第九章 B級老戦士 クラム
グリエルが法杖を掲げている。杖の先が光り、青い火の玉がふっと浮かび上がった。こちらへ飛んでくる。
どん!すぐ脇の地面に穴が開き、飛び散った土を全身に浴びた。目を見開いたまま、声も出ない。恐ろしさに頭が真っ白になった。だが、考える暇もなく、グリエルの手の動きに合わせて、青い火の玉が次々とこちらへ飛んでくる……。
いったい、どうしてこんなことになったのか。十数日前から話す必要がありそうだ。
日差しが暖かさを増すにつれ、冬の名残もすっかり消えた。人々は重たい毛皮を脱ぎ始め、木々の枝先にも若葉が開く。毎年このころになると、ソラニア西大陸の中央山脈では雪や氷が解け、その水が教廷国内のテルソン川上流へ流れ込み、そのままグラテン王国へ押し寄せてくる。その濁った流れが、新しい一年の息吹を運んでくる。そうして、春が来た。
安息日。銀貨と銅貨をいくらか懐に入れ、当てもなく通りを歩いていた。どこかで暇をつぶそうか。それとも、ブル中央市場で材料や道具でも見てこようか。決めかねたまま歩いているうちに、饗宴大通りのオストランド大聖堂の近くまで来ていた。
春の日差しが高い尖塔を照らし、大きな影を落としている。その影の先に、通りに面した小さな公園があった。ひとまずあそこに座って、それから行き先を考えることにした。ベンチに腰を下ろし、大きく伸びをする。日向は気持ちがいい。目を閉じて、うとうとしかけたところで、
「おい! お前さん!」向かいから声がした。年寄りの声だが、張りがある。目を開ける。俺か?
鎧を着た老人が、足早にこちらへ来る。髪も髭も白いものが混じり、顔はしわだらけだ。腕のたるんだ皮膚の下には、まだうっすらと筋肉の形が見える。勇者か? こんな歳の勇者もいるのか?しかし、その鎧、もう何年まともに手入れしてないんだ? ぴかぴかに拭いてはあるが、古い錆の跡だらけだ。
「お前さん、勇者ギルドの向かいで茶の屋台をやっとるだろう?」老人が目の前まで来た。その後ろから、俺と同じくらいの歳の男女が、焦った顔で走ってくる。「ああ、そうですけど。俺をご存じなんですか?」「わしじゃ、わし! クラムだよ! ちょっと茶を飲みに行かなかったくらいで、もう顔を忘れたのかい?」老人はじれったそうに言った。
誰だって? クラム? 知らねえぞ。それに、この人がうちへ茶を飲みに来たことなんか、一度もない。これは間違いない。俺がぽかんとしていると、クラム老人はむっとして、畳みかけるように続けた。
「まったく、もう忘れたのか。この間、朦朧果バニラ茶を飲みに行ったばかりだろう? 来年は結婚する、早く子供も欲しいって、お前さんが言っとったじゃないか。忘れたのかい?」何だって? 俺が? 来年、結婚? 早く子供が欲しい?今年に入って、これほど笑える話は聞いたことがない。それに、朦朧果バニラ茶だって? あんなもの、俺が子供のころに、親父が売るのをやめた茶だ。俺が屋台を継いでからは、一度も出したことがない。
後ろの二人が追いつき、クラム老人の腕を取った。「父さん、人違いだよ。さあ、行こう」そう言いながら連れていこうとするが、クラム老人はなかなか力が強い。二人がかりでも、てこずっていた。ようやく数歩離れたと思ったら、クラム老人は二人の手を振りほどき、また俺のところへ駆けてきた。
「ジェキとウェストは、最近見かけんか? あいつら、どうしてわしを誘いに来ないんだ?」言い終わるなり、また二人に引っ張られた。男の方がクラム老人を抱え込み、ほとんど引きずるように連れていく。女の方は、申し訳なさそうな顔で急いで俺のところへ戻ってきた。
「本当にすみません。父も歳を取って、ときどき昔のことと今のことが、ごっちゃになってしまうようで……。ご迷惑をおかけしました」女は頭を下げた。
「ああ、いえいえ。気にしないでください。ひょっとしたら、俺を親父と間違えたんじゃないかと思って」「ああ、じゃあ……」女が俺の顔を見る。「俺がギルドの前で茶の屋台をやってるのは、本当です。それに、さっきの朦朧果バニラ茶も、昔は親父が売ってましたから。そんなに気にしないでください」
「そうだったんですね。ともかく、申し訳ありませんでした」もう一度謝ると、女は男のところへ戻り、二人でクラム老人を連れていった。遠ざかりながらも、クラム老人はまだ俺に叫んでいる。「ジェキとウェストに、わしとパーティーを組みに来いと言っといてくれ!」
ううむ……世の中、いろんなことがあるもんだ。さっさと市場へ行って、何か買ってこよう。
しかし、朦朧果バニラ茶って、どんな味だったっけ。子供のころに飲んだ気がする。いっそ、もう一度作ってみるか。そんなことを考えながら、ブル中央市場へ向かった。
数日後の午後。いつも通り店を開けていた。暖かくなって、客足もずいぶんよくなった。春になると、勇者たちも気分を新たに、今年もやっていこうと思うのだろうか。このところ、依頼を受けに来る連中も、やけに張り切っている。
空いたテーブルを片づけ、汚れたカップを桶の水につけて洗おうとしたとき、屋台の前から声をかけられた。
「店主さん?」
女の声だ。どこかで聞いた気がする。
顔を上げる。おや、この間の老人の娘じゃないか。わざわざここまで来たのか?
