第七章 B級戦士 オリアナ
うちの屋台から少し行ったところに、パン屋がある。切り盛りしているのは、俺よりいくつか年上のおかみさんだ。その目には、俺もかなわない商売人の抜け目なさがある。うちと同じで、客はほとんど勇者。あそこでパンを買い、うちで茶を一杯頼めば、それで昼飯になる。依頼に出る前に、道中の食料としてまとめ買いしていく連中もいる。ただ、王都の西区でも値段は高い方なので、俺はめったに買わない。昼飯を持ってくるのを忘れ、どうにも腹が減ってたまらないときに、たまに世話になるくらいだ。
今日が、まさにそれだった。昼飯を忘れたうえに、朝は寝坊して、店を出すのに大慌て。朝飯さえろくに食っていない。もう腹が減ってどうしようもなかった。金箱から銅貨をいくらか取り出してポケットに入れ、客の少ない隙を見計らって、ぺこぺこの腹を抱えながら小走りでパン屋へ駆け込んだ。
しばらく来ないうちに、ますます勇者好みの店になっている。壁には紋章入りの盾やら剣やらが描かれ、反対側には、妙にかわいらしいスライムやゴブリンといった下級の魔物。入口の内側まで木切れと蔓でぐるりと飾ってあって、知らずに入れば洞窟にでも来たかと思いそうだ。飾りつけの趣味は変だが、店に入ったとたん、濃い酵母の香りに、いろんなパンの香ばしい匂いが重なって鼻に届く。腹がぐうと鳴った。
カウンターの値札に目を落とす。おいおい。
はちみつイノシシソーセージ特大パン――銅貨六十五枚
チョコ入り地精草丸パン――銅貨四十八枚
ガチョウ肉と焼きジャガイモの具入り棒パン――銅貨五十五枚
さらに、とんでもないものがあった。別のカウンターには、こう書いてある。
本日の特別メニュー
魔法薬草配合・体力回復・南方海塩仕立てワニ肉特大角パン――銀貨二枚
おい、パン一つで銀貨二枚だと? それどころか、普通のパン一つでさえ、俺の午前中の稼ぎが吹っ飛ぶ値段だ。ただ、ぼったくりとも言い切れない。どれも俺の顔くらいはあるし、今年の秋は作物の出来が悪く、穀物の値段も少し上がっている。高いには高いが、そもそも俺みたいな平民が食うものじゃないんだろう。カウンターの向こうでは、おかみさんが座ったまま俺を見ていた。いつまでも選ぶばかりで買わないので、だんだん機嫌が悪くなってきている。
買うにも買えず、そのまま出ていくのも気まずい。どうしたものかとパンを眺めていると、扉が開き、次の客が入ってきた。振り返る。おや、オリアナじゃないか。
オリアナは勇者ギルドの戦士で、確か……B級だったか? 誰だったか、うちの客がそんなことを言っていた。オストランドの勇者ギルドには、女の勇者もけっこういる。ただ、大半は魔法使いや弓手で、刺客もちらほら。戦士になる女はめったにいない。そのうえ、オリアナは大柄でも筋骨隆々でもなく、王都の通りを歩いていれば、いくらでも見かけそうな普通の女の体つきだった。腰にはごく普通の大きさの剣。背中には長方形の鋼の盾。小さめの目は生き生きとしていて、頬にはそばかすがある。話しながらよく笑う。それが、俺の知っているオリアナだ。
女の勇者は、たいていうちの屋台に寄りつかない。狭いうえに汗臭く、鎧や武器の錆の臭いまで混ざっている。俺でさえ、いい匂いとは思わない。だが、オリアナは来る。そうしょっちゅうではないが、それでも月に三、四度は、いつも一緒に依頼に出ている仲間たちと茶を飲みに来るので、よく覚えていた。
「あれ、店主さんじゃない! ここでパン買うの?」
俺を見つけたオリアナが、うれしそうに声をかけてきた。
「ああ……朝飯もろくに食ってなくてな。昼飯まで忘れちまって、腹が減ってしょうがないんだ」
俺は照れ笑いを浮かべた。
「だったら、このイノシシ肉のパンがおすすめ。中の肉がおいしいんだよ。それから、疲れてるならチョコ入り地精草の方。けっこう元気が出るから……」
オリアナはパンを指さし、次々にすすめてくれる。ずいぶん詳しいな。よっぽど買いに来てるんだろう。だが、こっちには金がない。気まずく笑うばかりで、ろくに返事もできなかった。ひと通り紹介してもらったところで、俺はまだ笑い顔のまま、カウンターの向こうのおかみさんを見る。
「おかみさん、正直に言うと、そんなに金がないんだ。もう少し安くて、量も平民向けのパンはないか?」
自分で言っていて情けなくなった。おかみさんはしばらく横目で俺を見ていたが、ぷっと吹き出した。
「あんた、ずいぶん正直に言うね」
「母さん、焼きジャガイモとガチョウ肉のパン、半分にしてあげて。銅貨二十五枚で。残りは私が昼に食べるから」
オリアナが、いきなりそんなことを言った。
俺は驚いて彼女を見た。ここの娘だったのか?
