知らない場所に、名前のある人たち
フェリスティル騎士団の本部へ着いた頃には、雨はほとんど止んでいた。
厚い雲の西の端だけが、わずかに明るい。濡れた石畳には夕暮れの光が映り、馬車の車輪が通るたび、小さく水が跳ねた。
シェイドは馬車から降りると、その場で足を止めた。
目の前の建物は、孤児院とは比べものにならないほど大きかった。石造りの棟がいくつも並び、その向こうには広い訓練場が見える。騎士たちが行き交い、誰かの指示する声や、荷物を運ぶ音が聞こえていた。
「足元に気をつけてください。まだ石が濡れていますから」
先を歩いていたアレンが振り返る。
「……はい」
シェイドは小さく返事をして、その後を追った。
本当に騎士団へ来てしまった。
孤児院で話を聞いた時は、この人たちがいる場所なら大丈夫かもしれないと思った。けれど、知らない建物を前にすると、また胸の奥が落ち着かなくなる。
どこへ行けばいいのか。何をしてよくて、何をしてはいけないのか。何も分からなかった。
◇
建物の中へ入ると、騎士たちが次々とアレンへ声をかけてきた。
「団長、お帰りなさい。孤児院の方は?」
「盗賊は全員拘束しました。負傷者の確認も終わっています」
アレンが答えると、別の騎士が書類を差し出した。
「こちらの報告もお願いします」
「分かりました。後ほど確認します」
その横を歩いていると、何人かの騎士がこちらを見るのが分かった。
シェイドは少し俯く。騎士団の中に七歳の子どもがいれば、珍しいのだろう。
無意識にアレンへ近づいた時、前から若い声がした。
「団長、その子ですか?」
顔を上げると、銀白色の髪をした少年が立っていた。
まだ大人には見えない。けれど、シェイドからすれば十分に年上だった。
「ええ。今日からしばらく、こちらで預かります」
少年はシェイドへ視線を向け、柔らかく笑った。
「初めまして。カエルン・アッシュフォードです」
シェイドは慌てて頭を下げる。
「シェイドです。よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくて大丈夫ですよ」
「……はい」
そう言われても、どうしたらいいのか分からない。
まだ背筋を伸ばしたままでいると、カエルンの隣にいた黒髪の少年が、シェイドの布袋へ視線を落とした。
「荷物、持つ」
「でも、軽いです」
「腕が痛むだろう」
差し出された手を見て、シェイドは少し迷った。けれど、袋を握り直した拍子に肘が痛み、そっと手を離す。
少年は何も言わずに受け取った。
「バルドです。あまり喋りませんが、気にしなくて大丈夫ですよ」
カエルンが紹介すると、バルドが低く返した。
「余計だ」
「名前だけじゃ、シェイドが困るでしょ」
別の声がする。
金茶色の髪をした少年が、軽い足取りで近づいてきた。
「僕はレミユ・フォークナー。よろしく」
「……よろしくお願いします」
「分からないことがあったら聞いてね。ここ、最初は迷うから」
「迷うんですか?」
「僕も入ったばかりの頃は、食堂へ行こうとして違う棟に出たよ」
シェイドは思わず廊下の奥を見た。確かに、いくつもの角がある。
「だから、今日はついてくれば大丈夫」
レミユは気軽に言った。
アレンが三人を見る。
「部屋まで案内をお願いできますか?」
「もちろんです」
カエルンが答えた。
アレンはシェイドへ向き直る。
「私も後で様子を見に行きますね」
「……はい」
別の騎士に呼ばれ、アレンが廊下を戻っていく。シェイドはつい、その背中を目で追った。
「まずは荷物を置きに行きましょうか」
カエルンの声に振り向くと、三人はまだ待ってくれていた。
シェイドは頷き、その後について歩き出した。
バルドが荷物を持って少し前を歩き、レミユは廊下の先を指して教えてくれる。
「食堂はこっち。訓練場へ出るのは向こう。入る時に許可がいる部屋もあるけど、それは少しずつ覚えればいいよ」
「間違えて入ったら、怒られますか?」
「注意はされるだろうけど、分からなかったならそう言えばいいよ」
「……そうなんですね」
「最初から全部分かる人なんていないしね」
シェイドは小さく頷いた。
さっきより、少しだけ周りを見る余裕ができた。
◇
案内された部屋は、騎士たちが寝泊まりする棟の一角にあった。
