第6話 アキラの夜
第6話 アキラの夜
1 港湾の風
幕張のフェアから、一週間が経った。
夜の港。あの直線道路に、街灯がまばらに光っている。潮風がアスファルトの匂いを運び、遠くの埠頭で、ガントリークレーンが軋む音がしていた。
アキラは、ガードレールにもたれて煙草に火をつけた。
二十歳。きっちり固めたリーゼント。背中に派手な昇り龍の刺繍が入ったスカジャン。目つきは鋭い。だがその目の下には、隠しきれない疲れの影がこびりついていた。
足元には、愛車のCB400SF。十年落ちの中古だ。タンクには転倒傷がいくつも走り、マフラーはバイト代をはたいて自分で溶接した手製品だった。
見てくれは、ぼろぼろだ。
だが、エンジン音だけは、誰よりも澄んでいる。アキラは、それだけを誇りにしていた。
「……はあ」
紫煙を吐いて、夜空を見上げる。星は見えなかった。湾岸の工場の明かりが、空を白く塗りつぶしている。
スマホが震えた。鉄蛇の仲間からのLINEだった。
『アキラ、今夜集合ある?』
アキラは、ほとんど迷わずに返した。
『ねえ。各自好きにしろ』
スマホをポケットにねじ込み、また煙草をくわえる。
前は、違った。
毎晩のように集まり、どこかのチームとシマを巡って揉め、夜明けまで走った。それが当たり前だった。それしか、知らなかった。
だが、あの夜から、何かが変わってしまった。
LUYのベースに、二十台のエンジンが呼吸を合わせた、あの夜。
体中の血が沸騰して、ハンドルを握る手が勝手にリズムを刻んで、気がついたら、生まれて初めて「走る」ということの意味を考えていた。
ただ速く走ることじゃない。誰よりもデカい音を出すことでもない。
誰かと息を合わせて、ひとつの音になること。
――それが、本当の族ってもんなんじゃねえか。
だが、それを仲間に言っても、たぶん通じない。あいつらには、まだ名前と、目立つことと、誰かを黙らせる音が必要なのだ。
少し前までの、自分と同じように。
アキラは煙草を足元に捨て、ブーツの爪先で踏み消した。
その時、遠くから、エンジン音が近づいてきた。
2 父親の影
音は、一台だけだった。
ヘッドライトが近づいてきて、アキラの三メートル手前で急停止した。古いゼファーだった。マフラーから、耳障りな破裂音が漏れている。
乗っていたのは、十七、八のガキだった。
ヘルメットを外すと、茶髪のショートカットが汗で額に張りついていた。目が据わっている。声を出す前から、喉に力が入りすぎているのがわかった。
「お前が、アキラか」
「そうだけど」
「俺はリキ。川崎で頭張ってる」
リキは、顎を突き出した。
「動画、見たぜ。幕張のやつ。鉄蛇のアキラが、ゴスロリ野郎の後ろでおとなしくアイドリングしてたってな。牙抜かれたって噂だぞ。だから確かめに来た」
アキラは、鼻で笑った。
「頭? 十何人のガキまとめて、頭か」
「バカにすんじゃねえ! 俺は本気なんだよ!」
リキが、スロットルを全開にした。
パァァンッ! バリバリバリッ!
