第2話『白と黒』 ~Section 3:碁石の厚みと、消えた完璧主義者~
旧市街の路地裏にひっそりと佇む、純喫茶『羅針盤』。
帆船の模型とアンティークランプが彩る薄暗い店内の最奥で、僕の目の前に座る令嬢は、すっかり『鑑定士』の顔になっていた。
「実に見事な不純物じゃ」
如月さんは白手袋をした指先で、赤いテーブルの上に置かれた白と黒の二つの碁石を、まるで貴重な宝石でも扱うかのようにそっと転がした。
コロン、と硬質で澄んだ音が鳴る。
僕も自分のアイスコーヒーを脇に押しやり、身を乗り出してその小さな石を観察した。
「ただの碁石に見えますけど、そんなに珍しいものなんですか?」
「お主は本当にモノの価値が分からん男じゃな。ただのプラスチックやガラスの安物と一緒にされては、この石たちが不憫じゃ」
如月さんは白い方の石を指先で摘み上げ、アルコールランプの揺らめく光に透かした。
「この白石。美しい乳白色と、表面に微かに浮かぶ細やかな縞模様が見えるか?これは日向特産の『スワブテ蛤』を削り出して作られた、最高級品の証じゃ。そしてこちらの黒石も、ただの黒い石ではない。三重県熊野市でしか採れない『那智黒石』じゃよ。どちらも職人が一つ一つ手作業で磨き上げた、伝統工芸品と言っていい代物じゃ」
「蛤の貝殻と、ブランドものの石……。そんな高級品が、なんでこんな喫茶店の床に落ちてたんですか?しかも、白と黒が一つずつなんて中途半端に」
囲碁は基本的に、碁石がたくさん入った『碁笥』という器から石を取り出して打つものだ。ポケットに白黒一つずつだけを入れて持ち歩くなど、普通に考えればありえない。
「それがこのモノに隠されたルーツの面白いところじゃ」
如月さんは今度、両手の指先で白と黒の石を一つずつ摘み、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
石についた『匂い』を嗅いでいるのだ。
客観的に見れば、女子高生が喫茶店で拾った石の匂いを必死に嗅いでいるというかなりヤバい図なのだが、僕はもう慣れてしまったので、周囲の客から変な目で見られないようにさりげなく背中で彼女を隠す壁役に徹した。
「なるほどな」
数秒後、如月さんは目を開け、満足げに口角を上げた。
「サクタロウ。この二つの石には、碁盤の上で長年打たれてきたような摩耗の痕跡がない。代わりに、表面に極めて微細な引っ掻き傷が無数についておる。これは、硬貨や金属製の鍵と一緒に、長期間ズボンのポケットの中で転がされていた証拠じゃ」
「じゃあ、落とした持ち主は、この高級な碁石をお守りか何かわりにして、いつも持ち歩いていたってことですか?」
「その通りじゃ。そしてもう一つ。この石からは、この珈琲の香りが漂うレトロな喫茶店には全く似つかわしくない、ある特殊な匂いが付着しておる」
「匂い?どんな匂いですか?」
「特殊なインクと、古びた紙束。そして微かな金属の錆の匂いじゃ。まるで、地下の巨大な金庫室にでも保管されていたかのような、無機質で冷たい匂いじゃな」
金庫室の匂い。僕には全くピンとこない例えだったが、如月さんの嗅覚が常人のそれを遥かに凌駕していることは、これまでの経験で痛いほど知っている。
「それにしても、妙じゃな」
如月さんは眉をひそめ、テーブルの上に置かれた白と黒の石を、今度は指の腹で交互に撫で始めた。
ツー、ツーと、白手袋の先が石の表面を滑る。
やがて彼女は、信じられないものを見つけたというように目を丸くした。
「サクタロウ、お主も指でこの二つの石の『厚み』を触って比べてみよ。ただし、素手でベタベタと触るなよ。ハンカチ越しじゃ」
「は、はい」
僕はズボンのポケットから清潔なハンカチを取り出し、言われた通りに白と黒の石を交互につまんでみた。
ツルツルとした手触り。しかし、言われてみれば、確かにほんの僅かな違和感がある。
「あれ?なんか、黒い石の方が、白い石よりもちょっとだけ分厚いような気がします。気のせいですかね?」
「気のせいではない。お主の言う通り、黒石の方がわずかに分厚く作られておる。目視では判別できんレベルじゃが、指先の感覚なら分かるじゃろう」
