第8話 S級魔導剣士 トラレンツ
結局、銀貨二枚のあの魔法薬草配合・体力回復・南方海塩仕立てワニ肉特大角パンは、銀貨一枚で売れた。買った勇者は得をしたつもりでいるし、俺も茶を十杯近く売った分の金が手に入った。それで木材を買い、屋台の周りに柵を作ることにした。また近くで喧嘩が始まっても、少しは食い止めてくれるだろう。血まみれの奴が、うちのテーブルまで吹っ飛んでこないように。
それから半月ほどして、王都中である噂が持ちきりになった。フィスター家の坊ちゃんが、食中毒で死んだという。聞いたときは、俺も一瞬ぼんやりした。それだけで、すぐにいつもの暮らしに戻った。
同じような日々を繰り返すうち、十二月も半ばになっていた。王都の湿った寒さに、道行く人も勇者も毛皮の上着を着込んでいる。人通りはずいぶん減り、勇者たちも用がなければ外へ出ない。うちの商売は、どうにか続けていける程度だった。少なくとも赤字にはなっていない。冬は毎年こんなものだ。それで十分だった。
ある日の昼、珍しく日が差していた。冷たく湿っていた空気も、日を浴びて少し乾いた感じがする。俺は新しく立てた柵の前にしゃがみ、支柱の根元を補強していた。ついでに背中もたっぷり日に当てておく。
そのとき、誰かが屋台に入ってきた気がした。足音は聞こえなかった。それでも、人が来たのはわかった。
屋台の空気が、少し変わったのだ。さっきまで何組かの客がしゃべっていたのに、その声がぴたりとやんでいる。その誰かが入ってきた途端、何もかもがふっと途切れたようだった。
補強した根元を手で念入りに押してから、ちらりと振り返った。確かに、見覚えのない男がテーブルについている。しゃがんだままだったので、顔まではよく見えなかった。
「ちょっと待ってね。これが済んだら、注文聞くから」
前へ向き直り、残りの支柱に取りかかった。
「ああ」
男は平坦な声で答えた。
ほかのテーブルでも、少しずつ話し声が戻ってきた。ただ、さっきよりずっと小さい。おしゃべりというより、どのテーブルも何かひそひそ話し合っているようだった。気にも留めず、俺は柵をいじり続けた。
「店主。急かすつもりはないけど、早くした方がいい。もうすぐ彼女たちが来る」
男の声は落ち着いたままだった。
「お待たせ。もうできたよ」
何を言っているのか、ろくに気にも留めなかった。どのみち、もうできたのだ。立ち上がって両手を前掛けで拭き、男の方を向く。そこでようやく、顔がはっきり見えた。
やっぱり、初めて見る男だった。よく見れば、繊細な顔立ちをしている。ただ、あまりにも血の気がない。顎は刃物で削ったように細く、角張っていた。鼻は高く、先が細い。大きくくぼんだ目にはひどい隈があって、ますます死んだ魚の目に見える。肩まで伸びた黒髪はぼさぼさで、体つきは普通だ。特にたくましくもない。
装備を見れば、勇者なのは間違いなかった。めったに見ない銀白色の胸当て、肩当て、腰当てを身につけ、胸には家紋らしい模様まで入っている。その上から熊の毛皮を羽織っていた。
だが、一番とんでもないのは、背中の剣だ。馬鹿でかい。しかも石でできている。
あれ、持ち上がるのか?
あまりに変わった格好だったので、俺は男の前に立ったまま、まじまじと眺めていた。
男も、あの気だるそうな死んだ魚の目で俺を見ている。
そこでようやく、失礼なことをしていると気づいた。
「悪いね。何にする?」
慌てて尋ねた。
「そうだな。熱いのを。地精草が入ってるやつで」
「あいよ。少々お待ちください」
湯を沸かしている台へ戻り、沸いたばかりの湯をカップに注ぐ。はちみつ地精草茶の大桶から、濃く淹れておいた茶を木のひしゃくで何杯かすくって加えた。
そうしている間にも、ほかのテーブルの勇者たちが、何ともいえない目で俺を見る。こっそり男を指さしている奴までいた。
ん? 何だ? 格好のほかにも、何か変なところがあるのか?
