第7話 母の遺したもの
1 閉ざされた部屋
幕張のフェアから、一か月が経った。
大神家の二階には、LUYが寝起きしている角部屋の隣に、もうひとつ、ずっと閉ざされたままの扉があった。
LUYの母、理香が、十代を過ごした部屋だった。
LUYが今使っている角部屋は、理香が大人になってから、幼いLUYと二人で暮らした部屋だ。母の写真も、母の匂いも、少しはそこに残っている。
だが隣の部屋は、違った。母が、LUYの母になる前の部屋。LUYの知らない、理香という一人の少女の部屋だった。
鍵はかかっていない。だが、LUYは一度も、そのノブに触れたことがなかった。
鷹三郎も涼子も、「開けるな」とは言わなかった。ただ、「開けていい」とも言わなかった。
ある朝。
LUYは、ベースケースを床に置いて、その扉の前に立っていた。
理由は、なかった。ただ、あの日、幕張で老人たちにもらった言葉が、ずっと耳に残っていた。
『総長の咳払いと、おんなじ音がした』
じいちゃんの音は、わかった。ばあちゃんの音も、少しわかった。
だが、母ちゃんの音を、自分は知らない。
LUYは、ノブに手をかけた。冷たかった。少し、錆びていた。
心臓が、どくん、と跳ねた。
ノブを回す。
ぎい、と鈍い音を立てて、扉が開いた。
中は、少しだけ埃っぽかった。だが、不思議と荒れてはいなかった。窓の桟にも、机の上にも、うっすらとしか埃が積もっていない。誰かが、定期的に掃除をしている。たぶん、涼子だ。
狭い部屋だった。薄い水色のカーテン。パイプベッド。学習机。本棚。
そして、壁一面に貼られた、無数の写真。
バイク。バイク。バイク。夜の国道。ヘッドライトの帯。仲間たちと肩を組んで笑う、革ジャンの少女。
LUYは、一歩、足を踏み入れた。
床板が、きい、と鳴った。
学習机の上に、一冊のノートが置いてあった。
古い大学ノートだった。表紙は手垢で黒ずみ、角が丸くすり切れている。その表紙に、マジックで乱暴に、名前が書いてあった。
RIKA
大神理香。鷹三郎と涼子の、一人娘。
LUYが小学四年生の冬に、病気で死んだ。
LUYは、そのノートに手を伸ばした。
指先が、震えていた。
2 走る娘
ノートを開いた。
日記だった。
最初のページの日付は、二十七年前。理香が、十六歳の春から書き始めたものだった。ボールペンの字は、少し右に傾いていて、ところどころ力が入りすぎて紙が破れかけていた。
四月十日。親父、また怒ってる。あたしが単車に乗るのが気に入らないらしい。知るか。乗る。これがあたしの道だ。
五月三日。雷神会の集会に初めて行った。今は二代目の連中が仕切ってる。親父が初代総長だってこと、ずっと隠してたのに、一発でバレた。みんな「姫」って呼んでくる。ふざけんな。あたしは姫じゃない。走る奴だ。
六月二十日。母さんと一緒に走った。母さん、十年以上ぶりらしい。なのに、すげえ。誰も母さんを抜けなかった。女帝って呼ばれてた理由、やっとわかった。
七月十五日。親父とケンカ。「女が夜中に走るな」だって。は? 女だったらエンジン止まんのかよ。
LUYは、ページをめくる手を止めた。
――母ちゃんも、走ってたのか。
顔を上げる。壁の写真の中に、一枚、目を引くものがあった。
単車に跨った、十六歳の少女。脱色した銀色の髪を高いポニーテールにして、ぶかぶかの革ジャンを羽織っている。カメラに向かって、歯を見せて笑っている。
その目が、LUYの目と、そっくり同じだった。
「……母ちゃん」
声が、かすれた。
LUYは、ページを先へ進めた。
四月一日。大学に入った。昼は真面目に講義。夜は走る。親父は知らない。知ったら卒倒するな。
十月十日。彼氏ができた。同じ大学の、文学部の人。本ばっかり読んでる。単車には乗らない人。あたしが走りの話をすると、ちょっと困った顔をする。でも、その顔が、なんか好き。
そこから数ページ、日記は飛び飛びになっていた。そして、四年後の日付。
十一月二十三日。妊娠した。
たった一行だった。
次のページ。
十一月二十五日。彼に言った。「今は無理だ。就職したら、ちゃんと結婚しよう。だから今回は」って。あの人なりに、必死に考えたんだと思う。わかった、って答えた。
嘘だ。
産む。あたし一人で産む。あの人の人生を、あたしのエンジン音に巻き込みたくない。もう会わない。
LUYの胸が、締めつけられた。
――俺が、母ちゃんを。
自分という存在が、母を一人きりにしたのか。
だが、次のページで、筆跡が変わった。少しだけ、柔らかくなっていた。
十二月一日。親父に言った。殴られる覚悟で。親父、ずっと黙ってた。一時間くらい黙ってた。それから、一言だけ。「産め」。それだけ。
