第3話「女帝の残り火」
第3話 女帝の残り火
1 電話の予感
黒猫レコードと契約して、一週間が経った。
港の動画は、三日で百万回再生を超えた。コメント欄には、ゴスロリの男の娘ベーシストへの驚きと、もうひとつ、別の熱が渦巻いていた。
『隣の銀髪の爺さん、雷神会のディーターってマジ?』
『ガードレールに座ってる婆さん、もしかして女帝じゃね?』
『うちの母ちゃんが言ってた。昔、女帝の涼子って、一人で三十人倒したって』
三十年前に眠ったはずの伝説が、ネットの海で、勝手に息を吹き返し始めていた。
その日の午後。大神運輸の事務所で、電話が鳴った。
受話器を取ったのは涼子だった。鷹三郎は整備場でトラックの下に潜り込んでいる。社長は鷹三郎だが、帳簿も配車も取引先も、実際にこの会社を回しているのは涼子だった。社員なら、誰でも知っていることだ。
「はい、大神運輸」
数秒の沈黙。
涼子の顔が、変わった。
眉間に、一本の深い皺。唇が、一文字に結ばれる。
二階の母の部屋で、LUYはベースを弾く手を止めた。音ではない。空気でわかった。家全体の空気が、ぴんと張り詰めたのだ。
LUYは、そっと部屋を出て、階段の上から事務所を覗き込んだ。
受話器の向こうから、若い女の声が漏れていた。泣いている。しゃくり上げながら、途切れ途切れに何かを訴えている。
『……動画、見て……女帝って、本物なら……ミナが……あいつら、女帝の流れだって……』
涼子の声が、低く落ちた。
「……誰が、そう名乗ってるって?」
『……ら、雷姫……雷姫レディースって……』
涼子の指が、受話器をぎしりと握り締めた。
「場所は」
メモも取らなかった。相手が言い終わるのを待たずに、涼子は受話器を叩きつけるように置いた。
ちょうどその時、整備場から鷹三郎が戻ってきた。油まみれのスパナを片手に、作業着の袖を肘までまくっている。
妻の顔を一目見て、鷹三郎は全てを察した。
「面倒か」
「ガキが一人、潰されかけてる」
「どこの連中だ」
「昔の名前を、勝手に担いでる連中さ」
事務所の空気が、すうっと冷えた。
鷹三郎はスパナを机に置き、太い腕を組んだ。何も言わない。ただ、目だけで問いかけていた。
――どうする。
涼子は、立ち上がった。
壁のフックから黒い革ジャンを取り、羽織る。銀髪を、ゴムで後ろに一本、きつく束ね直す。その動きに、一片の迷いもなかった。
「行く」
階段を降りる、厚底ブーツの足音がした。
LUYだった。ベースケースは持っていない。だがその目は、ライブの本番直前と同じ色をしていた。
「俺も行く」
「遊びじゃないよ」
「知ってる」
一瞬の沈黙。
涼子は孫に背を向けたまま、ドアノブに手をかけた。
「……勝手にしな」
拒絶でもない。許可でもない。
だが、LUYにはそれで十分だった。
鷹三郎は、小さく息を吐いた。そしてスパナを拾い上げ、黙って整備場へ戻っていった。
二人の背中を、見送らなかった。
――今夜は、俺の出番じゃねえ。
そういう夜も、ある。
2 名前の重み
町外れの、古い立体駐車場。
三階建てのコンクリートの箱は、十年以上前に閉鎖されたまま放置されていた。錆びた廃車が何台か転がり、柱という柱がスプレーの落書きで埋め尽くされている。
涼子は、この場所を覚えていた。
三十数年前。雷神会の集会は、いつもここの屋上から始まった。数百台の単車がスロープを螺旋状に駆け上がり、屋上を埋め尽くす。その真ん中に鷹三郎が立ち、咳払いひとつで全員が黙った。
あの頃は、この箱全体が、ひとつの巨大なエンジンみたいに唸っていた。
今は、しんと静まり返っている。
夜。屋上へ続くスロープの途中で、涼子は足を止めた。上から、甲高い笑い声が降ってくる。
屋上には、十数人の若い女たちがいた。
派手なメイク。金や茶に脱色した髪。肌を大きく見せる服。スマホのライトがあちこちで光り、誰かが流している音楽が、割れたスピーカーから響いている。
