守られるということ
雨の午後だった。
朝から降り続く雨のせいで、屋外訓練は中止になっていた。
騎士団本部の中庭には人影が少なく、いつもなら響いている掛け声や木剣の音もない。代わりに、廊下の向こうから室内訓練場の剣戟がかすかに聞こえていた。
そんな廊下を、シェイドは両腕いっぱいに白い布を抱えて歩いていた。
訓練で汗を拭ったり、簡単な手当てに使ったりするための布だ。洗濯場に畳まれていたものを見つけて、倉庫まで運ぼうと思った。
誰かに頼まれたわけではない。けれど、何かしたかった。
騎士団へ来てから、シェイドはたくさんのものをもらっている。食事も、眠る場所も、着るものも。知らないことがあれば教えてもらい、困っていれば誰かが助けてくれる。
先日は水桶を運ぼうとして、一歩も動けなくなったところをグレンに見つかった。
『何やってんだ、ちび!』
笑われながら、軽々と取り上げられた。
それでも、何もせずにいるのは落ち着かなかった。だから、皿を運んだり、本棚を整えたり、置きっぱなしになった布を集めたりする。
七歳の自分でもできることなら、少しくらい役に立てる気がした。
「よいしょ……」
布の山のせいで、前がほとんど見えない。
横から顔を覗かせながら、ゆっくり廊下の角を曲がろうとした。
◇
「おい」
低い声がして、シェイドは足を止めた。
布の隙間から見ると、少し先に一人の騎士が立っていた。訓練場や食堂で何度か見たことがある。けれど、話したことはなかった。
男はシェイドを見るなり、眉を顰めた。
「またお前か」
「……はい」
「何してる」
「布を運んでます」
「誰に言われた?」
「誰にも」
男の顔が、さらに険しくなる。
「勝手にやってるのか」
「……はい」
「遊びじゃないんだぞ」
シェイドは、布を抱える腕に少し力を入れた。
「遊んでません」
思わず返すと、男の目が冷たくなった。
「口答えするな」
「……すみません」
反射的に謝った。その様子を見て、男は小さく鼻を鳴らす。
「そういうところだ。自分が騎士団の一員みたいな顔して、好き勝手にうろついてる」
シェイドの胸が、少しだけ縮んだ。
「僕は……」
「騎士じゃないだろ」
「……はい」
それは分かっている。
自分はまだ騎士団員ではない。ここに置いてもらっているだけだ。制服もないし、正式な訓練に参加することもできない。
「だったら余計なことするな」
「でも……」
「誰も頼んでないんだろ?」
「はい」
「じゃあ邪魔だ」
その言葉に、シェイドの指が止まった。
「邪魔……」
「ここは騎士団だ。子どもが遊び半分で歩き回る場所じゃない」
「遊んでません」
今度は、少し声が震えた。
「役に立ちたくて……」
「役に立つ?」
男は短く笑った。
「七歳の子どもが?」
シェイドは黙った。
「皿を運んで、本を揃えて、布を持って歩いて。それで役に立ってるつもりか?」
「……」
「むしろ周りの仕事が増えるんだよ。怪我しないか見てなきゃならないし、危ないことしないか気を遣わなきゃならない」
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
それは、シェイド自身も時々考えていたことだった。
カエルンは食事を気にしてくれる。セシルは文字を教えてくれる。エヴァンには何度も無理をするなと言われた。
グレンは重いものを持とうとすると取り上げるし、バルドは剣を触る時には必ず近くにいる。
自分がいなければ、しなくていいことなのかもしれない。
「……すみません」
小さく謝ると、男は苛立ったように息を吐いた。
「それ、貸せ」
布へ手が伸びた。
「あ」
強く引かれ、抱えていた山が傾いた。七歳の腕では支えきれず、一枚、二枚と布が滑り落ちる。
次の瞬間には、何十枚もの白い布が石床へ散らばっていた。
「……!」
シェイドの顔から血の気が引いた。慌ててしゃがみ込み、手近な布へ手を伸ばす。
「すみません。すぐ拾います」
「だから余計なことするなって言ってるんだ」
頭の上から声が落ちてくる。
「洗ったばかりなのに。結局また仕事を増やしてるじゃないか」
「……すみません」
一枚拾った。
「何のために手伝ってるんだ?」
もう一枚。
「役に立ちたかったんじゃないのか」
シェイドの指が止まった。
目の奥が熱くなりそうで、何度か瞬きをする。泣くのは嫌だった。
自分が勝手に持った。ちゃんと運べなかった。だから、自分が悪い。
そう思いながら、シェイドは黙って布を拾い始めた。
◇
「――何をしている」
廊下の奥から、低い声が響いた。
シェイドが顔を上げると、エヴァンが立っていた。その隣にはセシル。少し遅れて、カエルンとレミユもこちらへ歩いてくる。
誰も笑っていなかった。
男の顔が僅かに強張る。
「いや、こいつが勝手に布を持ち出して――」
「シェイド」
エヴァンは相手の言葉を遮り、まっすぐシェイドを見た。
「怪我は」
シェイドは目を瞬いた。
怒られると思っていた。勝手なことをしたと、注意されると思っていた。
「……ありません」
カエルンがすぐに近づき、シェイドの前へしゃがむ。
「本当に?」
「はい」
手首や膝へ目を向けてから、カエルンは顔を覗き込んだ。
「どこも痛くありませんか?」
「大丈夫です。布を落としただけです」
シェイドは慌てて続けた。
「僕がちゃんと持てなくて……」
セシルの視線が床へ落ちた。散らばった布と、男の手に残っている一枚を見比べる。
「何があったのですか?」
「別に怪我させたわけじゃない」
男が言った瞬間、カエルンの表情が険しくなった。
