五年越しの一歩
「シェイド。正式入団について、お話があります」
アレンの言葉を聞いた瞬間、シェイドは返事を忘れた。
片付けかけていた木剣を握ったまま、目の前の人を見つめる。
正式入団。
ずっと目指してきたことだった。けれど、十二歳になれば必ず迎えてもらえると、約束されていたわけではない。
まだ足りないと言われたら、もっと練習しようと思っていた。
「……団長」
「はい」
「僕……入れるんですか?」
アレンは穏やかに微笑んだ。
「ええ。そのことを、きちんとお伝えしたくて来ました」
シェイドの指が、木剣の柄を握り直した。
「執務室で、詳しくお話ししましょう」
「……はい」
返事をしてから、ようやく手元へ目を落とす。
木剣を棚へ戻す時、柄が隣の剣に当たった。いつもなら一度で置けるのに、今日はうまく手が動かなかった。
アレンは何も言わず、片付け終わるまで待ってくれた。
◇
執務室へ入り、勧められた椅子に座っても、シェイドは落ち着かなかった。
膝の上で両手を重ねる。訓練場で聞いた言葉を、もう一度確かめたかった。
アレンは机の上の書類を手に取り、シェイドへ向き直る。
「もうすぐ、ここへ来て五年になりますね」
「はい」
騎士団へ来た日を、誕生日として祝ってもらっている。今年は、ついに十二歳になる。
七歳の時には、ずいぶん先だと思っていた。あと五年も待つのかと、指を折って数えたことを覚えている。
「これまでの訓練と勉強の様子を踏まえて、今年の新入団員として迎えることになりました」
シェイドは少し身を乗り出した。
「正式に、ですか?」
「はい。正式にです」
「……本当に?」
「本当ですよ」
その返事を聞いた途端、胸の奥へ何かが一気に込み上げた。
自分を守ってくれた騎士たちのようになりたかった。
怖がっている人の前に立てる人に。誰かが一人だと思っている時、そばにいられる人に。
そう願って、アレンへ初めて話した日から五年。
木剣を握った。身体を鍛えた。文字も数字も、必要な礼儀や規律も、少しずつ学んできた。
何度教わっても同じところで間違えて、悔しいまま眠った夜もあった。それでも、騎士になりたい気持ちは変わらなかった。
「……よかった」
俯くと、小さな声が漏れた。
嬉しい。ただそれだけなのに、続く言葉が出てこない。重ねていた両手を、ぎゅっと握った。
アレンは急かさなかった。
「頑張りましたね」
その一言で、こらえていたものがほどけそうになった。
最初は、木剣をまともに振ることもできなかった。バルドに何度も持ち方を直してもらい、少し振っただけで疲れた腕を見せていた。
勉強では、セシルが同じところを何度でも教えてくれた。できなかったことばかり気にしていると、皆が、昨日よりできるようになったことを見つけてくれた。
アレンも、ずっと見ていてくれたのだ。
騎士になりたいと言った七歳の自分から、今日まで。
「……はい」
シェイドは顔を上げた。
目が潤んで、アレンの顔が少しぼやける。それでも、笑った。
「頑張りました」
自分でそう言うのは、初めてだった。
いつもなら、まだできないことを思い出してしまう。もっと上手な人がいることも、自分には教わることがたくさんあることも、分かっていた。
けれど今は、頑張ったと言いたかった。
アレンの目元が柔らかくなる。
「ええ。よく頑張りました」
シェイドは頷き、袖へ手を伸ばしかけた。
その前に、アレンが懐からハンカチを差し出してくれる。
「……ありがとうございます」
受け取って目元へ当てると、少し恥ずかしくなった。
「すみません」
「謝ることではありませんよ」
その声があまりにいつも通りで、シェイドはもう一度、ハンカチを目元へ押し当てた。
落ち着くまで待ってから、アレンは一枚の書類を差し出した。
そこには、シェイドの名前があった。
姓はない。生まれた場所も、家族の名前も、分からない。
けれど、その名前で、ここへ迎えてもらえる。
シェイドは指先で紙の端に触れた。
「ありがとうございます。僕……ちゃんと、頑張ります」
「ええ。仕事も少しずつ任せていきますからね」
「どんな仕事ですか?」
「初めは先輩と一緒に、見回りや見張りなどを覚えてもらいます」
門に立つ騎士の隣に、自分も立つ。見慣れた廊下や王都を、見回る側として歩く。
思い浮かべると、嬉しさと一緒に少し緊張した。
「任された持ち場を、勝手に離れてはいけません。あなたがそこにいることを前提に、周りも動きますからね」
「……分かりました」
仕事を任せてもらえるのは、自分のできることが増えるというだけではない。やらなければ、困る人がいるのだ。
シェイドが姿勢を正すと、アレンは穏やかに続けた。
「それから、怪我や体調の悪さも、隠さずに伝えてくださいね」
「少しなら、我慢できるかもしれません」
「我慢しているうちに動けなくなってしまえば、そばにいる仲間はどうするでしょう?」