割れた破裂音が、夜の港に響き渡った。
アキラは、眉ひとつ動かさなかった。
「本気なら、黙って聞け」
「は?」
「お前のエンジン、音が汚え」
リキの顔が、かっと赤くなった。
「なんだと、てめえ!」
「通販の安物マフラーだろ。サイレンサー抜いて、排気の抜けも考えねえで、とにかくデカい音が出りゃいいと思ってる。エンジンが、苦しいって泣いてんのが聞こえねえのか」
「黙れッ!」
リキが、バイクから飛び降りて殴りかかってきた。
アキラは半歩だけ体をずらした。空を切った拳の勢いのまま、リキの襟首を掴み、ガードレールに背中から押しつける。
「キレる前に、考えろ。お前、なんで走ってんだ」
「決まってんだろ! かっけえからだよ!」
「嘘つけ」
アキラの目が、ぎらりと光った。
「お前の目、逃げてる。何かに追われてる奴の目だ」
リキの顔が、凍りついた。
「……関係ねえだろ」
「ああ。関係ねえ」
アキラは、手を離した。リキが、ずるずるとその場に座り込む。
アキラは自分のバイクに跨り、キーを回した。CB400のエンジンが、低く、静かに目を覚ました。
「だがな。俺も、昔はそうだった」
リキが、顔を上げた。
「親父に追われてた。毎晩酒飲んで、怒鳴って、殴った。中坊の頃から家出ばっかりしてた。単車に乗ってる間だけ、全部忘れられた」
「……」
「でも、どんだけ走っても、親父は消えなかった。家に帰りゃ、いるんだからな」
「……で、どうなったんだよ」
「死んだ。俺が十八の時。酒でな」
アキラの声には、何の感情も乗っていなかった。昨日の天気の話でもするように、淡々としていた。
「葬式で、親父の顔見て、わかったんだ。俺が逃げてたのは、親父からじゃねえ。親父に似ていく、自分からだったってな」
リキは、何も言えなかった。
「お前もそうだろ。何かから逃げてる。でもな、逃げ続けても、何も変わんねえ。追いかけてくるもんは、ずっと後ろにいる」
アキラは、ヘルメットを被った。
「一回、止まってみろ。そんで、自分の音を聴け」
「……自分の、音?」
「エンジンの音じゃねえ。ここの音だ」
アキラは、拳で自分の左胸を叩いた。
そして、スロットルを一度も吹かさずに、静かに走り去った。
リキは、ガードレールの下に座り込んだまま、その赤いテールランプが見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
3 女帝の孫
その夜、アキラは気がつくと、大神運輸に向かっていた。
なぜなのか、自分でもわからなかった。ただ、LUYに会いたかった。あの音を、もう一度だけ、すぐそばで聴きたかった。
大神運輸の敷地は、静まり返っていた。六台のトラックが、整列したまま眠っている。事務所の灯りは消えていた。だが二階の角部屋の窓だけが、黒い布越しに、ぼんやりと光っていた。
アキラは、フェンスの前にバイクを停めた。エンジンを切る。
そして、腹の底から叫んだ。
「LUY! いんのか!」
数秒後。窓が、がらりと開いた。
黒い布がめくれて、金髪の縦ロールが覗いた。
「アキラ? ……何してんだよ、こんな時間に」
「話がある。降りてこい」
「でかい声出すなよ。じいちゃん起きたら殺されるぞ。……ちょっと待ってろ」
五分後。裏口の扉が開いて、LUYが出てきた。
アキラは、思わず二度見した。
ゴスロリではなかった。灰色のスウェットの上下に、黒いパーカー。縦ロールは、ゴムでざっくりひとつにまとめてある。化粧もしていない。
そこにいたのは、線の細い、ただの若い男だった。
だが、背中には、いつものベースケースがあった。
「……お前、その格好だと普通に男だな」
「普通に男だよ。何だと思ってたんだ」
LUYはフェンスにもたれて、欠伸をかみ殺した。
「で。話って何だよ」
アキラは、煙草を取り出して火をつけた。
「幕張、すごかったぜ」
