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9/25

君といると、話さなくても


 王城へ向かう日は、いつの間にかシェイドにとって楽しみな日になっていた。


 そのことに気づいたのは、アレンと並んで王城内の回廊を歩いている時だった。


「今日は随分機嫌がいいですね」


 隣を歩くアレンに言われ、シェイドは目を瞬く。


「そうですか?」


「ええ」


「いつも通りだと思いますけど」


「そうですか」


 アレンはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ笑っている。


 シェイドは前を向いた。


 別に浮かれているつもりはない。


 今日は何を話そうか。この前リアが見せてくれた花は、もう少し咲いただろうか。


 騎士団でグレンが椅子を壊して、エヴァンに怒られた話をしたら、きっと笑うだろう。


 そんなことを考えていただけだ。


「……やっぱり機嫌いいですか?」


「ええ」


「何でだろう」


 アレンは答えず、穏やかな表情のまま歩いていく。


 シェイドは少しだけ首を傾げて、その隣をついていった。


 やがて、見慣れてきた扉が見えてくる。


 その向こうにリアがいると思うと、自然と足が少し速くなった。


     

◇

「こんにちは」


 部屋へ入ると、リアがすぐに声をかけてきた。


「こんにちは、王女殿下」


 シェイドが一礼する。


 初めて会った頃より、リアの声はずっと自然になっていた。


 今日は、セドリックたちが最初から部屋に揃っているわけではない。エリーゼがリアのそばにいて、アレンと簡単に言葉を交わすだけだった。


「では、今日もお願いしますね」


「はい」


 シェイドが答えると、エリーゼは娘へ目を向けた。


「リア、何かあったら呼ぶのよ」


「うん」


 それからシェイドへも柔らかく微笑み、アレンと一緒に隣室へ移った。


 扉が閉まると、リアがすぐに机の方を指した。


「シェイド、これ見て」


「何ですか?」


 机の上では、本が開かれていた。ページの間に敷いた紙の上に、小さな白い花がある。


 以前、庭園でリアが好きだと教えてくれた花だった。


「昨日、庭師さんにもらった花。押し花にしてるところなの」


「綺麗ですね」


「まだ途中だけど」


 リアは少し嬉しそうだった。


「こうして紙に挟んで、本を閉じておくんだって。乾いたら、長く残せるの」


 シェイドは近くから眺める。


「じゃあ、春が終わっても見られますね」


「うん」


 リアが頷いた。それから、シェイドを見る。


「……シェイドは?」


「僕?」


「何か残しておきたいもの、ある?」


 突然の質問に、シェイドは少し考えた。


「……名前?」


「名前?」


「前に、騎士団のみんなの名前を紙に書いたことがあります」


「どうして?」


「忘れたくなかったから」


 リアの表情が少し変わった。


「……忘れちゃうの?」


「今は忘れませんよ」


 シェイドは笑う。


「でも、僕は昔のことをほとんど覚えてないので」


「あ……」


 リアが困ったように目を伏せた。


「ごめんなさい」


「どうして謝るんですか?」


「聞かない方がよかったかなって」


「大丈夫です」


 シェイドはいつも通りに答えた。


「もう慣れてますから」


 リアは少し黙った。


 その顔を見て、シェイドは話題を変えようかと思った。


 けれど、その前に小さな声がした。


「……寂しくない?」


 シェイドは、すぐには答えられなかった。


 父親も母親も分からない。どこで生まれたのかも、どうして家族と離れたのかも。


 考え始めれば、知りたいことはいくらでもあった。


「たまに」


 シェイドは正直に答えた。


「知りたいなって思います」


「家族のこと?」


「はい」


「……会いたい?」


 今度は、もっと長く考えた。


「分かりません」


 リアが顔を上げる。


「覚えてないから。会いたいのかも、怖いのかも、僕にもよく分からないんです」


「そっか……」


「でも、今は騎士団のみんながいますから」


 シェイドは少し笑った。


「団長もいるし」


 それを言う時だけ、声がほんの少し柔らかくなった。


「だから、大丈夫です」


 リアはしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「……わたしもいるよ」


 シェイドが瞬きをする。


「え?」


 言ってから恥ずかしくなったのか、リアは少しだけ頬を赤くして視線を落とした。


「その……騎士団の人とは違うけど」


「……はい」


「シェイドが寂しい時に、お話くらいならできるから」


 最後の方は、かなり小さな声だった。


 シェイドはリアを見た。


 最初に会った時、挨拶のあとに言葉が続かなかった少女。そのリアが今は、自分が寂しい時には話をすると言ってくれている。


「ありがとうございます」


 自然に笑みが浮かんだ。


「嬉しいです」


 リアも少しだけ笑う。


「……うん」


 それから、花を挟んだ紙を整え、本をそっと閉じた。


     

