↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バリバリだぜ!  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/6

第3話「女帝の残り火」

第3話 女帝の残り火

1 電話の予感

黒猫レコードと契約して、一週間が経った。

港の動画は、三日で百万回再生を超えた。コメント欄には、ゴスロリの男の娘ベーシストへの驚きと、もうひとつ、別の熱が渦巻いていた。

『隣の銀髪の爺さん、雷神会のディーターってマジ?』

『ガードレールに座ってる婆さん、もしかして女帝じゃね?』

『うちの母ちゃんが言ってた。昔、女帝の涼子って、一人で三十人倒したって』

三十年前に眠ったはずの伝説が、ネットの海で、勝手に息を吹き返し始めていた。

その日の午後。大神運輸の事務所で、電話が鳴った。

受話器を取ったのは涼子だった。鷹三郎は整備場でトラックの下に潜り込んでいる。社長は鷹三郎だが、帳簿も配車も取引先も、実際にこの会社を回しているのは涼子だった。社員なら、誰でも知っていることだ。

「はい、大神運輸」

数秒の沈黙。

涼子の顔が、変わった。

眉間に、一本の深い皺。唇が、一文字に結ばれる。

二階の母の部屋で、LUYはベースを弾く手を止めた。音ではない。空気でわかった。家全体の空気が、ぴんと張り詰めたのだ。

LUYは、そっと部屋を出て、階段の上から事務所を覗き込んだ。

受話器の向こうから、若い女の声が漏れていた。泣いている。しゃくり上げながら、途切れ途切れに何かを訴えている。

『……動画、見て……女帝って、本物なら……ミナが……あいつら、女帝の流れだって……』

涼子の声が、低く落ちた。

「……誰が、そう名乗ってるって?」

『……ら、雷姫……雷姫レディースって……』

涼子の指が、受話器をぎしりと握り締めた。

「場所は」

メモも取らなかった。相手が言い終わるのを待たずに、涼子は受話器を叩きつけるように置いた。

ちょうどその時、整備場から鷹三郎が戻ってきた。油まみれのスパナを片手に、作業着の袖を肘までまくっている。

妻の顔を一目見て、鷹三郎は全てを察した。

「面倒か」

「ガキが一人、潰されかけてる」

「どこの連中だ」

「昔の名前を、勝手に担いでる連中さ」

事務所の空気が、すうっと冷えた。

鷹三郎はスパナを机に置き、太い腕を組んだ。何も言わない。ただ、目だけで問いかけていた。

――どうする。

涼子は、立ち上がった。

壁のフックから黒い革ジャンを取り、羽織る。銀髪を、ゴムで後ろに一本、きつく束ね直す。その動きに、一片の迷いもなかった。

「行く」

階段を降りる、厚底ブーツの足音がした。

LUYだった。ベースケースは持っていない。だがその目は、ライブの本番直前と同じ色をしていた。

「俺も行く」

「遊びじゃないよ」

「知ってる」

一瞬の沈黙。

涼子は孫に背を向けたまま、ドアノブに手をかけた。

「……勝手にしな」

拒絶でもない。許可でもない。

だが、LUYにはそれで十分だった。

鷹三郎は、小さく息を吐いた。そしてスパナを拾い上げ、黙って整備場へ戻っていった。

二人の背中を、見送らなかった。

――今夜は、俺の出番じゃねえ。

そういう夜も、ある。

2 名前の重み

町外れの、古い立体駐車場。

三階建てのコンクリートの箱は、十年以上前に閉鎖されたまま放置されていた。錆びた廃車が何台か転がり、柱という柱がスプレーの落書きで埋め尽くされている。

涼子は、この場所を覚えていた。

三十数年前。雷神会の集会は、いつもここの屋上から始まった。数百台の単車がスロープを螺旋状に駆け上がり、屋上を埋め尽くす。その真ん中に鷹三郎が立ち、咳払いひとつで全員が黙った。

