第5話 銀の残響
第5話 銀の残響
1 警察とメディア
LUYのベースが幕張のホールを震わせている、まさにその最中。
その光景は、すでに会場の外へと漏れ出していた。
来場していた業界関係者の一人が、スマホで撮った十五秒の動画をSNSに上げた。それが、火種だった。
『伝説の暴走族「雷神会」OB、元総長の孫のライブに集結』
『平均年齢七十超え。革ジャンの老人三十七人が整列する異様な光景』
『ゴスロリの男の娘ベーシスト×四十台のバイク×雷神会。何が起きてる?』
港の動画で、すでに名前は知られていた。そこに油が注がれた。拡散は、一時間で十万を超えた。
幕張メッセの正面には、テレビ局の中継車が三台、四台と横づけされ始めた。脚立を抱えたカメラマンたちが、搬入口の前に群がる。
そして、パトカーも来た。
暴走族が四十台、元暴走族が三十七人。字面だけを見れば、立派な「集会」だった。所轄の警察署から、機動隊の待機要請まで出ていた。
だが、駆けつけた警官たちは、拍子抜けすることになった。
混乱は、どこにもなかった。
老人たちは、ブースの前に整然と並んで腕を組み、ただ静かに演奏を聴いている。駐車場のバイクの連中も、アイドリングでエンジンを鳴らしているだけで、誰一人として空ぶかしひとつしていない。
若い警官が、困惑した顔で無線を握った。
「署長。現着しましたが……どうしましょう」
無線の向こうで、しばらく沈黙があった。
『……何もするな』
「は?」
『ただのライブだ。客として聴いとけ』
無線が切れた。
署の一室で、五十代半ばの署長は、ネットの中継映像をじっと見つめていた。
画面の端に、銀髪の老人が映っている。
署長の口元が、かすかに緩んだ。
――生きてたんですね、ディーター。
三十数年前。まだ中学生だった彼は、深夜の国道の歩道橋の上から、雷神会の走りを見たことがあった。数百台の単車のヘッドライトが、一本の光の川になって流れていく。その先頭に、銀髪の若者がいた。
怖かった。そして、どうしようもなく、かっこよかった。
自分が警察官を志したのは、たぶん、あの夜の光の川に、どこか負けたくなかったからだ。
署長は、誰もいない部屋で、小さく敬礼した。
会場では、テレビカメラが、ついにステージの中央を捉えていた。
黒いフリル。金髪の縦ロール。身の丈ほどのベース。その背後に、色褪せた紋章を背負った三十七人の老人たち。
あまりにもシュールで。
そして、あまりにも美しい光景だった。
2 共鳴の先
LUYのベースが、最後の一音を放った。
――ドゥゥゥン……。
低音が、ホールの天井へ昇っていき、ゆっくりと溶けて消えた。四十台のエンジンが、それに合わせて一斉にアイドリングを止めた。
静寂。
一秒。二秒。
そして――拍手が来た。
最初は、最前列の老人たちだった。三十七人が、一斉に立ち上がり、皺だらけの手を打ち鳴らした。駐車場から、四十台のクラクションが鳴り響いた。トラックを見に来ていた家族連れが、子どもを肩車したまま手を叩いた。組合の理事たちまでが、席から立ち上がっていた。
ホールが、拍手で揺れていた。
その中で、黒岩だけが、来賓席の端に立ち尽くしていた。
LUYは、ベースを肩から下ろした。ステージを降り、まっすぐに黒岩の前へ歩いていく。厚底ブーツの足音が、拍手の中でもはっきりと聞こえた。
「監査官さん」
黒岩は、何も言えなかった。
「親の恨みで仕事するのは、あんたの自由だ。でも、じいちゃんは間違ってない。それは、もうわかってもらえたよな」
黒岩の肩が、震えていた。
長い沈黙のあと、彼は、白手袋を外した。
一本ずつ、指を抜くように。最後の一枚が、床に落ちた。
「……父は」
かすれた声だった。
「父は、雷神会に入りたかったんです」
LUYの眉が、かすかに動いた。
「若い頃、何度も入れてくれと頼んで、そのたびに断られたそうです。走る覚悟がない奴はいらない、と。だから父は、勝手にその名前を名乗った。名前だけでも、手に入れたかったんだと思います」
黒岩は、自嘲するように笑った。
「酒を飲むたびに、言っていました。ディーターに認められたかった、と。塀の中から出てきたあとも、死ぬまで、ずっと」
黒岩は、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目が、赤く潤んでいた。