前掛けで手を拭き、そちらへ歩いていった。
「本当に、ここの店主さんなんですか?」
「見りゃわかるだろ。何か用か?」
女は俺を見て、それから屋台を見た。
「少し、ご相談したいことがありまして」
「ああ、それなら座ってくれ。ただ、何か頼んでもらうけど」
「はい。では、お茶を一杯お願いします。何でも構いませんので」
拭いたばかりのテーブルへ案内し、カップを取り出して茶を一杯注いだ。そのまま俺も、向かいの腰掛けに座る。
「それで、何の話だ?」
「父のことで……」
女はためらいがちに切り出した。
「ああ。話してみてくれ」
「父はクラムといいまして、以前は勇者ギルドに登録していたんです。事情があって、まだ若いうちに引退したのですが」
俺は黙って話を聞いた。
「歳を取るにつれて、物忘れがひどくなってきて……。私や兄のことまで、わからなくなるときがあるんです。でも、若いころ、勇者をしていたときのことは、いつも覚えていて」
そこまで言って、女は少し考え込んだ。それから、言い直す。
「いえ、覚えているというより……自分はまだ若くて、勇者も続けていると思っているんです。いつも鎧を着て出歩いて、行方がわからなくなったことも何度かあります。それに、ジェキとウェストという名前を、しょっちゅう呼んでいて。あと、レント村という場所のことを、とても気にしているんです。レント村へ行かなければ、魔物を討伐しなければ、と。村の名前をつぶやきながら、ひどくつらそうに、ひとりで泣いていることもあって……」
女はまた言葉を切った。続きを話す声に、苦しさがにじむ。
「ひどいときは、『レント村を救わなければ』と泣きながら飛び出そうとするんです。壁やテーブルに、自分で頭を打ちつけることまであって……。もう何度も頭にけがをしています。このままではいけないと思って……」
俺は最後まで話を聞いた。そこでようやく気がついたのだが、いつの間にか、茶を飲んでいた勇者たちまで周りに集まっていた。みんな、真剣に女の話を聞いている。
「つまり、親父さんは物忘れがひどくなって、今でも若いころのつもりでいる。それで、レント村ってところのことが、どうにもつらいんだな」
「はい、そうなんです」
「で、何で俺に話すんだ?」
遠慮のない言い方になったが、そうだろう。俺に何の関係があるんだ? 女はしばらく俺を見ていた。
「店主さんでしたら、ギルドや勇者の方々ともお知り合いでしょうし……。何か、父を助ける方法をご存じではないかと思いまして。もう、あんなにつらい思いをさせたくないんです」
「それなら、直接ギルドに行けばいいじゃないか」
「でも、私たちは……ただの平民ですし、依頼を出したいわけでもなくて。ただ、ご相談したいだけですから。いきなり行っても、相手にしてもらえるかどうか……」
「じゃあ、今から行って、受付でポカペラって子を呼んでもらえ。その子に話せばいい」
俺はきっぱりと言った。
「そうだ! ポカに話せば大丈夫だ!」
周りの勇者たちも、口々に賛成した。女はまだためらっているらしく、うつむいたまま返事をしなかった。
「だったら、こいつらに一緒に行ってもらえばいい。みんな勇者なんだから」
そう言って、さっきから話を聞いていた連中を見上げた。
「一緒に行ってやるよな?」
断らせるつもりはなかった。
「よし! 一緒に行こう」
女は感謝のこもった目で俺を見て、礼を言った。それから立ち上がり、勇者たちに囲まれてギルドへ向かった。
「おい! 金を払ってから行け! お前ら、先に茶代を払えよ、くそったれ!」
遠ざかる背中に向かって、俺は怒鳴った。
……
夕方、屋台を片づけて帰ろうとしていると、ポカペラが鍵をかけに出てきた。こちらをちらりと見る。
おや、今日は顔に表情があるじゃないか。
目をぎゅっと閉じ、唇をかみ、両手を握りしめている。俺より頭一つ低い、小さな体でそうしていると、かぶっている小さな丸帽子まで、怒りで震えて見えた。