「ああ。ありがとな」
「でもな。俺、まだわかんねえんだ」
「何が」
「なんでお前の音に、俺らのエンジンが勝手に反応しちまうのか」
LUYは、少しだけ考えた。それから答えた。
「共鳴だよ」
「共鳴?」
LUYは、アキラの胸を、人差し指でとんと突いた。
「ここが、共鳴したんだ。ハートとか、魂とか、呼び方は何でもいい。それを、お前らはエンジンで鳴らした。ただデカい音出してたんじゃない。お前らの音には、心臓の鼓動みたいな、ちゃんとした脈があった」
アキラは煙草を吸いながら、その言葉を噛みしめた。
「……俺ら、暴走族だぞ。秩序もクソもねえ」
「秩序なんかいらねえよ」
LUYは、ふっと笑った。
「じいちゃん、矢沢永吉のライブビデオ、すり切れるまで持ってんだよ。昔のヤンキーも族も、みんなあの人の音に熱くなった。秩序もクソもねえ連中が、一人の音に、勝手に心臓合わせてたんだ」
「……」
「お前が先頭を走るとき、お前のエンジン音は、お前の音だ。後ろの連中が、それについてくる。それが、俺のベースと共鳴した。お前がいたから、四十台がひとつになったんだよ」
LUYはベースケースを下ろし、ジッパーを開けた。黒いフェンダーを取り出し、肩にかける。ボディの裏に、小さな充電式アンプがクリップで留めてあった。
「聴きたいか」
「何を」
「お前が探してる、自分の音。そのヒントくらいは、やれるかもしんねえ」
LUYは、親指で四弦を弾いた。
――ズゥゥゥン。
低く、重い一音が、夜の倉庫街に響き渡った。トラックのミラーが、かすかに震えた。
アキラの胸の奥が、どくん、と鳴った。
「……何だよ、これ」
「じいちゃんの音」
「ディーターの?」
「ああ。じいちゃんは、咳払いひとつで、数百台を黙らせた。力じゃない。威厳だ。その威厳を、俺なりに音にしたら、こうなった」
LUYが、もう一音、弾いた。
――ダン。
さっきとは違う音だった。短く、鋭く、まっすぐ前を向いている音。
「で、これがお前の音」
「俺の……?」
「親父から逃げる音じゃない。お前が、お前であるための音だ」
アキラは、何も言えなかった。ただ黙って、夜の中で鳴り続けるその音を、全身で聴いていた。
煙草の灰が、長く伸びて、ぽとりと落ちた。
4 継ぐ者
やがて、LUYが弦から指を離した。
「どうだ」
アキラは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「……わかんねえ」
「だろうな」
「でも、ひとつだけわかった」
「何だよ」
アキラは、短くなった煙草を指で弾いて捨てた。
「俺は、お前の仲間になりてえ」
LUYが、目を丸くした。
「族をやめるって意味じゃねえぞ。走るのはやめねえ。でも、ただ走るんじゃなくて、お前の音に、俺のエンジンを合わせてえ。あの夜みてえに」
LUYは、ベースをケースにしまいながら、口の端を吊り上げた。
「面白え。でも、条件がある」
「何だ」
「名前を借りるな」
LUYは、まっすぐにアキラを見た。
「雷神会でも、ディーターでも、俺の名前でもいい。誰かの名前を看板にして走るな。そういう連中が、ばあちゃんの前でどうなったか、聞いてるだろ」
アキラは、雷姫の噂を思い出した。たった一人の婆さんに、十数人が床に転がされたという話を。
「お前は、お前の名前で走れ」
アキラは、ゆっくりと頷いた。
「わかった。俺はアキラだ。それだけで十分だ」
二人は、フェンス越しに拳を合わせた。
その時、事務所の扉が開いた。
涼子が立っていた。寝間着の上に黒い革ジャンを羽織り、煙草をくわえている。腕を組んで、じろりと二人を見下ろした。
「騒がしいね。何時だと思ってんだい」
「げっ、ばあちゃん」
涼子の目が、アキラを捉えた。
「……あんた、港のリーゼントかい」