十二月二十五日。母さんが、赤ちゃんの服を編んでる。黒い毛糸で。「男でも女でも、走る子にしよう」だって。笑えないジョーク。……でも、悪くない。
LUYは、笑った。
笑いながら、涙が一筋、頬を伝った。
「……ばあちゃん、黒かよ」
3 病の影
日記は、それから十年近く続いていた。
LUYが生まれた日。初めて寝返りを打った日。初めて「ママ」と言った日。保育園の入園式。初めての運動会で、ゴール直前に転んで、それでも泣かずに立ち上がった日。
どのページにも、LUYがいた。
理香は、走るのをやめていなかった。月に一度、LUYを涼子に預けて、夜の国道へ出ていった。*走らないと、あたしがあたしじゃなくなる。ルイには悪いけど。*そう書いてあった。
だが、LUYが小学三年生になった春から、日記の調子が変わった。
三月十日。最近、体がだるい。病院行った。検査。結果待ち。
四月五日。わかった。がん。進行してる。一年もつかどうか、って。
字が、そこだけ、ひどく乱れていた。
五月一日。親父に言った。親父が、泣いた。あの親父が。ディーターが、あたしの前で、声も出さずに泣いた。
六月十日。ルイには、まだ言えない。まだ九歳だ。でも、時間がない。
LUYの指が、ページの上で止まった。
息が、うまく吸えなかった。
七月二十日。ルイがベースやりたいって言い出した。びっくり。親父の部屋にある矢沢永吉のライブビデオ、こっそり何回も観てたらしい。ギターじゃなくて、ベースなんだって。「一番下で、全部を支えてる音がかっこいい」って。九歳が言うセリフかよ。
八月十五日。夏祭り。ルイ、浴衣着て、ずっと花火見上げてた。あの横顔、忘れたくない。忘れない。
九月一日。ルイが泣いて帰ってきた。クラスの子に「お前のじいちゃんヤクザなんだろ」って言われたらしい。親父に言った。親父が学校に行った。次の日から、誰も何も言わなくなった。何したんだ、あの人。
LUYは、目を閉じた。
覚えていた。
あの日、じいちゃんは、見たこともない紺色のスーツを着て、学校に来た。そして、何も言わずに、LUYのクラスの一番後ろの席に座った。一時間目から六時間目まで、ずっと。腕を組んで、背筋を伸ばして、一言も喋らずに。
誰も、何も言わなかった。言えなかった。
次の日から、いじめは、ぴたりと止んだ。
十月十日。ルイにベースを買った。中古の、黒いフェンダー。親父の知り合いの楽器屋で、一番いいのを選んでもらった。ルイ、抱きしめて離さない。「一生弾く」だって。そうだ。弾き続けろ。それがお前の道だ。
LUYは、思わず、床に置いたベースケースを見た。
黒いフェンダー。
十一年間、一日も手放さなかった、あのベース。港の夜も、幕張のステージも、ずっと一緒だった、あのベース。
――母ちゃんが、買ってくれたやつだ。
知っていた。知っていたはずだった。でも、それが母の最後の贈り物だったことを、こんなにはっきりと思い知ったのは、初めてだった。
十一月二十日。体が動かない日が増えた。でも、ルイの練習の音は、毎日聴いてる。壁越しに。下手くそ。でも、毎日ちょっとずつ、うまくなってる。
十二月一日。ルイが、初めて曲を作った。あたしに聴かせてくれた。三分くらいの曲。めちゃくちゃ下手くそだった。泣いた。
そして、最後のページ。
字は、もう、ひどく震えていた。一文字一文字を、全身の力で書いたのがわかった。
一月十五日。
ルイ。お前に遺せるもんは、なんにもない。でも、ひとつだけ言っとく。
走るな。弾け。
お前の音で、お前の道を行け。
母ちゃんは、いつでも聴いてる。
愛してる。 理香
ノートが、LUYの手から滑り落ちた。
LUYは、床に膝をついた。両手で顔を覆った。
声を殺そうとした。
殺せなかった。
嗚咽が、狭い部屋に響いた。
4 じいちゃんの涙
「……泣いてんのか」
背後から、低い声がした。
LUYは、濡れた顔のまま振り返った。
鷹三郎が、扉の枠に立っていた。いつもの黒い革ジャン。いつもの銀髪のオールバック。
だが、その目が、少しだけ赤かった。
「じいちゃん……」
鷹三郎は、何も言わずに部屋に入ってきた。床に落ちたノートを拾い上げ、表紙の埃を、大きな手のひらでそっと払う。それから、LUYの隣に、どさりと腰を下ろした。
パイプベッドに背中を預け、二人は並んで床に座った。
「読んだか。理香のノート」
「……うん」
長い沈黙があった。窓の外で、トラックがバックする警告音が、ピー、ピー、と鳴っていた。
「理香はな」
鷹三郎が、ぽつりと話し始めた。
「お前を産んでからも、走るのはやめなかった。だが、お前が小学校に上がる頃から、少しずつ回数を減らしていった。お前のためにな」