「おじさん……私に、何か文句でもあるの?」
うっすら目を開け、鋭い目つきで俺を見る。
「いや、別にないけど? どうした?」
何でもない顔で答えた。ポカは歯を食いしばり、拳を握ったまま屋台に入ってくる。
「ないんだったら、どうしてあんなわけのわからない話、私に持ってくるの?」
「俺がどうしたっていうんだよ。あれはギルドが何とかする話じゃないのか?」
ポカは丸い目で俺をにらんだ。握った小さな拳が震えている。
「……お茶、入れて。今日はお金、払わないから」
「払わねえなら飲むなよ」
「お金取るなら、あの件、手伝わない」
「好きにしろよ。俺が頼んだんじゃねえし、俺には関係ないだろ」
ポカペラは黙って俺をにらんでいた。次の瞬間、俺の腰めがけて飛びかかってきた。前掛けから火竜白檀のひしゃくをひったくり、両端を握って、そのままへし折ろうと――
「あっ! あっ! お姉さん! お茶は冷たいのと温かいの、どちらになさいますか!」
笑顔はすぐに出た。折るなよ。俺の宝物なんだぞ。
うやうやしく茶を注いで差し出し、腰掛けも一つ持ってきて、座ってもらった。俺は荷車にもたれる。ポカは茶を飲んで、少し機嫌が直ったらしい。ひしゃくは、まだ返してくれない。
「午後に調べたんだけど、クラムっておじいさん、確かに登録してた戦士だった。引退したのは四十年以上前。そのころは、まだ結構若かったはずだけど」
「ひしゃく、返してくれ」
無視された。
「ジェキとウェストも、登録してた勇者。ジェキは魔法使いで、引退して故郷に帰ってる。ウェストは弓手。ずっと前に病気で亡くなってる」
「なあ、ひしゃく返してくれよ」
「レント村のことは、明日、昔の依頼記録を山ほどひっくり返さないとわからない」
そう言ってカップを置くと、ポカは俺に向き直った。顔にも声にも、脅しがにじんでいる。
「これ、あの件が片づいたら返す。それまでは、私の言うこと、全部聞いてもらうから」
「何でだよ? おい、何で俺が?」
「決まりね」
ひしゃくの柄をポケットに突っ込むと、そのまま帰っていった。
おいおい、堂々と人を脅しやがって。わかったよ。俺の負けだ。
翌日。
いつも通り商売をしていたが、あの大事なひしゃくがないと、どうにも調子が出ない。
午後、例の女がまた来た。そのままギルドへ入り、しばらくすると出てきて帰っていった。帰り際には、わざわざこちらに会釈までしてくれた。
夕方、屋台を片づけながら、腰掛けを一つだけ残しておいた。どうせまた、ポカペラが何やら話していくのだろう。案の定、仕事を終えて鍵をかけると、まっすぐこちらへ来て座った。今日はもう怒っていない。いつもの無表情に戻っている。
「お茶は?」当然のように催促された。「はいはい、ただいまお持ちします」茶を渡すと、ポカはカップを手に、ゆっくり話し始めた。
「レント村の報告が見つかった。当時、クラムはジェキとウェストと組んで、村の近くへ魔物討伐に出てた。相手はアンデッドと、オークシャーマン。三人ともB級に上がったばかりだったから、経験が足りなかったのかもしれない。討伐は失敗して、レント村に住んでた十八世帯が全滅した。その少し後に、クラムは引退してる。よほどこたえたんだろうね」
ポカペラの声には、何の感情もなかった。「事情はわかったわけだ。で、これからどうするんだ?」「知らない。規定どおり、引退したときに手当は出てる。それに、まだ若いうちに辞めてるし、けがで辞めたわけでもない。ギルドが老後の面倒まで見ることにはなってないから」
「じゃあ、これで終わりか?」「上には報告した。それで終わりのはずなんだけど……会長の性格を考えると、何か嫌な予感がする」
そう言って立ち上がり、尻を払った。帰るつもりらしい。「で、ひしゃくはいつ返してくれるんだ?」ポカは俺をちらりと見た。「全部終わったら返すって、言ったでしょ」
