兄の目
「セシル。シェイドって、どういう奴だ?」
王太子の執務室で、ルイが突然そう尋ねた。
書類を確認していたセシルが顔を上げる。近くに控えていたエヴァンも視線を向け、グレンは何か面白いことが始まったと言わんばかりに眉を上げた。
「シェイド、ですか?」
「ああ」
ルイは椅子へ座ったまま腕を組んだ。その眉間には、年相応の不満が少しだけ滲んでいる。
「最近、リアがよくあいつの話をするんだ」
「なるほど」
「今朝も『次にシェイドが来る日はいつ?』って聞かれた」
グレンが笑う。
「ずいぶん気に入られてるな!」
「だから気になってるんだ。笑うところじゃない」
「悪い悪い、ルイ殿下。けど、リア様が楽しそうなのはいいことだろ?」
「それはそうだけど」
セシルは、手にしていた書類を机へ置いた。
「リア様がご自分から次の訪問を気にされるのは、確かに珍しいですね」
「だろ? セシルはリアのことも昔から知ってるから、分かるだろ」
「ええ。以前は、同じ年頃の男の子と挨拶を交わすだけでも、随分と緊張されていましたから」
「なのにシェイドのことは、自分から話すんだ。読んだ本とか、庭の花とか、騎士団の話とか」
「それで、どのような少年なのか知っておきたいと」
「当然だろ。リアがあれだけ懐いてる相手なんだから」
ルイは、机に置かれた書類から目を離した。
「リアは、嫌でもなかなか言えないだろ。あいつが、そういうのに気づける奴なのか知りたい」
セシルの表情が、少し柔らかくなった。
「そういうことでしたか」
「何だよ」
「リア様が楽しそうでも、それだけでは安心できないのですね」
「楽しく過ごしてるなら、それはいい。でも、無理してないかは別だろ」
「ええ」
セシルは頷いた。
「シェイドは、相手が答えるまで待てる子です。自分が知りたいことを、無理に聞き出そうとはしません」
「そんなに言い切れるのか?」
「三年、そばで見ていますから」
セシルは眼鏡を軽く押し上げた。
「騎士団へ来たばかりの頃のシェイドも、人との距離を測る子でした。何を言えばよいのか、どこまで頼ってよいのか、分からなかったのでしょう」
「今は、結構普通に話してるよな」
「ええ。ただ、初めからそうだったわけではありません」
グレンが頷いた。
「七歳の頃なんて、風邪で寝てても、手伝いを気にしてたぞ。誰かが代わりにやるって言われても、まだ何か言いたそうにしてたな」
「病気なのに?」
「ああ。寝てるだけじゃ落ち着かなかったんだろうな。こっちは休んでてほしいだけなんだが」
「グレンは、その時に肉を持っていって、治療担当に追い返されていました」
セシルが静かに付け加える。
「その話は今いらねえだろ!」
「病人への気遣いにも、加減が必要だという話です」
ルイの口元が少し緩んだ。
「グレンよりは、シェイドの方が分かってそうだな」
「ルイ殿下まで言うか! 俺だって、元気になってほしかったんだぞ」
エヴァンが小さく息を吐いた。
「話を戻します。シェイドが相手の様子をよく見ているという点は、同意見です」
ルイがそちらを向く。
「ただし、自分のことになると無茶を隠す傾向があります」
「怪我しても黙ってるとか?」
「はい。本人は大したことではないと思っているようですが、こちらが気づくまで言わないことがあります」
「それ、リアには関係ないだろ」
「人物評としてです。相手を気遣えるからといって、自分のことも同じように扱えるとは限りません」
ルイは少し考えた。
「じゃあ、困ってても、平気だって言うかもしれない?」
「あります。『大丈夫』だけでは判断せず、様子を見る必要があります」
セシルも頷く。
「もっとも、今は以前より頼ってくれるようになりました。分からないことを聞きに来ますし、嫌なことには言い返すこともあります」
「主にグレンにな」
「そりゃ、俺が一番話しかけてるからな。黙って遠慮されるより、言い返してくるくらいでちょうどいいんだよ」
グレンが胸を張り、ルイは少し笑った。
それから、机の上へ視線を落とす。
「……三年か」
七歳で騎士団に保護された少年。昔の記憶がなく、家族のことも分からない。
そのくらいのことは、ルイも聞いていた。
「ずいぶん信用されてるな、あいつ」
「そうなるだけの時間は、一緒に過ごしてきました」
セシルの声は穏やかだった。
ルイは少し黙り、それから立ち上がった。
「分かった。でも、人から聞いただけで決めるつもりはない。オレが自分で見る」
「ええ。それがよろしいかと」
セシルが自然に頷いたので、ルイは少し不満そうな顔をした。
「止めないんだな」
「ご自分で確かめたいのでしょう?」
「……そうだけど」
「それなら、シェイドとお話しになればよいと思います」
「話すだけだ。別に、困らせるつもりはない」
「承知しています」
あっさり返され、ルイはそれ以上何も言わなかった。
◇