あの頃は、この箱全体が、ひとつの巨大なエンジンみたいに唸っていた。

今は、しんと静まり返っている。

夜。屋上へ続くスロープの途中で、涼子は足を止めた。上から、甲高い笑い声が降ってくる。

屋上には、十数人の若い女たちがいた。

派手なメイク。金や茶に脱色した髪。肌を大きく見せる服。スマホのライトがあちこちで光り、誰かが流している音楽が、割れたスピーカーから響いている。

暴走族ではなかった。単車は一台もない。

ただの、群れだった。行き場のない者たちが、何かの名前の陰に身を寄せ合って、居場所を確保している。その目は、どれも空っぽだった。

輪の真ん中に、一人の少女が膝をついていた。

十六か、十七。頬が赤く腫れ上がり、切れた唇の端から血が一筋流れている。両腕を、二人がかりで押さえつけられていた。

それでも、その目だけは、ぎらぎらと燃えていた。

「だからさあ、言ってんじゃん。うちらは女帝の流れだって」

少女の前に立った女が、甘ったるい声で笑った。二十歳前後。背は低い。だが眼光だけは、異様に鋭かった。

着ているジャージの背中に、ラメのスプレーで描かれた稲妻のマーク。

雷姫

「うちらのグループはね、伝説を継いでんの。あの動画、見たでしょ? 女帝の涼子。うちらはその直系。そのうちら相手に、小娘が逆らっていいと思ってんの?」

少女が、血の混じった唾を吐き捨てた。

「伝説……? 笑わせんな」

「あ?」

「動画が流行ったから、急に名前変えただけだろ。先月までは、ただの『姫会』だったくせに。走りもしねえで、名前だけ借りて威張ってる。ダッセえんだよ」

リーダーの女の顔から、笑みが消えた。

「……もう一回、言ってみな」

その手が、少女の髪を鷲掴みにしようと伸びた。

その瞬間だった。

――コツ。

乾いた足音が、コンクリートに響いた。

――コツ。コツ。

ゆっくりとした、重みのあるリズム。スロープの暗がりから、一歩ずつ近づいてくる。

割れたスピーカーの音楽が、いつの間にか止まっていた。誰かが、無意識に停止ボタンを押していた。

全員が、振り返った。

そこに、涼子が立っていた。

黒い革ジャン。束ねた銀髪。表情は、何もない。

三十数年前、この同じ屋上で「女帝」と呼ばれた女が、今、ここに立っていた。

その少し後ろ、コンクリートの柱にもたれて、ゴスロリの人影が腕を組んでいる。LUYだった。口を挟むつもりは、最初からなかった。

涼子が、口を開いた。

「その名前」

静かな声だった。

「誰に、許可取った」

駐車場全体の空気が、止まった。

リーダーの女が、眉をひそめた。一瞬、気圧されかけた自分を誤魔化すように、声を張り上げる。

「はあ? 誰だよ、ババア」

涼子は答えなかった。

ただ、一歩、前に出た。

それだけで、リーダーの女の顔から、余裕がひとつ剥がれ落ちた。

もう一歩。

またひとつ、剥がれる。

――何だ、このババア。

今まで脅して黙らせてきた大人たちとは、根本的に何かが違う。わからない。わからないのに、背中に冷たい汗が噴き出してくる。

「もう一回、言ってごらん」

涼子の声は、小さかった。

だが、逃げ場がなかった。

リーダーの後ろで、取り巻きの女たちが、無意識に一歩ずつ後ずさっていた。

柱にもたれたLUYの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

3 女帝の条件

「……あんた、誰」

リーダーの女が、強がった。

声が、震えていた。自分でもそれがわかって、恥ずかしくて、さらに声を張り上げる。

「関係ないババアが、しゃしゃり出てくんなよ! あんたに何がわかんだよ! うちらは雷姫! 女帝の伝統を継いでんだよ!」

涼子は、その言葉に何も答えなかった。

代わりに、膝をついた少女の前まで歩いていった。押さえつけていた二人の女が、なぜか自分から手を離し、飛びのいた。

涼子は、少女の前にしゃがみ込んだ。

腫れた頬。切れた唇。乾きかけた血。そして、まっすぐに自分を睨み返してくる、燃えるような目。

「立ちな」

少女は、ふらつきながら立ち上がった。膝が笑っている。それでも、倒れなかった。

「名前は」

「……ミナ」

「泣くんじゃないよ」

ミナの目に、溜まりかけていた涙が、すっと引いた。

不思議な声だった。命令ではなかった。慰めでもなかった。ただ、「お前は泣かない人間だ」という事実を、静かに告げられた気がした。そう言われてしまえば、確かに、泣けなかった。

