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2/25

知らない場所に、名前のある人たち


 フェリスティル騎士団の本部へ着いた頃には、雨はほとんど止んでいた。


 厚い雲の西の端だけが、わずかに明るい。濡れた石畳には夕暮れの光が映り、馬車の車輪が通るたび、小さく水が跳ねた。


 シェイドは馬車から降りると、その場で足を止めた。


 目の前の建物は、孤児院とは比べものにならないほど大きかった。石造りの棟がいくつも並び、その向こうには広い訓練場が見える。騎士たちが行き交い、誰かの指示する声や、荷物を運ぶ音が聞こえていた。


「足元に気をつけてください。まだ石が濡れていますから」


 先を歩いていたアレンが振り返る。


「……はい」


 シェイドは小さく返事をして、その後を追った。


 本当に騎士団へ来てしまった。


 孤児院で話を聞いた時は、この人たちがいる場所なら大丈夫かもしれないと思った。けれど、知らない建物を前にすると、また胸の奥が落ち着かなくなる。


 どこへ行けばいいのか。何をしてよくて、何をしてはいけないのか。何も分からなかった。


 

◇

 建物の中へ入ると、騎士たちが次々とアレンへ声をかけてきた。


「団長、お帰りなさい。孤児院の方は?」


「盗賊は全員拘束しました。負傷者の確認も終わっています」


 アレンが答えると、別の騎士が書類を差し出した。


「こちらの報告もお願いします」


「分かりました。後ほど確認します」


 その横を歩いていると、何人かの騎士がこちらを見るのが分かった。


 シェイドは少し俯く。騎士団の中に七歳の子どもがいれば、珍しいのだろう。


 無意識にアレンへ近づいた時、前から若い声がした。


「団長、その子ですか?」


 顔を上げると、銀白色の髪をした少年が立っていた。


 まだ大人には見えない。けれど、シェイドからすれば十分に年上だった。


「ええ。今日からしばらく、こちらで預かります」


 少年はシェイドへ視線を向け、柔らかく笑った。


「初めまして。カエルン・アッシュフォードです」


 シェイドは慌てて頭を下げる。


「シェイドです。よろしくお願いします」


「そんなに固くならなくて大丈夫ですよ」


「……はい」


 そう言われても、どうしたらいいのか分からない。


 まだ背筋を伸ばしたままでいると、カエルンの隣にいた黒髪の少年が、シェイドの布袋へ視線を落とした。


「荷物、持つ」


「でも、軽いです」


「腕が痛むだろう」


 差し出された手を見て、シェイドは少し迷った。けれど、袋を握り直した拍子に肘が痛み、そっと手を離す。


 少年は何も言わずに受け取った。


「バルドです。あまり喋りませんが、気にしなくて大丈夫ですよ」


 カエルンが紹介すると、バルドが低く返した。


「余計だ」


「名前だけじゃ、シェイドが困るでしょ」


 別の声がする。


 金茶色の髪をした少年が、軽い足取りで近づいてきた。


「僕はレミユ・フォークナー。よろしく」


「……よろしくお願いします」


「分からないことがあったら聞いてね。ここ、最初は迷うから」


「迷うんですか?」


「僕も入ったばかりの頃は、食堂へ行こうとして違う棟に出たよ」


 シェイドは思わず廊下の奥を見た。確かに、いくつもの角がある。


「だから、今日はついてくれば大丈夫」


 レミユは気軽に言った。


 アレンが三人を見る。


「部屋まで案内をお願いできますか?」


「もちろんです」


 カエルンが答えた。


 アレンはシェイドへ向き直る。


「私も後で様子を見に行きますね」


「……はい」


 別の騎士に呼ばれ、アレンが廊下を戻っていく。シェイドはつい、その背中を目で追った。


「まずは荷物を置きに行きましょうか」


 カエルンの声に振り向くと、三人はまだ待ってくれていた。


 シェイドは頷き、その後について歩き出した。


 バルドが荷物を持って少し前を歩き、レミユは廊下の先を指して教えてくれる。


「食堂はこっち。訓練場へ出るのは向こう。入る時に許可がいる部屋もあるけど、それは少しずつ覚えればいいよ」


「間違えて入ったら、怒られますか?」


「注意はされるだろうけど、分からなかったならそう言えばいいよ」


「……そうなんですね」


「最初から全部分かる人なんていないしね」


 シェイドは小さく頷いた。


 さっきより、少しだけ周りを見る余裕ができた。


     