「怪我をさせなければ、何をしてもいいと?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
カエルンは立ち上がった。
「シェイドは団長の許可を得て、ここで生活しています」
「それは知ってる」
「なら、不満があるなら団長へ話すべきです。七歳の子どもへぶつけることではありません」
「だが、こいつは団員でもないのに我が物顔で――」
「だから?」
今度はレミユだった。
いつもの柔らかな声ではない。
「団員じゃなかったら、嫌なこと言っていいの?」
「嫌なことなんか言ってない」
「言ってたよ。邪魔だって。役に立ってないって」
シェイドが顔を上げた。
聞かれていた。
「それに、その布も引っ張ったでしょ」
「貸せと言っただけだ」
「だったら普通に受け取ればいいじゃん」
「こいつが離さなかったから――」
「七歳の子相手に?」
男が黙ると、セシルが淡々と続けた。
「シェイドが正式な騎士団員ではないことと、あなたが彼へ威圧的な態度を取ってよいことには、何の関係もありません」
男は口を引き結んだ。
◇
「その辺にしておきましょう」
穏やかな声に、全員が振り返った。
アレンが歩いてくる。怒鳴ってはいない。いつもとほとんど変わらない表情だった。
それでも、男はすぐに口を閉じた。
「団長、これは――」
「事情は後で伺います」
アレンは静かに言った。
「今は執務室へ行ってください」
「……はい」
男はそれ以上何も言えず、頭を下げて廊下の向こうへ消えていった。
雨音だけが残った。
シェイドは床に散らばった布を見た。少しして、小さく口を開く。
「……すみません」
エヴァンが眉を寄せた。
「なぜお前が謝る」
「僕が勝手に布を運んだから……」
「それと今の件は別だ」
「でも」
「別だ」
きっぱりと言われ、シェイドは黙った。
「勝手に運んだことが問題なら、それは注意する」
「……はい」
「だからといって、何を言われてもいいわけじゃない」
シェイドは何も返せなかった。
「シェイド」
アレンに呼ばれ、顔を上げる。
アレンはゆっくり膝をつき、シェイドと同じ高さに視線を合わせた。
「皆の役に立ちたいと思ってくれたことは、嬉しく思います」
「……はい」
「お手伝いも悪いことではありません。ただ、やってよいことと危ないことは、これから一緒に覚えていきましょう」
アレンは少し声を柔らかくした。
「ですが、嫌なことをされた時まで、自分が悪いことにする必要はありません」
「……でも」
シェイドは俯いた。
「僕、騎士じゃありません」
「ええ」
「ここにいていいって、団長は言ってくれました」
「はい」
「でも……みんながそう思ってるわけじゃないです」
初めて口にした。
「僕がいると、気を遣うって」
服の裾を握る。
「仕事が増えるって」
声が小さくなった。
「僕がいない方がいい人もいると思います」
誰も、すぐには答えなかった。
◇
大きな手が、ぽん、とシェイドの頭へ乗った。
「難しく考えすぎだ、ちび」
聞き慣れた声に振り返ると、グレンが立っていた。その隣にはバルドとリオンもいる。
「……ちびじゃありません」
反射的に返すと、グレンがにやりと笑った。
「それだけ言えりゃ大丈夫だな」
「グレン」
カエルンが少し呆れたように呼ぶ。
けれど、シェイドの口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
バルドは床へ目を向け、その場にしゃがんだ。
「落ちた分は洗い直す」
そう言って、布を一枚ずつ拾い始める。
リオンも隣へしゃがみ、壁際まで滑った一枚を引き寄せた。拾った布を重ね、洗濯場へ戻せるようにまとめていく。
「……僕がやります」
シェイドが言うと、バルドは顔を上げずに答えた。
「一人でやる必要はない」
「でも……」
「一緒にやった方が早いよ」
リオンの静かな声に、シェイドは二人の手元を見た。
責められることも、ため息をつかれることもない。床の布が、少しずつ拾い上げられていく。
レミユがシェイドの隣へ来た。
「ほら、シェイド。そっちの一枚、取ってくれる?」
「……はい」
足元に残っていた布を拾い、リオンがまとめた束へ重ねる。
「洗濯場まで、一緒に戻そう。今度は少しずつ持てばいいよ」
シェイドは小さく頷いた。
しばらくして、床に散らばっていた布は全部拾い終わった。
バルドとリオンが大きな束を持ち、シェイドの手には、無理なく抱えられる分だけが残っている。
シェイドは布を抱え直し、周りの人たちを見た。
自分より前へ立ってくれた人。間違っていることを、間違っていると言ってくれた人。何も言わず、隣にしゃがんでくれた人。
まだ、ここを自分の家だとは思っていなかった。そんな言葉を使っていいのかも、分からない。
けれど、邪魔だと言われた時、誰も自分を置いていかなかった。
「シェイド」
アレンに呼ばれ、顔を上げた。
「はい」
「ここにいてください」
シェイドは目を瞬いた。
アレンは穏やかに続ける。
「あなたがここにいることを、私は迷惑だと思ったことはありません」
「……」
「それに、私だけではないようですよ」
アレンの視線を追って、シェイドも周囲を見た。
グレンが笑い、カエルンは静かに頷いた。
隣のレミユは、シェイドが抱えた布へ目を落とす。
「そのくらいなら、前も見えるね」
シェイドは自分の腕の中を確かめた。今度は、廊下の先までちゃんと見えた。
「……はい」
両手の中の白い布を、少しだけ強く抱える。
外では、まだ雨が降っている。
けれど、さっきまでより、少しだけ音が遠くなった気がした。