ミナは、乱暴に手の甲で目元を拭った。

「な、泣いてねえし! 目にゴミが入っただけだ!」

涼子は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

「いい根性だ」

それから立ち上がり、ゆっくりと振り返った。リーダーの女と、その後ろに固まる十数人の女たちを、端から端まで見渡す。

「女帝ってのはね」

一歩。

女たちが、一歩下がった。

「群れて強がるための名前じゃないんだよ」

もう一歩。

また、下がる。

誰も、動けなかった。涼子の言葉が、コンクリートの壁と天井に反射して、何倍もの重さになって全員の肩にのしかかってくる。

「たった一人で立って、全員を黙らせる奴のことだ」

リーダーの女が、奥歯を噛みしめた。

許せなかった。なぜだかわからない。目の前のババアが正しいことを言っているのは、心のどこかでわかっていた。だからこそ、許せなかった。伝説だの、伝統だの、そんな古臭いもので頭を押さえつけられるのが、何より我慢ならなかった。

自分たちだって、ここで必死に生きてきたのだ。

「……だったら」

女が、低く唸った。

「だったら、やってみろよ。たった一人で、うちら全員、黙らせてみろよ!」

涼子は、笑わなかった。

ただ、静かに言った。

「いいだろう」

4 静かな制圧

合図は、なかった。

涼子が、一歩踏み込んだ。

――次の瞬間、リーダーの女の右腕が、背中側にねじ上げられていた。

悲鳴すら、遅れた。

女の体がふわりと浮き、気がつけば、顔がコンクリートの柱に押しつけられていた。痛みよりも先に、混乱が来た。いつ腕を取られたのか。いつ背後に回られたのか。何ひとつ、見えなかった。