オリアナは手早く盾と剣を外すと、するりとカウンターの奥へ入り、おかみさんの手伝いを始めた。おかみさんはガチョウ肉と焼きジャガイモのパンを一つ取り出し、まな板の上でさっと半分に切った。見事に同じ大きさだ。片方を紙に包んで俺に渡し、もう片方をオリアナへ回した。
いや……銅貨二十五枚でも、まだちょっと高いんだが。まあ、いいか。せっかくオリアナが助け舟を出してくれたのに、これ以上ごねるのも悪い。銅貨を二十五枚払い、店を出るのも待てず、その場でかぶりついた。
うまい。
なるほど、高いだけのことはある。外はさくっとして、中はふわふわ。そこへ焼きジャガイモの香ばしさと、ガチョウのもも肉からあふれる肉汁が加わる。一口で生き返った。
「あんた、勇者ギルドの向かいで茶の屋台をやってる人だろ? 何度か見かけたことがあるよ」
おかみさんが笑いかけてきた。
「ああ。オリアナにはよく茶を飲みに来てもらってる。おかみさん、ここのパン、ほんとうまいな」
俺は口をもぐもぐさせながら答えた。
「気に入ったなら、たまにはこっちにも買いに来てね、店主さん」
焼きたてのパンをカウンターに並べながら、オリアナが笑う。
口では「ああ、ああ」と返事をしたが、たまになら、まあ何とか。しょっちゅうは、とても無理だ。
パンをかじりながら屋台へ戻る。さっさと茶を何杯か売って、パン代を取り戻さねえとな。
茶を飲んでいた勇者たちが、戻ってきた俺の手元を見て笑った。
「おっ、店主もあそこのパン食うんだな」
「ああ。昼飯を忘れちまったんでな。一つ買ってみた」
「今度、一番高いの食ってみろよ。あれは間違いなく王都一だぞ!」
「ふざけんな! あの魔法回復ワニ肉パンとかいう、一つ銀貨二枚のか? お前が買ってくれんのかよ?」
腹が立つのを通り越して、笑えてきた。
「いや、依頼に出るときはさ、あそこのパン食うとほんとによく効くんだよ」
そいつはまだ、へらへら笑いながら言う。
「そりゃそうだろ! お前らはあれ食って、魔物をばったばった殺してくりゃいい。俺は食って誰を殺すんだよ? お前らか? お前らに勝てんのかよ!」
屋台が、どっと笑いに包まれた。
日に日に寒くなり、ようやく冬の始まりらしくなってきた。
通りから穀物を積んだ馬車がほとんど消え、代わりに、冬に備えて城外から薪を運び込む人が増えた。道行く人も、厚手の上着を着込むようになっている。うちの客は減り、汗の臭いは毛皮の臭いに変わった。相変わらずなのは、武器と鎧の鉄錆の臭いだけだ。
ある日の午前中。
温かい茶を多めに仕込もうと湯を沸かしていると、ルル通りの方が急に騒がしくなった。
「喧嘩か?」
顔を上げる。百歩ちょっと先で、通りの真ん中に人が集まり始めていた。
またしても、体が勝手にそっちへ向かいそうになる。だが、前に金を盗まれたときの痛みがよみがえった。そこで俺は決めた。
先に金箱の鍵をかけてから、見に行こう。
木の棚へ駆け寄り、布をめくる。小さな木の金箱の横に置いてある南京錠――盗まれたあとで買ったものだ――を取りつけ、かちりと閉じた。両手を前掛けで拭き、茶を飲んでいる勇者たちに振り向く。