「……なんで」
「事故で死んだ仲間を、何人も見てきたからだ。自分が死んだら、お前が一人になる。それだけは、嫌だったんだろう」
鷹三郎は、ノートの表紙を見つめていた。
「皮肉なもんだ。事故じゃなく、病気で持っていかれちまった」
LUYは、膝を抱えた。
「……学校のこと、覚えてるよ。じいちゃんが、一日中、教室の後ろに座ってたの」
鷹三郎が、ふん、と鼻を鳴らした。
「理香に頼まれた。殴り込みはするな、ってな。だから、座ってただけだ」
「座ってただけで、全員黙ったんだよ」
「知らん。俺は何も言ってねえ」
LUYは、泣きながら、少しだけ笑った。
「だがな」
鷹三郎の声が、少しだけ低くなった。
「お前にベースを買ってやった日。理香が、俺に言ったんだ」
「……何て」
「『この子、あたしより遠くまで走るよ』ってな」
LUYの目が、大きく見開かれた。
「単車じゃねえ。音でだ。理香には、わかってたんだろう。自分がもう走れねえ道の先を、お前が弾いて行くってことが」
鷹三郎の大きな手が、LUYの肩に置かれた。重くて、温かい手だった。
「俺はな。理香を、助けてやれなかった」
「じいちゃん……」
「二百キロで突っ込んでも死ななかった。腹を刺されても死ななかった。関東の不良を全部黙らせた。そんな男が、たった一人の娘の病気には、何ひとつできなかった」
鷹三郎は、まっすぐに前を見ていた。LUYの方は、見なかった。
「お前の音は、理香の音だ。それから、俺の音でもある。その音で、お前はお前の道を行け。それが、理香への、一番の供養だ」
LUYは、何度も頷いた。涙が、止まらなかった。
「……俺、弾き続ける。ずっと」
「ああ。弾け」
鷹三郎は、膝に手をついて立ち上がった。
「飯だ。ばあさんが作ってる。顔洗ってから来い」
「……うん」
鷹三郎が、扉のノブに手をかけた。
その背中に、LUYが声をかけた。
「じいちゃん」
「何だ」
「母ちゃんの日記に書いてあった。母ちゃんが病気のこと言った時……じいちゃん、泣いたって」
鷹三郎の手が、ノブの上で止まった。
振り返らなかった。
長い、長い沈黙のあと。
「……ああ。泣いた」
その声は、かすかに、震えていた。
扉が閉まった。
階段を降りていく足音が、一度だけ、途中で止まった。それから、また、ゆっくりと降りていった。
5 母の音
その夜。
LUYは、母の部屋の床に座って、黒いフェンダーを膝に乗せた。
アンプは、つながなかった。生音だけ。それでも、狭い部屋の壁が、弦の振動を拾って低く唸った。
弾いたのは、九歳の冬に作った、あの曲だった。
死ぬ少し前の母に、聴かせた曲。三分くらいの、めちゃくちゃ下手くそな曲。
今は、違った。
十一年分の技術が、指に乗っていた。十一年分の想いが、弦に乗っていた。下手くそだったメロディの骨組みはそのままに、その上に、港の夜も、幕張のステージも、全部が積み重なっていた。
――ダダダ、ダダダ、ダン。
そのリズムが、いつの間にか、何かと重なっていた。
心臓の鼓動だ。
自分の鼓動か。それとも、ベースを弾く九歳の自分を、壁の向こうで聴いていた母の鼓動か。
LUYは、目を閉じた。
何も見えなかった。
音だけが、あった。
そして、その音の向こうから、声が聞こえた気がした。
――下手くそ。でも、毎日ちょっとずつ、うまくなってるよ。
弦の上で、指が止まった。
最後の一音が、部屋の空気の中で、ゆっくりと消えていく。
静寂。
だが、胸の中は、静かではなかった。熱かった。燃えていた。港の夜の熱とも、幕張のステージの熱とも違う、もっと深いところで燃えている火だった。
LUYは、スマホを取り出した。矢澤にメッセージを打つ。
『新曲できました。母ちゃんに捧げる曲です。九歳の時に作ったやつを、作り直しました』
十秒で、返事が来た。
『今すぐ聴かせろ。明日スタジオ押さえる。何時でもいい』
LUYは、小さく笑った。
「母ちゃん。聴いててくれよ」
ベースを、ケースにしまった。立ち上がって、母の部屋の窓を開ける。
夜の風が、頬の涙の跡を、そっと撫でていった。
階下の整備場から、ディーゼルエンジンの音が聞こえてくる。明日の早朝便のために、誰かが暖気をしているのだ。たぶん、アキラだ。最近は、毎朝四時半には来ているらしい。
トラックの音。母の走った国道の音。じいちゃんの咳払い。ばあちゃんの足音。
その全部が、自分の血の中を流れている。
LUYは、窓枠に手をついて、夜空を見上げた。
血は、消えない。
形を変えて、歌い続ける。
今度は、母の遺した、黒いベースの音となって。