「遅い」

耳元で、低い声がした。

「り、リナを離せぇッ!」

取り巻きの女たちが、一斉に動いた。五人、六人。爪を立て、拳を振り上げ、四方から涼子に飛びかかる。

LUYは、柱にもたれたまま、一歩も動かなかった。

動く必要がないことを、知っていた。

涼子はリーダーの腕を離した。

そして、ほんの少しだけ、体の向きを変えた。

最初の一人の手首を、指先でつまむように取る。その勢いを殺さず、くるりと流す。女は自分の勢いのまま宙を回り、背中から床に落ちた。

二人目の足首を、靴の爪先で軽く払う。それだけで、女は膝から崩れた。

三人目と四人目は、同時に来た。涼子が半歩横に滑る。二人は互いの額を、ごつんとぶつけ合った。

誰の拳も、涼子の体に触れなかった。

力ではなかった。速さでもなかった。相手がどこに来るか、その一瞬前にもうわかっている。最小の動きで、最小の力で、相手の力をそのまま相手に返す。

半世紀近く前、夜の国道で、何百回という喧嘩の中で体に叩き込まれた動きだった。六十五になった今も、体は一ミリも忘れていなかった。

五人目が、背後に回り込んでいた。

その手に、銀色の光があった。カッターナイフ。刃が、ちきちきと音を立てて伸びる。

「ばあちゃん、後ろ――」

LUYが言いかけた。

言い終わる前に、涼子の右肘が、振り返りもせずに後ろへ突き出されていた。

みぞおちに、正確に。

女の体がくの字に折れ、カッターナイフが手から零れ落ちた。からからと、乾いた音を立ててコンクリートの上を転がっていく。

涼子はそれを、ブーツの踵で踏みつけた。

ぱきん、と刃が折れた。

「……刃物はね、持った瞬間に負けなんだよ」

振り向きもせずに、そう言った。

気がつけば、屋上で立っているのは三人だけだった。

涼子と、LUYと、ミナ。

あとは全員、床に転がっているか、壁際に張りついて震えていた。もう、手を出そうとする者は一人もいなかった。

「……な、何なんだよ……」

誰かが、かすれた声で呟いた。

「何なんだよ、このババア……」

LUYが、柱から背中を離した。黒いフリルの袖を払い、小さく笑った。

「それ、うちのばあちゃんの『昔の普通』だよ」

涼子が、柱に押しつけていたリーダーの女から、ゆっくりと手を離した。

リナと呼ばれた女は、その場に崩れ落ちた。膝をついたまま、呆然と涼子を見上げている。

涼子は、一言だけ言った。

「終わりだ」

5 背中で教える

沈黙が、屋上を満たした。

コンクリートの隙間から、夜風が吹き抜けていく。錆びた廃車の鉄の匂い。遠くの国道を走る、トラックのエンジン音。

涼子は、屋上にいる全員を、ゆっくりと見渡した。

誰も、目を逸らせなかった。

「もう一度だけ、言う」

静かな声だった。それなのに、屋上の端で震えている女の耳にまで、確実に届いた。

「人の名前を、使うんじゃない」

間があった。

風が、涼子の銀髪を揺らした。

「使うなら――背負いな」

その言葉が、屋上の空気を変えた。

雷神会。女帝。動画で流行った、かっこいい名前。彼女たちにとって、それはただの看板だった。羽織れば強く見える、借り物の上着だった。

だが今、目の前に立つ女は、その名前の本当の重さを、たった一人で体現していた。

名前を背負うということが、どういうことなのか。

彼女たちは、生まれて初めて、それを知った。

膝をついていたリナが、唇を噛んで俯いた。その肩が、小さく震えていた。泣いているのか、悔しいのか、自分でもわからないようだった。

その時。

ミナが、一歩前に出た。

頬は腫れ上がったまま。唇の血も、まだ乾いていない。足元は、まだ少しふらついている。

それでも、その目は、逃げていなかった。

「……あたし」

声が、震えていた。

だが、それは恐怖の震えではなかった。体の奥の、ずっと深いところで、何かが初めて動き出した震えだった。

「あたし、やりたいです」

涼子は、ミナを見た。

何秒か。長いようで、短い時間だった。

ミナは、その視線から、一ミリも目を逸らさなかった。

「なら」

涼子は、短く言った。

「明日、来な」

それだけだった。

場所も、時間も言わなかった。大神運輸の名前すら、口にしなかった。

だが、ミナには伝わった。

電話をかけてきた友達は、動画から女帝の居場所を突き止めた。だったら、自分にもできるはずだ。探せばいい。自分の足で。

それが、最初の試験なのだと。

LUYが、ひゅう、と口笛を吹いた。

「スカウト?」

「違う」

涼子は、ミナに背を向けた。そしてスロープへ向かって歩き出しながら、言った。

「選別だ」

6 翻訳の宣言

帰り道。

夜の住宅街を、涼子とLUYが並んで歩いていた。

月が出ていた。冷たい月の光が、涼子の銀髪と、LUYの金髪を、同じ色に照らしていた。厚底ブーツの足音と、革のブーツの足音が、ばらばらのリズムでアスファルトを叩いている。