暴走族ではなかった。単車は一台もない。
ただの、群れだった。行き場のない者たちが、何かの名前の陰に身を寄せ合って、居場所を確保している。その目は、どれも空っぽだった。
輪の真ん中に、一人の少女が膝をついていた。
十六か、十七。頬が赤く腫れ上がり、切れた唇の端から血が一筋流れている。両腕を、二人がかりで押さえつけられていた。
それでも、その目だけは、ぎらぎらと燃えていた。
「だからさあ、言ってんじゃん。うちらは女帝の流れだって」
少女の前に立った女が、甘ったるい声で笑った。二十歳前後。背は低い。だが眼光だけは、異様に鋭かった。
着ているジャージの背中に、ラメのスプレーで描かれた稲妻のマーク。
雷姫
「うちらのグループはね、伝説を継いでんの。あの動画、見たでしょ? 女帝の涼子。うちらはその直系。そのうちら相手に、小娘が逆らっていいと思ってんの?」
少女が、血の混じった唾を吐き捨てた。
「伝説……? 笑わせんな」
「あ?」
「動画が流行ったから、急に名前変えただけだろ。先月までは、ただの『姫会』だったくせに。走りもしねえで、名前だけ借りて威張ってる。ダッセえんだよ」
リーダーの女の顔から、笑みが消えた。
「……もう一回、言ってみな」
その手が、少女の髪を鷲掴みにしようと伸びた。
その瞬間だった。
――コツ。
乾いた足音が、コンクリートに響いた。
――コツ。コツ。
ゆっくりとした、重みのあるリズム。スロープの暗がりから、一歩ずつ近づいてくる。
割れたスピーカーの音楽が、いつの間にか止まっていた。誰かが、無意識に停止ボタンを押していた。
全員が、振り返った。
そこに、涼子が立っていた。
黒い革ジャン。束ねた銀髪。表情は、何もない。
三十数年前、この同じ屋上で「女帝」と呼ばれた女が、今、ここに立っていた。
その少し後ろ、コンクリートの柱にもたれて、ゴスロリの人影が腕を組んでいる。LUYだった。口を挟むつもりは、最初からなかった。
涼子が、口を開いた。
「その名前」
静かな声だった。
「誰に、許可取った」
駐車場全体の空気が、止まった。
リーダーの女が、眉をひそめた。一瞬、気圧されかけた自分を誤魔化すように、声を張り上げる。
「はあ? 誰だよ、ババア」
涼子は答えなかった。
ただ、一歩、前に出た。
それだけで、リーダーの女の顔から、余裕がひとつ剥がれ落ちた。
もう一歩。
またひとつ、剥がれる。
――何だ、このババア。
今まで脅して黙らせてきた大人たちとは、根本的に何かが違う。わからない。わからないのに、背中に冷たい汗が噴き出してくる。
「もう一回、言ってごらん」
涼子の声は、小さかった。
だが、逃げ場がなかった。
リーダーの後ろで、取り巻きの女たちが、無意識に一歩ずつ後ずさっていた。
柱にもたれたLUYの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
3 女帝の条件
「……あんた、誰」
リーダーの女が、強がった。
声が、震えていた。自分でもそれがわかって、恥ずかしくて、さらに声を張り上げる。
「関係ないババアが、しゃしゃり出てくんなよ! あんたに何がわかんだよ! うちらは雷姫! 女帝の伝統を継いでんだよ!」
涼子は、その言葉に何も答えなかった。
代わりに、膝をついた少女の前まで歩いていった。押さえつけていた二人の女が、なぜか自分から手を離し、飛びのいた。
涼子は、少女の前にしゃがみ込んだ。
腫れた頬。切れた唇。乾きかけた血。そして、まっすぐに自分を睨み返してくる、燃えるような目。
「立ちな」
少女は、ふらつきながら立ち上がった。膝が笑っている。それでも、倒れなかった。
「名前は」
「……ミナ」
「泣くんじゃないよ」
ミナの目に、溜まりかけていた涙が、すっと引いた。
不思議な声だった。命令ではなかった。慰めでもなかった。ただ、「お前は泣かない人間だ」という事実を、静かに告げられた気がした。そう言われてしまえば、確かに、泣けなかった。
