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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『白と黒』 ~Section 9:〇・三ミリの誤算と、不純物の帰還~

 廃セメント工場の敷地を抜け、川沿いの堤防に出ると、淀んだ川の匂いに混じって冷たい夜風が吹き抜けた。


 背後の工場内では、完全武装の強盗犯たちを無傷で制圧したという現実を前に、神宮寺刑事やSITの隊員たちがパニックに近い事後処理に追われているはずだ。僕たちはその大騒ぎを完全に無視し、待機していた漆黒のリムジンへと向かって葦の生い茂る獣道を歩いていた。


「あー、笑いすぎて少し腹が減ったな。サクタロウ、お主もそう思わんか」


 如月さんは、我が校の制服のポケットに入れた白と黒の碁石をカチャカチャと鳴らしながら、上機嫌で振り返った。


 その顔には、大事件を解決した正義の味方の達成感など微塵もない。ただ純粋に、質の高いコメディ映画を見終わった後のような、邪悪で満ち足りた笑みが浮かんでいた。


「全然思いませんよ。僕は寿命が十年は縮んだ気分です。本物のショットガンを持った強盗犯ですよ?もし黒田さんたちの制圧が少しでも遅れていたら、今頃僕たちは蜂の巣にされていたかもしれないんですよ」


「黒田たちが後れを取るわけがなかろう。それに、あの男は発砲などできんよ。〇・三ミリの段差に発狂して伝統工芸品を蹴り飛ばすような矮小な完璧主義者が、予定外の事態に直面して冷静に引き金を引けるほどの度胸を持っているはずがないのじゃ」


 如月さんは夜空を見上げ、ふふっと笑い声を漏らした。


「それにしても、見事なルーツじゃった。新市街の巨大な銀行を襲い、AIの監視網をすり抜けて旧市街の廃工場へ逃げ込む。そこまでは完璧な計画じゃったろうな。だが、その大犯罪の首謀者の精神は、レトロ喫茶の古いテーブルの『〇・三ミリのガタつき』によって、決行直前に完全に崩壊していた」


 彼女は足を止め、月明かりに照らされた白と黒の碁石を手のひらの上で転がした。


「九・五ミリの白石と、九・八ミリの黒石。男が求めていた完璧な平坦さは、この〇・三ミリという絶望的な溝の中に存在していたのじゃ。この二つの石は、ただの盤上の道具から、大悪党の滑稽な本性を暴き出す『極上のくさび』へと昇華した。これだから不純物の鑑定はやめられん」


 彼女にとって、数千万の現金も、人質の命も、警察の威信も、すべてはこの碁石に付加された『面白いエピソード(ルーツ)』を彩るための背景に過ぎないのだ。


 僕は改めて、この同級生の底知れぬ恐ろしさと、圧倒的なブレなさに戦慄した。この巨大な月見坂市の中で、彼女だけが全く別の盤上(ルール)で生きている。


 僕たちがリムジンのドアに手をかけようとした、まさにその時だった。


「お待ちください、瑠璃様ァァァッ!」


 背後の葦むらを掻き分け、泥だらけになったネイビースーツの男が猛然とダッシュしてきた。


 神宮寺刑事だ。彼は息を大きく切らし、顔を真っ赤に紅潮させながら、リムジンの前でバシッと直立不動の姿勢をとった。


「ぜぇ、はぁ……!る、瑠璃様!このまま何もおっしゃらずに去られるおつもりですか!」


「なんじゃ、まだおったのか。犬は元の工場に戻って、残った骨でもしゃぶっておれ」


 如月さんは心底鬱陶しそうに虫を払うような仕草をした。


 だが、神宮寺刑事の熱量はお構いなしに沸点に達していた。彼は両手を胸の前で固く握りしめ、熱に浮かされたような瞳で如月さんを見つめている。


「私は理解しました!貴女様がなぜ、あの強盗犯たちから『白と黒の碁石』だけを回収し、現金には目もくれなかったのかを!」


「は?」


「白と黒。それはすなわち、この世の『正義』と『悪』の象徴!貴女様はあの二つの石を持ち帰ることで、警察の不甲斐なさを戒め、自らがこの街の光と闇の境界線を背負って立つという、崇高な覚悟をお示しになられたのですね!」


 神宮寺刑事の口から飛び出した、あまりにもポエムすぎる壮大な勘違いに、僕は口をぽかんと開けてしまった。


 正義と悪の象徴。光と闇の境界線。


 違う、絶対に違う。この人はただ、『0.3ミリの段差にキレた馬鹿の記念品』として碁石を持ち帰ろうとしているだけだ。


「瑠璃様!私は貴女様のその気高くも孤独な戦いに、深く心を打たれました!どうか、この神宮寺海斗に、貴女様の背中をお守りする権利を……!」


「気安く呼ぶなと言っておろうが、警察の犬め」


 神宮寺刑事が顔を真っ赤にして愛と尊敬の告白を言い終えるより早く、如月さんの氷点下の一撃が振り下ろされた。


 その声の冷たさに、熱血刑事の言葉がピタリと止まる。


「正義だの悪だの、陳腐で反吐が出るわ。わしはただ、テーブルの脚の間に詰まる〇・三ミリの段差を計算できなかった無能の顔を拝みに行き、この石を元の場所に返しに行くだけじゃ。お主らのような薄っぺらい正義感を、わしの極上の美学に勝手に擦りつけるな」