数日後、ルイはリアがシェイドと過ごす部屋の隣室にいた。
エリーゼとアレンも一緒だった。続き扉は少し開けられ、何かあればすぐに様子が分かるようになっている。
「それでね、噴水の近くにも新しい花が咲いたの」
「前に見せてもらった白い花とは違うんですか?」
「うん。今度は薄い紫色」
「綺麗そうですね」
「あとで見る?」
「見たいです」
扉の向こうから、二人の声が聞こえてくる。
ルイは何も言わず、妹の話を聞いていた。
以前なら、同じ年頃の少年を前にして、挨拶のあとに言葉が続くだけでも珍しかった。
今は違う。
「シェイド、この前の話の続きは?」
「グレンが椅子を壊した話ですか?」
「うん」
「あのあと、エヴァンにすごく怒られてました」
「やっぱり?」
「『絶対壊れない』って言った直後だったので」
リアが笑った。
ルイの視線が、僅かに動く。
エリーゼがそれに気づいた。
「どう?」
「……母上が言ってた意味は、分かった気がする」
「何が?」
「シェイド、リアが黙っても、すぐに何か聞こうとはしないな」
会話が途切れる時がある。
リアが何か考えている時も、言葉を探している時も、シェイドは質問を重ねない。
少し待って、リアが話し始めると、その続きを聞いている。
「リアには、それが心地よいのかもしれないわね」
「……うん」
ルイは頷いた。
少しして、またリアの声が聞こえる。
「ねえ、シェイド。今日は、剣の練習したの?」
「朝してきました」
「バルドと?」
「はい。今日も全然勝てませんでしたけど」
「いつか勝てる?」
「勝ちたいです」
「じゃあ、応援する」
「本当ですか?」
「うん」
「それなら頑張れそうです」
リアがまた笑った。
ルイは、扉の隙間から見える妹の横顔を眺めた。ドレスを握り締めることもなく、シェイドの方へ顔を向けている。
楽しそうなのは、確かだった。
「同じ年頃の男の子と、あんなふうに笑うのは久しぶりね」
エリーゼが小さく呟いた。
ルイが母を見ると、その目は続き扉の向こうへ向けられていた。
◇
帰る時間になり、ルイたちは二人のいる部屋へ戻った。
リアとシェイドは、窓辺に飾られた花を見ていた。
リアが一つの花を指すと、シェイドが少し身を屈める。二人の間にはちゃんと距離があった。それでも、ルイは近づきながら名前を呼んだ。
「シェイド」
「はい、ルイ殿下」
すぐに振り向いたシェイドを、ルイはじっと見た。
「リアが困ってたら、無理に話を続けなくていいからな」
「はい」
「嫌だって、なかなか言えないから」
「お兄様」
リアが少し眉を寄せた。
「わたし、嫌じゃないよ」
「今の話じゃない。これからの話だ」
シェイドは真面目な顔で頷いた。
「気をつけます」
ルイは、その返事を聞いてもすぐには頷かなかった。
「シェイドは、ちゃんと待ってくれるよ」
リアが続ける。
ルイは妹を見た。初めて会った時にはほとんど喋れなかったのに、今はシェイドのことになると、すぐに言葉が出てくる。
「……それは、聞こえてた」
「じゃあ、大丈夫でしょ?」
そう簡単に言われると、素直に認めるのも面白くなかった。
ルイは小さく咳払いして、シェイドへ目を戻す。
「今日は、リアが楽しそうだった」
「……はい」
「だから、次も無理させるなよ」
「はい、ルイ殿下」
リアがほっとしたように笑った。
シェイドも、その顔を見て笑う。
ルイは二人を見比べたあと、少しだけ唇を引き結んだ。
◇
「では、失礼します」
アレンとシェイドが帰ろうとすると、リアが呼び止めた。
「シェイド。次も来るよね?」
「はい。また来ます」
リアは安心したように笑った。シェイドも笑い返し、アレンと一緒に部屋を出ていく。
ルイは、扉が閉まるまで二人を見送った。
「お兄様」
「何だ?」
「次に来る日、分かったら教えてね」
「ああ」
「忘れないでね」
「忘れないって」
リアが笑ったので、ルイも少しだけ口元を緩めた。
廊下へ出ると、セシルたちが待っていた。
「どうでした?」
セシルに尋ねられ、ルイはシェイドが去った方を見た。
「……リアが楽しそうだった」
セシルは静かに頷いた。それ以上は聞かなかった。
ルイは歩き出しかけて、振り返る。
「次にシェイドが来る日、分かったらオレにも教えて」
「承知しました、ルイ殿下」
ルイは頷き、廊下を歩き出した。
リアに無理をさせないか。それは、これからも見ておくつもりだった。
けれど、今日は自分に言い返してきた妹の声が、耳に残っている。
『シェイドは、ちゃんと待ってくれるよ』
あんなふうに誰かをかばうリアを見るのは、初めてだった。
「……次も、あんなに笑うのかな」
隣を歩くセシルが、こちらを向いた。
「リア様ですか?」
「ああ」
答えてから、ルイは少しだけ口元を緩めた。
「今日、よく笑ってたから」
今度は、リアがシェイドを迎えるところから見てみようと思った。




