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名前しか知らない少年


その日、雨はひどく降っていた。

古い窓を打つ雨粒の音に、時折、遠くの雷鳴が混じる。シェイドは食堂の片隅で、年下の女の子に絵本を読んでいた。


「それでね、騎士さまは森を抜けて――」


 そこまで読んだ時、雨音の向こうから馬の嘶きが聞こえた。シェイドは顔を上げる。一頭ではない。いくつもの蹄の音が、遠くの街道からこちらへ近づいてくる。


「……誰か来たのかな」


 隣に座っていた女の子も窓を見る。しかし雨が強く、外の様子はほとんど見えなかった。こんな嵐の日に、この孤児院へ客が訪ねてくることは珍しい。少し気になったものの、シェイドはもう一度絵本へ視線を戻した。


 しばらくすると、玄関の方から大人たちの声が聞こえてきた。最初は低く、何を話しているのか分からない。けれど次第に声が大きくなっていく。


「道を聞きたいだけだ」


 知らない男の声だった。続いて、孤児院の職員が何かを答える。その声には、いつもの来客への応対とは違う警戒が混じっていた。


 シェイドは絵本を閉じた。


「シェイド?」


 女の子が不安そうにこちらを見る。


「……大丈夫」


 そう言ったものの、何が大丈夫なのか自分でも分からなかった。ただ、胸の奥が妙にざわついていた。


 やがて、玄関の方から鈍い音が響いた。誰かが壁へぶつかったような、重い音だった。食堂にいた子どもたちが一斉に静かになる。


 その直後、女性の悲鳴が上がった。


「やめてください!」


 何かが割れる。男の怒鳴り声が続いた。


「騒ぐな!」


 一瞬で食堂の空気が変わった。泣き出す子がいた。何が起きているのか分からず、ただ周囲を見回す幼い子もいる。


 食堂の扉が勢いよく開き、職員の女性が飛び込んできた。いつも穏やかな顔は青ざめ、濡れた髪が頬に張りついている。


「みんな、奥へ! 急いで!」


「先生、どうしたの?」


「いいから、早く!」


 その声が震えているのを聞いた瞬間、シェイドの胸が冷えた。危ない。それだけは分かった。


 別の職員も廊下から駆け込んでくる。


「小さい子から裏口へ! 押さないで、順番に!」


 食堂の奥には物置があり、その先には薪を運び入れるための小さな裏口がある。職員たちはそこから子どもたちを逃がそうとしていた。


 一方、玄関の方では院長の声が響いている。


「ここには子どもしかいません! どうかお帰りください!」


「うるせえ! どけ!」


「中へは入れません!」


 いつも優しい院長が、聞いたことのないほど強い声を出していた。他の職員たちも玄関や廊下へ向かい、侵入してきた男たちを少しでも食い止めようとしている。


「シェイド……」


 隣の女の子が袖を握る。小さな指が震えていた。


 シェイドはその手を握り返した。


「行こう」


「シェイドも?」


「うん」


 本当は、自分も誰かに手を引いてほしかった。知らない男たちの声も、物が壊れる音も、大人たちの悲鳴も、全部怖い。それでも、自分の手を握っている女の子の方が、もっと強く震えていた。


 シェイドは女の子を連れて物置へ向かった。子どもたちが次々と中へ入っていく。


「このまま奥へ! 裏口から出て!」


 職員が声を張り上げる。


 その時、食堂の真ん中から大きな泣き声が聞こえた。


「うわぁぁん!」


 シェイドは振り向く。三歳くらいの男の子が、床に座り込んでいた。怖さで足が動かなくなったのだろう。名前を呼ばれても、泣くばかりで立とうとしない。


 シェイドは物置を見る。あと少しで、自分も中へ入れる。


「シェイド?」


 女の子が手を握ったまま見上げてくる。


 シェイドは一瞬だけ迷った。怖い。このまま行きたい。あの子のところへ戻るのは嫌だ。大人が助けに来るかもしれない。自分はまだ七歳なのだから、何もしなくても誰も責めない。


