君といると、話さなくても
王城へ向かう日は、いつの間にかシェイドにとって楽しみな日になっていた。
そのことに気づいたのは、アレンと並んで王城内の回廊を歩いている時だった。
「今日は随分機嫌がいいですね」
隣を歩くアレンに言われ、シェイドは目を瞬く。
「そうですか?」
「ええ」
「いつも通りだと思いますけど」
「そうですか」
アレンはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ笑っている。
シェイドは前を向いた。
別に浮かれているつもりはない。
今日は何を話そうか。この前リアが見せてくれた花は、もう少し咲いただろうか。
騎士団でグレンが椅子を壊して、エヴァンに怒られた話をしたら、きっと笑うだろう。
そんなことを考えていただけだ。
「……やっぱり機嫌いいですか?」
「ええ」
「何でだろう」
アレンは答えず、穏やかな表情のまま歩いていく。
シェイドは少しだけ首を傾げて、その隣をついていった。
やがて、見慣れてきた扉が見えてくる。
その向こうにリアがいると思うと、自然と足が少し速くなった。
◇
「こんにちは」
部屋へ入ると、リアがすぐに声をかけてきた。
「こんにちは、王女殿下」
シェイドが一礼する。
初めて会った頃より、リアの声はずっと自然になっていた。
今日は、セドリックたちが最初から部屋に揃っているわけではない。エリーゼがリアのそばにいて、アレンと簡単に言葉を交わすだけだった。
「では、今日もお願いしますね」
「はい」
シェイドが答えると、エリーゼは娘へ目を向けた。
「リア、何かあったら呼ぶのよ」
「うん」
それからシェイドへも柔らかく微笑み、アレンと一緒に隣室へ移った。
扉が閉まると、リアがすぐに机の方を指した。
「シェイド、これ見て」
「何ですか?」
机の上では、本が開かれていた。ページの間に敷いた紙の上に、小さな白い花がある。
以前、庭園でリアが好きだと教えてくれた花だった。
「昨日、庭師さんにもらった花。押し花にしてるところなの」
「綺麗ですね」
「まだ途中だけど」
リアは少し嬉しそうだった。
「こうして紙に挟んで、本を閉じておくんだって。乾いたら、長く残せるの」
シェイドは近くから眺める。
「じゃあ、春が終わっても見られますね」
「うん」
リアが頷いた。それから、シェイドを見る。
「……シェイドは?」
「僕?」
「何か残しておきたいもの、ある?」
突然の質問に、シェイドは少し考えた。
「……名前?」
「名前?」
「前に、騎士団のみんなの名前を紙に書いたことがあります」
「どうして?」
「忘れたくなかったから」
リアの表情が少し変わった。
「……忘れちゃうの?」
「今は忘れませんよ」
シェイドは笑う。
「でも、僕は昔のことをほとんど覚えてないので」
「あ……」
リアが困ったように目を伏せた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんですか?」
「聞かない方がよかったかなって」
「大丈夫です」
シェイドはいつも通りに答えた。
「もう慣れてますから」
リアは少し黙った。
その顔を見て、シェイドは話題を変えようかと思った。
けれど、その前に小さな声がした。
「……寂しくない?」
シェイドは、すぐには答えられなかった。
父親も母親も分からない。どこで生まれたのかも、どうして家族と離れたのかも。
考え始めれば、知りたいことはいくらでもあった。
「たまに」
シェイドは正直に答えた。
「知りたいなって思います」
「家族のこと?」
「はい」
「……会いたい?」
今度は、もっと長く考えた。
「分かりません」
リアが顔を上げる。
「覚えてないから。会いたいのかも、怖いのかも、僕にもよく分からないんです」
「そっか……」
「でも、今は騎士団のみんながいますから」
シェイドは少し笑った。
「団長もいるし」
それを言う時だけ、声がほんの少し柔らかくなった。
「だから、大丈夫です」
リアはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……わたしもいるよ」
シェイドが瞬きをする。
「え?」
言ってから恥ずかしくなったのか、リアは少しだけ頬を赤くして視線を落とした。
「その……騎士団の人とは違うけど」
「……はい」
「シェイドが寂しい時に、お話くらいならできるから」
最後の方は、かなり小さな声だった。
シェイドはリアを見た。
最初に会った時、挨拶のあとに言葉が続かなかった少女。そのリアが今は、自分が寂しい時には話をすると言ってくれている。
「ありがとうございます」
自然に笑みが浮かんだ。
「嬉しいです」
リアも少しだけ笑う。
「……うん」
それから、花を挟んだ紙を整え、本をそっと閉じた。
◇
その日は、途中から雨が降り始めた。
窓を細かな雨粒が叩いている。
庭へ出られなくなった二人は、窓辺で本を読んでいた。最初の頃に読んだ竜の絵本ではなく、少し長い物語だった。
しばらくして、リアがページをめくる手を止めた。
「……シェイド」
「はい」