三日目は、何も起こらなかった。俺は俺で茶を売っていた。たまに思い出しては、ギルドがあの件をどうするのか考えてみたが、いくら考えても、いい答えは浮かばなかった。
四日目。まさかとは思ったが、考えてみれば無理もない。ポカペラの言った「嫌な予感」は、当たってしまった。
午後、まずクラム老人の娘がギルドに来た。その後、俺が忙しく立ち働いていると、ポカペラが表に出てきた。戸口に立ち、通りの向こうから、いつもの元気いっぱいの顔と声で呼びかけてくる。
「店主さーん! ちょっとギルドまで来ていただけますか!」
まずい。嫌な気分で布巾をテーブルに放り、手を拭いた。びくびくしながら、うつむいて通りを渡る。ポカに案内されたのは、一階の広間の休憩スペースにある丸テーブルだった。クラム老人の娘のほかに、何人か勇者が座っている。よく見れば、あの日、女についていった連中だ。
俺とポカペラが座ると、ポカは軽く咳払いをした。温かな笑顔で、やわらかく話し始める。
「皆さん、クラムさんの件はご存じですね。本日お集まりいただいたのは、会長と幹部の方々が、今回の件を特別な事例と考えていらっしゃるためです。かつて尽力してくださった勇者を、ギルドが今も大切にしていると示すためにも、クラムさんの心のつかえを取り除き、穏やかな老後を過ごせるようにしてほしい、と会長からお話がありました。必要であれば、ギルドから直接、指名依頼を出すこともできます。そこで、どうすればよいか、皆さんとご相談したいと思います」
実に熱心な顔で、声も鈴のようによく響く。ただ、奥歯をかみしめ、頬をぴくぴくさせているのが、俺にははっきり見えた。
「ギルドの皆様も、勇者の皆様も、本当にありがとうございます。父は昨日も、家でレント村のことを言いながら泣いていて、唇までかみ切ってしまって……。もし父の苦しみを取り除いていただけるなら、どうお礼を申し上げればいいか……」話しながら、娘の目にも涙が浮かんだ。
これで勇者たちは一気に張り切り出した。あちらからも、こちらからも意見が飛び交う。クラム老人を旅行に連れ出してはどうか。神官に頼んで告解を聞いてもらってはどうか。ギルドから何か賞を贈ってはどうか。いろいろ出るが、どれもあまり当てになりそうにない。
ポカペラは相変わらず熱心に聞いている。ただし、テーブルの下では、自分の太腿をずっと強くつねっていた。
俺は話に加わらなかった。案もなければ、俺が口を出す筋合いもない。そもそも、何で俺まで呼ばれなきゃならなかったのか、そこからしてわからない。
そのとき、誰かがふと言った。「いっそ、芝居を打ってみないか?」全員がそちらを向く。弓手だった。
「レント村を救わなきゃいけないと思ってるんだろ? だったら芝居を打って、村は無事で、自分が魔物を倒したんだと思ってもらえばいいんじゃないか?」
弓手は興奮気味に、自分の案を話した。みんな、悪くないと思ったらしい。
「でも、どうやるんだ? レント村はもうないんだろ?」
戦士の一人が尋ねた。弓手は勢いよく立ち上がると、思いついたばかりの妙案を、とうとうと語り始めた。
「いいか、クラム老人は記憶がいろいろ混ざってるかもしれないんだろ。まず二人、ジェキとウェストの役をやる奴を決める。その二人が誘いに行って、村人たちは無事だが、まだ魔物を倒さなきゃならないと言う。で、王都の外に地形の似た場所を探して、何人か魔物に化けるんだ。それをクラム老人に倒してもらって……」
俺は顔をこわばらせたまま、ポカと目を合わせた。向こうも同じ顔だ。今、考えていることは、間違いなく同じだった。おい、頼むからもう黙りやがれ。
「クラム老人が勝って、魔物は全部死ぬ。それからギルドに戻って、討伐を確認したことにする。これでいいじゃないか!」弓手はうれしそうに座った。