 それでも、泣いている男の子から目を逸らせなかった。


 シェイドは女の子の手を離した。


「先に行ってて」


「え?」


「僕、あの子を連れてくるから」


「でも……」


「大丈夫。すぐ行くから」


 本当は、自信なんてなかった。それでも女の子を不安にさせたくなくて、少しだけ笑ってみせる。


「先に行ってて」


 女の子はしばらく迷ってから、こくりと頷いた。


「……絶対来てね」


「うん」


 小さな背中が物置の中へ消える。それを見届ける前に、シェイドは走り出した。


 男の子の前へしゃがみ込む。


「立てる?」


 男の子は涙で濡れた顔を上げ、首を横に振った。


「こわい……」


 シェイドの喉が詰まる。


「……僕も怖いよ」


 その言葉に、男の子は少しだけ泣き声を弱めた。シェイドは手を差し出す。


「でも、ここにいたら危ないから。一緒に行こう」


「……うん」


 腕を引いて立たせる。けれど小さな足は震え、ほとんど前へ進まない。シェイドは男の子の身体を支えながら、一歩ずつ物置へ向かった。


 その時、廊下の向こうから激しい音が響いた。


「きゃっ!」


 誰かの悲鳴。


「押さえて!」


「子どもたちを早く逃がして!」


 大人たちの声が遠ざかっていく。玄関側へ盗賊を引きつけているのだろう。


「早く……」


 シェイドは男の子を急かす。あと少し。あと少しで物置へ着く。


 その時、ばきん、と横手の扉が大きな音を立てて破れた。


 シェイドは足を止めた。


 廊下とは別の通路から、二人の男が食堂へ入ってきた。雨に濡れた外套、泥のついた靴、乱れた髪。腰には剣や短剣が下がっている。


 一目見ただけで、シェイドにも分かった。


 怖い人たちだ。


「こっちにもいたぞ」


「ガキばっかりか」


 目の前に立たれると、大人の男はとても大きかった。声だけを聞いていた時とは違う。剣の柄も、荒い息遣いも、濡れた服から漂う汗と雨の匂いも、全部が生々しくて、足が動かなくなる。