「私は、父を壊した男を憎んでいるつもりでした。でも、本当は……父が一生欲しがっていたものを、あなたたちが当たり前のように持っているのが、許せなかっただけなのかもしれません」
人垣が、割れた。
鷹三郎が、歩いてきた。
黒岩の前に立つ。百八十五センチの影が、彼の上に落ちた。
黒岩は、覚悟を決めたように目を閉じた。
「……すみませんでした」
小さな声だった。
鷹三郎は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「倉田は、走りたかったのか」
黒岩が、目を開けた。
「……はい」
鷹三郎は、深く息を吐いた。その顔に、三十数年分の何かが、一瞬だけ影を落とした。
「そうか。……俺は、あいつの話を一度も聞かなかった」
そして、何も言わずに、右手を差し出した。
黒岩が、その手を見つめた。大きな、節くれだった手だった。かつて二十七人を素手で倒した手だった。
「私は――」
「いい」
鷹三郎は、短く言った。
「親父の分まで背負うことはねえ。お前は、お前の道を走れ」
黒岩の目から、涙がこぼれた。
彼は、その手を、両手で握り返した。
翌週、大神運輸の重点調査対象の指定は、撤回された。黒岩の名前で出された撤回書の末尾には、手書きで一行が添えられていた。
『貴社の運行管理は、模範とすべきものです』
3 銀の残響
フェアが終わり、会場の片付けが始まった。
LUYはベースケースを背負い、搬入口から駐車場へ出た。西の空が、橙色に染まり始めていた。
アキラたちが、エンジンを切って待っていた。四十台のバイクが、夕陽を浴びて並んでいる。
「すげえ景色だったぜ。一回も吹かさねえで、あんなに震えたの、初めてだ」
アキラが、照れ臭そうに笑った。
「助かった。ありがとな」
「礼なんかいらねえよ。また呼べ」
アキラは拳を突き出した。LUYが、それに拳を合わせた。
鉄蛇の四十台が、一台ずつ静かに走り去っていく。最後のアキラが角を曲がる前に、クラクションを短く二回鳴らした。
次に来たのは、雷神会の老人たちだった。
先頭の力也が、ポケットから飴玉をひとつ取り出して、LUYの手に乗せた。昔と同じ、べっこう飴だった。
「ルイちゃん。でっかくなったなあ」
「ルイじゃねえ。LUYだ」
「わかったわかった。LUYちゃん」
「ちゃんもいらねえ」
老人たちが、どっと笑った。七十を過ぎているとは思えない、若い笑い声だった。三十数年前、夜の国道で、きっとこんな風に笑っていたのだろう。
「お前さんの音、いい音だったよ」
老人の一人が、LUYの肩を叩いた。
「総長の咳払いと、おんなじ音がした」
鷹三郎が、最後にやってきた。
老人たち一人ひとりと、言葉を交わしていく。名前を呼び、肩を叩き、握手をする。三十数年ぶりに会う顔もあった。誰の名前も、鷹三郎は一人も間違えなかった。
最後の一人が、杖をついて背を向けたとき。
鷹三郎は、深く、頭を下げた。
「……ありがとな」
その声は、LUYが今まで聞いたことのないほど、柔らかかった。
老人たちの背中が、夕陽の中に小さくなっていく。誰も振り返らなかった。だが、全員の背中が、少しだけまっすぐになっていた。
涼子が、煙草をくわえて隣にやってきた。
「終わったかい」
「うん」
「悪くなかったよ」
「それだけ?」
「それ以上、言う必要あるかい」
LUYは、笑った。このやりとりも、もうすっかりお決まりになっていた。
三人で並んで、夕暮れの空を見上げる。遠くの湾岸道路から、トラックのエンジン音が聞こえてくる。
ポケットの中で、スマホが震えた。矢澤からだった。
『おい、ニュースになってんぞ。今日の配信、同接で五万いった。お前、完全にバズった』
LUYは小さく笑って、スマホをしまった。
「じいちゃん。ばあちゃん」
「なんだ」
「俺、これからもずっと、ベース弾くよ」
「好きにしろ」
「好きにしな」
鷹三郎と涼子の声が、ぴたりと重なった。
二人は、ばつが悪そうに顔を見合わせた。LUYは、思わず噴き出した。
LUYは、二人に背を向けて歩き出した。ベースケースを背負い、夕陽に染まった道を。
金髪の縦ロールが、橙色の光を弾いて揺れていた。
その背中には、確かに受け継がれたものがあった。
暴走でもない。反抗でもない。
もっと静かで、もっと強い何か。
雷神会の三十七人が、最後に背中で見せていったもの。
銀の残響だった。