「ちょっと店を見ててくれ」
これで安心だ。俺は人だかりへ駆け出した。
まだ着かないうちから、通りの真ん中で怒鳴る声が聞こえてくる。
「何様のつもりだ! てめえごときが俺の邪魔しやがって!」
人垣をかき分けると、五人の男が、一人を半ば取り囲んでいた。真ん中にいるのが親玉らしい。上等なビロードの上着に、金糸の刺繍で埋め尽くされた上等なズボン。足元はぴかぴかのワニ革のブーツだ。いかにも金持ちの息子といった格好だった。両脇の四人はいかにも取り巻きで、身なりはそう悪くないが、短刀などの武器を持っている。
向かい合っているのは、若い娘を背にかばった戦士だった。腰に剣、背中には長方形の鋼の盾。
あれ? オリアナじゃないか。
オリアナは片手を後ろへ回して娘をかばい、しっかりと踏みとどまって五人を見据えていた。
「誰か、治安兵団を呼んできて」
周りに声をかけると、一人がすぐに走っていった。
五人が一歩詰め寄る。ますます図に乗っている。
「お前が誰だろうと知ったことか。その女は俺の婚約者だ。今日は何が何でも連れて帰る」
ビロードの男が、オリアナにすごんだ。
「この子は、そんな約束はしてないって言ってる。私はこの子を信じる」
オリアナの声は落ち着いていた。目にも、引く気配はまるでない。後ろの娘は、ぶるぶる震えている。
「今日は手荒な真似はしたくないんだ。その女を渡せば、お互い何事もなく帰れる。嫌だってんなら、お前も一緒に連れてくしかねえな。ちょうどこいつらも、夜の相手をする小娘が欲しかったところだ。へへへ」
ビロードの男が下卑た笑みを浮かべた。取り巻きの四人もにやにやしながら、短刀の柄に手をかける。
オリアナは声を荒らげもせず、連中をじっとにらんでいた。それだけで、近寄りがたいものがある。
「自分の力もわからないなんて、哀れね。でも、今日は誰も傷つけたくない。この子は渡さない。わかったら、さっさと消えて」
冷たい声だった。
「俺に消えろってか? はははは!」
ビロードの男も取り巻きも、さっきより大きな声で笑い出した。
「おい、姉ちゃん。フィスター家って聞いたことあるか?」
一人が進み出て、親玉の家名を持ち出した。
人垣にざわめきが広がり、ため息が漏れた。確かに、この王都でフィスター家を知らない奴はいない。王族でも貴族でもないが、ブル区の商売を牛耳る大商家だ。王都でも、そうそう逆らえる相手じゃない。こんな西区の通りで堂々と悪さをしているのが、そこの息子とはな。
オリアナがため息をついた。
「あれだけの大商家から、どうしてあんたみたいなのが出てくるのかね」
振り返って周りを見渡し、俺に気づくと、ぱっと目を輝かせた。後ろの娘を、こっちへ押し出す。
「あ、ちょうどよかった。この子、見ててくれる?」
少し笑った。
娘はそのまま俺の背後へ隠れ、両肩をつかんで向こうの様子をうかがう。心臓がどきどきしてきた。俺は見物に来ただけだぞ。何でまた俺まで巻き込まれてるんだ?