 男の子がシェイドの服へしがみついた。


「シェイド……」


 その泣き声で我に返った。シェイドは物置までの距離を見た。まだ何人かの子どもたちが中へ入ろうとしている。ここで男たちがそちらへ向かったら。


「そこのガキ」


 男の一人がシェイドを見る。


「向こうに何がある?」


 シェイドは答えなかった。


「聞いてんだよ」


 シェイドは男の子を自分の後ろへ押した。


「……行って」


「え?」


「みんなのところに行って」


「でも……」


「大丈夫。行って」


 男の子の背中を押す。泣きながら、小さな足で物置へ向かって走っていく。


 シェイドはその場に残った。


 一人。


 目の前には、大人の男が二人いる。


 怖い。逃げたい。男の子の後を追って、自分も物置へ入りたい。


 けれど今、ここから動けば、男たちも同じ方向へ行く。


 シェイドはゆっくり一歩前へ出た。物置へ続く道を、自分の身体で塞ぐように。


「なんだ?」


 男が眉を寄せる。


 シェイドは両腕を少し広げた。


「……来ないで」


「あ?」


 声が震えている。それでも、もう一度言った。


「来ないでください」


 男が鼻で笑う。


「そこに何かあるな?」


「……何もないです」


「じゃあ、どけよ」


 シェイドは首を横に振った。


「嫌です」


「何?」


「行かせません」


 自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。膝が震えている。胸が苦しいほど心臓が鳴っていた。


 男が一歩近づく。


「どけ」


「嫌です」


「生意気なガキだな」


 大きな手が肩を掴んだ。


「っ……!」


 指が食い込む。痛い。怖い。


 シェイドは咄嗟に男の腕を掴んだ。けれど、力が違いすぎた。びくともしない。


「離して……!」


「邪魔なんだよ!」


 腕を振られ、シェイドの身体が床へ投げ出される。肘を強く打ち、息が詰まった。


「シェイド!」


 物置の奥から女の子の声が聞こえた。


 男がそちらを見る。


「やっぱりいるじゃねえか」


「出てこないで!」


 シェイドは叫んだ。床へ手をついて立ち上がる。腕が痛い。膝も震えている。


 それでも退かなかった。


 もう一度、男たちと物置の間へ立つ。


「……行かせない」


 男の顔から笑いが消えた。


「ガキが調子に乗るなよ」


 その手が腰へ伸び、短剣が抜かれた。


 銀色の刃。


 それを見た瞬間、シェイドの身体からすっと熱が引いた。


 ――死ぬかもしれない。


 七歳の頭でも、それだけは分かった。


 嫌だ。


 怖い。


 死にたくない。


 逃げたい。誰かに助けてほしい。子どもたちの前へ立たなくていいなら、今すぐ泣いて逃げたかった。


 それでも、後ろから聞こえるすすり泣きが、足を動かせなくした。


 どうしたらいいのか分からない。涙が滲む。


 誰か。


 助けて。


 先生でもいい。知らない誰かでもいい。


 さっき読んでいた絵本の中の騎士でもいい。


 誰か――。



◇

 その時だった。


 雨音の向こうから、馬の蹄が響いた。


 一頭ではない。


 いくつも。


 力強く。


 今度は、はっきりと近い。


 男たちも顔を上げる。


「なんだ?」


 次の瞬間、雨を切り裂くような声が孤児院の外から響いた。


「――フェリスティル騎士団だ!」


 空気が変わった。


「武器を捨てろ!」


「騎士団!?」


 男たちの顔色が変わる。


「くそ、もう来やがった!」


「裏から逃げろ!」


 廊下の向こうで激しい足音が響く。直後、金属と金属がぶつかる鋭い音が鳴った。


「右手を制圧!」


「裏口を封鎖しろ!」


「子どもと負傷者の確保を最優先!」


 迷いのない声が次々と飛ぶ。


 一人の盗賊が食堂から飛び出そうとした。その前へ、濃紺の外套を翻した騎士が踏み込んでくる。


 盗賊が剣を振るう。


 騎士は真正面からそれを受けた。


 甲高い音が響く。


 次の瞬間には、盗賊の剣が大きく弾かれていた。


「なっ――」


 腕を取られる。身体を崩される。そのまま床へ押さえ込まれる。


 ほんの一瞬だった。


 別の盗賊が窓へ走る。


「止まれ!」


 そこにも、すでに別の騎士がいた。


「包囲されてるぞ!」


「逃げ道がねえ!」


 シェイドは呆然と、その光景を見ていた。


 速い。


 強い。


 さっきまであれほど大きく、あれほど怖く見えた男たちが、騎士たちの前では次々と武器を落としていく。


 銀色の鎧。


 雨に濡れた濃紺の外套。


 胸元には王国の紋章。


 剣を持っているのに、怖くなかった。


 この人たちは、自分たちを傷つける人ではない。


 助けに来てくれた人たちだ。


 さっきまで読んでいた絵本の中の騎士が、そのまま目の前へ現れたようだった。


 本物の騎士だ。


「子どもたちを保護しろ!」


「はい!」


