第2話『白と黒』 ~Section 8:炸裂する番犬と、呆然の熱血刑事~
錆びついた裏口の鉄扉が、黒田さんの分厚い手によって、驚くほど音もなく開け放たれた。
旧市街の河川敷に建つ、巨大な廃セメント工場。かつては粉塵と機械音に包まれていたであろうその空間は、今やカビと赤錆、そして淀んだ川の生臭い匂いが充満する巨大な棺桶のようだった。
僕たちは息を潜め、暗闇に目が慣れるのを待ちながら、工場の奥深くへと足を踏み入れた。
「サクタロウ。わしの視界を遮るなよ。極上の喜劇の幕開けじゃ」
如月さんは我が校の制服のプリーツスカートをわずかに持ち上げながら、汚れを嫌うように瓦礫を避けて進んでいく。僕は彼女の斜め前を歩き、いざという時の物理的な盾になれるようリュックを胸の前に抱え直した。もちろん、女性への耐性が皆無の僕が彼女に触れるような命知らずな真似はしない。つかず離れずの絶妙な距離感を保ったまま、暗闇の奥で微かに漏れる光の方向へと歩を進める。
正面の入り口付近からは、拡声器を使った神宮寺刑事の「武器を捨てろ」という必死の呼びかけが、分厚いコンクリートの壁を越えてくぐもった音で響いてきている。
強盗犯たちは、警察のSITが正面から強行突入してくることだけを警戒しているのだろう。背後から巨大財閥の私兵と女子高生が、ただ『喫茶店に落ちていた碁石の理由』を聞くためだけに侵入してきているなど、夢にも思っていないはずだ。
やがて、旧・事務所として使われていたであろう、ガラスが割れ半分吹き抜けになった部屋の前に到着した。
ランタンの薄暗い灯りに照らされた室内には、黒い目出し帽を被った大柄な男が二人。一人はショットガンを抱え、もう一人は足元に現金が詰まった巨大なボストンバッグを置き、しきりに腕時計を確認している。その傍らには、両手足を結束バンドで縛られ、猿轡を噛まされた若い女性行員が、恐怖で肩を震わせてうずくまっていた。
「黒田」
如月さんが、闇に溶け込むような低い声で命じた。
「一人も殺すな。特に、腕時計を見ているリーダー格の男の顔面には傷をつけるなよ。わしの質問に答えられなくなったら困るからな」
「畏まりました、お嬢様」
黒田さんが短く応えた次の瞬間、如月コンツェルンの番犬たちが放たれた。
彼らの動きは、警察の特殊部隊のそれよりもさらに洗練された、純粋な『排除』のための暴力だった。足音すら立てずに事務所内へと滑り込んだ四人の巨漢は、強盗犯たちが振り返る暇も与えなかった。
「な、なんだお前らッ!」
ショットガンを持った男が叫び声を上げるより早く、黒田さんの太い腕が男の首に絡みつき、鮮やかな絞め技で一瞬にして意識を刈り取った。男の巨体が、糸の切れた操り人形のように音を立てて崩れ落ちる。
もう一人のリーダー格の男が慌てて腰の拳銃を抜こうとしたが、別のボディガードが放った高圧スタンガンが男の背中を的確に捉えた。
バチバチッ!という青白い火花と破裂音が薄暗い事務所に響き渡る。
「ぎぃあああああッ!」
リーダーの男は悲鳴を上げ、全身を痙攣させながら床に転がった。
死人は出さない。しかし、反撃の意思を根こそぎ奪い取る圧倒的な非致死性の制圧劇。
開始からわずか十秒。銃弾を一発も使わず、血の一滴も流させることなく、新市街のメガバンクを襲撃した凶悪な武装強盗は、黒スーツの男たちによって無様に床に押さえつけられていた。
「安全を確保しました。お嬢様」
黒田さんの合図を受け、如月さんはゆっくりと事務所の中へと足を踏み入れた。