「いい! そりゃいい案だ!」声を上げる勇者がいた。ほかの連中もうなずいている。
「本当にそうしていただけたら、父もきっと救われると思います。本当に、ありがとうございます」クラム老人の娘は涙を拭いながら言った。
おいおい、俺とポカ以外、全員賛成かよ。どれだけ暇なんだ、こいつら。こんな大がかりなことをして、仕事はいいのか?だが、みんな拍手までして、それでいこうと言っている。もう、今さら止められそうになかった。
ポカペラはどうにか温かな笑顔を保ったまま、口を開いた。「では、この案をまとめて会長に報告し、ご意見を伺ってみますね。今日はここまでにして、続きはまた明日、ご相談しましょう。皆さん、ありがとうございました」
会長の承認に、最後の望みをかけているらしい。いくら何でも馬鹿げていると却下してくれれば、俺もポカも助かる。
その場は解散になった。俺も屋台に戻り、働きながら考えていた。頼むぞ、ウルフ。さっさと却下してくれ。こんなことになったら、俺まで何をやらされるかわかったもんじゃない。
夕方、いつものように腰掛けを残し、今日は茶まで先に注いでおいた。ポカペラは鍵をかけて来ると、座って茶を飲み干し、ため息をついた。一言も話さず、そのまま帰った。
五日目。午後、また呼び出された。同じ丸テーブルに、同じ顔ぶれ。全員が期待に満ちた目でポカペラを見ている。ポカは満面の笑みで言った。
「本日、会長のウルフ様から、昨日の案について直接お返事がありました。皆さんにもお見せしますね」
テーブルに置かれた公文書を取り上げ、にこやかにこちらへ向けた。そこには、こう書いてあった。
『実にすばらしい案だ。指名依頼の発令を承認する。確実に遂行すること。――ウルフ』
テーブルを囲む連中から歓声が上がった。ポカの手が、かすかに震えていた。
それからは、芝居の細かい段取りと役割分担を決めることになった。筋書きは、だいたい昨日の弓手の案どおりだ。ジェキとウェストに扮した二人がクラム老人を迎えに行き、レント村は無事だが、魔物はまだ討伐しなければならないと伝える。そのままルル門から外へ出るのだが、ギルドの前を通るとき、俺は屋台にいなければならない。当時と同じにするためだそうだ。適当な場所で、勇者たちが扮した魔物を倒してもらい、ギルドへ戻って偽の報告と確認を済ませる。それで終わり。
「ウェストも弓手だったんだし、俺がやるよ」言い出しっぺの弓手が、真っ先に自分の役を決めた。
だが、ジェキはどうする? 魔法使いなのに、このテーブルには一人もいない。そこで話が止まった。
「グリエルを呼べばいいんじゃないか?」何気ないふりで口を挟んだ。後から考えると、去年、魔法で無理やり犯人を捕まえに連れ出されたのを、どこかで仕返ししてやりたかったのかもしれない。
「グリエルか。確かに適役だけど、今はA級だぞ。来てくれるか?」
「でも、ほら……これって……ギルドの指名依頼なんだろ?」
また、何でもないことのように言ってみた。ポカペラが少し驚いた顔で尋ねる。
「店主さんは、グリエルさんと親しいんですか? どうして彼を?」
「いや、別に。たまに茶を飲みに来るくらいだよ。魔法使いだし、ちょうどいいと思ってさ」
少し後ろめたくなって、慌ててごまかした。しばらくして。グリエルがぶち切れた。
「何で僕が、こんな馬鹿げたおままごとにつき合わなきゃならないんだ! 誰か説明してくれ! 何で! 僕が! お前たちと! こんな馬鹿げたおままごとを! しなきゃならないんだ!」
訳もわからないまま呼び出されたグリエルは、事情を聞くと、法杖を握る手まで震えていた。指でしきりにテーブルを叩き、一言一言、かみつくように問い詰める。
「誰だ? 僕を呼ぼうって言い出したのは誰?」
「いや、その……店主が、君がいいんじゃないかって。それで、俺たちも君が一番だと思って……」
