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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『白と黒』 ~Section 4:迷走する捜査網と、盤上の手がかり~

 月見坂市の旧市街。その外れにある、今は使われていない巨大な高架下の暗がりに、数台のパトカーと覆面車両が赤色灯を回転させながら集結していた。


 分厚いコンクリートの橋脚の陰に、一台の白いワンボックスカーがひっそりと乗り捨てられている。つい数十分前まで、新市街のメガバンクから数千万円の現金と人質を乗せて逃走していた、あの強盗グループの車両だ。


 全身を特殊防弾装備で固めたSITの隊員たちが、アサルトライフルを構えながら慎重に車両のドアを開け放つ。だが、そこから飛び出してきた報告は、現場の刑事たちを深い絶望へと突き落とすものだった。


「車両内にマル被の姿なし!人質、および現金の入ったバッグも発見できません!完全に『もぬけの殻』です!」


 SIT隊員の叫びに、規制線の外で待機していた神宮寺海斗は、持っていたバインダーを怒りに任せてパトカーのボンネットに叩きつけた。鈍い音が響き、周囲の警官たちがビクッと肩を震わせる。


「くそっ!やられた!奴ら、最初からこの高架下で別の車両に乗り換えるか、徒歩で散開して逃げる計画だったんだ!」


 神宮寺は頭を抱え、忌々しげに高架下の周囲を見渡した。


 新市街であれば、仮に車を乗り捨てたとしても、数メートルおきに設置されたAI監視カメラや、行き交う自動運転車のドライブレコーダーが、犯人たちの次の足取りを秒単位で追跡してくれたはずだ。


 だが、ここは旧市街である。如月コンツェルンの完璧な管理網から外れた、アナログで不規則な街。入り組んだ路地裏にはカメラの死角が無数に存在し、地元住民でさえ迷うような細い道が、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。


「海斗、落ち着け。鑑識を呼んで車内の遺留品を徹底的に洗わせろ。髪の毛一本、靴の泥一つでも見落とすな。人質を連れたまま大の男四人が動けば、必ずどこかに痕跡は残るはずだ」


 くたびれたトレンチコート姿の瀬田明彦が、静かな、しかし重みのある声で指示を飛ばす。


 彼は咥えていた煙草を携帯灰皿にしまい、眉間に深い皺を刻みながら白いワンボックスカーのタイヤを観察した。


「瀬田先輩。旧市街の全域を封鎖して、しらみ潰しに家屋を捜索する許可を本部に取りましょう!このまま時間をかければ、人質の命が危ない!」


「無茶を言うな。この旧市街にどれだけの人間が住んでると思ってる。令状もなしに全家屋を捜索できるわけがねえだろうが。我々は警察だ、法というルールの中で盤上の駒を動かすしかねえんだよ」


 瀬田の正論は、神宮寺の焦燥感をさらに煽るだけだった。


 神宮寺は知っている。法という盤上のルールに従ってチンタラと駒を動かしている間に、理不尽な悪意によって消されていく命があることを。新市街のメガバンクを白昼堂々襲撃するようなプロの犯罪集団が、ただ大人しく人質を生かしておく保証などどこにもない。


「盤上のルール……」


 神宮寺はうわ言のようにその言葉を反芻し、そして、決意に満ちた目で旧市街の奥深く、赤煉瓦の建物が密集する方向を睨みつけた。


 このアナログな迷宮という盤上で、警察のハイテク機器を凌駕する『目』を持つ存在を、彼は知っている。物理的な痕跡のルーツを辿り、どんな微細なノイズも見逃さない絶対的な鑑定士。


 あの方なら。如月瑠璃という、美しく気高き正義の令嬢なら、必ずこの行き詰まった盤面をひっくり返してくれるはずだ。


 神宮寺は瀬田の目を盗み、密かに自分のスマートフォンを取り出して、旧市街の地図アプリを開いた。彼の中で、警察の組織的捜査というルールを逸脱し、一人の少女にすがりつくという危険な決断が、今まさに下されようとしていた。