 その声を聞いた瞬間、シェイドの胸へ初めて安心が広がった。


 助かった。


 そう思った、その時だった。


「来い!」


「っ!」


 腕を掴まれた。


 食堂に残っていた盗賊だった。シェイドの身体が強く引き寄せられ、背後から腕が回る。


 冷たいものが首筋へ触れた。


 短剣。


 息が止まった。


「動くな!」


 男が怒鳴る。騎士たちの動きが止まる。


「近づいたら、このガキを殺すぞ!」


 刃が皮膚へ触れている。少し動いただけでも切れそうだった。


 シェイドは身体を固くした。怖い。震えることすらできなかった。


 その時、騎士たちの間から一人の男が前へ出た。


 雨に濡れた灰色の髪。他の騎士たちより少し年上に見える、落ち着いた顔立ちの男だった。


 男は盗賊とシェイドを見ながら、ゆっくり近づいてくる。


「その子を離しなさい」


 低く、静かな声だった。怒鳴っていない。それなのに、盗賊がわずかに後ずさる。


「来るな! 剣を捨てろ!」


 男は一瞬だけシェイドを見た。


 目が合う。


 不思議だった。こんな状況なのに、その目を見た瞬間だけ、少しだけ大丈夫かもしれないと思えた。


「分かりました」


 男はゆっくり剣を床へ置く。


「ですから、その子を傷つけないでください」


「ほかの奴らもだ! 全員、武器を捨てろ!」


 盗賊の視線が、ほんの一瞬、周囲の騎士へ逸れた。


「今だ」


 短い声。


 横から何かが飛び、盗賊の手首へ命中する。


「ぐっ!」


 腕の力が緩んだ。


 同時に、別の騎士が飛び込んだ。シェイドの身体を抱え、その場から一気に引き離す。


「……っ!」


 視界が大きく動く。


 次の瞬間には、先ほど剣を置いた男がそれを拾い上げていた。


 一気に間合いを詰める。


 剣先が、盗賊へ向く。


「終わりです」


 静かな一言。


 盗賊の手から短剣が落ちた。


 からん、と食堂に乾いた音が響いた。


 それで、本当に終わった。




◇

 それからしばらくして、孤児院には雨音が戻ってきた。騎士たちの指示する声、負傷した大人たちの手当てをする声、子どもたちのすすり泣き。それ以外は、さっきまでが嘘のように静かだった。


 盗賊たちは全員拘束されていた。


 シェイドは食堂の壁際に座っていた。手が震えている。腕も痛い。身体に力がまったく入らなかった。


 さっきまで自分が立っていたことが信じられない。


「シェイド……」


 顔を上げる。


 先に逃がした女の子だった。


「大丈夫?」


「……うん」


 答えようとした。けれど声が出なかった。


 代わりに涙が一粒、頬を伝った。


「あ……」


 一度流れると、もう止まらなかった。


 シェイドは両手で顔を覆う。


「……怖かった」


 ようやく、それだけ言えた。


 女の子も泣きながら、シェイドの袖を掴んだ。


「わたしも……」


 その言葉を聞いて、シェイドは初めて、自分も怖がってよかったのだと思えた。


 やがて、誰かの足音が近づいてくる。


 シェイドは顔を上げた。


 先ほど、盗賊の前へ出てきた男だった。


 男はシェイドの前まで来ると、立ったまま見下ろさず、目線を合わせるように膝をついた。


「怪我を見せてもらえますか?」


 戦っていた時とはまるで違う、穏やかな声だった。


 シェイドは腫れた肘を見せる。


「……ここ」


「痛みますか?」


「少し」


「そうですか。あとで必ず診てもらいましょう」


 男はそれ以上、無理に触れなかった。少しだけ間を置いてから、静かに尋ねる。


「名前を教えてもらっても?」


 シェイドは頷いた。


「……シェイドです」


「シェイド」


 男は、その名を確かめるように一度だけ繰り返した。


「私はアレン・グレイハルト。フェリスティル騎士団の団長をしています」


「……団長」


「はい」


 シェイドは思わずアレンを見る。この人が、あの騎士たちを率いていた人なのだ。


 アレンは少しだけ表情を和らげた。


「今日は怖かったでしょう」


 シェイドは俯く。


「……はい」


「よく頑張りましたね」


「でも……僕、怖くて……」


「ええ」


「逃げたかったです。本当はずっと」


 アレンは否定しなかった。


「それでも、年下の子たちを先に逃がしたのでしょう?」


 シェイドは返事をしなかった。


 アレンは穏やかに続ける。


「怖くない人だけが、勇敢なのではありませんよ。怖くても、誰かのために立てる人もいます」


 胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。


 シェイドは何も言えなかった。


 ただ、その言葉だけは、不思議なくらい心に残った。



◇

 孤児院の状況確認が進むにつれて、一つ問題が分かった。


 盗賊たちに荒らされた建物は、玄関や廊下だけでは済まなかった。壊された扉や窓がいくつもあり、一部の部屋は雨まで吹き込んでいる。今夜、子どもたち全員がここで普段通り眠ることは難しかった。


