覚えていないはずなのに
「……本当に、剣を習ったことはないのか?」
朝の訓練場で、バルドが珍しく同じことを二度聞いた。
シェイドは、自分の身体には少し大きな木剣を両手で持ったまま首を傾げる。
「ないと思います」
「思う?」
「……覚えてないので」
困ったように答える七歳の少年を、バルドは黙って見た。
フェリスティル騎士団に保護されてから、数日。シェイドも、食堂や自分の部屋、治療室くらいなら一人で行けるようになっていた。
騎士たちの顔と名前も少しずつ覚え、最初の日のように誰かの後ろへぴったりついて歩くことも減っている。
今朝は訓練場を見に来て、バルドに頼み込んで木剣を持たせてもらった。
「もう一回構えろ」
「はい」
シェイドは木剣を持ち直した。
「右足を前。もう少し開け」
言われた通りに足を動かす。
「腰を落とせ。肩の力は抜いていい」
シェイドは一度息を吐き、握り締めていた手を少し緩めた。
「……こうですか?」
「ああ」
木剣を振ると、剣先が揺れた。持ち上げる時には、腕にも重さがかかる。
それでも、昨日よりは振りやすかった。
「覚えるの、早いよね」
少し離れた場所で見ていたレミユが言った。
隣のカエルンも、シェイドへ目を向ける。
「昨日教わったことを、よく覚えていますね」
「楽しいんだろうね。朝からずっと、あの顔だし」
シェイドは真剣な顔で木剣を持ち直していた。バルドが何か言うたびに頷き、もう一度試している。
けれど、何度か振るうちに腕が下がり始めた。
「今日はここまで」
「もうですか?」
シェイドは露骨に残念そうな顔をした。
「ああ」
「あと五回だけ」
「三回」
「四回」
「三回」
「……分かりました」
返事はしたものの、納得していない顔だった。
近くを通りかかったグレンが噴き出す。
「交渉するなよ!」
「でも、三回は少ないです」
「腕、下がってるぞ」
言われて自分の腕を見る。シェイドは慌てて木剣を持ち上げたが、さっきより重く感じた。
グレンが笑いながら、その肩を軽く叩く。
「続きは明日だ。今日だけで強くなろうとするな」
「……明日も、やっていいですか?」
「バルドに聞け」
シェイドが振り向くと、バルドは短く頷いた。
「腕が痛くなければな」
「はい」
ようやく顔が明るくなる。
シェイドは足の位置を確かめ、もう一度構えた。
「一回目です」
「数えなくていい」
「忘れたら困ります」
「忘れない」
バルドの返事に、レミユが肩を揺らした。
三回目を振り終えると、シェイドは息を吐いた。今度はもっと振りたいとは言わず、バルドへ向き直る。
木剣を両手で持ち直し、刃に見立てた部分を相手へ向けないようにして、柄を差し出した。
「ありがとうございました」
バルドの手が、受け取る直前で止まる。
「……その返し方、誰に教わった」
「返し方?」
シェイドは、自分の手を見下ろした。
「……分かりません」
「孤児院でか?」
「たぶん違います。木剣はなかったので」
どうしてこう持ったのだろう。
考えても、誰かに教わった場面は浮かばない。けれど、反対向きに渡すことは、何となく落ち着かなかった。
「こっちの方が、受け取りやすいと思って……」
バルドはシェイドの手元を見てから、木剣を受け取った。
「そうだな」
それ以上は聞かれなかった。
シェイドは少しほっとして、疲れた手を開いたり閉じたりした。
◇
「朝から、ずいぶん熱心ですね」
訓練場へ入ってきたアレンが、シェイドに声をかけた。
「団長。木剣を貸してもらいました」
「そうですか。腕は痛くありませんか?」
「まだ大丈夫です」
「痛くなったら、隠さずに教えてくださいね」
シェイドは頷いた。その向こうで、グレンが水差しを持ち上げる。
「シェイド、水飲んどけ」
「はい」
少年がそちらへ駆けていくのを見送ってから、バルドは手にした木剣へ視線を落とした。
「団長。あいつは、孤児院へ来る前のことを何も覚えていないんですか」
「本人が話せることは、ほとんどありません。何かありましたか?」
「剣の返し方を知っていました。誰に教わったかは、分からないと」
バルドが短く説明すると、アレンは少し考えるように黙った。
カエルンも、水を飲んでいるシェイドを見ながら言う。
「食事の時にも、少し気になりました。ナイフとフォークの使い方が自然だったので」
慣れない場所で周囲の顔色をうかがっていても、手元では迷わない。カエルンが使い方を教える必要はなかった。
「以前、教えてくれる人がいたのでしょうね」
アレンの答えに、レミユが顔を上げる。
「貴族って可能性も?」
「それだけでは分かりません。食事の作法を教える家庭は、ほかにもありますから」
「覚えていなくても、身についたことは残っているのかもしれませんね」
アレンは、グレンの隣で水を飲んでいるシェイドを見た。
「ただ、本人に何度も尋ねるのは控えましょう。答えられないことを気にしてしまうかもしれません」
「……そうですね」
カエルンが頷く。
「何か思い出して、話したくなった時に聞いてあげればいいのです」
その時、シェイドが戻ってきた。
「皆さん、何の話ですか?」
自分へ向いた視線に、足が止まる。
「……僕、何かしました?」
「明日も練習したがるだろうなって話」
レミユが笑うと、シェイドはバルドを見た。