小さなベッドと机、椅子、衣服を入れる棚。窓が一つ。
シェイドは入口に立ったまま、部屋の中を見回した。
「ここ……僕が使っていいんですか?」
「はい。しばらくはここを使ってください」
「一人で?」
「一人です」
孤児院では、何人かで同じ部屋を使っていた。一人きりで眠るには、少し広すぎる気がした。
バルドが棚へ荷物を置く。
「ここでいいか」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げると、バルドがわずかに眉を動かした。
「礼は一度でいい」
「でも、持ってもらったから」
「さっき聞いた」
シェイドが戸惑っていると、レミユが笑った。
「ちゃんと伝わってるってことだよ」
「……分かりました」
棚に置かれた布袋には、着替えと使い古したハンカチくらいしか入っていない。
カエルンがその小さな袋を見る。
「必要なものは後で用意します。着替えも、もう少しあった方がいいでしょう」
「そんなにしてもらわなくても大丈夫です」
「洗っている間は、何を着ますか?」
「……」
考えていなかった。
レミユが口元を緩める。
「これはカエルンの勝ちだね」
「勝ち負けではありません」
カエルンはそう返してから、シェイドへ視線を戻した。
「用意できるものがあるか、確認してきます。それまでは、ここで休んでいてください」
その時、開いていた扉が軽く叩かれた。
淡い紫色の髪をした少年が、水差しとコップを持って立っていた。カエルンたちより少し若く見える。
「水、ここでいい?」
「ええ。ありがとう、リオン」
少年は机へ水差しを置いた。
「夜、喉が渇いた時に」
「……ありがとうございます」
小さく頷くと、それ以上は何も言わずに廊下へ戻っていく。
シェイドは水差しを見た。
自分では、夜の飲み水のことまで考えていなかった。
「では、夕食の時間になったら迎えに来ますね」
カエルンたちが部屋を出ていく。
扉が閉まると、急に静かになった。
シェイドはベッドの端へ腰を下ろした。棚の布袋も、机の水差しも、ここを使っていいという言葉も、まだどこか落ち着かない。
けれど廊下からは、レミユとバルドの話す声が聞こえていた。
完全に一人になったわけではない。
そう思うと、扉から少し目を離せた。
◇
夕食の時間になると、カエルンが迎えに来た。
騎士団の食堂は、想像していたよりずっと賑やかだった。長い机がいくつも並び、大勢の騎士が食事をしている。笑い声や食器の音が、あちこちから聞こえてきた。
シェイドは入口で足を止める。
「……人がいっぱいいます」
「この時間は任務から戻る人が多いですからね」
カエルンが答えた時、長机の一角から大きな声がした。
「おう、こっち空いてるぞ!」
深い赤色の髪をした青年が、片手を上げていた。座っていても肩幅が広く、大きな人だと分かる。
「グレン、もう少し声を落としてください」
「これだけ騒がしかったら、聞こえねえだろ」
グレンと呼ばれた青年は笑い、隣の椅子を引いた。
「お前が今日来た子か?」
「シェイドです」
「俺はグレン。よろしくな」
「よろしくお願いします」
シェイドは椅子の前で少し迷った。
「僕、ここでいいんですか?」
「お前が座れるように空けたんだ。ほら」
そう言われて、ようやく腰を下ろす。
向かいにはレミユが、少し離れた席にはバルドがいた。知っている顔を見つけ、シェイドは小さく息をついた。
目の前に温かいスープとパン、肉と野菜の煮込みが置かれる。孤児院で食べていたものより、少し量が多かった。
「食べないの?」
皿を見つめていると、レミユが尋ねた。
「食べます」
「じゃあ、冷める前にどうぞ」
「……これ、全部僕のですか?」
「そうだよ」
「全部食べても?」
「もちろん」
シェイドはパンへ手を伸ばした。
まだ温かかった。スープを飲むと、冷えていた身体の中までじんわり温まる。
けれど、肉にはなかなか手をつけられなかった。
バルドが皿を見る。
「食わないのか」
「明日食べようかなって」
「明日?」
グレンが聞き返す。
シェイドは頷いた。
「明日、足りなくなったら困るから」
カエルンの手が止まった。
それから、シェイドの皿を指して静かに言う。