◇

 案内された部屋は、騎士たちが寝泊まりする棟の一角にあった。


 小さなベッドと机、椅子、衣服を入れる棚。窓が一つ。


 シェイドは入口に立ったまま、部屋の中を見回した。


「ここ……僕が使っていいんですか?」


「はい。しばらくはここを使ってください」


「一人で?」


「一人です」


 孤児院では、何人かで同じ部屋を使っていた。一人きりで眠るには、少し広すぎる気がした。


 バルドが棚へ荷物を置く。


「ここでいいか」


「はい。ありがとうございます」


 頭を下げると、バルドがわずかに眉を動かした。


「礼は一度でいい」


「でも、持ってもらったから」


「さっき聞いた」


 シェイドが戸惑っていると、レミユが笑った。


「ちゃんと伝わってるってことだよ」


「……分かりました」


 棚に置かれた布袋には、着替えと使い古したハンカチくらいしか入っていない。


 カエルンがその小さな袋を見る。


「必要なものは後で用意します。着替えも、もう少しあった方がいいでしょう」


「そんなにしてもらわなくても大丈夫です」


「洗っている間は、何を着ますか?」


「……」


 考えていなかった。


 レミユが口元を緩める。


「これはカエルンの勝ちだね」


「勝ち負けではありません」


 カエルンはそう返してから、シェイドへ視線を戻した。


「用意できるものがあるか、確認してきます。それまでは、ここで休んでいてください」


 その時、開いていた扉が軽く叩かれた。


 淡い紫色の髪をした少年が、水差しとコップを持って立っていた。カエルンたちより少し若く見える。


「水、ここでいい?」


「ええ。ありがとう、リオン」


 少年は机へ水差しを置いた。


「夜、喉が渇いた時に」


「……ありがとうございます」


 小さく頷くと、それ以上は何も言わずに廊下へ戻っていく。


 シェイドは水差しを見た。


 自分では、夜の飲み水のことまで考えていなかった。


「では、夕食の時間になったら迎えに来ますね」


 カエルンたちが部屋を出ていく。


 扉が閉まると、急に静かになった。


 シェイドはベッドの端へ腰を下ろした。棚の布袋も、机の水差しも、ここを使っていいという言葉も、まだどこか落ち着かない。


 けれど廊下からは、レミユとバルドの話す声が聞こえていた。


 完全に一人になったわけではない。


 そう思うと、扉から少し目を離せた。


     