熱い茶を男の前に置く。一口飲むと、疲れが少し抜けたように、ほっと顔を緩めた。かと思えば、またわけのわからないことを言い出す。
「店主、あとでちょっと場を仕切ってもらえる? 騒ぎになるかもしれない。先に謝っとくよ」
「はあ? あんた、さっきから何を言ってるんだ?」
思わず顔を見た。
「うん。そろそろ来るころだ」
男がつぶやく。
「誰が?」
聞いたところで、ルル通りから大勢の走る足音が聞こえてきた。ルシエ広場へ、どんどん近づいてくる。
「トラレンツ様――! きゃあああ!」
石畳を蹴る足音に、叫び声まで加わった。
ぎょっとして振り返る。大勢の女が、うちの屋台めがけて走ってきていた。
「あそこ! トラレンツ様、あそこにいる!」
先頭にいるのは、三十代くらいの、ごく普通の町の女だった。だが、後ろの顔ぶれは実にさまざまだ。十代の娘から五十過ぎのおばさんまで。この寒さにまだ粗い麻布の服を着ている貧しい女もいれば、上等な毛皮にくるまった貴婦人もいる。
驚いて男を見ると、長いため息をつき、そむけた顔を片手で覆った。
あっという間に、屋台の周りは女たちで埋まった。
「トラレンツ様! トラレンツ様! こっち見て! こっち!」
「トラレンツ様! お願い! サインして!」
女たちは声の限りに叫んでいる。
場を仕切れって、これのことか? いったい何者なんだ、こいつ。
ほかの勇者たちも、そろって目を丸くしていた。魔物ならずいぶん見てきただろうが、こんなものはそうそう見たことがないらしい。
女たちが、補強したばかりの柵をつかんで揺さぶり始めた。先頭の女は、入口から中へ押し入ろうとしている。俺は前掛けのポケットに柄を差していた火竜白檀のひしゃくを引き抜き、女たちへ突きつけた。
「何だ! 何なんだ、お前ら! 商売の邪魔すんじゃねえ!」
「あの方が誰だか知ってるの!? 誰だか知ってる!?」
先頭の女が、俺に向かってわめく。
「うちの客だろ」
「何がわかるってのよ! あのトラレンツ様なのよ!」
いや、名前ばっかり叫ばれても。知らねえんだよ、そのトラレンツってのを。
俺がぴんと来ていないのを見ると、女は罵り始めた。
「このド田舎もん! 間抜け! 王国が誇るS級勇者、トラレンツ様よ!」
は? S級? 王国に二人しかいないんじゃなかったか?
驚いて振り返る。トラレンツは相変わらず、うつむいて片手で顔を覆っていた。ほかのテーブルへ目をやると、何人かの勇者が真顔で小さくうなずいた。
何だって? 本当に、あの伝説の勇者なのか?