「明日の食事は、明日また用意されますよ」
「……また?」
「はい。今日これを全部食べても、明日は明日の分があります」
シェイドは皿を見下ろした。
「これはシェイドの分です。今、食べていいんですよ」
自分の分。
もう一度パンを持ち、今度はさっきより大きくかじった。
「そうそう。余ったら俺が食うから、まずは食えるだけ食え」
グレンが笑う。
「それ、シェイドの心配? 自分の心配?」
レミユが尋ねると、グレンは平然と答えた。
「両方だ」
シェイドは思わず二人を見た。
グレンの皿には、もうほとんど何も残っていない。自分よりずっと多かったはずなのに。
目が合うと、グレンが片眉を上げた。
「何だ?」
「……食べるの、速いです」
「ゆっくり食ってたら、次の仕事に遅れるからな」
「グレンの場合は、仕事がなくても速いけどね」
レミユの言葉に、シェイドの口元が少し緩んだ。
肉へスプーンを伸ばした時、肘に痛みが走る。思わず腕を引くと、通りかかった黒髪の少年が立ち止まった。
「腕を痛めているのか」
真面目な顔で見下ろされ、シェイドは背筋を伸ばす。
「……少しだけです」
「食後、治療室へ行け」
「もう大丈夫です」
「今、痛んだだろう。大丈夫かどうかは、診てもらってからだ」
何も言えなくなったシェイドに変わり、カエルンが声をかける。
「食べ終わったら、私が一緒に行きますよ」
少年はそれを聞いて頷き、食堂の奥へ歩いていった。
シェイドは、その背中を目で追った。
「……あの人は?」
「エヴァンです。少し厳しく聞こえるかもしれませんが、怪我を放っておけないんですよ」
カエルンが答えた。
少し怖い人だと思った。
けれど、怒られたわけではなかった。痛いのを我慢していたことに、気づかれたのだ。
シェイドは肘をかばいながら、もう一度スプーンを持った。
◇
食後、シェイドは空いた皿を重ねようとした。
「それは置いておけばいいですよ」
カエルンが声をかける。
「でも、僕も片づけます」
「今日は休んでください」
「できます」
皿へ手を伸ばした瞬間、横からバルドの手が伸びた。重なった皿を、そのまままとめて持ち上げる。
「……あ」
シェイドの手が、机の上に残った。
「僕、何もしてないです」
口にしてから、声が少し小さくなる。
「ご飯ももらって、部屋も使わせてもらってるのに」
膝の上で指を握った。
「だから、何かしないと」
カエルンは持っていたコップを置いた。
「シェイド。ここにいるために、働く必要はありませんよ」
「……でも」
「手伝いたいと思ってくれるのは嬉しいです。でも、何かできなければ、ここにいられないということではありません」
シェイドは顔を上げた。
カエルンは急かさず、こちらを見ていた。
「そんなこと言ったら、グレンなんて食べる量の方が多い時あるしね」
レミユが口を挟む。
「何で俺なんだよ!」
「分かりやすいから」
「お前な……」
グレンは頭を掻き、それからシェイドへ向き直った。
「飯食って、寝て、怪我治せ。今はそれでいい」
「……それだけで?」
「ああ。まず元気になれ」
バルドは皿を持って、返却口へ歩いていった。シェイドの返事を待つ様子も、何かを頼む様子もなかった。
握っていた指を、ゆっくりほどく。
「……分かりました」
全部を信じられたわけではない。
それでも今日は、言われた通りにしてみようと思った。
◇
治療室で腕を診てもらい、部屋へ戻る頃には、廊下は静かになっていた。
カエルンは扉の前で足を止めた。
「夜中に困ったことがあれば、近くの部屋の人を呼んでください。私の部屋は、廊下を出て左の二つ目です」
シェイドは扉の外へ顔を出し、教えられた方向を見る。
「左の、二つ目」
「はい。朝は迎えに来ますから、それまではゆっくり休んでくださいね」
「……ありがとうございます」
カエルンが去ると、シェイドはベッドへ腰を下ろした。
机の上に、水差しとコップがある。
これを持ってきてくれた人は、リオンと呼ばれていた。
喉が渇いた時に、と言っていた声を思い出し、水を少し飲む。自分がここで夜を過ごすことを、あの人は先に考えてくれていたのだ。
コップを置き、毛布へ入った。
身体が重い。目を閉じれば、すぐに眠れそうだった。
けれど、部屋の隅で揺れるランプの火が目に入った。
