第2話『白と黒』 ~Section 7:膠着する現場と、令嬢の強行突破~
月見坂市を二分する巨大な川。その『旧市街』側、葦が鬱蒼と生い茂る河川敷に、今は使われていない巨大な廃セメント工場が黒々としたシルエットを落としていた。
かつては街の発展を支えたその場所は、今やけたたましいパトカーのサイレンと、周囲の木々を毒々しく染め上げる赤色灯の海に完全に包囲されていた。如月コンツェルンが設計した新市街のAI監視網をすり抜けた四人の武装強盗グループは、ついにこのアナログな迷宮の果てで、警察の網の目に落ちたのだ。
「完全に包囲されている!逃げ場はない!武器を捨てて、人質を解放しなさい!」
拡声器を握りしめ、最前線のパトカーの陰から声を張り上げているのは、警視庁捜査一課の神宮寺海斗巡査部長だった。
その熱のこもった声に応えるかのように、工場の薄暗い入り口付近から、空気を切り裂くような散弾銃の発砲音が轟いた。放たれた無数の散弾が周囲のドラム缶に当たり、けたたましい金属音と火花を散らす。
「引っ込め犬ども!これ以上近づいたら、この女の頭を吹き飛ばすぞ!さっさと逃走用の船とヘリを用意しろ!」
犯人のくぐもった怒号が響く。
特殊事件捜査係の隊員たちは、重たい防弾盾の裏でギリッと歯噛みした。工場の内部は搬入用のベルトコンベアや鉄骨が入り組んでおり、外に配置された狙撃手の射線が全く通らない。人質の命が最優先される警察の絶対的なルールである以上、力技での強行突入は不可能だった。
「おい海斗。お前の謎の情報網のおかげでアジトは特定できたが、完全に膠着状態だぞ」
防弾チョッキを着込んだ瀬田明彦警部補が、忌々しげに舌打ちをした。
「それにしても、よくこんなカメラの死角にある廃工場をピンポイントで見つけ出せたな。一体どういう手口を使ったんだ?」
「私ではありません、瀬田先輩」
神宮寺は拡声器を下ろし、夜空を見上げながら、まるで聖母でも幻視しているかのような恍惚とした表情で言った。
「すべては、正義の女神の導きです。我々がデジタルな捜査網で路地裏の暗闇に迷い込んでいた時、如月瑠璃様は盤外から圧倒的な推理力で、この旧市街の廃工場という『解』を提示してくださった。彼女の気高き心意気と、人命を救わんとする深い慈愛に報いるためにも、私は必ず人質を無事に救出してみせます!」
「お前、またあのお嬢様に会いに行ったのか。本気で目を覚ませよ。あの底知れないエゴイストが、正義感なんぞで動くわけがねえだろうが」
瀬田は心底疲れた顔で額を押さえた。
だが、神宮寺の耳には先輩の忠告など一ミリも届いていない。彼は「瑠璃様、どうか安全な場所で見ていてください!」と心の中で叫びながら、再び拡声器を握り直した。
警察と武装強盗。合法の盾と不法の銃弾による、長く息苦しい膠着状態が続いていた。
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その頃。
警察が血眼になって正面から包囲している廃工場の、完全に裏側。川の堤防沿いの細い未舗装路を、ヘッドライトを落とした漆黒の超高級リムジンが音もなく滑り、ピタリと停止した。
「嘘でしょ。本当に来ちゃったよ」
僕は後部座席のふかふかのシートに深く沈み込みながら、絶望的な声を出した。
防弾ガラス仕様の窓の向こうには、錆びついたトタン屋根と、不気味にそびえ立つ工場の搬入口が見える。遠くの方からは、警察のサイレンの音と、拡声器を使った「武器を捨てろ」という神宮寺刑事の暑苦しい声が微かに聞こえてきた。さらに、先ほどはパンッという乾いた破裂音、おそらく本物の銃声まで聞こえたのだ。
「如月さん!本当にやめましょう!あそこには本物の銃を持った銀行強盗がいるんですよ!警察が包囲してるんだから、僕たちは大人しく家に帰って、プロに任せるべきです!」
僕が必死に懇願するが、対角線上に座る如月さんは、我が校の制服のスカートの皺を優雅に伸ばしながら、鼻で笑った。
「プロじゃと? あの犬のおまわりさんたちがか。笑わせるな」
如月さんは、制服のポケットから例の『白と黒の碁石』を取り出し、親指の腹でゆっくりと撫でた。