シェイドは考えた。
「……僕を助けないといけなくなります」
「ええ。先に知らせてもらえれば、交代することも、仕事の分担を変えることもできます」
助けてもらってばかりではいけないと思っていた。入団できるのなら、なおさら自分でできるようにならなければ、と。
でも、黙って無理をすることが、仲間のためになるとは限らない。
「……全部、自分でできるようにならないといけないと思ってました」
「少しずつ、できることを増やしていけばよいのです。そのために仲間がいます」
アレンはシェイドを見た。
「入団した翌日から、誰にも助けてもらえなくなるわけではありませんよ」
シェイドは、ゆっくり肩の力を抜いた。
「じゃあ、まだいっぱい聞くと思います」
「ええ。聞いてください」
そう答えてもらえて、ようやく自然に笑えた。
「ちゃんと任せてもらえるようになりたいです」
「楽しみにしています、シェイド」
◇
執務室を出て談話室の前を通りかかると、聞き慣れた笑い声がした。
扉の向こうを覗いて、シェイドは足を止める。
長椅子にはグレンとレミユ。卓を挟んでセシルとエヴァンが座り、窓際にはリオンがいた。バルドは椅子へ腰を下ろし、カエルンはちょうど茶を注いでいる。
七人ともいる。
近頃は任務や休む時間が違って、こうして揃うことは少なかった。
「シェイド。団長のお話は終わりましたか?」
カエルンの声に頷くと、皆が顔を上げた。
伝えようとした途端、さっき落ち着いたはずの胸が、またいっぱいになる。
「僕……正式に、入れることになった」
グレンが大きく笑った。
「そうか! よかったな!」
手招きされて近づくと、大きな手が髪をくしゃりと撫でた。
「五年か。よく続けたな」
「……みんなが教えてくれたから」
顔を上げると、バルドと目が合った。
「続けたのはお前だ」
短い言葉に、シェイドの目がまた熱くなった。
慌てて笑おうとしたが、うまくいかない。
レミユが少し身体をずらし、隣の席を空けてくれた。
「ほら、座りなよ」
「……うん」
腰を下ろすと、カエルンが目の前へ茶を置いた。
「熱いので、ゆっくり飲んでくださいね」
シェイドは両手でカップを包んだ。皆に見られているのが照れくさくて、しばらく茶の表面を見つめる。
「団長に、頑張ったねって言ってもらった」
ぽつりと話すと、グレンの手が肩へ置かれた。
「そりゃ、頑張ってただろ」
「でも……入れてもらえるか、まだ分からなかったから」
「そうか」
グレンはそれ以上、冗談を言わなかった。肩に置かれた手が、一度だけ軽く叩いて離れる。
セシルが本を閉じた。
「自分では、足りないところばかり気になってしまいますからね」
「うん。勉強も、まだ間違えるし」
「間違えたところを、そのままにしなくなったでしょう。分かるまで考えて、聞きに来るようになりました」
シェイドは少し顔を上げた。
「……最初は、同じこと聞いたら悪いと思ってた」
「ええ。今は、こちらが尋ねる前に来てくれますね」
セシルの微笑みに、シェイドも小さく笑った。
「団長にも、入ってからも頼っていいって言われた」
「その通りだ。分からないことも、怪我も隠すな」
エヴァンが書類から目を上げる。
「うん。覚えておく」
「お前は覚えてるだろうな。俺が怪我した時は、しつこいくらい治療しろって言うぞ」
グレンが口を挟んだ。
「グレンが行かないからでしょ」
思わず返すと、レミユが吹き出した。
「それはグレンが悪いね」
「おい、今日は俺を叱る日じゃねえだろ!」
シェイドも笑った。胸に詰まっていたものが、少しずつほどけていく。
カップへ口をつけたところで、リオンが卓へ来た。小皿を、シェイドの前へ寄せる。
焼き菓子が、一つ残っていた。
「これ、食べていいの?」
「シェイドの分」
「……取っておいてくれたの?」
リオンは頷いた。
グレンが皿を見て、少し眉を上げる。
「だから俺には三つ目くれなかったのか」
「もう二つ食べただろう」
バルドが言う。
シェイドは小皿を引き寄せた。いつ戻るかも分からなかった自分の分が、ここに残してある。
「ありがとう、リオン」
「うん」
一口食べると、いつもより甘く感じた。
「入団の日、みんなに制服見せたい」
「おう。ちゃんと着てこいよ」
「うん」
グレンへ頷いてから、シェイドは皆の顔を見渡した。
剣を教えてくれた人も、勉強を見てくれた人も、困っている時に隣へ来てくれた人も、ここにいる。
「……入ってからも、教えてね」
少し小さな声になった。
レミユが、すぐ隣で答える。
「もちろん。急に遠慮しなくていいからね」
「ああ。明日の訓練も同じだ」
バルドが頷く。
シェイドは両手でカップを持ち直した。
「うん」
嬉しくて、照れくさくて、もう一度皆を見ることはできなかった。
それでも、その輪の中に座っていたかった。
◇
次に王城を訪ねた日、リアは読みかけの本を持って待っていた。