ミナは、乱暴に手の甲で目元を拭った。
「な、泣いてねえし! 目にゴミが入っただけだ!」
涼子は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「いい根性だ」
それから立ち上がり、ゆっくりと振り返った。リーダーの女と、その後ろに固まる十数人の女たちを、端から端まで見渡す。
「女帝ってのはね」
一歩。
女たちが、一歩下がった。
「群れて強がるための名前じゃないんだよ」
もう一歩。
また、下がる。
誰も、動けなかった。涼子の言葉が、コンクリートの壁と天井に反射して、何倍もの重さになって全員の肩にのしかかってくる。
「たった一人で立って、全員を黙らせる奴のことだ」
リーダーの女が、奥歯を噛みしめた。
許せなかった。なぜだかわからない。目の前のババアが正しいことを言っているのは、心のどこかでわかっていた。だからこそ、許せなかった。伝説だの、伝統だの、そんな古臭いもので頭を押さえつけられるのが、何より我慢ならなかった。
自分たちだって、ここで必死に生きてきたのだ。
「……だったら」
女が、低く唸った。
「だったら、やってみろよ。たった一人で、うちら全員、黙らせてみろよ!」
涼子は、笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「いいだろう」
4 静かな制圧
合図は、なかった。
涼子が、一歩踏み込んだ。
――次の瞬間、リーダーの女の右腕が、背中側にねじ上げられていた。
悲鳴すら、遅れた。
女の体がふわりと浮き、気がつけば、顔がコンクリートの柱に押しつけられていた。痛みよりも先に、混乱が来た。いつ腕を取られたのか。いつ背後に回られたのか。何ひとつ、見えなかった。
「遅い」
耳元で、低い声がした。
「り、リナを離せぇッ!」
取り巻きの女たちが、一斉に動いた。五人、六人。爪を立て、拳を振り上げ、四方から涼子に飛びかかる。
LUYは、柱にもたれたまま、一歩も動かなかった。
動く必要がないことを、知っていた。
涼子はリーダーの腕を離した。
そして、ほんの少しだけ、体の向きを変えた。
最初の一人の手首を、指先でつまむように取る。その勢いを殺さず、くるりと流す。女は自分の勢いのまま宙を回り、背中から床に落ちた。
二人目の足首を、靴の爪先で軽く払う。それだけで、女は膝から崩れた。
三人目と四人目は、同時に来た。涼子が半歩横に滑る。二人は互いの額を、ごつんとぶつけ合った。
誰の拳も、涼子の体に触れなかった。
力ではなかった。速さでもなかった。相手がどこに来るか、その一瞬前にもうわかっている。最小の動きで、最小の力で、相手の力をそのまま相手に返す。
半世紀近く前、夜の国道で、何百回という喧嘩の中で体に叩き込まれた動きだった。六十五になった今も、体は一ミリも忘れていなかった。
五人目が、背後に回り込んでいた。
その手に、銀色の光があった。カッターナイフ。刃が、ちきちきと音を立てて伸びる。
「ばあちゃん、後ろ――」
LUYが言いかけた。
言い終わる前に、涼子の右肘が、振り返りもせずに後ろへ突き出されていた。
みぞおちに、正確に。
女の体がくの字に折れ、カッターナイフが手から零れ落ちた。からからと、乾いた音を立ててコンクリートの上を転がっていく。
涼子はそれを、ブーツの踵で踏みつけた。
ぱきん、と刃が折れた。
「……刃物はね、持った瞬間に負けなんだよ」
振り向きもせずに、そう言った。
気がつけば、屋上で立っているのは三人だけだった。
涼子と、LUYと、ミナ。
あとは全員、床に転がっているか、壁際に張りついて震えていた。もう、手を出そうとする者は一人もいなかった。
「……な、何なんだよ……」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「何なんだよ、このババア……」