「聞いてもいい?」
「いいですよ」
「どうして最初の日、何も聞かなかったの?」
「最初の日?」
「わたしが、全然喋れなかった時」
「ああ」
シェイドは本から顔を上げた。
「質問しようとは思いました」
「じゃあ、どうして聞かなかったの?」
「王女殿下が困っていたからです」
リアが目を瞬く。
「……分かったの?」
「何となく。ドレスをずっと握っていたので」
リアが自分の手を見る。
「そんなところ見てたの?」
「見えてただけですよ」
「……恥ずかしい」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいけど……」
リアは少し顔を赤くした。
シェイドは困ったように笑う。
「でも、無理して話す必要はないと思ったんです」
「どうして?」
「僕も、騎士団に来たばかりの時、みんなに何を言えばいいか分からなかったから」
優しくされても、どこまで頼っていいのか分からなかった。何かをもらえば、返さなければならないような気がした。
あの頃のことを思い出す。
「だから、何も言わないでいてくれる方が楽な時もあるかなって」
リアが黙った。
「違いました?」
少し心配になって尋ねると、リアは首を横に振った。
「……嬉しかった」
「そうですか」
「うん」
雨の音だけが聞こえた。
少し経ってから、リアが続ける。
「わたしね」
「はい」
「人と話す時、何を言ったらいいか分からなくなるの」
シェイドは黙って聞いた。
「挨拶はできるよ。ちゃんと教えてもらったから」
「はい」
「でも、そのあと」
リアが膝の上で指を組む。
「変なこと言ったらどうしようとか。嫌われたらどうしようとか。相手が何を話したいのか分からないとか」
ゆっくりと言葉を選ぶリアを、シェイドは急かさずに待った。
「考えてると、何も言えなくなるの」
「そうだったんですね」
「うん」
シェイドは少し考えた。
「じゃあ、僕といる時は、そんなに考えなくてもいいんじゃないですか?」
リアが顔を上げる。
「……いいの?」
「はい」
「何も話さなくても?」
「僕も黙ってます」
「変なこと言っても?」
「僕もたぶん変なこと言います」
「シェイドも?」
「グレンにはよく言われます」
「それはグレンが言ってるだけじゃない?」
「……そうかもしれません」
リアがふふっと笑った。
シェイドも笑う。
「だから、別にいいと思います」
「……そっか」
リアは窓の外へ目を向けた。雨はまだ降っている。
「シェイドといるとね」
「はい」
「黙ってても、そんなに怖くない」
シェイドは少しだけ目を見開いた。
すぐには何も言えなかった。
「……それなら、よかったです」
やっとそれだけ返す。
胸の奥がくすぐったくて、本へ目を戻しても、しばらく文字が頭に入ってこなかった。
◇
帰る時間が近づいた頃、リアが突然言った。
「ねえ、シェイド」
「はい?」
「ずっと『王女殿下』って呼ぶの?」
「え?」
思ってもいなかった質問だった。
「王女殿下は王女殿下なので」
「そうだけど」
リアは少し不満そうにした。
「お父様も、お母様も、お兄様も、リアって呼ぶよ」
「ご家族だからじゃないですか?」
「セシルも、呼ぶ時はリア様だよ」
「ああ……」
シェイドはリアを見た。
王女殿下という呼び方は、少し堅く感じるのかもしれない。
「では、リア様?」
呼んでみると、リアは少し考えた。
「……うん」
「それなら?」
「前よりいい」
「前より」
シェイドは少し笑った。
「分かりました。リア様」
もう一度呼ぶ。
リアが、少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん」
その時、隣室からアレンが入ってきた。
「そろそろ戻りましょうか」
「はい」
シェイドが立ち上がると、リアも立った。
「では、リア様。今日はありがとうございました」
さっそく新しい呼び方を使う。
リアの顔が少し明るくなった。
「……うん。またね、シェイド」
「はい。また」
部屋を出て、廊下をしばらく歩いてから、アレンが隣のシェイドへ視線を向けた。
「呼び方が変わりましたね」
「リア様に、ずっと王女殿下って呼ぶのかと聞かれたので」
「そうですか」
「変でした?」
「いいえ」
アレンは穏やかに笑う。
「リア様がそう望まれたのであれば、いいのではありませんか」
「そうですよね」
シェイドは頷いた。
少し歩いてから、小さく呟いてみる。
「……リア様」
「何か?」
「いえ」
何でもない。
ただ、さっきまでより、ほんの少しだけ近くなった気がした。
◇
その夜、リアは寝る前に、昼間見せた押し花の様子を確かめていた。
紙をそっと開くと、白い花はまだ綺麗な形を残していた。乾くまでは、もう少しかかるらしい。
今日話したことを思い出す。
『僕といる時は、そんなに考えなくてもいいんじゃないですか?』
リアは紙を元に戻し、本を閉じた。
それから、誰に聞かせるでもなく、小さく名前を呼んだ。
「……シェイド」
次に会ったら、今日は言えなかったことを、もう一つくらい話してみよう。
そう思った。