勇者の一人が、おずおずと俺を売った。グリエルが驚いて俺を見る。馬鹿を見るような目に、殺意まで浮かんでいた。実にわかりやすい。
ポカペラが明るく言った。「グリエルさん、今回は会長のご指示による指名依頼ですよ」
断れないとわかったグリエルは、腹立たしげにどすんと座った。勇者たちは、また細かい相談を始めた。ジェキとウェストの顔が記憶と違うとクラム老人に言われたら、どうするか。場所はどこにするか。誰が何をするか。ポカペラが出してきた当時の記録に合わせて、魔物の数や演じ方まで決めていく。
そこで、また問題が出た。肝心のオークシャーマンを、誰がやるのか。
何をそんなに困っているのか、俺にはすぐにわからなかった。弓手が説明してくれる。
「店主は魔物を見たことがないから、知らなくても仕方ないけどな。オークは人間よりずっとでかいんだ。普通でも七、八フィートはある。あの背丈と体格じゃ、ここにいる誰にもできない。でも、当時クラムたちを負かしたのが、そのオークシャーマンなんだ。こいつを抜くわけにはいかないだろ」
ああ、そりゃでかいな。ブロリンがまだいれば、あいつならできたかもしれない。そう思っていると、
「オークシャーマンなら簡単だよ。力のある人に、店主さんを肩車してもらえばいい。大きな胴体の張りぼてを作って、店主さんにオークのかぶり物をかぶせる。それで済むだろう?」
グリエルが、何でもないことのように言った。こちらを見ようともしなかった。
おい、仕返しはその場で済ませる主義かよ。「でも、お前らがルル通りを通るとき、俺は屋台にいなきゃならないんだぞ。忘れたのか?」
切り札を出した。「それも簡単だよ。クラムさんは歳だから、そう速くは歩けない。僕がルル門の外で少し遠回りしている間に、店主さんは屋台から討伐場所まで走ってくればいいじゃないか」
グリエルは、平然と仕返しの段取りを説明し続けた。「いいな。それでいける」
賛成する勇者が出た。ポカペラが、また少し驚いた目で俺を見る。本当に、親しくないんですか?そういう目だった。もう、何も言えなかった。
最後に、勇者たちから一つ質問が出た。本当に斬り合うのか、それともふりだけか。クラム老人が剣を振り回し始めたら、どうするのか。
「皆さん、ご安心ください。父の剣は何十年も研いでいませんから、もう刃が丸くなっているんです。今では、小さな動物さえ傷つけられないと思います」
娘の言葉で、決行は一週間後と決まった。皆、それぞれの持ち場へ散っていく。小道具を用意する者もいれば、王都の外へ場所を探しに行く者もいた。二日おきくらいに、勇者が茶を飲みに来たついでに、準備がどこまで進んだか教えてくれた。俺はさほど気に留めなかった。当日、言われたとおりにやればいいんだろう。
家に帰ってから、親父の残した配合の覚え書きを探してみたが、朦朧果バニラ茶の作り方は見つからなかった。仕方なく、記憶に残っている味をたどってみる。芝居を打つなら、茶までそれらしくしておくか。市場で朦朧果とバニラを買い、少しずつ配合を変えて試してみた。まあ、これなら何とかなりそうだ。
前日、例の弓手が茶を飲みに来て、場所も決まったと教えてくれた。王都の西門から二時間あまり歩いた、畑と森の境目だそうだ。レント村の周りによく似ているという。これで、準備はすべて整った。
当日。
朝早く、朦朧果バニラ茶をポット一杯分煮出し、いつもどおり商売をしているふりをして、屋台に座った。客の勇者たちも、今日の芝居に出る連中だ。
昼になる少し前、ルル通りの向こうに三人の姿が現れた。真ん中がクラム老人、左にグリエル、右にあの弓手。クラム老人の歩みは速くはないが、一歩一歩がしっかりしていて、ずいぶん元気そうだった。銀白の髪とひげが、日の光を受けてきらきら輝いている。
屋台の前まで来たところで、俺は朦朧果バニラ茶を一杯注ぎ、迎えに出た。