しばらく、どちらも口をきかなかった。

先に口を開いたのは、LUYだった。

「……ばあちゃんのやり方さ。古くねえ?」

「そうかい」

涼子は、前を向いたまま答えた。

「手首取って、足払って、肘入れて。今どき、あんなの動画に撮られたら一発で炎上だぜ」

「そうかもね」

「でも」

LUYは、少しだけ間を置いた。

「効いてた」

涼子が、ほんの少しだけ笑った。

口元だけの、かすかな笑みだった。他の誰が見ても、表情が変わったことにさえ気づかないだろう。

だが、LUYには、はっきりと笑顔に見えた。

「あたしは、今さらやり方を新しくする気はないよ」

「しなくていい」

LUYは、即答した。

そして、夜空を見上げたまま、続けた。

「俺がやる」

涼子の足が、止まった。

振り返る。

「何をだい」

「翻訳」

その言葉の意味が、涼子の耳に届くまで、一拍の遅れがあった。

「……音にする、ってことかい」

LUYは、背中を軽く叩いた。今夜はそこにないベースケースの、いつもの場所を。

「まあ、そんな感じ」

LUYの目が、月の光を映して、静かに光っていた。

「ばあちゃんのやり方を、今の時代に通じるように、音にする。言葉じゃなくて、リズムで。殴るんじゃなくて、共鳴で」

港の夜を思い出していた。二十台のエンジンが、ひとつのビートになったあの瞬間を。

「黙らせるんじゃない。一緒に鳴らせる。でも、根っこにあるもんは同じだ。一人で立って、全部を背負う。それを、俺の音でやる」

涼子は、しばらく孫の顔を見ていた。

フリルとレースに包まれた、華奢な体。人形のように整った顔。

だがその奥に、確かに、自分と同じ火が燃えていた。

涼子は、ふん、と鼻で笑った。

「好きにしな」

だが、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

LUYは、それを聞き逃さなかった。

二人は、また歩き出した。

同じ道を、同じ方向へ。だが、それぞれの足音で。

7 女帝は消えない

翌朝。午前六時半。

大神運輸の整備場で、トラックのエンジンが朝の空気を震わせていた。点呼まで、あと三十分。ドライバーたちが缶コーヒー片手に、思い思いに時間を潰している。

その端に、一人の少女が立っていた。

ミナだった。

派手なメイクは、跡形もなく落としてあった。脱色していた髪は、黒く染め直されていた。たぶん、夜中のうちに自分で染めたのだろう。生え際に、黒い染料の跡が少し残っていた。

腫れた頬には、湿布が貼ってある。唇の傷は、かさぶたになりかけていた。

それでも、その目は、もう空っぽではなかった。

必死で、まっすぐで、澄んだ光があった。

「……あの子、誰だ?」

「さあ。朝五時から、ずっとあそこに立ってるぞ」

ドライバーたちが、ひそひそと囁き合う。新人の佐藤が、恐る恐るミナに声をかけようとして、睨み返されて引き下がった。

事務所の扉が開いた。

涼子が出てきた。黒い革ジャン。束ねた銀髪。昨夜と、何ひとつ変わらない。

涼子は、まっすぐにミナの前まで歩いていった。

そして、何も言わずに、何かを放り投げた。

ミナが、慌ててそれを両手で受け止める。

作業用の軍手だった。真新しい、白い軍手。

「荷積みだ」

「……え?」

「仕事だよ。今日から、うちで働きな」

ミナの目が、大きく見開かれた。

「免許取れる歳になるまでは、助手席と荷台が、あんたの持ち場だ。重いもんばっかりだよ。泣き言言ったら、その日で終わりだからね」

ミナは、白い軍手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。

「――はいッ!!」

声が、朝の空気に弾けた。

ドライバーたちが、一斉に振り返った。だが涼子が、じろりと一瞥しただけで、全員がそそくさと自分のトラックへ散っていった。

二階の窓から、LUYがその光景を見下ろしていた。

肩にはベースケース。今日は、黒猫レコードとの初めての打ち合わせだった。

LUYは、窓枠に頬杖をついて、小さく呟いた。

「……女帝、現役じゃん」

整備場の一番端で、小型トラックのエンジンがかかった。

低く、力強い音だった。

暴走の音ではない。仕事の音だ。日常の音だ。誰かの荷物を、誰かの元へ届けるための音だ。

だが、その根っこは、確かに同じだった。三十数年前、夜の国道を震わせた、あの音と。

涼子が運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。助手席で、ミナが軍手をはめている。指が少し震えて、うまくはまらない。

涼子は、横目でそれを見た。何も言わなかった。

ミナが、ようやく軍手をはめ終えた。

「行くよ」

「はい!」

トラックが、ゆっくりと走り出した。

朝の光の中を、新しい音を連れて。

名前は、受け継がれるものではない。

背負うものだ。

そして、背負う者がいる限り――

女帝は、消えない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。