アキラは、思わず背筋を伸ばした。あの夜、ガードレールの上で煙草を吸っていた婆さんだ。そして、あとで知った。あれが、伝説の女帝だったのだと。
「は、はい。アキラっす。あの夜は、すいませんでした」
涼子は答えなかった。ただ、アキラの顔を、黙ってじっと見ていた。
長い時間だった。アキラの額に、じわりと汗が滲んだ。
「……いい目になったね」
「え?」
「港で見た時は、腹を空かした野良犬の目だった。今は違う。逃げない奴の目だ」
涼子は、煙を細く吐いた。
「若い頃のディーターに、ちょっと似てるよ」
アキラは、言葉を失った。LUYの方を見る。LUYは、肩をすくめただけだった。
「あの……総長は」
「寝てるよ。朝が早いんだ、うちは」
涼子は、くるりと背を向けた。事務所に戻りかけて、ふと足を止める。
「明日、来な」
「へ?」
「朝五時。トラックの整備、手伝いな。タイヤの交換くらい、できるだろ」
「え、あ、いや……」
「耳が遠いのかい。朝五時だよ。一分でも遅れたら、帰ってもらうからね」
「――はいッ!」
涼子は、それだけ言うと、扉の向こうに消えた。
アキラは、ぽかんと口を開けたまま、閉まった扉を見つめていた。
LUYが、噴き出した。
「お前、ばあちゃんに拾われたな」
「は? 拾われ……?」
「ばあちゃんが『明日来な』って言うのはな、ミナの時もそうだった。うちの敷地で、うちのトラック触っていいってことだ」
LUYは、ベースケースを担ぎ直した。
「大神運輸の身内になれ、ってことだよ」
アキラは、しばらく呆けたような顔をしていた。
それから、くしゃっと顔を歪めて、笑った。
「……まいったな」
5 朝への道
アキラは、CB400に跨った。キーを回す。エンジンが、低く、静かに目を覚ました。
「じゃあな。また明日」
「おう。遅刻すんなよ。ばあちゃん、本当に一分で帰すからな」
「わかってるよ」
アキラはスロットルを一度も吹かさずに、静かに走り出した。
夜の湾岸道路。対向車も、後続車もいない。街灯が、一定の間隔で後ろへ流れていく。
走りながら、アキラは考えていた。
自分の音。
親父から逃げる音じゃない。親父に似ていく自分から逃げる音でもない。自分が、自分であるための音。
耳を澄ませる。
エンジンの回転数が、一定に落ち着いていく。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。その規則正しい振動が、シートを伝って、腹の底に響いてくる。
それが、いつの間にか、自分の心臓の鼓動と重なっていた。
一定のリズム。誰にも急かされず、誰にも乱されない。自分だけのペース。
「……悪くねえ」
ヘルメットの中で、アキラは小さく笑った。
どこかの交差点で、信号が赤に変わった。誰も見ていない。前にも後ろにも、車は一台もいない。
昨日までの自分なら、迷わず突っ込んでいただろう。
アキラは、ブレーキを握った。
停止線の手前で、ぴたりと止まる。アイドリングの音だけが、静かな交差点に響いていた。
――一回、止まってみろ。
リキに言った言葉が、そのまま自分に返ってきていた。
信号が、青に変わった。
アキラは、ゆっくりと走り出した。
前方の空の端が、わずかに白み始めていた。夜と朝の境目。どちらでもない、群青色の時間。
アキラはその境目を、まっすぐに走り抜けていく。
耳の奥には、まだLUYのベースの残響が残っていた。
伝説の総長と、女帝の会社で働く。あの二人の、身内になる。
十八で親父を亡くしてから、帰る場所なんてどこにもないと思っていた。どこにも属さないことが、強さだと思っていた。
――朝五時、か。
アキラは、腕時計を見た。午前三時四十分。
家に帰って寝る時間は、もうなかった。
アキラは、交差点でハンドルを切った。家とは逆の方向へ。湾岸の倉庫街へ。大神運輸のある方角へ。
フェンスの前で、朝まで待てばいい。
願ってもない朝だった。