◇

 夕食の時間になると、カエルンが迎えに来た。


 騎士団の食堂は、想像していたよりずっと賑やかだった。長い机がいくつも並び、大勢の騎士が食事をしている。笑い声や食器の音が、あちこちから聞こえてきた。


 シェイドは入口で足を止める。


「……人がいっぱいいます」


「この時間は任務から戻る人が多いですからね」


 カエルンが答えた時、長机の一角から大きな声がした。


「おう、こっち空いてるぞ!」


 深い赤色の髪をした青年が、片手を上げていた。座っていても肩幅が広く、大きな人だと分かる。


「グレン、もう少し声を落としてください」


「これだけ騒がしかったら、聞こえねえだろ」


 グレンと呼ばれた青年は笑い、隣の椅子を引いた。


「お前が今日来た子か?」


「シェイドです」


「俺はグレン。よろしくな」


「よろしくお願いします」


 シェイドは椅子の前で少し迷った。


「僕、ここでいいんですか?」


「お前が座れるように空けたんだ。ほら」


 そう言われて、ようやく腰を下ろす。


 向かいにはレミユが、少し離れた席にはバルドがいた。知っている顔を見つけ、シェイドは小さく息をついた。


 目の前に温かいスープとパン、肉と野菜の煮込みが置かれる。孤児院で食べていたものより、少し量が多かった。


「食べないの?」


 皿を見つめていると、レミユが尋ねた。


「食べます」


「じゃあ、冷める前にどうぞ」


「……これ、全部僕のですか?」


「そうだよ」


「全部食べても?」


「もちろん」


 シェイドはパンへ手を伸ばした。


 まだ温かかった。スープを飲むと、冷えていた身体の中までじんわり温まる。


 けれど、肉にはなかなか手をつけられなかった。


 バルドが皿を見る。


「食わないのか」


「明日食べようかなって」


「明日?」


 グレンが聞き返す。


 シェイドは頷いた。


「明日、足りなくなったら困るから」


 カエルンの手が止まった。


 それから、シェイドの皿を指して静かに言う。


「明日の食事は、明日また用意されますよ」


「……また?」


「はい。今日これを全部食べても、明日は明日の分があります」


 シェイドは皿を見下ろした。


「これはシェイドの分です。今、食べていいんですよ」


 自分の分。


 もう一度パンを持ち、今度はさっきより大きくかじった。


「そうそう。余ったら俺が食うから、まずは食えるだけ食え」


 グレンが笑う。


「それ、シェイドの心配? 自分の心配?」


 レミユが尋ねると、グレンは平然と答えた。


「両方だ」


 シェイドは思わず二人を見た。


 グレンの皿には、もうほとんど何も残っていない。自分よりずっと多かったはずなのに。


 目が合うと、グレンが片眉を上げた。


「何だ?」


「……食べるの、速いです」


「ゆっくり食ってたら、次の仕事に遅れるからな」


「グレンの場合は、仕事がなくても速いけどね」


 レミユの言葉に、シェイドの口元が少し緩んだ。


 肉へスプーンを伸ばした時、肘に痛みが走る。思わず腕を引くと、通りかかった黒髪の少年が立ち止まった。


「腕を痛めているのか」


 真面目な顔で見下ろされ、シェイドは背筋を伸ばす。


「……少しだけです」


「食後、治療室へ行け」


「もう大丈夫です」


「今、痛んだだろう。大丈夫かどうかは、診てもらってからだ」


 何も言えなくなったシェイドに変わり、カエルンが声をかける。


「食べ終わったら、私が一緒に行きますよ」


 少年はそれを聞いて頷き、食堂の奥へ歩いていった。


 シェイドは、その背中を目で追った。


「……あの人は?」


「エヴァンです。少し厳しく聞こえるかもしれませんが、怪我を放っておけないんですよ」


 カエルンが答えた。


 少し怖い人だと思った。


 けれど、怒られたわけではなかった。痛いのを我慢していたことに、気づかれたのだ。


 シェイドは肘をかばいながら、もう一度スプーンを持った。


     

◇

 食後、シェイドは空いた皿を重ねようとした。


「それは置いておけばいいですよ」


 カエルンが声をかける。


「でも、僕も片づけます」


「今日は休んでください」


「できます」


 皿へ手を伸ばした瞬間、横からバルドの手が伸びた。重なった皿を、そのまままとめて持ち上げる。


「……あ」


 シェイドの手が、机の上に残った。


「僕、何もしてないです」


 口にしてから、声が少し小さくなる。


「ご飯ももらって、部屋も使わせてもらってるのに」


 膝の上で指を握った。


「だから、何かしないと」


 カエルンは持っていたコップを置いた。


「シェイド。ここにいるために、働く必要はありませんよ」


「……でも」


「手伝いたいと思ってくれるのは嬉しいです。でも、何かできなければ、ここにいられないということではありません」


 シェイドは顔を上げた。


 カエルンは急かさず、こちらを見ていた。


「そんなこと言ったら、グレンなんて食べる量の方が多い時あるしね」


 レミユが口を挟む。


「何で俺なんだよ!」


「分かりやすいから」


「お前な……」


 グレンは頭を掻き、それからシェイドへ向き直った。


「飯食って、寝て、怪我治せ。今はそれでいい」


「……それだけで?」


「ああ。まず元気になれ」


 バルドは皿を持って、返却口へ歩いていった。シェイドの返事を待つ様子も、何かを頼む様子もなかった。


 握っていた指を、ゆっくりほどく。


「……分かりました」


 全部を信じられたわけではない。


 それでも今日は、言われた通りにしてみようと思った。


     

◇

 治療室で腕を診てもらい、部屋へ戻る頃には、廊下は静かになっていた。


 カエルンは扉の前で足を止めた。


「夜中に困ったことがあれば、近くの部屋の人を呼んでください。私の部屋は、廊下を出て左の二つ目です」


 シェイドは扉の外へ顔を出し、教えられた方向を見る。


「左の、二つ目」


「はい。朝は迎えに来ますから、それまではゆっくり休んでくださいね」


「……ありがとうございます」


 カエルンが去ると、シェイドはベッドへ腰を下ろした。


 机の上に、水差しとコップがある。


 これを持ってきてくれた人は、リオンと呼ばれていた。


 喉が渇いた時に、と言っていた声を思い出し、水を少し飲む。自分がここで夜を過ごすことを、あの人は先に考えてくれていたのだ。


 コップを置き、毛布へ入った。


 身体が重い。目を閉じれば、すぐに眠れそうだった。


 けれど、部屋の隅で揺れるランプの火が目に入った。


 小さな炎だった。ただ揺れているだけの、普通の灯り。


 それなのに、見ているうちに胸の奥がざわついた。


「……?」


 シェイドは眉を寄せる。


 孤児院で盗賊が着ていた、雨に濡れた外套の匂い。そこへランプの油の匂いが重なり、頭の奥に何かが引っかかった。


 知っているような気がする。


 けれど、何を知っているのかは分からない。


 考えているうちに瞼が重くなり、シェイドはそのまま目を閉じた。


     