オリアナは、ようやく自由に動けるようになったらしい。剣は抜かず、背中の鋼の盾だけを外して左手に持ち、首を軽くひねった。たちまち迫力が増す。
「ほら、やりたいならさっさとかかってきな。こっちからは手を出さないから。あんたたちみたいなろくでなしと、城外の魔物。どっちが手ごわいか、見せてもらおうじゃない」
フィスター家の息子が手で合図すると、四人が短刀を抜き、足早に間合いを詰めた。始まった。
四人が入れ替わり立ち替わり斬りかかる。オリアナは本当に手を出さず、盾を構えたまま身をかわし続けた。別の方から回り込もうとする奴がいれば、すっと下がるか、盾で押し返す。連中はいくら短刀を振り回しても、彼女を取り囲むことさえできず、刃はことごとく空を切った。
戦士なのに、どうしてほかの連中みたいに大柄でも筋肉だらけでもないのか、前から不思議だった。なるほど、オリアナがB級になれたのは、腕力じゃなく、戦い方のうまさなんだ。涼しい顔で四人を手玉に取っているが、連中はもう息を切らし始めていた。
とうとうフィスター家の坊ちゃんが怒鳴り声を上げた。取り巻きの一人から短刀をひったくり、一気に踏み込んで突きかかる。オリアナは盾で軽く弾き、ひらりと身をかわした。
男が振り向きざま、やたらめったら斬りつける。今度はオリアナもよけなかった。盾で受け止め、その足を引っかけると、坊ちゃんは地面にどさりと倒れた。ビロードの上着が土まみれになる。
「まだやる?」
オリアナが、足元の男を見下ろした。
男は怒り狂って跳ね起き、落ちた短刀を拾って、また振り下ろそうとした。
そのとき、人垣が割れた。治安兵団だ。
「全員、やめろ!」
またあの小隊長だった。大声で一喝すると、兵たちが素早く動き、長槍を突きつけて四人の取り巻きを押さえた。ほかの数人が、フィスター家の息子とオリアナを囲む。
「隊長! その勇者は手を出してない! 見てたから証言できるぞ!」
人垣から声が上がり、あちこちで「そうだ」と続いた。
小隊長が周囲を見回す。俺を見つけると、目を見開いた。
何でまたお前がいるんだ。
そう言いたげな目だった。いや、俺は関係ないぞ。今度こそ、本当に関係ない。俺は必死に手を振った。
ずっと背中に隠れていた娘が、ゆっくりと前へ出た。手はまだ震えている。
「隊長さん、あの人、少し前から何度もしつこく付きまとってきて……。今日はあの人たちが押しかけてきて、私を連れていこうとしたんです。この勇者の方が助けてくれました」
娘は落ち着いた声で、事情を説明した。小隊長は真剣に聞き終えると、後ろの兵に命じた。
「全員、連れていけ」
それからオリアナと娘を見る。
「あんたたち二人も来てくれ。事情を聞きたい」
もう一度、周囲を見回した。
「ほかにも証言してくれる者はいるか? 一緒に来てくれ」
そう言って、小隊長は娘とオリアナも連れていった。何人もの平民が、進んで証言を申し出て、そのあとについていく。
人垣がほどけ、俺も屋台へ戻ろうと振り返った。
オリアナの母親がいた。人垣の一番外で、一部始終を見ていたらしい。見るからに気が気でない様子で、顔にも動揺が浮かんでいた。
「おかみさん、大丈夫だよ。落ち着いて。ひとまず店に戻ろう」
「そんなこと言ったって、落ち着いてなんかいられないよ。あの子、大丈夫だろうね?」
心配でたまらないらしい。俺は付き添って、ゆっくりとパン屋へ歩き出した。
「あの隊長は、そう悪い人じゃない。それに、あれだけ大勢がオリアナのために証言しに行ってくれたんだ。な?」
おかみさんの肩を軽くたたき、そのまま店まで送り届けた。
店に入ったとたん、おかみさんの話が止まらなくなった。おいおい。
「まったく、あの子ったら。勇者になるって言い出したときも、いくら止めたって聞かなくてね。そのうち、もういいかって思うようになったんだよ。外で危ない目に遭ってたって、こっちには見えないんだから。本人が好きなら、好きにさせとこうって……」
「おかみさん、俺、そろそろ……」
「あんただって、その歳ならわかるだろ。娘が目の前であんなことになって、平気でいられる母親なんていないよ……」
「おかみさん、うちの店が……」
「あの子は小さいころから父親がいなくてね。ずっと、あの子と二人でやってきたんだよ……」
「……おかみさん、パンを一つもらえるか。食いながら聞くよ」
もうお手上げだ。二度も帰ろうとしたのに、口を挟む隙がない。ここまで心配しているのを見ると、置いていくのも気になる。ちょうど腹も減ってきた。
「お代はもらうよ」
おお! 商売人だ! 何があっても商売人だ!