「騒ぐな! 騒ぐなって! 並べ! 勝手に入ってくるんじゃねえぞ!」
ひしゃくを手に女たちを誘導し、屋台の前に一列に並ばせた。あれこれ指図して、ようやく列ができる。見れば、少なくとも三十人はいるじゃないか。
「静かにしろよ! 勇者様は静かなのがお好きなんだ! サインが欲しいんだろ? 一人銅貨五十枚! 俺に金を渡せ。代わりにもらってきてやる!」
列が静まった。勇者様は静かなのがお好き、が効いたのかもしれない。一人銅貨五十枚という値段にも、誰も文句をつけなかった。
待っているよう手で示し、トラレンツのテーブルへ戻る。まだ顔をそむけて手で覆っているので、かがんで耳元へ近づいた。
「なあ、サイン一つで銅貨五十枚。取り分は半々。どうだ?」
顔を半分だけこちらへ向け、鋭い目で俺をにらんだ。歯を食いしばり、頬の筋まで張っている。その歯の間から、ゆっくり声が漏れた。
「馬鹿か、お前。安すぎじゃねえか」
一瞬、固まった。何とも返しようがない。
「え? え? じゃあ……どうしましょう?」
「どうするも何も、もう言ったんだろ。今さらどうしろっていうんだ」
また歯の間から言葉を絞り出しながら、顔を覆う指の隙間から、外の長い列をちらりとのぞいた。
「五十枚のままで。俺が八、お前が二」
低い声できっぱり言われた。
頭の中で、さっと計算する。三十人以上。一人につき銅貨十枚しかもらえなくても、銀貨三枚にはなる。
「それでお願いします」
俺も力を込めてうなずき、列へ向き直った。
「トラレンツ様はお疲れですが、皆さんのためにサインをしてくださいます! 静かに、順番を守って、手早くお願いします! はい、先頭の人! 銅貨と、サインしてほしいものを渡してください!」
列に向かって、きっぱりと言い渡した。意外にも、女たちはみんな素直だった。うれしさを顔いっぱいに浮かべながらも、騒がずにサインしてもらうものを探している。
最初は、あの先頭の女だ。財布から銀貨を一枚取り出して俺の手に押し込み、少し恥ずかしそうに、小声で尋ねた。
「二つ、お願いしてもいい?」
「こほん。二つまでですよ。それ以上は駄目ですからね。トラレンツ様がお疲れになりますから」
わざと渋い顔をして、早く出すよう手を伸ばした。
女はハンカチと、凝った作りの小さな手帳を差し出した。俺は屋台へ戻り、棚から帳簿用のペンとインクを取り、まとめてトラレンツのテーブルに置く。トラレンツは慣れた手つきで、両方にさらさらとサインした。
ハンカチと手帳を女に返すとき、トラレンツはわざわざそちらを見て、にこっと笑ってみせた。
「ああぁ……」
女が気を失った。
その後のサインも、順調に進んでいった。差し出されるものは実にさまざまだ。ハンカチ、マフラー、手帳、髪を結ぶ帯、財布。何も持っていなかったのか、スカートの布を引き裂いて差し出す女までいた。
あと何人かで終わるころ、焼けつくような視線を感じた。慌てて顔を上げると、ポカペラがギルドの前の石段に立っている。いつも勇者に向ける、あのとびきり愛想のいい笑顔で俺を見ていた。
ぞくっとした。
おかしい。何かおかしい。俺にあんな顔をしたことがあったか?
よく見ると、唇が動いている。声を出さずに、何か言っているらしい。金を受け取りながら、必死にその動きを追った。
「夜、帰らないで」
もう一度、ぞくっとした。思わず小さくうなずく。それを見届けると、ポカペラはあの作り物の笑顔のまま、ギルドへ戻っていった。
やがて、女たちはみんな満足して帰り、屋台にはようやくいつもの静けさが戻った。
集めた金をトラレンツの前に積み、銅貨と銀貨を一枚ずつ丁寧に数える。銀貨十六枚、銅貨四百五十枚。俺の取り分は二割だから、銅貨四百十枚だ。