床で縛られ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている女性行員が、助かったという安堵の表情で如月さんを見上げる。普通ならここで『もう大丈夫ですよ』と声をかけるのが正義の味方のテンプレなのだろうが、この令嬢の瞳には、人質も、足元に転がっている数千万の現金も、全く映っていなかった。
彼女の視線は、床にうつ伏せに押さえつけられ、スタンガンの麻痺で震えているリーダーの男にのみ注がれている。
「貴様が、純喫茶『羅針盤』の奥の席で、赤いペンを使って図面を引いていた男じゃな?」
如月さんは、男の顔の前にしゃがみ込み、冷ややかな声で問いかけた。
「な、なんだお前は。警察じゃねえのか。ガキが、どうやってここに……」
「質問に答えよ。テーブルの右奥の脚が微かにガタつくのが許せず、持っていたお守りを無様に蹴り飛ばした、哀れな完璧主義者は貴様か、と聞いておるのじゃ」
如月さんは制服のポケットからハンカチを取り出し、包んであった『白と黒の碁石』を男の目の前に突きつけた。
薄暗いランタンの光に照らされた、高級なスワブテ蛤と那智黒石。
それを見た瞬間、男の顔からサッと血の気が引いた。まさか、自分たちの完璧な逃走計画が、数時間前に喫茶店に置き忘れたただの碁石から辿り着かれたなどと、思いもよらなかったのだろう。
「な、なぜお前がそれを持ってる。それは俺の……!」
「やはり貴様か。全く、呆れた男じゃな。〇・三ミリの厚みの違いすら計算できずに苛立ち、伝統工芸品をテーブルのくさび代わりに使おうとするとは。貴様の完璧主義など、所詮はその程度の矮小なものに過ぎんということじゃ」
「ふざけるなッ!あのテーブルのガタつきがどれだけ俺の神経を逆撫でしたか、お前なんかに分かるか!あと少しで完璧なタイムスケジュールが引けたって時に、白を挟んでも黒を挟んでもピタリと合わねえんだよ!」
凶悪な銀行強盗犯が、女子高生を相手に『喫茶店のテーブルのガタつき』についてマジギレして言い訳をしている。
僕はそのあまりにもシュールな光景に、恐怖を通り越して変な笑いが出そうになった。如月さんの言う通り、これは極上の喜劇だ。数千万の現金を奪った大悪党の最も人間臭くて滑稽な本性が、たった二つの碁石によって完全に暴き出されているのだから。
「傑作じゃ」
如月さんは肩を揺らして笑った。強盗犯の怒りすらも、彼女にとっては極上のルーツを彩るスパイスでしかない。
その時だった。
「動くなッ!警察だ!武器を捨てて両手を頭の後ろに組め!」
廃工場の奥から、いくつもの強烈なフラッシュライトの光と、複数の足音が雪崩れ込んできた。
事務所の入り口付近で見張りをしていた残りの強盗犯二人が、黒田さんたちの制圧の騒ぎに気を取られた隙を突いて、正面で膠着状態を維持していた神宮寺刑事とSITの部隊が、ついに強行突入を仕掛けてきたのだ。
「人質はどこだ!撃つな、人質の安全を最優先しろ!」
神宮寺刑事が、拳銃を構えながら先陣を切って事務所の中へと飛び込んできた。
彼の頭の中には、血も凍るような凄惨な現場か、あるいは強盗犯が人質に銃を突きつけている絶望的な状況が思い描かれていたはずだ。正義の令嬢が独自のルートでアジトを突き止めてくれたとはいえ、突入するのは我々警察の仕事だと、彼は本気で信じていたのだから。
しかし、フラッシュライトの強烈な光が事務所の内部を照らし出した時、神宮寺刑事は拳銃を構えたまま、まるで石像のように完全に硬直した。
「え?」