「払うよ。半分にしてくれ。前に食った、あのガチョウ肉のやつ。今、金を持ってないから、あとで届けるよ」
おかみさんは俺をちらりと見て、しぶしぶパンを取り出した。半分に切って、手渡してくれる。かぶりつくと、うん、やっぱり肉のうまみが口いっぱいに広がる。
「で、続きは? 聞いてるよ」
「どこまで話したっけね。ああ、あの子には小さいころから父親がいなくて、ずっと、あの子と二人でやってきたって話だ」
「父親はどうしたんだ?」
口いっぱいの焼きジャガイモとガチョウ肉を飲み込んで、俺は尋ねた。
「あの子が生まれてすぐ、病気でね。死んじまったんだよ。はあ……小さいころから、よく気のつく子でね。私がパン屋を始めてからは、ずっと手伝ってくれてる。勇者向けに高いパンを作って売ろうっていうのも、あの子が勇者になってから言い出したことなんだ。最初のお客も、あの子がギルドから連れてきてくれたんだよ」
「へえ。何で勇者になろうと思ったんだ?」
「小さいころから好きだったんだよ、勇者の話を聞くのが。魔王戦争だの、英雄の時代だのね。大きくなると、父親にできなかったことを自分が代わりにやるんだって言い出してさ。それから毎日、自分で体を鍛えて、勇者になっちまった」
話しているうちに、おかみさんもだんだん落ち着いてきたらしい。いつの間にか、俺を昔なじみか何かのように相手にして、世間話をしている。
「じゃあ、父親も勇者だったのか?」
「勇者なもんか。博打ばっかりやってた男だよ。正直、今も生きてたら、どれだけひどい暮らしになってたことか」
おかみさんは呆れたように目を上へ向けた。
そういうこと、よそ者に話していいのか? まあいい。聞かなかったことにしよう。
そのあとも少し話していると、そう時間もたたないうちにオリアナが戻ってきた。治安兵団の方は、すんなり済んだらしい。扉を開け、店にいる俺を見ると、ちょっと驚いた顔になった。
「あれ、店主さんもいたんだ。母さんと話してたの?」
「ああ。さっき、おかみさんが心配してたんでな。無事に戻ってきたならよかった。じゃ、俺はそろそろ屋台に戻るよ」
「あら、今日は店を開けてたのかい?」
おかみさんまで、きょとんとしてそんなことを聞く。
当たり前だろ! 当たり前だろ! あんたのパン屋は開いてても、俺の屋台は休みだってか? 俺は暇を持て余して、通りをぶらついて喧嘩でも探してるとでも思ったのか? あんたは立派な商売人で、俺は違うってのか!
俺は引きつった笑いを浮かべ、うなずくしかなかった。
「ああ、それは悪かったね。早く戻りな。パンのお代、忘れずに届けておくれよ」
おかみさんが立ち上がって見送ってくれる。
俺はすぐに出口へ向かった。オリアナとすれ違うとき、耳元で小さく言う。
「母さんの話、もう少し聞いてやれよ」
オリアナは、意外そうな、少し不思議な笑みを浮かべて俺をちらりと見た。
急いで屋台に戻ると、店を見ていてくれた客は、とっくに帰っていた。幸い、さっき茶を飲んでいたのはみんな常連で、その辺はちゃんとしている。銅貨はテーブルに残してあった。大急ぎでテーブルを拭き、カップを洗う。それが済むと、すぐにパン代を届けに行った。払わないつもりかと思われても困る。
翌日の午後。
屋台でのんびり座っていると、オリアナが不機嫌そうな顔でやってきた。茶を飲みに来たわけではなかった。
「店主さん、さっき通りで治安兵団の人に会ったんだけど。あのフィスター家の男、一晩で出されたんだって」
「はあ? 女を無理やりさらおうとして、通りで刃物まで振り回して、一晩で釈放か?」
わけがわからない。
「うん。取り巻きが、全部の罪をかぶったらしいの。それに、上からも釈放しろって命令が来たんだって。それで、出すしかなかったって」
オリアナも、どうしようもないといった口ぶりだった。
「そりゃ……」
俺も言葉が続かなかった。
「店主さんも、しばらく気をつけてね。あのときの連中に顔を覚えられたかもしれないから。何かされたら、私のところに来て」
そう言い残すと、オリアナは険しい顔で帰っていった。
それから数日は何もなく、このまま済みそうにも思えた。オリアナはあれ以来、依頼を受けず、毎日きっちり武装して、ルル通りやパン屋の前を見回っていた。
あいつらも本当にオリアナが怖くなって、もう手を出してこないんじゃないか?