LUYが、柱から背中を離した。黒いフリルの袖を払い、小さく笑った。
「それ、うちのばあちゃんの『昔の普通』だよ」
涼子が、柱に押しつけていたリーダーの女から、ゆっくりと手を離した。
リナと呼ばれた女は、その場に崩れ落ちた。膝をついたまま、呆然と涼子を見上げている。
涼子は、一言だけ言った。
「終わりだ」
5 背中で教える
沈黙が、屋上を満たした。
コンクリートの隙間から、夜風が吹き抜けていく。錆びた廃車の鉄の匂い。遠くの国道を走る、トラックのエンジン音。
涼子は、屋上にいる全員を、ゆっくりと見渡した。
誰も、目を逸らせなかった。
「もう一度だけ、言う」
静かな声だった。それなのに、屋上の端で震えている女の耳にまで、確実に届いた。
「人の名前を、使うんじゃない」
間があった。
風が、涼子の銀髪を揺らした。
「使うなら――背負いな」
その言葉が、屋上の空気を変えた。
雷神会。女帝。動画で流行った、かっこいい名前。彼女たちにとって、それはただの看板だった。羽織れば強く見える、借り物の上着だった。
だが今、目の前に立つ女は、その名前の本当の重さを、たった一人で体現していた。
名前を背負うということが、どういうことなのか。
彼女たちは、生まれて初めて、それを知った。
膝をついていたリナが、唇を噛んで俯いた。その肩が、小さく震えていた。泣いているのか、悔しいのか、自分でもわからないようだった。
その時。
ミナが、一歩前に出た。
頬は腫れ上がったまま。唇の血も、まだ乾いていない。足元は、まだ少しふらついている。
それでも、その目は、逃げていなかった。
「……あたし」
声が、震えていた。
だが、それは恐怖の震えではなかった。体の奥の、ずっと深いところで、何かが初めて動き出した震えだった。
「あたし、やりたいです」
涼子は、ミナを見た。
何秒か。長いようで、短い時間だった。
ミナは、その視線から、一ミリも目を逸らさなかった。
「なら」
涼子は、短く言った。
「明日、来な」
それだけだった。
場所も、時間も言わなかった。大神運輸の名前すら、口にしなかった。
だが、ミナには伝わった。
電話をかけてきた友達は、動画から女帝の居場所を突き止めた。だったら、自分にもできるはずだ。探せばいい。自分の足で。
それが、最初の試験なのだと。
LUYが、ひゅう、と口笛を吹いた。
「スカウト?」
「違う」
涼子は、ミナに背を向けた。そしてスロープへ向かって歩き出しながら、言った。
「選別だ」
6 翻訳の宣言
帰り道。
夜の住宅街を、涼子とLUYが並んで歩いていた。
月が出ていた。冷たい月の光が、涼子の銀髪と、LUYの金髪を、同じ色に照らしていた。厚底ブーツの足音と、革のブーツの足音が、ばらばらのリズムでアスファルトを叩いている。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
先に口を開いたのは、LUYだった。
「……ばあちゃんのやり方さ。古くねえ?」
「そうかい」
涼子は、前を向いたまま答えた。
「手首取って、足払って、肘入れて。今どき、あんなの動画に撮られたら一発で炎上だぜ」
「そうかもね」
「でも」
LUYは、少しだけ間を置いた。
「効いてた」
涼子が、ほんの少しだけ笑った。
口元だけの、かすかな笑みだった。他の誰が見ても、表情が変わったことにさえ気づかないだろう。
だが、LUYには、はっきりと笑顔に見えた。
「あたしは、今さらやり方を新しくする気はないよ」
「しなくていい」
LUYは、即答した。
そして、夜空を見上げたまま、続けた。
「俺がやる」
涼子の足が、止まった。
振り返る。
「何をだい」
「翻訳」
その言葉の意味が、涼子の耳に届くまで、一拍の遅れがあった。
「……音にする、ってことかい」
LUYは、背中を軽く叩いた。今夜はそこにないベースケースの、いつもの場所を。
