第十章 南国の旅人 グラシャ
ここまで読んでくださった皆さん、こんにちは!
いやはや、私があまりにも間抜けで、画像の挿入方法を今さらようやく理解しました(笑)。
というわけで、これからは毎話の最後に、キャラクター設定イラストと四コマ漫画のミニ劇場を載せていきます!
そして、これまでのお話にもすべて画像を追加しました!
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです!
改めて、いつも読んでくださって本当にありがとうございます!
王国暦二三八年、五月。
春の花は早々に散り、通りを行き交う人も増えてきた。日の高さと、暑さの増し方でわかる。今年は暑い年になりそうだ。
暑けりゃ、茶が売れる! 仕入れだ! 氷も買え! 銅貨を稼ぐぞ! よし!
毎日、忙しくて仕方ないが、楽しくて仕方ない。夜は家に帰ると、疲れ果てて寝床に倒れ込んだ。ときには、大金持ちになる夢も見る。ブル区の通り一本に並ぶ店を丸ごと手に入れ、饗宴大通りの貴族まで、俺の茶を買うために使いを並ばせているのだ。
目が覚めれば、枕によだれの染みが一つ。窓の外はまだ暗い。夢は、しょせん夢だった。
また、店を出す時間だ。
ある日、朝から午後まで働きづめで、ようやく座って一息つけた。水をぐびぐび飲みながら通りを眺めていると、道端に立つ男が目に入った。
褐色の肌に、ひと目で南方のものとわかる服。小さな旅の荷物を背負い、首をかしげて俺の屋台を見ている。目を細め、口元には、何がおかしいのか、うっすら笑みを浮かべていた。
しばらくそうしてから、通りの向かいの勇者ギルドを見て、またこちらへ向き直り、屋台の客たちを見る。誰かを探している目ではない。面白いものを見つけて、確かめているような目だった。
やがて、男はこちらへ歩いてきた。
「あぁ〜、ここの店主さんですか?」
男は晴れやかに笑っていた。言葉の端々を少し伸ばす、はっきりとした南方訛りだった。
「そうだが。何の用だ?」
水のカップを置いて、男を見た。
「あぁ〜、店主さんでしたか。ここで働かせてもらえませんか?」
いきなり、そんなことを言い出した。
俺は男を上から下まで眺めた。頬の肉は薄く、ひげは伸び放題。袖から出た腕には、筋肉の線がくっきり浮かんでいる。長い黒髪は無造作に一本の三つ編みにして、背中へ垂らしていた。
上着は、見たことのない薄手の布でできている。細かな模様がびっしり入っているが、色は少しあせ、袖口にはほつれもあった。最後に洗ったのがいつなのか、見当もつかない。ズボンは粗い麻布で、靴は泥だらけだった。
体つきだけなら、よく働きそうだ。
今年は早くから暑くなり、客も増えている。どうにか一人で回せてはいるが、働き手が増えるのは悪くない。問題は、いくら欲しがるかだ。折り合いさえつけば、俺は茶を作る方に専念できる。客に出すのも早くなるだろう。
「こういう仕事、やったことはあるか?」
「ええ、ええ。この街でも、いろんなところで働いてきましたよ」
男は相変わらず笑っている。
「で、いくら欲しい?」
肝心なのは、そこだ。
「一日、銅貨二十枚。あとは、ご飯と寝るところがあれば十分です」
即答だった。
かえって、怪しくなってきた。こいつ、何か企んでるんじゃねえか? それとも、どこか悪いのか?