なるべく、いい方に考えることにした。
だが、そうそう思い通りにはいかない。
数日後の夜、パン屋の入口に火をつけられた。幸い、早く気づいたおかげで店内には燃え広がらず、オリアナも母親も無事だったという。翌日は、ルル通りのどこへ行ってもその話でもちきりだった。
俺はパン屋の前に立ち、ぼんやりと眺めていた。中は本当に何ともなっていない。おかみさんは、焼き上がったパンをいつものようにカウンターへ並べ、売る支度をしている。ただ、入口の外側は真っ黒に焦げ、外壁にも黒い煤の跡が残っていた。
店先には俺のほかに、いつもオリアナと組んで依頼に出ている勇者たちがいた。彼女を慰めながら、これから毎晩、交代で店の前に立って夜番をしようと話し合っている。
俺はオリアナに軽く合図をし、屋台へ戻ろうと振り返った。
少し離れた通りの向こうに、あの娘がいた。オリアナに助けられた娘だ。両手で口を覆い、驚きと恐怖の浮かんだ顔で、こちらを見つめていた。
その後の数日、勇者たちが店先を見張っているおかげか、パン屋には何も起きなかった。おかみさんは入口を新しく直し、商売もいつも通りに続けていた。フィスター家の腹いせも、これで終わったのか。みんながそう思い始めたころ、また思いもよらないことが起きた。
ある日の午前中。勇者たちが依頼を見にギルドへ集まる時間だった。俺は屋台で、茶を仕込むための湯を沸かしていた。
あの娘が駆けてきた。オリアナに助けられた娘だ。何度も後ろを振り返りながら走り、そのまま勇者ギルドへ飛び込んでいく。
しばらくすると、娘とオリアナ、それに大勢の勇者が出てきた。ギルドの前に立ち、ルル通りの方を見ている。うちの客たちもそちらへ顔を向け、じっと見つめた。
通りを一団の男たちが歩いてくる。先頭は、またあのフィスター家の坊ちゃんだった。だが、今度の取り巻きは前よりずっと多い。十人以上も連れて、堂々とギルドの前までやってきた。娘はまた怯えて、オリアナの後ろに隠れる。
「その女を渡せ」
フィスターが、陰のある声で言った。
「渡さないって言ったら?」
オリアナは一歩も引かない。いつも一緒に依頼に出ている仲間たちも、一歩前へ出た。
坊ちゃんが顔を上げ、辺りを見回す。ギルドの前だけでも、勇者は少なくとも二十人ほどいた。うちで茶を飲んでいる連中は、そこに入っていない。
すると、フィスターが突然、大声で笑い出した。
「臭え連中が、ずいぶん偉くなったつもりじゃねえか。王国の犬どもが。今度はお前らのギルドに火をつけてやろうか? はははは!」
取り巻きたちも、一緒になって笑った。
うちで茶を飲んでいた勇者たちが、一斉に立ち上がる。もう全員、武器を手にしていた。
「みんな、手を出さないで。これは私とこいつらの問題だから」
オリアナは周囲にそう言い、フィスターたちをにらみ据えた。
「あんた、自分がもう、越えちゃいけない一線を越えたってわかってる?」
怒りを押し殺し、歯を食いしばって、低い声で言った。
「一線? 何の一線だ? 俺をどうにかできるもんなら、やってみろ!」
フィスターが手で合図した。何人かが、娘を奪おうと進み出る。
剣が抜かれた。
オリアナは先頭の男の鼻先に切っ先を突きつけ、何も言わなかった。
「行け! そいつに斬る度胸なんかねえ!」
フィスターが怒鳴る。一瞬ためらった取り巻きたちは顔を見合わせ、オリアナの背後にいる娘へ飛びかかった。
剣が走り、両手が飛んだ。
先頭の男が、獣のような叫び声を上げた。両手首から先が斬り落とされ、血がとめどなく流れ出す。男は苦痛に身をよじり、地面に倒れた。
オリアナは剣を振り、刃についた血を後ろの連中の顔へ飛ばした。そのまま、再び剣を構える。
仲間が倒れ、顔に血を浴びた男たちは、呆然としていた。やがて、狂ったように次々と短刀や短剣を抜き、オリアナへ襲いかかる。
戦士のオリアナが、そこにいた。前のように、足さばきと盾だけでしのぐつもりはない。今度は背中の盾を外してさえいなかった。
B級勇者がどれほど強いのか、俺は生まれて初めて、目の前で思い知らされた。
十数人が周りを取り囲んでも、誰一人まともに近づけない。オリアナの剣は、振るうたびに必ず誰かを捉えた。あっという間に三、四人が、手や脚を斬り落とされ、血だまりに倒れる。通りに手足が飛ぶ。見ているだけで心臓が縮み上がった。
肩を斬られた男が、うちの通り側のテーブルへ倒れ込んできた。びくっとした拍子に、足が出た。そいつをテーブルから蹴り落としていた。俺のテーブルを汚すんじゃねえ!