◇

 夢の中で、最初に聞こえたのは大きな音だった。


 何かが崩れ、誰かが叫んでいる。


 息が苦しい。熱い。


 目を開けると、周りが赤かった。


 炎が見える。どこなのか分からない。逃げたいのに、どう動けばいいのかも分からなかった。


 その中で、大きな人影が近づいてきた。


 身体が持ち上がる。強い腕に包まれ、シェイドはその人の服を掴んだ。


『大丈夫だ』


 低い声だった。


 知らないはずなのに、その声を聞いた途端、どうしようもなく泣きたくなった。


『シェ――』


 何かを呼ばれた。


 その先は聞こえなかった。眩しい光が、一気に視界へ広がる。


「……っ!」


 シェイドは息を呑んで目を覚ました。


 すぐには、自分がどこにいるのか分からなかった。


 薄暗い部屋を見回す。机と窓、その間に置かれた水差しが目に入った。


「……騎士団……」


 胸が激しく鳴っていた。額に汗が滲み、喉がからからに乾いている。


 シェイドはベッドから降り、机へ向かった。


 水を注ごうとすると、コップの縁へ水差しが当たり、小さな音がした。手が震えていた。


 両手でコップを持ち、ゆっくり飲む。


 少しずつ息が落ち着いてきた。


 何だったのだろう。さっきの場所も、あの声も、覚えていない。


 でも、まったく知らないものにも思えなかった。


 もう一度思い出そうとすると、頭の奥が痛んだ。


 シェイドは考えるのをやめ、ベッドへ戻った。


 毛布を引き寄せる。けれど、もう一度目を閉じるのが怖かった。


 そのまま座っていると、扉が控えめに叩かれた。


「起きていますか?」


 アレンの声だった。


「……はい」


 扉が少し開く。


「まだ灯りがついていたので、様子を見に来ました。入っても?」


「はい」


 アレンは部屋へ入り、ベッドから少し離れた椅子へ腰を下ろした。


「眠れませんか?」


「……さっきまで寝てました」


「では、目が覚めたのですね」


 シェイドは少し迷ってから、口を開いた。


「夢を見ました」


「そうですか」


「火が出てきました」


 アレンはすぐに質問を重ねなかった。


「怖かったですか?」


「……はい」


 シェイドは膝を抱えた。


「知らない場所だったんです。でも、なんか……知らない感じがしなくて」


 アレンはわずかに表情を変えた。


 それでも、どこだったのかとは聞かなかった。


「無理に思い出さなくても大丈夫ですよ」


「でも……」


「今日は、怖いことも初めてのことも、たくさんあったでしょう。夢の意味を、今すぐ考える必要はありません」


「……そうですか?」


「ええ」


 シェイドは毛布の端を見つめた。


 眠りたい。身体は疲れている。けれど、またあの場所へ戻るかもしれないと思うと、横になれなかった。


「……また見たら嫌です」


 ぽつりと本音がこぼれた。


 アレンは笑わなかった。


「では、眠るまで少しここにいましょうか」


 シェイドは顔を上げる。


「いいんですか?」


「ええ」


「忙しくないですか?」


「今日の仕事はもう終わりました」


「本当に?」


「本当です」


 アレンは少しだけ笑って答えた。


 シェイドはゆっくり毛布へ戻った。


 椅子が動く音はしなかった。アレンは何も話さず、そこに座っている。


 シェイドは目を閉じた。


 さっき見た炎は、まだ頭の奥に残っていた。けれど、目を開ければアレンがいる。


 廊下を出て左の二つ目には、カエルンの部屋がある。バルドやレミユも、この建物のどこかで眠るのだろう。


 知らない場所へ来たはずだった。


 でも今は、呼べる名前がある。


「……団長」


「はい」


「おやすみなさい」


「おやすみなさい、シェイド」


 その返事を聞いて、毛布を握っていた手が少し緩んだ。


 シェイドは今度こそ、ゆっくり眠りへ落ちていった。


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