銀貨十六枚と銅貨四十枚をトラレンツの方へ押しやる。残った銅貨四百十枚は、木の銭箱に収まりきらなかった。仕方なく布巾を一枚取り、四隅を結んで即席の金袋にした。
おいおい。この短い間に、茶を三十杯売ったくらいの金が入ったぞ。真夏より、よっぽど儲かってるじゃねえか。
ほくほくしながら金袋を棚の下へしまった。トラレンツは相変わらず死んだ魚の目をして、顔色ひとつ変えずに自分の取り分を収めていた。
「店主、商売がうまいな。しばらく毎日ここに来ようと思うんだけど、どう?」
威厳も何もない、気の抜けた調子で尋ねてきた。
「毎日? そりゃありがたい! よろしくお願いしますよ!」
うれしくなって、手を上げてハイタッチを求めた。無視された。
「じゃあ、もう一つ儲け方を教えるよ。明日から、俺と同じテーブルで茶を飲める席を売るといい。一席、一日銀貨三十枚で」
「いくら? 銀貨三十枚? いくら何でも高すぎませんか?」
金額を聞いて、思わず声が跳ね上がりそうになった。トラレンツは死んだ魚の目で、横から俺を見ている。
お前、ほんとに何も知らないんだな。
そう言いたげな目だった。
「銀貨三十枚。このテーブルなら、俺のほかに五人座れる。合わせて銀貨百五十枚。お前の取り分は十枚」
「ちょっと待ってくださいよ。二対八って話じゃなかったですか?」
「欲しい? いらない?」
「欲しいです」
俺が即答すると、トラレンツはそれ以上何も言わず、勝手に茶を飲み始めた。
「あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
ちらりとこちらを見て、先を促す。
「王都には店も屋台もいくらでもあるのに、どうしてうちなんです?」
そこがどうにも気になっていた。
トラレンツは茶を一口飲み、ゆっくり飲み下してから答えた。
「王都に戻って、まだ何日もたってないからね。しばらくはギルドに顔を出すことになる。ここが一番便利なんだ」
「ああ、なるほど。じゃ、俺はほかの客のところへ行くよ」
話を終え、いつもの仕事へ戻った。ところが、ほかの勇者たちがみんな、臭い糞でも見るような目で俺を見ている。
ん? 金を稼いで何が悪いんだ? まったく、頭の固い奴ばっかりだな。
しばらくして、テーブルを拭いていると、背後から馬の足音が聞こえた。振り返れば、二頭立ての豪華な馬車が屋台の前に止まっている。車体には金銀の飾りが施され、木材も上等なものだった。窓には厚手の黒いカーテンが掛かっていて、中は見えない。
どこのお偉いさんがギルドに来たんだ?
そう思っていると、屋台側の扉が開いた。中には深紅の豪華な敷物が見える。そこから、甘ったるい吐息まじりの声が漏れた。
「レンツちゃあん?」
便所にたかる蠅の群れみたいな声が、耳へ潜り込んできた。頬をひっぱたかれながら、同時に柳の枝で足の裏をくすぐられているような気分だ。
こんな嫌な感じ、生きていてそうそう味わうもんじゃない。
一瞬で全身に鳥肌が立った。
「レンツちゃん、こんなところにいたの? ずっと探してたのよ」
白鳥の羽根で飾った毛皮の帽子をかぶった、厚化粧のおばさんが顔を出した。
吐き気をこらえる。何だ、この女は。こんなにねっとりして気持ちの悪い声が出せるものなのか。
「ああ。王都に戻ったら、ギルドには顔を出さないとね」
トラレンツは平然としていた。あの声を聞いても、まるでこたえていない。
「ギルドなんて、何が楽しいのよぉ。こんな汗臭い男たちに囲まれて。レンツちゃん、おうちに帰りましょう?」
まだ続く。耳の穴まで汚れていく気がした。
ほかの勇者たちは怒りに拳を握りしめたまま、黙っている。
「うん、帰ろう」
トラレンツは立ち上がり、銅貨を何枚かテーブルへ放ると、馬車へ向かった。