小さな炎だった。ただ揺れているだけの、普通の灯り。
それなのに、見ているうちに胸の奥がざわついた。
「……?」
シェイドは眉を寄せる。
孤児院で盗賊が着ていた、雨に濡れた外套の匂い。そこへランプの油の匂いが重なり、頭の奥に何かが引っかかった。
知っているような気がする。
けれど、何を知っているのかは分からない。
考えているうちに瞼が重くなり、シェイドはそのまま目を閉じた。
◇
夢の中で、最初に聞こえたのは大きな音だった。
何かが崩れ、誰かが叫んでいる。
息が苦しい。熱い。
目を開けると、周りが赤かった。
炎が見える。どこなのか分からない。逃げたいのに、どう動けばいいのかも分からなかった。
その中で、大きな人影が近づいてきた。
身体が持ち上がる。強い腕に包まれ、シェイドはその人の服を掴んだ。
『大丈夫だ』
低い声だった。
知らないはずなのに、その声を聞いた途端、どうしようもなく泣きたくなった。
『シェ――』
何かを呼ばれた。
その先は聞こえなかった。眩しい光が、一気に視界へ広がる。
「……っ!」
シェイドは息を呑んで目を覚ました。
すぐには、自分がどこにいるのか分からなかった。
薄暗い部屋を見回す。机と窓、その間に置かれた水差しが目に入った。
「……騎士団……」
胸が激しく鳴っていた。額に汗が滲み、喉がからからに乾いている。
シェイドはベッドから降り、机へ向かった。
水を注ごうとすると、コップの縁へ水差しが当たり、小さな音がした。手が震えていた。
両手でコップを持ち、ゆっくり飲む。
少しずつ息が落ち着いてきた。
何だったのだろう。さっきの場所も、あの声も、覚えていない。
でも、まったく知らないものにも思えなかった。
もう一度思い出そうとすると、頭の奥が痛んだ。
シェイドは考えるのをやめ、ベッドへ戻った。
毛布を引き寄せる。けれど、もう一度目を閉じるのが怖かった。
そのまま座っていると、扉が控えめに叩かれた。
「起きていますか?」
アレンの声だった。
「……はい」
扉が少し開く。
「まだ灯りがついていたので、様子を見に来ました。入っても?」
「はい」
アレンは部屋へ入り、ベッドから少し離れた椅子へ腰を下ろした。
「眠れませんか?」
「……さっきまで寝てました」
「では、目が覚めたのですね」
シェイドは少し迷ってから、口を開いた。
「夢を見ました」
「そうですか」
「火が出てきました」
アレンはすぐに質問を重ねなかった。
「怖かったですか?」
「……はい」
シェイドは膝を抱えた。
「知らない場所だったんです。でも、なんか……知らない感じがしなくて」
アレンはわずかに表情を変えた。
それでも、どこだったのかとは聞かなかった。
「無理に思い出さなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「今日は、怖いことも初めてのことも、たくさんあったでしょう。夢の意味を、今すぐ考える必要はありません」
「……そうですか?」
「ええ」
シェイドは毛布の端を見つめた。
眠りたい。身体は疲れている。けれど、またあの場所へ戻るかもしれないと思うと、横になれなかった。
「……また見たら嫌です」
ぽつりと本音がこぼれた。
アレンは笑わなかった。
「では、眠るまで少しここにいましょうか」
シェイドは顔を上げる。
「いいんですか?」
「ええ」
「忙しくないですか?」
「今日の仕事はもう終わりました」
「本当に?」
「本当です」
アレンは少しだけ笑って答えた。
シェイドはゆっくり毛布へ戻った。
椅子が動く音はしなかった。アレンは何も話さず、そこに座っている。
シェイドは目を閉じた。
さっき見た炎は、まだ頭の奥に残っていた。けれど、目を開ければアレンがいる。
廊下を出て左の二つ目には、カエルンの部屋がある。バルドやレミユも、この建物のどこかで眠るのだろう。
知らない場所へ来たはずだった。
でも今は、呼べる名前がある。
「……団長」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、シェイド」
その返事を聞いて、毛布を握っていた手が少し緩んだ。
シェイドは今度こそ、ゆっくり眠りへ落ちていった。




