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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『白と黒』 ~Section 6:盤外の追跡と、すれ違う熱情~

 老舗の碁会所『玄黙亭』の内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 磨き抜かれた廊下の板張り、仄かに漂う伽羅の香り、そして奥の座敷から微かに聞こえてくる、碁石が盤を打つ硬質でリズミカルな音。月見坂市の権力者たちが密かに集うというだけあって、高校生の僕が足を踏み入れるにはあまりにも敷居が高すぎる空間だ。


「お待ちしておりました、如月瑠璃様。お祖父様には平素より大変お世話になっております」


 玄関の上がり框で僕たちを出迎えたのは、和服をピシッと着こなした初老の男性だった。この玄黙亭の責任者である『席亭』だ。如月さんが車内から一本電話を入れただけで、一見さんお断りの高級サロンの主が、額に汗を浮かべて最敬礼で待機しているのだから、如月コンツェルンの威光というのは本当に恐ろしい。


「堅苦しい挨拶は不要じゃ。今日は祖父の用事ではなく、わし個人の個人的な興味で参った。少しばかり、厄介な探し物をしておってな」


 如月さんは我が校の制服のまま、堂々とした足取りで通された応接室のソファに腰を下ろした。僕もその斜め後ろに、借りてきた猫のように小さくなって控える。


 だが、この静謐な和の空間には、決定的なノイズが一つ混ざり込んでいた。


「瑠璃様。この神宮寺海斗、貴女様の背後は完全にお守りしております!どうかご安心を!」


 応接室の入り口の襖の前に、なぜか仁王立ちしている長身のスーツ姿。神宮寺刑事である。


 彼はあろうことか、『周辺の警備』という名目で僕たちの後ろに勝手についてきてしまったのだ。瀬田刑事は「俺は外で本命のホシを探す」と呆れて路地裏へ消えていったが、この熱血刑事は完全に瑠璃さんの自称・専属ボディガードと化していた。


「……」


 如月さんは神宮寺刑事を完全に視界から消去(ミュート)しているようだった。一瞥もくれず、白手袋をはめた手でハンカチを広げ、例の白と黒の碁石をテーブルの上に置いた。


「席亭。この石に見覚えはあるか」


「これは……」


 席亭は顔を近づけ、目を細めた。


「間違いございません。私どもが特注で職人に作らせている、スワブテ蛤と那智黒石のセットです。裏側に小さく当亭の焼き印が打たれております。しかし、なぜ如月様がこれを?」


「旧市街の端にあるレトロな喫茶店の、テーブルの下に落ちておったのじゃ。それも、白と黒が一つずつな」


 如月さんの言葉に、席亭はハッとしたように顔を上げた。


「白と黒が一つずつ……。ああ、なるほど。それでしたら、持ち主の心当たりがございます。当亭の常連に、少しばかり神経質な殿方がおりましてな」


「ほう。詳しく聞こうか」


 如月さんが身を乗り出す。入り口に立つ神宮寺刑事も、なぜか『ゴクリ』と生唾を飲み込んで聞き耳を立てていた。


「その方は、対局中に極度に集中すると、無意識に碁笥から白と黒の石を一つずつ取り出し、手の中でカチカチと弄る癖がおありなのです。そして対局が終わった後も、そのまま無意識にズボンのポケットに入れて持ち帰ってしまうことが度々ありまして。後日、ご本人も気づいて慌てて返しにいらっしゃるのですが、今回もまた無意識にお持ち帰りになってしまったのでしょう」


「やはりな。極度の完璧主義と神経質を併せ持つ男の、精神安定剤というわけじゃ」


 如月さんは満足げに頷いた。彼女のプロファイリングは、またしても完璧に的中していたのだ。


「席亭、その男の素性は分かっておるか?職業や、よく出入りしている場所などじゃ」


「職業までは存じ上げませんが、いつも大きな黒いボストンバッグを持ち歩いておられます。それと……」


 席亭は少し言い淀み、申し訳なさそうに眉を下げた。


「ここ最近、そのお客様がお帰りになった後、玄関の三和土や廊下に、白っぽく乾燥した泥のようなものがよく落ちているのです。当亭は清掃を徹底しておりますので、少し目立ってしまいまして。何か、埃っぽい作業現場のような場所に出入りされているのかもしれません」


「白っぽい泥、じゃと?」


 如月さんの瞳の奥で、カチリと論理の歯車が噛み合う音がした。


 彼女はゆっくりと立ち上がり、応接室の窓から、夕暮れに染まり始めた旧市街の景色を見下ろした。


「サクタロウ。旧市街で白っぽく乾燥した泥が大量に付着する場所といえば、どこか分かるか」


「えっと……旧市街の端にある、川沿いのエリアじゃないですか?あそこには昔、セメントや石膏を扱う小さな町工場がたくさんありましたけど、今はほとんど廃業して廃工場になってるはずです」