まず、背中の巨大な石剣を外す。少しも力を入れているようには見えない。そのまま馬車の屋根へ、そっと置いた。
途端に、車体ががくんと沈んだ。
急にかかった重みに、二頭の馬の後ろ脚がぐっと曲がった。何度か脚を踏み直し、ようやく体勢を立て直した。
トラレンツは車内へ乗り込み、扉を閉める前に俺へ目配せした。扉が閉まり、馬車は走り去っていった。
呆然としていた俺は、我に返って屋台へ向き直った。
勇者たちの目つきが、さっきよりひどくなっている。臭い糞を見る目どころじゃない。あとは鼻をつまむだけだ。
夕方、店を畳んだ。昼間のポカペラの口の動きを思い出し、すぐには帰らず、腰掛けを一つだけ残して、座って待つ。
ほどなく、ポカペラが出てきてギルドの扉に鍵をかけた。そのままこちらへ歩いてきて、腰掛けに座る。やっぱり、昼間のあの愛想のいい笑顔は全部作り物だ。いつもの無表情で俺を見ている。ただ、その目には、少し驚きと戸惑いが混じっているようだった。
「おじさん、どうしてあの人とつるんでるの?」
「ああ、トラレンツのことか?」
「うん。私だけじゃないよ。ギルド中、あの人が来て驚いてるんだから」
「何でだよ。S級だって勇者だろ? 何をそんなに驚くんだ?」
「おじさん、S級ってどういうことか、わかってる?」
「どうもこうも、勇者で一番上の級だろ? ほかに何かあんのか?」
ポカペラの目に、またあの嫌そうな、呆れたような色が戻った。ため息をひとつつく。
「あの人は王国中の憧れの的で、勇者なら誰もが目指す存在なの。勇者ギルドの顔でもあるんだよ」
ずいぶんご立派な話になったな。そこまでの奴だとは思わなかった。
「そんなにすごいのか? あんなしけた顔して、ギルドの顔だって? いくら強くたって、お前らの言うことは聞くんだろ?」
「おじさん、あの人は西大陸でたった一人の魔導剣士なんだよ。S級がどれだけ強いか、わかってないでしょ。百年以上前の英雄時代には、南の小さな国が、たった三人のS級に滅ぼされたこともあるんだから。そんな人、こっちでどうにかできると思う?」
ポカペラは真剣に言い聞かせてくるが、話が進むほど、ついていけなくなる。まるで想像がつかない。
三人で? 国を滅ぼした? 何だそりゃ。
「へえ。それで?」
ほかに何と返せばいいのか、わからなかった。
「は? 馬鹿なの? あの人、いつも外で冒険してて、一年に一、二回しか帰ってこないんだよ。せっかく帰ってきたのに、あんなことに付き合わせてどうするの?」
ポカペラは少し不機嫌になった。
いや、あんなことって何だ。俺が誘ったことになってんのか? それに、この言い方だと、ギルドはまだ知らないんじゃないか。レンツちゃんと、あの大金持ちのおばさんのことを。
顎をさすり、黙って考える。本当のことを話すかどうか迷っていたのだが、ポカペラは俺が反省していると思ったらしい。
「だから、また来ても、ああいうことに付き合わせないで」
きっぱりと言われた。
よし。半分だけ話して、あとは黙っておこう。俺のせいにされるのは御免だ。
銅貨五十枚では安すぎると言われたこと。取り分が二対八になったこと。明日からは一席銀貨三十枚で売ること。今日あったことを、一つずつポカペラに話してやった。ただし、最後に金持ちのおばさんが迎えに来た件は伏せておく。
聞き終えると、ポカペラはぽかんとした。よほど思いもよらなかったらしい。額に手を当ててしばらく考え、独り言のようにつぶやいた。
「お金に困ってるの? そんなはずないけど……。それに、お金がないなら、どうしてギルドで依頼を受けないの? おじさん、本当に嘘ついてない?」
「女神に誓う」
「女神、信じてたっけ?」
「信じてねえよ」
「じゃあ、何言ってんの」