別の男は怖気づいて逃げ出そうとしたが、見ていた勇者の大きな手に襟首をつかまれ、オリアナの前へ放り戻された。
また、剣が走った。
ギルドの入口とうちの屋台の間。そのわずかな通りに血が流れ、まるで戦場になっていた。
おいおい。何だよ、これ。
俺は何も考えられないまま腰掛けを一つひっつかみ、屋台の通り側に黙って立っていた。両脚の震えが止まらない。そのとき初めて、ポカペラもギルドの入口に立ち、恐怖の浮かんだ顔で一部始終を見ているのに気づいた。
取り巻きのうち、もう七、八人が地面に倒れていた。残る四人は、まだ狂ったようにオリアナを囲んで斬りつけている。だが、彼女には傷一つない。それどころか、まだ余裕さえあるように見えた。
斜め上から短刀が振り下ろされる。オリアナは身をかがめてかわし、そのまま剣を払った。二人の脚が斬り落とされ、体が崩れ落ちる。
最後の二人が叫びながら突っ込んだ。オリアナは左へ身をかわしざま、一人の肩を突いた。すぐさま横へ跳び、残る男の背後へ回った。背中へ、続けざまに二太刀。
取り巻きは、全員倒れた。
「お、お前! よくも……!」
フィスターは、とうとう肝を潰した。目を見開いて倒れた連中を見つめ、振り向いて逃げようとする。
そこでようやく気づいたらしい。背後には勇者たちが一列に並び、大刀や鋼の斧を手にしていた。逃げ道は、もうなかった。
フィスターはへなへなと座り込んだ。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ、ズボンもびしょ濡れだ。豪華なビロードの上着には、取り巻きの血がべっとりついている。
「殺さないでくれ。俺が悪かった。頼む、見逃してくれ……」
大声を出す力もないらしい。小さな声で、ひたすら命乞いを続けた。
「通りで人に危害を加えていたから、私は警告した。それなのに、よくも私の家族に手を出したね……」
オリアナは座り込んだ男に剣を向けた。目には、燃えるような怒りがあった。
周りの勇者たちからも声が上がる。
「殺しちまっていいんじゃないか? 娘をさらおうとするわ、人に危害は加えるわ。そのうえ、さっきは勇者もギルドも侮辱しただろ?」
「ああ。ギルドに火をつけるとまで言ったよな? みんな聞いたな?」
オリアナは剣を構えたまま、すぐには手を下さなかった。しばらく黙っていた。
「今日は、殺さない。でも、また西区に現れたり、私の家族に手を出したりしたら……女神に誓って、あんたの一家を皆殺しにする」
一言一言、はっきりと言い切り、フィスターを見据えた。
「わかった、わかった! ありがとう! 勇者様方も、ありがとうございます!」
救いにすがるように、フィスターは膝をつき、オリアナと周りの勇者たちへ何度も額を地面にこすりつけた。
「でも、そのまま帰してあげるとは言ってない」
オリアナが付け加えた。剣先を軽く返し、男の両手首を続けざまに斬る。
悲鳴が上がった。フィスターの両手は、使い物にならなくなった。
「失せろ!」
低く、鋭い声だった。
フィスターは痛みにもがきながら立ち上がり、両腕を半ば持ち上げたまま、泣きながら逃げていった。糞尿にまみれた姿だった。
オリアナは剣の血を払い、刃こぼれしていないか確かめてから鞘に収めた。ほかの勇者たちは、あちこちに倒れた男たちを見ている。
「オリアナさん。こうしたからには、覚悟はできているんですよね」
入口から声がした。ポカペラだった。どうにか息を整え、できるだけ落ち着いた声を出そうとしている。
「うん、ポカ。覚悟はできてる」
オリアナはポカペラを見た。その顔には、少しも迷いがなかった。
ポカペラは胸元を手でさすった。
「わかりました。では、中へ来てください。皆さん、白魔法使いを何人か呼んできてください。この人たちの手当てをお願いします。できるだけ死人を出さないようにしてください」
ポカペラがオリアナを連れて中へ入ると、何人かが人を呼びに走った。ほかの連中は、自分たちでギルドから桶を持ち出し、通りの血を洗い流し始める。
俺はようやく我に返り、鼻をつく血の臭いに気づいた。何度も吐き気がこみ上げてきた。
「店主、怖がるなって。もう大丈夫だ。こういうのは、そのうち慣れるからさ」
うちの勇者たちは、また座って茶を飲みながら、そんなふうに慰めてくれた。
慣れてたまるか! こんなもの、一生慣れたくねえよ!