「シェイド、今日はここから――」
言いかけて、彼の顔を見る。
「……どうしたの?」
「え?」
「何か、いいことあった?」
シェイドは少し驚いて、それから笑った。
まだ話していないのに、分かるらしい。
「はい。リア様に、お話ししたいことがあるんです」
リアが本を閉じた。
「なに?」
「僕、騎士団へ正式に入れることになりました」
リアは目を大きく開いた。
「本当?」
「はい。団長が、今年の新入団員として迎えてくれるって」
次の瞬間、リアの顔がぱっと明るくなった。
本を卓へ置き、椅子から立ち上がる。
「おめでとう、シェイド!」
すぐそばまで来て、両手を胸の前で合わせた。
「ずっとなりたかったんだもんね。よかったね!」
「はい」
「本当に、よかった……!」
リアの声が弾んでいる。
笑っているのに、目元が少し潤んでいた。その顔を見た途端、シェイドの胸にも、また喜びが込み上げた。
「そんなに、喜んでくれるんですか?」
「だって、シェイドが頑張ってたの、知ってるもの」
リアは迷わず答えた。
「うまくできなかった日も、次はできるようになりたいって言ってたでしょ。だから、わたしもすごく嬉しい」
シェイドは何と答えればいいのか分からず、少し俯いた。
アレンに告げられた時とも、皆に話した時とも違う嬉しさだった。
自分の願いがかなったことを、こんなふうに喜んでくれる。
「……早く、お話ししたかったんです」
「わたしも、聞けて嬉しい」
リアは笑い、それから思いついたように尋ねた。
「制服も着るの?」
「はい」
「見たい!」
すぐに返ってきた声に、シェイドは少し照れた。
「似合うといいんですけど」
「きっと似合うよ。着たら、見せに来てね」
「はい」
リアは満足そうに頷き、椅子へ戻った。
卓に置いた本を横へ寄せ、シェイドにも座るよう促す。
「入ったら、どんなことをするの?」
「訓練を受けて、仕事も少しずつ教えてもらいます。最初は、先輩と一緒に見回りとかをするそうです」
「楽しみだね」
「はい。覚えることが多くて、今までより忙しくなると思います」
「そっか」
リアの声が、少し静かになった。
シェイドが見ると、彼女は膝の上で指を重ねていた。さっきまでの笑顔が、ほんの少しだけ小さくなっている。
「リア様?」
リアは一度、シェイドを見た。
何か言いかけて口を閉じ、それから小さく尋ねる。
「騎士になっても、会いに来てくれる?」
シェイドは彼女を見つめた。
訓練や仕事が増えれば、今まで通りに来られない日もあるだろう。入団できることばかり考えていて、そのことにはまだ気づいていなかった。
けれど、リアに会わなくなるつもりはなかった。
新しいことを覚えたら、またここで話したかった。一緒に読んでいる本の続きも、リアが何を思ったのかも、知りたかった。
「はい。会いに来ます」
リアの指が止まった。
「本当?」
「毎回、今までと同じ日に来られるかは分かりません。でも、休みの日に来られるか、団長に相談してみます」
「無理はしなくていいよ」
リアはすぐに言った。
「訓練も、お仕事も、大事だもの」
「はい」
「でも……会えたら嬉しい」
シェイドは頷いた。
「僕も、これからもリア様に会いたいです」
口にしてから、自分の気持ちに気づいた。
待ってくれているからだけではない。約束したからだけでもない。
自分が、会いたかった。
リアはしばらく彼を見ていた。それから、頬を緩めて笑う。
「じゃあ、次に来られる日が分かったら、教えてね」
「はい」
「制服を見るのも、楽しみにしてる」
シェイドも笑った。
「分かりました」
リアは本を二人の間へ寄せ直した。
「今日は、この続き、一緒に読もう」
隣へ座ると、彼女は栞を抜いた。
近くで聞こえる声も、同じ頁を覗き込む時間も、これからもなくしたくなかった。
◇
騎士団本部へ戻ると、廊下でアレンと会った。
「おかえりなさい。リア様へ、お話しできましたか?」
「はい。すごく喜んでくれました」
「それはよかったですね」
シェイドは頷き、その場で足を止めた。
「団長。入団してからも、休みの日に王城へ行っていいですか?」
「リア様に会いに?」
「はい。訓練や仕事の予定を確認してから」
アレンは穏やかに微笑んだ。
「必要な休息も取ってもらいますが、予定に差し支えがなければ構いませんよ」
「ありがとうございます」
ほっとして、シェイドも笑った。
廊下の先で、食堂へ向かうリオンが足を止めている。シェイドが気づくと、軽く手を上げてくれた。
そちらへ向かいかけて、シェイドはアレンを振り返った。
「団長」
「はい?」
「……入団の日、よろしくお願いします」
アレンの表情が柔らかくなる。
「こちらこそ。待っていますよ」
シェイドは頷き、リオンのもとへ歩き出した。
その日に着る制服を、皆に見てもらいたかった。
そして、リアにも。
五年間待ち続けた日が、もうすぐ来る。