「でも、嘘はついてねえよ。冬場にうちの屋台が少しばかり儲かったって、別に悪いことじゃねえだろ?」
信じたくなけりゃ、信じなくていい。そういう顔をしてみせた。俺は何も悪いことをしたつもりはない。
ポカペラは、また少し考え込んだ。
「じゃあ、この件はひとまず知らないことにしておく。会長に聞かれたら、そのときはそのとき」
立ち上がり、帰り際にもう一言、釘を刺した。
「でも、あんまり派手にやらないでね」
ポカペラが帰ると、俺はさっさと残りを片づけた。今日がっぽり稼いだ金を持って、ほくほくと家へ帰った。
翌日。
朝早くから屋台を出した。ひと通り準備を済ませると、木の看板に大きな字で広告を書く。
『英雄と同じテーブルでお茶を。一日銀貨三十枚。毎日五席限定』
書き終えて手をぱんぱんと払い、湯を沸かす。さあ、今日も商売だ。
昼前にトラレンツが来た。目の下の隈は、少しも薄くなっていない。先にギルドへ顔を出し、それからうちの屋台へ来て座ると、俺に目配せした。俺は書いておいた看板を、屋台の入口の外へ運んだ。
ほどなく、あの熱心なファンたちが、また大挙してやってきた。銀貨三十枚で同じテーブルにつけると知ると、今度は反応が分かれた。金のある女は我先にと財布を開き、ない女は焦って足を踏み鳴らす。泣き出す女までいる。
それでも、トラレンツの隣はあっという間に五人で埋まった。後から銀貨三十枚を出した女が、満席だと知って不満を言い始める。
「大丈夫! 明日はあんたが一番だ。真っ先に座ってもらうから、安心してくれ!」
俺は胸を叩いて請け合った。
その後は、いつも通りのサイン。一人銅貨五十枚。最後には、みんな満足して帰っていった。
そんな日が二、三日続いた。毎日、笑いが止まらないほど金が入ってくる。ギルドの連中も何も言わないし、あの豪華な馬車も、この何日かは姿を見せなかった。
そして、冬晴れのある午後。
トラレンツは同じテーブルの五人のファンと雑談し、俺は屋台の入口で列を整理していた。ギルドの扉が開き、ポカペラが元気よくこちらへやってくる。勇者に話しかけるときの、あの親しげで弾んだ声だ。
「トラレンツさん! それから、茶屋台の店主さん! 会長がお呼びですので、ギルドまでお越しください!」
屋台の前で少し体を横に向け、笑顔でこちらを見る。案内するつもりらしい。
え? 俺? 会長が俺にも会いたいって? 俺で合ってんのか?
トラレンツは俺をちらりと見て立ち上がった。あの巨大な石剣を背負ったまま、先に屋台を出ていく。ファンたちは、どうしていいかわからない様子で取り残された。
「店主さんも、どうぞ!」
ポカペラが楽しそうに言い、右手を差し出して俺を促した。
くそっ、怖えよ。
びくびくしながら屋台を出る。ポカペラが横についたので、声を思いきり落として尋ねた。
「何の用だよ? 何で俺まで?」
ポカペラは元気いっぱいの笑顔を崩さず、歯の間から言葉を絞り出した。
「あんまり派手にやらないでって、言ったでしょ」
屋台を継いで二十年以上になるが、勇者ギルドの中へ入るのは初めてだった。
広間には二十人あまりの勇者がいる。片側には受付のカウンターがあり、ポカペラとは別の職員が勇者と話していた。その隣の壁には、懸賞の張り紙みたいな羊皮紙がびっしり貼られている。あれが依頼を出す場所なんだろう。
反対側にはテーブルと椅子が置かれ、勇者同士で話ができるようになっていた。壁には勇者の肖像画がずらりと並んでいる。その中に、トラレンツの顔まであった。
ポカペラはそのまま三階へ案内し、大きな扉の前で足を止めた。脇の小さな札には『会長室』とある。軽くノックして、中から返事があるのを待ち、扉を開けた。