◇

 その日は、途中から雨が降り始めた。


 窓を細かな雨粒が叩いている。


 庭へ出られなくなった二人は、窓辺で本を読んでいた。最初の頃に読んだ竜の絵本ではなく、少し長い物語だった。


 しばらくして、リアがページをめくる手を止めた。


「……シェイド」


「はい」


「聞いてもいい?」


「いいですよ」


「どうして最初の日、何も聞かなかったの?」


「最初の日?」


「わたしが、全然喋れなかった時」


「ああ」


 シェイドは本から顔を上げた。


「質問しようとは思いました」


「じゃあ、どうして聞かなかったの?」


「王女殿下が困っていたからです」


 リアが目を瞬く。


「……分かったの?」


「何となく。ドレスをずっと握っていたので」


 リアが自分の手を見る。


「そんなところ見てたの?」


「見えてただけですよ」


「……恥ずかしい」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいけど……」


 リアは少し顔を赤くした。


 シェイドは困ったように笑う。


「でも、無理して話す必要はないと思ったんです」


「どうして?」


「僕も、騎士団に来たばかりの時、みんなに何を言えばいいか分からなかったから」


 優しくされても、どこまで頼っていいのか分からなかった。何かをもらえば、返さなければならないような気がした。


 あの頃のことを思い出す。


「だから、何も言わないでいてくれる方が楽な時もあるかなって」


 リアが黙った。


「違いました?」


 少し心配になって尋ねると、リアは首を横に振った。


「……嬉しかった」


「そうですか」


「うん」


 雨の音だけが聞こえた。


 少し経ってから、リアが続ける。


「わたしね」


「はい」


「人と話す時、何を言ったらいいか分からなくなるの」


 シェイドは黙って聞いた。


「挨拶はできるよ。ちゃんと教えてもらったから」


「はい」


「でも、そのあと」


 リアが膝の上で指を組む。


「変なこと言ったらどうしようとか。嫌われたらどうしようとか。相手が何を話したいのか分からないとか」


 ゆっくりと言葉を選ぶリアを、シェイドは急かさずに待った。


「考えてると、何も言えなくなるの」


「そうだったんですね」


「うん」


 シェイドは少し考えた。


「じゃあ、僕といる時は、そんなに考えなくてもいいんじゃないですか?」


 リアが顔を上げる。


「……いいの?」


「はい」


「何も話さなくても?」


「僕も黙ってます」


「変なこと言っても?」


「僕もたぶん変なこと言います」


「シェイドも?」


「グレンにはよく言われます」


「それはグレンが言ってるだけじゃない?」


「……そうかもしれません」


 リアがふふっと笑った。


 シェイドも笑う。


「だから、別にいいと思います」


「……そっか」


 リアは窓の外へ目を向けた。雨はまだ降っている。


「シェイドといるとね」


「はい」


「黙ってても、そんなに怖くない」


 シェイドは少しだけ目を見開いた。


 すぐには何も言えなかった。


「……それなら、よかったです」


 やっとそれだけ返す。


 胸の奥がくすぐったくて、本へ目を戻しても、しばらく文字が頭に入ってこなかった。


     

◇

 帰る時間が近づいた頃、リアが突然言った。


「ねえ、シェイド」


「はい?」


「ずっと『王女殿下』って呼ぶの?」


「え?」


 思ってもいなかった質問だった。


「王女殿下は王女殿下なので」


「そうだけど」


 リアは少し不満そうにした。


「お父様も、お母様も、お兄様も、リアって呼ぶよ」


「ご家族だからじゃないですか?」


「セシルも、呼ぶ時はリア様だよ」


「ああ……」


 シェイドはリアを見た。


 王女殿下という呼び方は、少し堅く感じるのかもしれない。


「では、リア様?」


 呼んでみると、リアは少し考えた。


「……うん」


「それなら?」


「前よりいい」


「前より」


 シェイドは少し笑った。


「分かりました。リア様」


 もう一度呼ぶ。


 リアが、少しだけ嬉しそうに笑った。


「うん」


 その時、隣室からアレンが入ってきた。


「そろそろ戻りましょうか」


「はい」


 シェイドが立ち上がると、リアも立った。


「では、リア様。今日はありがとうございました」


 さっそく新しい呼び方を使う。


 リアの顔が少し明るくなった。


「……うん。またね、シェイド」


「はい。また」


 部屋を出て、廊下をしばらく歩いてから、アレンが隣のシェイドへ視線を向けた。


「呼び方が変わりましたね」


「リア様に、ずっと王女殿下って呼ぶのかと聞かれたので」


「そうですか」


「変でした?」


「いいえ」


 アレンは穏やかに笑う。


「リア様がそう望まれたのであれば、いいのではありませんか」


「そうですよね」


 シェイドは頷いた。


 少し歩いてから、小さく呟いてみる。


「……リア様」


「何か?」


「いえ」


 何でもない。


 ただ、さっきまでより、ほんの少しだけ近くなった気がした。


     

◇

 その夜、リアは寝る前に、昼間見せた押し花の様子を確かめていた。


 紙をそっと開くと、白い花はまだ綺麗な形を残していた。乾くまでは、もう少しかかるらしい。


 今日話したことを思い出す。


『僕といる時は、そんなに考えなくてもいいんじゃないですか?』


 リアは紙を元に戻し、本を閉じた。


 それから、誰に聞かせるでもなく、小さく名前を呼んだ。


「……シェイド」


 次に会ったら、今日は言えなかったことを、もう一つくらい話してみよう。


 そう思った。


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