 職員たちと騎士団は、子どもたちを近隣の教会や別の保護施設へ一時的に預けるため、慌ただしく話を進めていた。


「この子たちは教会へお願いします」


「こちらの子たちは東の施設へ」


 大人たちの声が聞こえる。


 シェイドは壁際に立って、そのやり取りを黙って見ていた。


 行き先。


 その言葉を聞くだけで、胸の奥がざわついた。


 また、知らない場所へ行く。


 また、知らない人のところへ行く。


 仕方がない。


 ずっと、そうだった。


 五歳頃にこの孤児院へ来た時も、自分には何もなかった。


 ここへ来る前にどこにいたのかも分からない。誰と暮らしていたのかも分からない。覚えているのは、自分の名前だけだった。


 孤児院での生活には、ようやく慣れていた。


 職員たちの顔も覚えた。


 年下の子どもたちにも懐かれた。


 それでも。


 また移るのだ。


 そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど、嫌だと言っても仕方がない。


 シェイドはそう思っていた。


「シェイド」


 名前を呼ばれた。


 振り向く。


 アレンだった。


「少し、話してもいいですか?」


「……うん」


 アレンはシェイドの前へ来ると、先ほどと同じように目線を合わせる。


「別の場所へ移るのが、不安ですか?」


 シェイドは顔を上げた。答えていいのか分からず、アレンを見つめる。


「……でも、ここにはいられないんですよね」


「今夜は難しいですね」


 やっぱり、と思った。知らない場所へ行って、知らない人の顔をまた一から覚えなければならない。


 シェイドが俯くと、アレンは静かに続けた。


「ほかの子どもたちと一緒に、別の施設へ移ることもできます。ただ、君がよければ、もう一つ方法があります」


 シェイドが顔を上げる。


 アレンは少しだけ表情を和らげた。


「騎士団で、一時的に君を保護することができます」


 シェイドは何度か瞬きをした。


「……僕を?」


「はい」


「騎士団に?」


「そうです」


 すぐには意味を飲み込めなかった。


「でも……僕、騎士じゃないです」


 アレンが少し笑う。


「もちろんです。七歳の子どもを騎士にするつもりはありませんよ」


「……そっか」


 思わず呟くと、アレンの目元が少しだけ柔らかくなった。


「今日のことがあったばかりです。知らない人ばかりの場所へ移るのが心細ければ、しばらく私たちのところで過ごしませんか。私もいますし、怪我の手当ても受けられます」


 シェイドはアレンを見た。この人も一緒にいてくれる。そのことに、少しだけほっとした。


「でも……」


 シェイドは俯いた。


「僕でいいんですか?」


「どういう意味でしょう?」


「僕……何も分からないから」


 アレンは黙って待っている。


 急かさない。


 シェイドは膝の上で指を握った。


「家族も分からないし、昔のことも分からないし……」


 声が少し小さくなる。


「僕、シェイドっていう名前しか分からないんです」


 口にすると、自分が空っぽになったような気がした。


 他の子には、生まれた町を覚えている子もいる。親の顔や名前を知っている子もいる。


 自分には。


 何もない。


 シェイド。


 たった一つ、それだけだった。


 アレンはしばらく黙っていた。


 そして。


「君は、シェイドなのでしょう?」


 シェイドが顔を上げる。


「……はい」


「でしたら、今はそれで充分です」


 あまりにも普通に言われた。


 だから一瞬、意味が分からなかった。


「……それだけで?」


「はい」


 アレンは頷く。


「思い出せないことを、今すぐ無理に思い出す必要はありません。過去については、必要になった時に考えればいいでしょう」


 穏やかな声だった。


「今はまず、安心して眠れる場所へ行きましょう」


 胸の奥で。


 何かが、ゆっくりほどけていく。


 どこで生まれたのか。


 親は誰なのか。


 何か覚えていないのか。


 もっと頑張って思い出せないのか。


 何も聞かれなかった。


「……行ってもいいんですか?」


「もちろんです」


「迷惑じゃない?」


「迷惑なら、お誘いしていませんよ」


 シェイドはアレンを見つめた。


 今日。


 一番怖かった時。


 この人たちは来てくれた。


 雨の中。


 自分たちを助けるために。


 まるで、さっきまで読んでいた絵本の騎士みたいに。


 知らない場所へ行くのは怖い。


 けれど。


 この人たちがいる場所なら。


 少しだけ。


 行ってみたいと思った。


「……行きます」


 アレンの目元が柔らかくなる。


「そうですか」


 シェイドは膝の上で手を握った。


 それから、深く頭を下げる。


「お願いします」


 七歳の子どもにしては、妙に整った礼だった。


 アレンの視線が、ほんの一瞬だけ止まる。


 けれど何も聞かなかった。


「はい。こちらこそ」


 そう言って、アレンは手を差し出した。


 シェイドはその手を見る。


 大きな手。


 剣を握る、騎士の手。


 けれど。


 もう怖くなかった。


 シェイドは自分の小さな手を、そっとその上へ重ねた。


 アレンが立ち上がると、シェイドもその手を握ったまま立った。歩き出そうとして、繋いだ指に少しだけ力を込める。


 知らない場所へ行くのは、まだ怖い。


 それでも今度は、一人で向かわなくてよかった。



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