如月さんは得意げに腕を組んだ。
「これは欠陥品ですか?高級品なのに大きさが違うなんて」
「無知とは罪じゃな。これは欠陥ではない。むしろ、職人の完璧な計算によるものじゃ」
如月さんはまるで美術品の解説をする学芸員のように、静かな声で語り始めた。
「人間の目というものはいい加減なものでな。同じ大きさの円でも、白色は膨張して大きく見え、黒色は収縮して小さく見えるという錯覚が起きる。だから、碁盤の上に並べた時に白と黒が全く同じ大きさに見えるよう、高級な碁石はあえて『黒石の方を約〇・三ミリほど大きく、厚く作る』のじゃよ」
「〇・三ミリ……!そんなわずかな差を、触っただけで分かったんですか!?」
僕は本気で驚愕した。定規を使っても測れるかどうかの〇・三ミリの段差を、指先の感覚だけで見抜くなんて、もはや人間の精度を超えている。
「ふん、わしの鑑定眼をなめるな。だが、問題はそこではない。なぜ、常にポケットに入れて持ち歩くほど愛着を持っていた高級なお守りを、このテーブルの下に白黒揃って捨てていったのか、ということじゃ」
如月さんは腕を組み、僕たちが座っているこの席の周辺を鋭い視線で観察し始めた。
僕はその時、自分の足元でカタ、と鳴った音に気づいた。
僕が体重を移動させるたびに、この赤いテーブルの右奥の脚がわずかに浮き沈みし、ガタガタと揺れるのだ。古い店特有の、床とテーブルの噛み合わせの悪さである。
「如月さん。もしかして、このテーブルのガタつきが関係しているんじゃないですか?」
僕がテーブルを少し揺らしてみせると、如月さんの瞳の奥で、カチリと何かのピースがはまる音がしたように見えた。
彼女はすぐさまテーブルの下に潜り込み、右奥の脚の隙間を覗き込んだ。
「サクタロウ。お主、たまには役に立つではないか」
テーブルの下から出てきた如月さんの顔には、邪悪で楽しげな笑みが浮かんでいた。
彼女の指先には、小さく千切られて固く丸められた、紙ナプキンの残骸が摘ままれていた。
「テーブルの脚と床の隙間に、これがくさびとして詰め込まれておった。どうやら直前にここに座っていた客は、このテーブルの僅かな揺れがどうしても我慢できなかったようじゃな」
如月さんは紙ナプキンの残骸を灰皿の上にコロンと転がした。
「マスターを呼べ。直前までこの席にいた客について聞き込みをするぞ」
僕は言われるがまま席を立ち、カウンターの奥で静かにグラスを磨いていた初老のマスターに声をかけた。
マスターは僕たちのテーブルにやってくると、赤いベルベットの椅子を懐かしそうに撫でながら静かに口を開いた。
「このお席に座っていたお客様ですか。ええ、よく覚えていますよ。つい三十分ほど前にお帰りになりました。中肉中背の、目付きの鋭い男性でしたね。大きくて黒い、空っぽのボストンバッグを足元に置いておられました」
「その男は、ここで何をしていた?珈琲を飲んでくつろいでいたわけではあるまい」
如月さんの直球すぎる質問にも、マスターは嫌な顔一つせず、穏やかな声で答えた。
「ええ、お嬢さんの仰る通りです。あのお客様は、ちっともくつろいでおられませんでした。ひっきりなしに左腕の腕時計を確認しては、貧乏ゆすりをしておられましたから。それに、テーブルの上に大きな建物の図面のようなものを広げて、定規を使って赤いペンで何本も何本も、ものすごく神経質に直線を引いておられましたよ。少しでも線がズレると、舌打ちをして最初から引き直すほどでした」
「ほう。図面に定規で直線を。かなりの完璧主義者というわけじゃな」
「はい。ただ、この古いテーブルの右奥の脚が少しガタつくものですから、直線を引くたびにペン先がブレてしまって、随分と苛立っておいででした。私が別の席へご案内しましょうかと声をかけたのですが、『ここでいい!』とひどく怒鳴られてしまって」
マスターは困ったように微笑み、一礼してカウンターへと戻っていった。
残された僕たちは、テーブルの上に並んだ白と黒の碁石を見つめ直した。