ウルフは大きな机の向こうに座っていた。背後には本棚。横の壁には、見事な手描きのソラニア西大陸の地図が掛かっている。机の上には、分厚い書類の山が二つ、きちんとそろえて置かれていた。
ウルフは笑顔で迎え、向かいの椅子を勧めた。
おっかなびっくり腰を下ろし、トラレンツを横目で見る。何も気にしていない、相変わらずのしけた顔だ。
「トラレンツさん。それから、こちらの……ええと、茶屋台の店主さん。今日は、お二人に話があって来てもらいました」
ウルフは机に両手を置き、真顔になった。
悪さをして、大人に叱られるのを待つ子供みたいな気分だ。いつの間にか、両膝がぴったりくっついていた。
「あと数日で新年ですね。ギルドでは例年通り、新年の宴会を開きます。トラレンツさん、ぜひ出席してください」
ウルフの口調は真剣だった。
ほっとした。こっぴどく叱られるかと思っていたのに、まるで予想もしない話だった。トラレンツは何も言わず、うなずきもしない。ウルフはそのまま続けた。
「あなたに会いたがっている勇者も大勢います。当日は皆の前で、これまでの経験を話してもらえませんか。きっと、皆にとって大きな励みになるでしょう。それから、年越しの花火も、ぜひお願いします」
「うん、出るのはいいけど。演説とかは面倒だから、原稿はそっちで書いてくれていいよ。それで、俺には何が入る?」
トラレンツは、単刀直入に聞いた。
「もちろん、ただでお願いするつもりはありません。花火の分も含めて、報酬は金貨五枚を用意しています。一件の依頼として、引き受けてもらえませんか」
ウルフも、ちゃんと金を積んできた。
金貨五枚! おいおい、金貨五枚だぞ! 飯食って、ちょっとしゃべって、花火を見るだけで!
「店主さん」
呼ばれて、慌てて顔を上げた。
「宴会当日は、少なくとも五十人に十分行き渡るだけの茶と菓子を用意してもらいたいのです。報酬は銀貨八十枚。それでお願いできますか」
頭の中で、ものすごい勢いで勘定が始まった。五十人にたっぷりってことは、一人せいぜい四杯。合わせて二百杯。普通に売ったって、銀貨二十何枚にしかならねえ。そこに菓子の仕入れを足したとしても……。
おいおい。ギルド、ずいぶん儲けさせてくれるじゃねえか。
「あの、麦酒とか、食い物の方は?」
おそるおそる聞いてみた。
「そちらはこちらで手配しますので、茶と菓子だけお願いします」
ウルフが少し不機嫌な顔をした。
「はい、引き受けます!」
うれしくて、即答した。
「では、お二人とも、今日からは新年の宴会の準備に、もう少し力を入れてください。店主さんは、もう戻って構いません。トラレンツさんとは、まだ少し話がありますので」
ウルフに退出を促され、俺はにこにこしながら立ち上がった。手を上げて挨拶し、部屋を出る。扉が閉まりきる前に、隙間からウルフの声が聞こえてきた。諭すような口調だった。
「何か困っていることがあるなら、どうかギルドに話してくださいよ……」
屋台へ戻ると、誰もいなかった。ファンたちはすっかり帰ってしまっている。この二、三日、あっちの商売ばかりにかまけて、肝心の茶の方がおろそかになっていた。いつもの客も、あまり来なくなっている。
腰を下ろし、菓子をどこの店から仕入れようかと考えていると、トラレンツもギルドから出てきた。屋台へ戻り、俺の向かいに座って、ため息をつく。
「はあ……会長もずるいよね。あの商売、もう続けられないよ」
「あの、一つ聞いてもいいですか。ちょっと気になっただけなんですけど」
トラレンツは首を傾け、ちらりと俺を見た。先を促されたので、続ける。
「そんなに強いのに、どうしてまた冒険に出て稼がないんです?」
ぼさぼさの長い髪をかき、俺を見る。
「冒険? 何の冒険?」
何だ、その質問は。