「まあ、そんな感じ」
LUYの目が、月の光を映して、静かに光っていた。
「ばあちゃんのやり方を、今の時代に通じるように、音にする。言葉じゃなくて、リズムで。殴るんじゃなくて、共鳴で」
港の夜を思い出していた。二十台のエンジンが、ひとつのビートになったあの瞬間を。
「黙らせるんじゃない。一緒に鳴らせる。でも、根っこにあるもんは同じだ。一人で立って、全部を背負う。それを、俺の音でやる」
涼子は、しばらく孫の顔を見ていた。
フリルとレースに包まれた、華奢な体。人形のように整った顔。
だがその奥に、確かに、自分と同じ火が燃えていた。
涼子は、ふん、と鼻で笑った。
「好きにしな」
だが、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
LUYは、それを聞き逃さなかった。
二人は、また歩き出した。
同じ道を、同じ方向へ。だが、それぞれの足音で。
7 女帝は消えない
翌朝。午前六時半。
大神運輸の整備場で、トラックのエンジンが朝の空気を震わせていた。点呼まで、あと三十分。ドライバーたちが缶コーヒー片手に、思い思いに時間を潰している。
その端に、一人の少女が立っていた。
ミナだった。
派手なメイクは、跡形もなく落としてあった。脱色していた髪は、黒く染め直されていた。たぶん、夜中のうちに自分で染めたのだろう。生え際に、黒い染料の跡が少し残っていた。
腫れた頬には、湿布が貼ってある。唇の傷は、かさぶたになりかけていた。
それでも、その目は、もう空っぽではなかった。
必死で、まっすぐで、澄んだ光があった。
「……あの子、誰だ?」
「さあ。朝五時から、ずっとあそこに立ってるぞ」
ドライバーたちが、ひそひそと囁き合う。新人の佐藤が、恐る恐るミナに声をかけようとして、睨み返されて引き下がった。
事務所の扉が開いた。
涼子が出てきた。黒い革ジャン。束ねた銀髪。昨夜と、何ひとつ変わらない。
涼子は、まっすぐにミナの前まで歩いていった。
そして、何も言わずに、何かを放り投げた。
ミナが、慌ててそれを両手で受け止める。
作業用の軍手だった。真新しい、白い軍手。
「荷積みだ」
「……え?」
「仕事だよ。今日から、うちで働きな」
ミナの目が、大きく見開かれた。
「免許取れる歳になるまでは、助手席と荷台が、あんたの持ち場だ。重いもんばっかりだよ。泣き言言ったら、その日で終わりだからね」
ミナは、白い軍手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「――はいッ!!」
声が、朝の空気に弾けた。
ドライバーたちが、一斉に振り返った。だが涼子が、じろりと一瞥しただけで、全員がそそくさと自分のトラックへ散っていった。
二階の窓から、LUYがその光景を見下ろしていた。
肩にはベースケース。今日は、黒猫レコードとの初めての打ち合わせだった。
LUYは、窓枠に頬杖をついて、小さく呟いた。
「……女帝、現役じゃん」
整備場の一番端で、小型トラックのエンジンがかかった。
低く、力強い音だった。
暴走の音ではない。仕事の音だ。日常の音だ。誰かの荷物を、誰かの元へ届けるための音だ。
だが、その根っこは、確かに同じだった。三十数年前、夜の国道を震わせた、あの音と。
涼子が運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。助手席で、ミナが軍手をはめている。指が少し震えて、うまくはまらない。
涼子は、横目でそれを見た。何も言わなかった。
ミナが、ようやく軍手をはめ終えた。
「行くよ」
「はい!」
トラックが、ゆっくりと走り出した。
朝の光の中を、新しい音を連れて。
名前は、受け継がれるものではない。
背負うものだ。
そして、背負う者がいる限り――
女帝は、消えない。