俺は力が抜けたまま、屋台に座り込んだ。認めるよ。俺の肝っ玉だって、あのフィスターとそう変わらない。
目の前の通りを、人が行き交い始めた。ほどなく白魔法使いが何人かやってきて、倒れた取り巻きたちに治療の魔法をかける。馬車が一台止まり、ウルフが慌ただしく降りてきた。
少し遅れて、治安兵団も来た。だが、あの小隊長は、今度は後ろについていた。先頭にいるのは、見たことのない男で、もっと立派な鎧を着ている。
その晩、家に帰ってもまるで眠れなかった。斬り落とされた手や脚ばかりが、頭に浮かぶ。真夜中になって起き出し、気を鎮める茶を一杯煮出して、ようやく浅い眠りについた。
その後の数日、ウルフが何度もギルドへ来た。これほど頻繁に顔を見るのは初めてだった。ほかにも、見覚えのない大物らしい人たちが、ひっきりなしに出入りしていた。朝、鍵を開けに来るときも、夜、鍵をかけて帰るときも、ポカペラは沈んだ顔をしていて、俺に声をかけることもない。勇者たちは相変わらずだった。茶を飲む奴は茶を飲み、依頼に出る奴は依頼に出る。
風向きが少しずつ変わり、葉を落とした裸の枝が増えていった。枯れ葉が風に巻かれて集まり、また散ってゆく。
まだかすかに秋の気配が残る、ある夕暮れ。一台の馬車がルル通りをやってきて、うちの屋台の前で止まった。
「店主さん!」
後ろの幌の中から呼ぶ声がした。
歩み寄ってのぞくと、平民の身なりをしたオリアナと母親が座っていた。荷台には、家具やパンを焼くための道具がぎっしり積まれている。
「あんたたち……出ていくのか?」
少し驚いて尋ねた。
「うん。ギルドも精いっぱいやってくれたんだけどね。会長様が言うには、最後に上から出された条件が、私の勇者登録を取り消すことだったんだって」
オリアナは笑っていた。
「でも、それで引っ越すことはないだろ?」
「引っ越した方がいいってすすめてくれたのも、会長様なの。よく考えたら、それもそうだなって」
まだ笑っている。
「それで、どこへ行くんだ?」
「南。暖陽海のそばで、勇者ギルドのある町を探して、また勇者をやる!」
オリアナの笑顔が、いっそう明るくなった。母親もつられて、くすくす笑う。
「店主さん、これあげる。自分で食べても、売ってもいいから」
オリアナは荷台を探り、パンを一つ取り出して、俺に放った。
受け取ったパンを見る。おお、これ、銀貨二枚の魔法何とかワニ肉パンじゃないか。
母親が荷台から娘をぎろりとにらんだ。それでも、何も言わなかった。
「じゃあね!」
オリアナが笑って手を振る。馬車は少しずつ遠ざかり、ルル門の向こうへ消えていった。
俺だけが、でかい角パンを手に、屋台の前に立っていた……。
……。
「きれいに片づけてきてください」
はっと我に返った。ポカペラが無表情で屋台に入ってくる。だが、その声は俺の脇を通り過ぎた。俺に言ったのではない。
声の向かった先へ、勢いよく振り返る。
隅では、あの刺客がカップの茶を少しずつすすっていた。
「ギルドの意向か?」
刺客が小声で尋ねた。
「誰も責任は取りません。わかりますね?」
ポカペラが言った。
刺客は少し笑った。
「わかった」
次の瞬間、銅貨をテーブルへ放り、フードをかぶると、あっという間に夕闇に消えた。
ポカペラが俺をちらりと見る。
「何を聞いたの?」
「ん? 何も聞いてねえよ」
手の中の、銀貨二枚のパンに目を落として、俺はそう答えた。