 僕が旧市街の住人としての知識を答えると、如月さんは我が意を得たりとばかりに指を鳴らした。


「ビンゴじゃ。大きなボストンバッグ、図面と定規、そして廃工場の白い泥。すべてが繋がったぞ。その神経質な男は、これから起こす『何か』のために、人目を避けて川沿いの廃工場に潜伏しておるのじゃ。そして今日の昼間、最終的な計画の確認をするためにあの喫茶店に立ち寄り、テーブルの〇・三ミリのガタつきに発狂して、この碁石を蹴り飛ばした」


 如月さんはテーブルの上の白黒の碁石を素早く回収し、制服のポケットへと収めた。


「行くぞサクタロウ。目的地は川沿いの廃工場じゃ。この最高に馬鹿げた喜劇を演じた完璧主義者の面を、何としても拝んでやらねば気が済まん」


「ええっ、本当にいくんですか!?廃工場に隠れてるなんて、絶対まともな人じゃないですよ!」


 僕が悲鳴のような声を上げた、まさにその瞬間だった。


「おおおおおおおッ!!」


 応接室の入り口から、地鳴りのような咆哮が上がった。


 驚いて振り返ると、神宮寺刑事が両手で顔を覆い、滝のような涙を流して男泣きしていたのだ。


「素晴らしい……!なんという圧倒的な推理力、なんという慈愛に満ちた正義感!そういうことだったのですね、瑠璃様!」


「は?」


 如月さんが、心底理解不能という顔で神宮寺刑事を睨みつけた。


 しかし、神宮寺刑事の暴走する熱血エンジンは、もう誰にも止められなかった。彼はズカズカと応接室の中央に進み出ると、如月さんに向かって熱烈な演説を打ち始めたのだ。


「私は恥ずかしい!貴女様が『泥臭い事件には興味がない』と仰った言葉を、一瞬でも冷酷だと思ってしまった自分の浅はかさが!貴女様は、警察の捜査網が完全に行き詰まっていたこの状況を打破するため、独自のルートで強盗犯の潜伏先を炙り出してくださったのですね!」


「……強盗犯?」


「そうです!新市街の銀行を襲い、人質を盾にして逃走したあの卑劣な武装強盗グループです!彼らが旧市街に逃げ込んだことは分かっていましたが、まさか川沿いの廃工場に潜伏していたとは!碁石一つから犯人のアジトを特定する神業、この神宮寺海斗、一生貴女様についていく覚悟ができました!」


 神宮寺刑事はビシッと敬礼を決め、感動に打ち震えている。


 僕は絶望的な気分で天井を仰いだ。


 完全に、盛大な勘違いだ。


 如月さんは銀行強盗のことなど一ミリも知らないし、全く興味もない。彼女の頭の中にあるのは、『喫茶店のテーブルの脚に碁石を突っ込もうとした神経質なバカ』を特定し、その滑稽な姿を観察して嘲笑うことだけだ。しかし、神宮寺刑事の脳内では、それが『人質を救うために暗躍する正義の令嬢の推理』へと見事に変換されてしまっているらしい。


「サクタロウ」


 如月さんが、極めて冷ややかな声で僕を呼んだ。


「この犬のおまわりさんは、先ほどから一人で何を騒いでおるのじゃ?わしの極上の喜劇の鑑賞を邪魔する気か」


「いや、あのですね如月さん。どうやら、僕たちが今から会いに行こうとしているその『神経質な完璧主義者』っていうのが……新市街で人質をとって逃走中の、本物の銀行強盗犯みたいなんですよ」


 僕が震えながら事実を伝えると、如月さんはほんの数秒だけ目を瞬かせた。


 そして、ふっと鼻で笑ったのだ。


「ほう。大犯罪者が、決行直前に喫茶店の〇・三ミリの段差に発狂していたというわけか。それはますます傑作じゃな。ルーツの不条理さに拍車がかかるというものじゃ」


 怯むどころか、彼女の知的好奇心はさらに危険な方向へと跳ね上がってしまった。


「瑠璃様!危険です、あの廃工場には我々警察の特殊事件捜査係(SIT)を突入させます!貴女様はここで安全に……」


「黙れ。わしのコレクションのルーツを、警察の土足で荒らされてたまるか。黒田、車を出せ!川沿いの廃工場へ向かうぞ!」


 如月さんは神宮寺刑事の制止を完全に無視し、ボディガードたちを引き連れて碁会所を後にした。


 残された神宮寺刑事は、「ああ、なんと勇敢な……!私もすぐにお供します!」とさらに勘違いを深めて号泣しながら、慌てて無線機を取り出して瀬田刑事や本部に連絡を取り始めた。


 僕は一人、碁会所の美しい日本庭園に取り残され、胃の辺りを強く押さえた。


 なぜこうなるのか。僕たちはただ、落ちていた碁石の持ち主を探していただけなのに。なぜ、完全武装の銀行強盗が立てこもるアジトへ、警察の特殊部隊よりも先に乗り込む羽目になっているのか。


 夕闇が迫る旧市街の空は、新市街の嘘くさい青空とは違い、深く重たい群青色に沈みかけている。僕のささやかな日常は、令嬢の異常な美学と熱血刑事の空回りによって、ついに後戻りのできない危険な領域へと引きずり込まれてしまったのだった。



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