「腕が痛くなければ、いいんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、今日はもう使いません」
「飯は自分で食えよ」
後ろからグレンに言われ、シェイドは振り向いた。
「それは使います」
即座に返ってきた答えに、レミユが笑った。シェイドも、つられたように口元を緩める。
アレンはその様子を見てから、食堂の方へ目を向けた。
「では、朝食にしましょう。練習した分、きちんと食べてくださいね」
◇
朝食のあと、食堂を出たところで声をかけられた。
「シェイド。少し手伝ってもらえますか?」
振り向くと、金髪に細身の眼鏡をかけたセシルが立っていた。来た日の夜、困った時に誰を呼べばいいのか教えてくれた人だ。
「はい。何をするんですか?」
「書類を届けてほしいのです。こちらへ来てもらえますか?」
ついていった先の部屋には、机の上に数枚の書類が置かれていた。
セシルは紙の端を揃えてから、シェイドへ差し出した。
「これを団長の執務室までお願いします」
「分かりました」
受け取った紙を落とさないように持ち直す。その時、一番上の文字が目に入った。
「……巡回記録?」
「読めるのですか?」
「はい。全部は分かりませんけど」
セシルは書類を指さした。
「どこが分かりませんか?」
「ここの字です」
「ああ、それは門の名前ですね」
読み方を教えてもらい、シェイドは小さく繰り返した。
「文字は、孤児院で習ったのですか?」
「少し教えてもらいました」
「では、自分の名前も書けますか?」
「はい」
セシルが紙と筆記具を置くと、シェイドは書類を机へ戻して筆を取った。
――シェイド。
最後の一文字を書き終えたところで、レミユが部屋へ入ってきた。
「何してるの?」
「名前を書きました」
「へえ。ちゃんと読める」
レミユが覗き込むと、シェイドは紙を少しそちらへ寄せた。
「皆さんの名前も、書いていいですか?」
「僕たちの?」
「はい。綴りが分からない名前もあるので」
「もちろんです」
セシルが答える。
「午後に、もう一枚紙を渡しますね。分からないところは聞きに来てください」
シェイドは、机の上の自分の名前を見た。
この名前だけは、ずっと覚えていた。
誰が呼んでくれていたのかは、思い出せない。それでも、自分の名前だということだけは分かる。
「シェイド?」
セシルに呼ばれ、顔を上げた。
「書類をお願いできますか?」
「あ……はい」
筆を置いて、もう一度書類を持つ。
部屋を出る直前、セシルが声をかけた。
「その字、綺麗ですよ」
シェイドは一瞬きょとんとして、自分の書いた紙を振り返った。
「……ありがとうございます」
今度は少しだけ、嬉しそうに笑った。
◇
午後、シェイドは自分の部屋で机へ向かっていた。
セシルからもらった紙に、一つずつ名前を書いていく。
カエルン。バルド。レミユ。リオン。
次の行には、グレン、エヴァン、セシル。
教えてもらった綴りを確かめながら、ゆっくり筆を動かした。
最後まで書くと、少し考える。
それから、一番下へもう一つ書き足した。
アレン。
「……よし」
八人分。声に出して読み直しても、間違いはなかった。
その時、扉が叩かれた。
「シェイド、いる?」
レミユの声だった。
「はい」
扉を開けると、レミユが部屋を覗いた。
「何してたの?」
「名前を書いてました」
「僕たちの?」
「はい」
机へ近づいたレミユは、紙に並ぶ文字を見た。
「どうして?」
「忘れないようにです」
「もう覚えてるでしょ?」
「覚えてます」
シェイドは答えてから、紙へ目を戻した。
「……でも、忘れたくないから」
レミユは口を開きかけ、そのまま黙った。
「前のことは、ほとんど覚えてないので」
シェイドは紙の端を指で押さえた。書いてあれば、分からなくなっても読める。誰の名前だったか、思い出すきっかけになるかもしれない。
返事がないことに気づき、顔を上げる。
「レミユ?」
「……うん」
レミユは少し笑った。
「じゃあ、絶対忘れないでよ」
「忘れません」
「僕の名前、一番最初でもいいよ?」
「カエルンが先です」
「そこは譲ってくれないんだ」
「騎士団に着いてから、名前を教えてもらった順です」
レミユは、上から順に文字をたどった。
「団長は?」
「最後に書きました。団長の名前は、ここへ来る前に教えてもらったので」
「そっか。団長だけ、別なんだね」
シェイドは頷いた。
孤児院で、自分の前にしゃがんで話してくれた人。知らない場所へ来る時も、隣にいてくれた人。
ほかの七人を書き終えたあと、その名前がないのは嫌だった。
その時、廊下の向こうから大きな声が響いた。
「レミユ! どこ行った!」
「ほら来た」
レミユが苦笑すると、シェイドも少し笑った。
「グレン、今日も声大きいですね」
「毎日だよ」
「喉、痛くならないんですか?」
「今度、本人に聞いてみようか」
「怒りません?」
「たぶん笑う」
「じゃあ聞きます」
「本当に聞くんだ」
レミユについて扉へ向かいかけ、シェイドは一度だけ机へ戻った。
紙が落ちないように、端へ筆記具を置く。
それから、廊下で待っているレミユのもとへ小走りで向かった。
誰もいなくなった部屋の机には、八つの名前が並んだ紙が残っていた。
一番下にある「アレン」の文字だけが、ほかの名前より、ほんの少し大きく書かれていた。