 如月さんは、神宮寺刑事に一瞥もくれることなく、黒田さんが開けたリムジンの後部座席へと優雅に乗り込んだ。


 残された神宮寺刑事は、口をパクパクとさせながら完全に石化している。憧れの女神から浴びせられた容赦のない絶対零度の拒絶。普通ならここで心が折れるはずだが、この男の厄介なところは、その冷酷さすらも『自分を危険に巻き込まないための優しさ』だと脳内変換してしまうところにあるのだ。


「……ッ!」


 案の定、神宮寺刑事の瞳に再び炎が宿った。


 だが、その炎の矛先は如月さんではなく、まだ車の外でオロオロしていた僕へと向けられた。


「き、君は!」


 神宮寺刑事が、血走った目で僕を指差す。


 僕はビクッと肩を震わせ、後ずさりした。女性に対する耐性がない僕だが、血の気の多い大人の男から向けられる理不尽な殺気への耐性も当然持ち合わせていない。


「なぜ君のような一般市民が、瑠璃様と同じ車に乗り込むのだ!瑠璃様の隣という特等席は、悪と戦う覚悟を持った者にしか許されない神聖な場所のはずだ!君はそこで、彼女の孤独をどう癒しているというんだ!」


「い、いや、癒してないです!僕はただの荷物持ちで、下僕で、メロンクリームソーダの案内役なだけで!本当にすみません、失礼します!」


 僕はもう何に謝っているのかも分からなくなり、何度もペコペコと頭を下げながら、逃げるようにリムジンの中へと滑り込んだ。


 分厚い防弾ドアが閉まり、神宮寺刑事の「待て少年!私と代われ!」という悲痛な叫び声が完全に遮断される。僕はふかふかの革張りシートに倒れ込み、激しい動悸を抑えるために深呼吸を繰り返した。


「全く、騒々しい犬じゃな。車を出せ、黒田。四丁目の玄黙亭へ戻るぞ」


 如月さんの指示で、リムジンは音もなく夜の旧市街へと走り出した。


 僕は窓の外を遠ざかっていく河川敷の赤色灯を眺めながら、自分がどれほど異常な状況に巻き込まれていたのかを遅ればせながら実感し、胃の奥がキリキリと痛み始めた。


 大事件の解決と、エリート刑事からの激しい嫉妬。これらはすべて、如月さんにとっては『極上の鑑定』の副産物であり、ただのノイズでしかないのだ。


**


 数十分後、僕たちは再び老舗碁会所『玄黙亭』の立派な門をくぐり、応接室へと通されていた。


 席亭の初老の男性は、先ほど出て行ったばかりの如月コンツェルンの令嬢が、こんな夜更けに再び戻ってきたことに驚きを隠せないようだった。


「如月様。こんなお時間にいかがなされましたか?」


「忘れ物を届けに来たのじゃ」


 如月さんは制服のポケットからハンカチを取り出し、テーブルの上に純白と漆黒の碁石をコロンと転がした。


「これは、あの常連の……」


「いかにも。あの神経質な男が無意識に持ち帰った、特注の碁石じゃ。少しばかり泥にまみれておったが、本来のルーツであるこの場所に帰るのが一番じゃろうと思ってな」


 如月さんは、碁石を満足げに見つめた。


「この石は今日、危うくレトロ喫茶のテーブルの〇・三ミリのガタつきを埋めるための『くさび』として、歴史的な無駄遣いをされるところじゃった。しかもその直後には、銀行強盗という大立ち回りの背景にすらなりかけた。全く、伝統工芸品にとってはとんだ災難な一日じゃったろうな」


「は……銀行強盗、ですか?〇・三ミリのくさび?」


 席亭は全く意味が分からないという顔で、僕と如月さんを交互に見比べた。


 当然だ。この静かで上品な碁会所の空間と、つい先ほどの廃工場での銃撃戦と制圧劇は、あまりにもかけ離れすぎている。


「気にすることはない。少しばかり、石が盤外へ大冒険に出かけていただけのことじゃ。これからは、椿油と伽羅の香りで、しっかりと手入れをしてやるがよい」


 如月さんはそれ以上説明する気はないらしく、席亭が戸惑いながらも深く頭を下げるのを背に、応接室を後にした。


 僕も『お騒がせしました』と小声で挨拶をし、急いで彼女の後を追う。


 玄黙亭の門を出ると、夜の旧市街はすっかり静まり返っていた。


 新市街の嘘くさいほどに明るい夜空とは違い、この街の空は深く、影はどこまでも濃い。


 ありえない場所にあった、ありえないモノ。


 レトロ喫茶のテーブルの下という『不純』な場所に落ちていた二つの碁石は、令嬢の五感による鑑定と、私兵による物理的な強行突破という無茶苦茶な過程を経て、本来の『純粋』なルーツである碁会所へと静かに帰還した。


 これで、僕の長く理不尽な放課後はようやく終わる。


 僕は自分のサビだらけの自転車がリムジンのトランクに積まれていることを確認し、今度こそ団地の自分の部屋に帰って泥のように眠れるのだという事実に、心の底から安堵のため息をついた。


 だが、この強盗事件が残した『二次被害』が、後日僕の平穏な学校生活に最悪の形で直撃することになるなど、この時の僕はまだ知る由もなかったのだ。



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