**


 同じ頃。


 警察が血眼になって探している『正義の令嬢』は、強盗事件など一ミリも知らぬ顔で、漆黒のリムジンの後部座席で優雅に足を組み、ハンカチの上の碁石を眺めていた。


「如月さん。その碁石の持ち主が、どこの碁会所に通っているかまで本当に分かるんですか?」


 僕は対角線上のシートに座り、恐る恐る尋ねた。


 先ほどのレトロ喫茶で、彼女はテーブルのガタつきと紙ナプキン、そして白黒の碁石の『〇・三ミリの厚みの違い』から、持ち主が極度の完璧主義者であることを暴き出した。そこまでは僕にも理解できた。だが、この巨大な月見坂市の中で、どこの碁会所かを特定するなんて、さすがに魔法でも使わない限り不可能に思える。


「魔法など使わん。すべてはモノが語る物理的な情報じゃよ、サクタロウ」


 如月さんは、僕の心を読んだかのように鼻で笑った。


「よく見よ。この黒石、那智黒石の表面には、極めて薄く、だが確実に『椿油』が塗布されておる」


「椿油?髪の毛に塗ったりする、あの油ですか?」


「左様。高級な黒石は、乾燥して白っぽく変色するのを防ぐために、定期的に椿油で磨いて艶を出すという手入れが必要になる。だが、この石に付着している油からは、微かに『伽羅(きゃら)』の香木の匂いが混ざっておるのじゃ」


 如月さんは黒石を顔の前に近づけ、目を閉じた。


「伽羅の香を焚き染めた空間で、椿油を使って丁寧に石を磨く。そんな風流で金のかかる真似をしている碁会所は、この月見坂市広しといえど、旧市街の四丁目にある老舗『玄黙亭(げんもくてい)』くらいしか存在せん。政治家や財界の重鎮も通う、一見さんお断りの高級サロンじゃな」


「へええ……!匂い一つでそこまで特定できるなんて、相変わらず人間離れしてますね」


 僕が素直に感心すると、如月さんは機嫌を損ねるどころか、少しだけ誇らしげに顎を上げた。


「人間の五感など、デジタル機器のセンサーに比べれば曖昧なものじゃ。だが、そこから『ルーツ』を想像し、論理の糸を紡ぎ出すのは人間の脳にしかできん芸当じゃよ。防犯カメラの映像を眺めているだけの警察には一生分からん世界じゃな」


 彼女は容赦なく警察機構をこき下ろした。


 その言葉通り、彼女は監視カメラの死角だらけのこの旧市街において、純粋なアナログ的アプローチだけで、持ち主の足取りを正確に辿っているのだ。


「それにしても、なんでその人は、わざわざ碁会所の石を自分のポケットに入れて持ち歩いていたんでしょうか?盗んだってことですか?」


「盗んだのではないじゃろう。無意識の癖じゃな」


 如月さんは懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。


「碁石というのは、対局中に考え事をしながら、無意識に手の中でカチカチと弄ってしまう者が多い。あの完璧主義者の男も、極度の緊張や神経質な思考を落ち着かせるための精神安定剤として、碁会所の石を無意識にポケットに滑り込ませて持ち帰る癖があったのじゃろう。マスターの話していた『大きな図面に定規で線を引いていた』という異常な神経質さとも符号する」


 なるほど、と僕は納得した。


 何か重大な計画を前にして神経をすり減らしていた男が、心を落ち着かせるためにポケットの中の白と黒の石を握りしめていた。だが、喫茶店のテーブルの脚がガタつくというイレギュラーに遭遇し、完璧主義ゆえに発狂し、お守り代わりの石を『くさび』として無駄遣いしようとした。


 すべてが一本の線で繋がっていく。


「運転手。四丁目の玄黙亭に向かえ。あそこは我が如月コンツェルンの役員も贔屓にしておる店じゃ。少し脅せば、あの白黒の石を持ち帰る常連客の身元くらい、すぐに吐くじゃろう」


「畏まりました、お嬢様」


 運転席からの野太い返事と共に、リムジンは滑らかに進路を変えた。


 僕は窓の外を流れる旧市街の景色をぼんやりと眺めた。


 新市街のような嘘くさい青空は見えず、入り組んだ建物の影が路上に複雑な模様を描いている。僕はこのアナログな街の雰囲気が嫌いではないが、まさかこの影の中に、銀行強盗という本物の巨悪が潜んでいるなどとは夢にも思っていない。


 僕たちはただ、喫茶店に落ちていた『厚みの違う二つの碁石』の持ち主をからかいに行くだけだ。その些細な寄り道が、警察の迷走する捜査網と正面衝突する未来が、あと数分後に迫っているのだった。



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