「ほら、壁に貼ってあるやつ。AとかBとか。森とか、迷宮とか、魔物とか。ああいうのだよ」
「あんなの、冒険にもならないよ。金持ちのおばさんの屋敷にいる方が、よっぽどスリルがある」
こちらへ向き直り、テーブルに両手をついて身を乗り出す。何もかも知り尽くしたような口ぶりだった。
「え? でも、一年中、外で冒険してたんだろ? 冒険から帰ってきたばかりだって、ギルドの連中が言ってたぞ」
「実は、夏の間ずっと暖陽海で釣りしてた」
トラレンツは頭をかいた。
ええと……言葉が出ない。
「じゃあ、秋は?」
「秋? まず教廷国へ観光に行って、聖山を見てきた。それから、ヘルレン帝国の都、リンドヒルへ。あそこ、カジノが多いんだよ」
顎をつまみながら思い返す。カジノのところだけ、わざわざ声を落とした。
「それで?」
「それで? 全部すっちゃったから、帰ってきた」
何でもないことのように笑った。
これが、ポカの言うギルドの顔。王国の憧れの的。
釣り人、観光客、博打打ち。
開いた口がふさがらない。ずいぶん盛りだくさんの人生だな、おい。博打ですっからかんになって帰ってきて、金持ちのおばさんをつかまえ、俺と一緒にファンから金を巻き上げる。
いや、正直、ちょっとうらやましくもある。
だが、これは絶対にポカには言えない。
「ははは……この何日か、ずいぶん儲けさせてもらって。ありがとうございます」
笑い方はぎこちなかったが、礼は本心だった。
「いいよ。また機会があったら、一緒に稼ごう」
トラレンツの死んだ魚のような目が、細い線になった。口元でも、へへっと笑っている。
王国暦二三七年、十二月三十一日。
王都の通りには新年を祝う色とりどりの帯が渡され、ルシエ教会から響く聖歌が広場を満たしていた。昼、俺は茶の桶を満載した荷車を引いていった。後ろには、菓子を運ぶために雇った荷車が二台続く。
ギルドの一階には、長いテーブルが何台も並べられていた。五十人はゆうに座れる。壁も、新年の飾り帯でいっぱいだ。
壁際に用意された料理台へ、茶と菓子を並べていく。ケーキ、ゼリー、果物のパイ。甘い匂いに茶の香りが混じり、腹が減ってくる。
入口ではポカペラと何人かの職員が、やってくる勇者を元気いっぱいに迎えていた。グリエルが来た。あの刺客も来た。屋台で見慣れた顔が、みんなそろった。
夕方になると、ウルフが短く挨拶をした。それからトラレンツが壇上へ招かれ、盛大な歓声が上がる。
職員が原稿を一枚渡すと、トラレンツは感情たっぷりに読み上げ始めた。俺に話していたこととは、まるで別の話だ。
年かさの勇者が、何度もうなずいている。若い勇者の目には、きらきらと光が宿る。ポカは馬鹿を見るような目で、俺をひとにらみした。
俺は小さく舌を鳴らした。
広間には肉の匂いが満ち、あちこちで乾杯の声が上がった。椅子に立って歌う奴もいれば、もう酔いつぶれた奴もいる。グリエルはしらふで、ウルフと何か話していた。周りでは、誰も彼もが話に花を咲かせている。
夜が更け、皆でルル通りへ出た。
ウルフが月の位置を確かめる。誰もが息をひそめ、そのときを待っていた。
ルシエ教会の鐘が鳴り響く。
「あけましておめでとう!」
ウルフが真っ先に声を上げた。
「あけましておめでとう!」
皆が続く。杯を掲げ、肩を抱き合い、声を合わせて歌い出す。
夜空に、鮮やかな花火が開いた。色とりどりの光が人々を照らし、歓声がひときわ大きくなる。
空に残る光の尾を、下へとたどっていく。
勇者ギルドの屋根の上に、トラレンツが立っていた。
右手には巨大な石剣。何もない左手に、色とりどりの火の玉が生まれる。トラレンツは石剣を思いきり振り抜き、その火の玉を夜空高く打ち上げる。
どん、と響いて、また一輪、鮮やかな花火が開いた。