神宮寺刑事の口から、間抜けな声が漏れた。
彼の目に飛び込んできたのは、重武装の強盗犯たちと繰り広げられる激しい銃撃戦ではなかった。
床には、気絶した男と、スタンガンで麻痺して無様に縛り上げられたリーダーの男。その横には、無傷のまま放置されている人質の女性行員と、現金の詰まった巨大なバッグ。そして、そのリーダーの男を冷たい目で見下ろし、白と黒の碁石を突きつけている、我が校の制服姿の如月瑠璃の姿だったのだ。
「な、なぜ……瑠璃様が、ここに……?」
神宮寺刑事は、自分の脳の処理能力を完全に超えた光景を前に、混乱の極致に陥っていた。
どう見ても、警察の特殊部隊よりも先に、ただの女子高生(と黒スーツの私兵たち)が、本職の強盗グループを無傷で完全制圧してしまっている。しかも、現行犯である男に向かって尋問している内容は、金のありかでも人質の安否でもなく、『テーブルのくさびに使おうとした〇・三ミリの厚みの違い』という、警察から見れば狂気の沙汰としか思えない謎の話題なのだ。
「瑠璃様、これは一体……!貴女様が、たった数人で強盗犯たちを制圧したのですか!?しかも、その手に持っている碁石とテーブルの〇・三ミリとは、いかなる暗号なのでしょうか!」
神宮寺刑事は混乱しながらも、やはり如月さんを『人質を救うために危険を冒して先行突入してくれた正義の女神』として脳内変換しようと必死に足掻いていた。
「うるさい犬じゃな」
如月さんは眩しそうにフラッシュライトの光を避け、心底不快そうに神宮寺刑事を睨みつけた。
「わしの極上の鑑定の時間を邪魔するな。そこのゴミどもと、無価値な紙幣の束は好きに持っていくがいい。ただし、この白と黒の碁石だけは、わしのコレクションとして持ち帰らせてもらうぞ」
「コレクション……?いえ、しかしこれは強盗事件の重要な遺留品である可能性が……」
「黙れ。これは元々、この完璧主義の馬鹿が碁会所から無断で持ち出したものじゃ。元の場所へ返すのが筋というものじゃろう。警察の証拠品保管庫のような薄暗い場所に、この美しい伝統工芸品を幽閉させるわけにはいかん」
如月さんは強盗犯のリーダーから視線を外し、制服のポケットに碁石を大切にしまい込んだ。彼女にとってのこの事件は、男の滑稽な本性を確認できたこの瞬間に、完全に『解決』してしまったのだ。
「サクタロウ、帰るぞ。退屈な警察の事後処理に付き合っている暇はない。明日の学校の課題が残っておるからな」
「あ、はい!今行きます!」
僕は呆然と立ち尽くすSITの隊員たちと、完全にフリーズしている神宮寺刑事の横をすり抜けながら、何度も頭を下げた。
黒田さんたちボディガードも、まるで自分たちはただの散歩の途中で通りすがっただけだと言わんばかりの涼しい顔で、如月さんの後を追って事務所の裏口へと消えていく。
「待ってください瑠璃様!貴女様はまた、ご自身の正義の功績を隠して去っていくおつもりですか!私は、この神宮寺海斗は、貴女様の気高さを絶対に忘れません!」
背後から、神宮寺刑事の感極まったような暑苦しい叫び声が、廃工場の中に空しく響き渡る。
僕は溜息をつきながら、急いでリムジンへと乗り込んだ。
新市街の嘘くさい青空の下で始まった完全武装の銀行強盗事件は、旧市街のアナログな廃工場の中で、〇・三ミリの厚みの違いにキレた完璧主義者の無様な結末と共に、死人を一人も出すことなく幕を下ろした。
僕の胃痛と引き換えに手に入れた平和は、明日もまた、この理不尽で美しい絶対君主によって無残に打ち砕かれる運命にあるのだろう。