「よう、クラム。依頼か? 一杯飲んでから行けよ」
カップを差し出すと、クラム老人はにこりと俺を見て、受け取った茶を一口飲んだ。
「店主、この間飲んだのより、まずくなっとるぞ。何事も、きちんとやらんとな。手を抜いちゃいかんよ」
しみじみと諭され、俺はへらへら笑った。そりゃそうだろ。こっちは配合すら知らねえんだ。
「さて、店主。わしは魔物退治に行ってくる。帰ったら、またゆっくり話そうじゃないか。ジェキ! ウェスト! 行くぞ!」
クラム老人が手を振り、グリエルと弓手を連れてルル門へ向かう。屋台の勇者たちも、口々に無事を祈りながら手を振った。
「気をつけてな! 俺、来年結婚するから! 子供もすぐ作るからな! 安心しろよ!」
大声で呼びかけると、クラム老人は振り返って笑った。グリエルも振り返り、冷ややかに俺を一瞥する。
何だ。今の目。何で殺気がするんだ。
急いで店を畳み、屋台にいた勇者たちと足早にルル門を出た。辺りを見回したが、クラム老人たちの姿はない。そこからはさらに足を速め、畑と森の境目を目指して小走りに進んだ。
息を切らして着くと、すでに何人かの勇者が待っていた。アンデッド役の連中は、用意してあった白や灰色の泥を顔や体に塗り始める。少しでも青白く、薄汚く見せるためだ。
俺を待っていたのは、がっしりした戦士だった。たくましい両脚は緑色に塗られ、腰から上には薄い板を組んだ胴体の張りぼてをかぶっている。その上から獣の皮を掛け、正面には、前が見えるよう小さな穴が二つ開けてあった。
肩車をしてもらい、俺は張りぼてのてっぺんにある穴から頭を出した。両腕を出す穴もある。そこへ、緑に染めた豚の頭の皮を縫い合わせた、でかいかぶり物を頭からかぶせられた。豚の目の位置には穴が二つ開いていて、俺もどうにか前が見える。別の勇者から、法杖らしく彫った木の棒を渡され、着替えは終わった。
正直、こんなもの、数十フィートまで近づけば、一目で偽物だとわかる。だから、アンデッド役がクラム老人を引きつけて斬り合い、オークシャーマンは「ジェキ」が遠くから仕留める手はずになっていた。
全員の支度が済み、その格好での動きにもようやく慣れてきたころだった。互いのひどい姿を笑っていると、遠くに三人の姿が見えた。
途端に、皆が役になりきった。アンデッドの動きや姿勢をまねて、その場をゆらゆらとうろつき始めた。
俺は魔物なんぞ見たことがない。どうすりゃいいんだ。すると、下の戦士が小声で言った。
「店主、何か叫んでくれ。適当でいいから、低い声で」
「グオー! グオー! げほっ、げほっ」
「……喉がもたねえぞ、これ」
小声でぼやく。こんな鳴き方で合ってるのか。
遠くの三人が立ち止まり、こちらを見ていた。百数十歩は離れているだろう。真ん中のクラム老人はひどく興奮していて、「ウェスト」が何か話しかけている。誰がどの魔物を受け持つか、相談しているらしい。
やがて「ウェスト」が、こちらのアンデッドめがけて二本、矢を放った。わざと連中から少し離れたところを狙っている。それを合図に、アンデッドたちが動き出した。体を揺らしながら、クラム老人へ近づいていく。
クラム老人も剣を抜き、走り出した。だが、歳が歳だ。途中で一度、転んでしまった。剣を支えにどうにか起き上がると、よろめきながらも剣を掲げ、またアンデッドたちへ駆けていった。
そちらに気を取られていると、ドン!
すぐ脇、十フィートほど先で土煙が上がった。俺と下の戦士がそちらを向くと、地面には幅四フィートはありそうな浅い穴ができている。
目を凝らした。遠くでグリエルが法杖を掲げている。突然、その先から青い火の玉が飛び出し、一直線にこちらへ飛んできた。
ドン! 今度は十数フィート前の地面が弾け、また穴が開く。
おい、グリエル! てめえ、本気で撃ってんじゃねえか!