「警察の連中は、人質の安全だの適正な手続きだのという、自分たちで作った退屈なルールの盤上に縛られておる。あのような膠着状態を続けていれば、神経質で完璧主義なあの強盗犯のリーダーは、極度のストレスで予測不能な行動に出るかもしれん。万が一、わしの愛する『不条理なルーツを持つ男』が、警察との泥臭い銃撃戦で顔面を撃ち抜かれでもしたら、誰がわしの質問に答えるというのじゃ」
「質問って。まさか、本当にあの碁石のことを聞きに行くつもりなんですか!?」
「当然じゃ。わしはあの男の口から直接聞きたいのじゃよ。なぜ、九・五ミリの白石と九・八ミリの黒石の間に挟まれた〇・三ミリの絶望の果てに、紙ナプキンという無様な妥協を選んだのかをな。その時の屈辱と怒りに歪んだ顔を特等席で鑑賞せずして、何が極上の喜劇か」
この人は、本気だ。
銀行に押し入り、人質を盾にして数千万を奪った凶悪犯。警察の特殊部隊ですら手出しできない状況に陥っているというのに、この絶対君主の頭の中には『喫茶店のテーブルの脚のガタつき』に対する興味しかないのだ。神宮寺刑事が信じて疑わない『人命を救う正義の女神』の正体は、ただの『知的好奇心の化け物』である。
「お嬢様」
運転席の分厚い仕切りガラスが下がり、黒スーツに身を包んだ巨漢の専属ボディガード、黒田さんが振り返った。
「当家の軍事衛星と、小型の熱源探知ドローンによる内部の索敵が完了しました。正面の入り口付近で警察と対峙している見張りが二名。そして、この裏口から入った奥の旧・事務所エリアに、現金の入ったバッグと人質の女性行員、さらにリーダー格と思われる男を含めた二名が待機しています」
「ご苦労じゃ、黒田。裏口の警備は?」
「極めて手薄です。警察の包囲網も、川に面したこの裏手までは完全に回り切れておりません。リーダー格の男は、おそらくこの裏口からモーターボートか何かで水路を使って逃走する算段でしょう」
黒田さんの淡々とした報告に、如月さんは冷酷で美しい笑みを浮かべた。警察の最新鋭の機器を遥かに凌駕する如月グループの強大な情報網が、すでに工場の内部構造を丸裸にしていた。
「実に滑稽な逃走計画じゃな。だが、〇・三ミリの段差すら埋められなかった男に、完璧な逃走劇など完遂できるはずがない」
如月さんは白手袋をはめ直し、スッと目を細めた。
「黒田。これより、如月コンツェルンの『私有地』への不法侵入者を排除する。警察の退屈なルールなど知ったことか。盤面ごと力でひっくり返せ。ただし、リーダーの男の顔面だけは傷つけるなよ。わしが直接、尋問するからな」
「畏まりました。これより、物理的な排除を開始します」
「ちょっと待ってください黒田さん!物理的な排除って、完全に暴力じゃないですか!民間人が勝手に突入したら、警察に怒られるどころの騒ぎじゃ済まないですよ!」
僕の悲鳴のような制止は、黒田さんたちには全く届かなかった。
四人の屈強なボディガードたちが、音もなくリムジンから降り立つ。彼らの手には、警察のSITが持っているような重火器はないが、代わりに特殊な警棒や高圧スタンガンが握られていた。どう見てもただの警備員ではない。月見坂市を裏から支配する巨大財閥の、実戦を経験した私兵たちの本気の顔つきだった。僕の手に負えないレベルのトラブルはコンツェルンの裏の力で処理されるというが、これはいくらなんでもやりすぎだ。
「行くぞサクタロウ。お主はわしの後ろで、大人しく盾の役目を果たしておれ」
如月さんがリムジンのドアを開け、夜の河川敷へと降り立った。
僕はもう逃げられないことを悟り、重いリュックを抱き抱えるようにして車を降りた。女性である如月さんに不用意に触れることは絶対に許されないが、万が一の時に彼女の前に立ち塞がるくらいの覚悟は、この数日間の理不尽な下僕生活の中で嫌でも培われてしまっていた。
川の生臭い風と、廃工場の赤錆の匂いが鼻を突く。
建物の向こう側、正面の入り口付近では、拡声器を使った神宮寺刑事の必死の説得が虚しく響き続けている。警察がルールに従って馬鹿正直に膠着状態を維持してくれているおかげで、裏口の警戒は驚くほど手薄だった。
「開けよ」
如月さんの静かな号令と共に、黒田さんが錆びついた鉄扉に手をかけた。
盤外からの、常識を無視した強行突破。
警察のハイテク装備でも、強盗犯の周到な計画でもない。ただの女子高生の「碁石のルーツを知りたい」という純粋で狂気じみた好奇心が、すべての状況を物理的に粉砕しようとしていた。




