな時間に身を委ねたのだった。



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