大きなバッグ。建物の図面。定規で引かれる正確な直線。そして、異常なまでの時間の確認。
僕のような凡人の頭でも、その客がただのサラリーマンや建築家ではない、何かヤバい『計画』の最終確認をしていたのではないかという想像がつく。
「謎はすべて解けたぞ、サクタロウ」
如月さんはメロンクリームソーダの残りをストローで一気に飲み干すと、満足げなため息をついた。
「あの男は、これから何らかの極めて精密な行動を起こす予定だった。その最終的なタイムスケジュールを図面に引いておったのじゃろう。だが、このテーブルの脚のガタつきが、彼の完璧主義な神経を激しく逆撫でした」
彼女は白と黒の碁石を、テーブルの右奥の脚の近くへと滑らせた。
「男は苛立ちを抑えきれず、ポケットに入っていた自分のお守り……この高級碁石を、テーブルのガタつきを止めるための『くさび』として使おうとしたのじゃ」
「くさびって、この碁石をテーブルの脚の下に噛ませようとしたってことですか?いくらなんでも高級品をもったいない!」
「焦るな。喜劇はここからじゃ」
如月さんの笑みが、さらに深く、悪魔的になった。
「男はまず、白石を脚の下に噛ませた。白石の厚みは九・五ミリ。だが、それではまだ隙間が埋まらず、テーブルは揺れたのじゃろう。そこで男は白石を諦め、次に黒石を噛ませた。黒石の厚みは九・八ミリ。……今度は、厚すぎたのじゃ」
「あっ!」
僕は思わず声を上げた。
先ほど如月さんが語った、白と黒の碁石に隠された『〇・三ミリの厚みの違い』。
それが、こんな場面で効いてくるというのか。
「お守りとして使っていたほどじゃから、男は囲碁の愛好家じゃろう。当然、黒石の方が〇・三ミリ分厚いことは知っていたはずじゃ。だが、白では薄く、黒では厚い。男が求めていた完璧な平坦さは、この〇・三ミリの段差の間に存在していたのじゃ」
如月さんはくくっと肩を揺らして笑った。
「想像してみよ。これから大勝負に挑むという極限の緊張状態の中で、たった〇・三ミリの誤差のせいで定規の線がズレる。男の完璧主義な神経は、ついに限界を突破して発狂寸前になったじゃろうな。結局、男はこの美しき伝統工芸品を苛立ち紛れに蹴り飛ばし、その辺にあった紙ナプキンを丸めて脚に突っ込んだというわけじゃ」
それは、なんとも滑稽で、そして不条理な真相だった。
何か恐ろしい犯罪の計画を立てていたかもしれない大悪党が、直前に喫茶店のテーブルの〇・三ミリの揺れにブチギレて、自分のお守りである高級品を八つ当たりで蹴り飛ばしたのだ。
ドラマや映画のようなカッコいい悪党とは程遠い、あまりにも矮小で人間臭い真実。
「傑作じゃ」
如月さんは腹を抱えるようにして笑いを噛み殺した。
「人間の神経質さと、伝統工芸品の最高に無駄な使い方。この〇・三ミリの段差が生み出した喜劇は、わしの美学を存分に満たしてくれる極上のルーツじゃ。サクタロウ、この碁石を蹴り飛ばした愚かで滑稽な完璧主義者の面を、是が非でも拝みに行きたくなったぞ」
「ええっ!?いくらなんでも、もう三十分も前に店を出た人を探すなんて無理ですよ!」
「無理ではない。手掛かりはすでに盤上に揃っておる」
如月さんは白手袋の指先で、テーブルの上の碁石をコンッと弾いた。
「この碁石の摩耗具合と、特有の打ち傷。これは、ただの個人所有の石ではない。客層のレベルが極めて高い、特定の高級碁会所で使われている石を、無意識にポケットに入れて持ち帰ってしまったものじゃ。行くぞサクタロウ、まずはこの石の『本来の居場所』である碁会所へ向かう」
彼女は迷うことなく席を立ち、お代の数倍はあろうかという紙幣をテーブルに置き去りにして、店の出口へと向かった。
メロンクリームソーダを堪能して終わるはずだった僕の平穏な日常は、またしてもこの令嬢の知的好奇心という名の暴走列車に轢き殺されてしまった。
僕は重いリュックを背負い直し、大きなため息をつきながら、白と黒の碁石をハンカチに包んで回収した。僕たちがこの後、旧市街を揺るがす本物の銃火器を持った強盗事件の真っ只中に突っ込んでいくことになるなど、神様でも予測できなかったに違いない。