遠慮も何もあったもんじゃない。青い火の玉が、次から次へ飛んでくる。俺を担いだ戦士が、慌てふためいてあっちへこっちへ跳び回り、俺もその肩の上で揺さぶられた。だが、どこへ逃げても、火の玉は狙いすましたように、すぐ近くの地面で炸裂する。
「店主……あいつに、何か恨まれるようなことでもしたのか?」
下から震える声がした。
「死んだふり! 早く死んだふりしろ!」
もう生きた心地がしない。とにかく倒れろ。死んだことにしろ。
戦士は素直だった。俺がそう言うなり、ばたっと地面に伏せた。
おかげで、上にいた俺は思い切り叩きつけられた。かぶり物がずれて正体がばれないよう、慌てて手で押さえる。うつ伏せのまま目だけ上げると、どうやら死んだふりは効いたらしい。グリエルは撃つのをやめ、遠くからこちらを見ていた。
目だけを動かしてクラム老人の方を見ると、あの鈍った剣を手に、アンデッドたちと渡り合っていた。芝居のうまい奴もいれば、下手な奴もいる。だが、誰もがまず二、三合打ち合ってから、斬られて倒れ、死んだふりをするという段取りは守っていた。
クラム老人の足元はおぼつかず、剣を振るうのもやっとに見える。それなのに、倒れたアンデッドが増えるにつれ、体の奥から何かが湧いてくるようだった。立っているのも危なっかしいくせに、剣を振る力はどんどん強くなる。ついに、アンデッド役が全員、地面に転がった。
クラム老人はどうにか踏みとどまると、倒れたアンデッドに、一体ずつとどめを刺して回ろうとした。「ウェスト」が後ろから腰にしがみつき、ほとんど引きずるようにして、戦場から連れ出していく。
三人がまた一か所に集まったところで、クラム老人はがくりと膝をついた。
泣いているのか?
何か大声で叫んでいたが、遠すぎて、誰にも聞き取れなかった。
じいさん、そろそろ帰ってくれねえかな。こっちは全員、地面に伏せたまま、身動き一つできない。息まで殺してるんだぞ。
クラム老人は長いこと膝をついていた。やがて叫び声も収まり、「ジェキ」と「ウェスト」が両脇から支えて立たせる。三人は背を向け、その姿はゆっくりと、畑の向こうへ消えていった。
ようやく起き上がれた。互いの姿を見れば、ひどい有様だ。俺も、俺を担いでいた戦士も、魔法で巻き上げられた土ぼこりを全身にかぶっている。アンデッド役の連中は、足を引きずっていたり、服を脱いで、クラム老人の鈍い剣が当たったところを確かめていたりした。
「あのじいさん、容赦ねえな。思い切りぶん殴りやがって。あざだらけだぞ」
そう言った勇者の脇腹と腰には、くっきりと紫色のあざが二筋できていた。ほかの連中も、似たようなものだった。
「ずっと魔物を倒してきたが、まさか今日は魔物をやるとはな。これはこれで、なかなか気分がいいじゃねえか。はははは!」
快活な戦士が一人、そう言って笑うと、ほかの連中もつられて笑い出した。
「この後は、何の芝居だっけ?」
「三人でギルドに戻って、ポカが依頼の完了を確認するふりをして、グリエルに報酬の袋を渡す。それから二人でじいさんを家まで送って、おしまいだ」
「じゃあ、そろそろ帰ってもいいんだな?」
それから皆で、笑ったりしゃべったりしながら王都へ向かった。畑で種をまいている農夫たちが、妙な目でこちらを見る。
春の夕日が、ルル門を正面から照らしている。なぜだろう。今日の城門は、いつもより大きく、堂々として見えた。
芝居の翌日、クラム老人の娘が礼を言いに来た。参加した全員に、銀貨が一枚ずつ渡された。それきり、クラム老人には会わなかった。
後になって、「ウェスト」を演じた弓手に聞いてみた。あの日、じいさんは膝をついて、何を叫んでいたんだ?
弓手は少し笑っただけで、教えてはくれなかった。ただ、じいさんはあの芝居をすっかり信じていたという。レント村を襲った魔物を、自分が退治したのだと。
ポカペラも、ひしゃくを返してくれた。この件については、その後、一言も口にしなかった。
二か月後。
クラム老人の息子と娘が、またギルドの前に現れた。今度は二人とも黒い喪服姿だったが、その顔には、どこか満ち足りたような温かさがあった。
娘の話では、クラム老人が亡くなるまでの二か月間、繰り返し口にしていたのは、もう「レント村」ではなかった。代わりに、こう言っていたそうだ。
「ジェキとウェストのくそったれども、わしの報酬を盗みおった」