一日、銅貨二十枚? ただ働きと何が違う。まともに働き口を探すなら、少なくとも四、五十枚は欲しがるだろう。
もう一度、じっくり見てみた。確かに、人畜無害そうではある。顔立ちが異国の人間らしいほかは、別に変わったところもない。
「何が目当てだ?」
「店主さん、そんなに怪しまないでくださいよ。私は旅をしているんです。お金も、少しはためてあります。ここには勇者がたくさん来るでしょう? 面白そうだなぁと思って、働いてみたくなったんです」
言われてみれば、おかしな話でもない。暖かくなってからは、いろんな国から来た旅人を王都でもよく見かける。その中に、旅費を稼ぎながら旅を続ける奴がいたって、別に珍しくはない。
「じゃあ、まずカップを全部洗ってみてくれ。仕事ぶりを見せてもらおうか」
「はい、店主さん」
男は屋台の中をひとわたり見回すと、ほとんど迷わず、カップをつけてある水桶へ向かった。前にも来たことがあるような足取りだ。
背中の荷物を下ろし、乾いて汚れていない場所を選んで置く。水がはねるのを嫌ったのか、わざわざ桶から少し離していた。それから水差しにきれいな水を汲み、両手を丁寧に、二度洗った。
カップを洗い始めたところで、確信した。こいつは間違いなく、慣れている。
手当たり次第に洗うのではない。まず、汚れ具合でカップを分けた。茶渋の薄いものは左、濃いものは右。それから左側に取りかかる。右手でこすり、左手でカップを回す。三回くるりと回したら、きれいな水ですすいで脇へ置き、すぐ次へ。
ほとんど手が止まらない。余計な動きもない。
男の手の中で、カップが次々に回っていく。横で見ながら、俺はひそかに数えてみた。十個洗うのにかかった時間は、なんと俺とほとんど変わらなかった。
あっという間に、桶のカップは全部洗い終わった。男はそれを一つずつ木の棚に伏せ、きちんと並べていく。隙間まで、ほぼ同じ幅だった。それから手を拭き、笑って俺を見た。
「よし、今から働いてくれ。今日は半日だから、銅貨十枚。飯は俺と同じものだ。好き嫌いは言うなよ。夜はうちの物置で寝てもらう」
俺がうなずくと、男はうれしそうに答えた。
「はい、店主さん」
さっそく茶の名前と値段を一つずつ覚え始め、カップ洗いもテーブル拭きも、自分から引き受けてくれた。
おかげで、ずいぶん手が空いた。俺は茶を作る方に専念できるようになり、仕事もぐっとはかどった。
夕方、店を畳むと、男は家まで荷車を引いてくれた。家にあった干し肉と野菜で濃いめのスープを作り、パンと一緒に食べた。男はずいぶん満足そうだった。
食べながら話すうちに、男の名はグラシャで、南の大陸から来たのだとわかった。船でソラニア西大陸へ渡り、暖陽海沿いの南方の都市国家をすべて巡ってきたという。それから商隊に加わり、王国の南端にある南風関を通って、王都までやって来たらしい。旅先で見聞きしたことをずっと書き留めていて、それが何よりの楽しみなのだそうだ。
食後、まず体を洗ってこいと言いつけた。ついでに服もだ。いつまでもあの汚れた格好で、うちの客に茶を出させるわけにはいかない。それから古い敷物と掛け布団を出して、物置の床に寝床を作ってやった。
「これからは、ここで寝てもらう。いいか?」
「大丈夫ですよ、店主さん。ここで寝られるなら、十分ですからぁ」
グラシャは笑って答えた。
翌日。
グラシャは、どこの歌とも知れない鼻歌まじりに、手早く店を出す支度を手伝ってくれた。聞き慣れない節回しで、声が上がったり下がったりする。
そして俺は、このグラシャがどれほどよくしゃべる男なのかを知った。
屋台に突然、南方の働き手が増えたものだから、客の勇者たちは興味津々だった。ずっと旅をしているだけあって、グラシャには話の種がいくらでもある。人懐っこい性格もあって、どんな連中とも、すぐに打ち解けてしまう。
その日一日、グラシャは働きながら、客とあれこれ話し続けていた。客といくらしゃべろうが、やることさえやってくれれば、俺は構わない。その点、こいつは実によくやってくれた。
「なあ、暖陽海ってのは、そんなにきれいなのか?」
「あぁ〜、本当にきれいですよ。とくにイズリルの海は、サファイアみたいに澄んでいるんです」
グラシャはテーブルを拭きながら答えた。
「南方には、魔物みたいなラクダがいるって聞いたぞ。本当か?」
「帝王ラクダのことですか? いますよぉ。高さは十二フィートを超えて、こぶが小さな山二つみたいなんです。ヌリシアの軍隊にもいますよ」
今度はカップを洗いながら答える。
「海の魔物は見たことあるか?」
「南方の女も、王国の女くらいきれいなのか?」
「そっちには、どんなうまい酒があるんだ?」
どんな質問が飛んできても、グラシャは笑って、すらすら答えた。こいつは歩く図書館みたいだ。妙な見聞や知識が、いくらでも詰まっている。俺まで、茶を作る合間に手が空くと、遠い国の不思議な話につい耳を傾けていた。
数日のうちに、うちの屋台に南方の旅人がいるという話が広まった。ただ珍しい話を聞きに来る奴もいれば、南方へ冒険に行けそうか探りに来る奴もいる。おかげで、商売はますます繁盛した。
いっそ小さな台でも作って、こいつに話をさせておくか。そんな気にさえなった。
ある日の夕方。仕事を終えて家に帰り、いつものように野菜のスープを飲み、パンを食べていた。一日働いた後だというのに、グラシャは相変わらずにこにこしている。この人懐っこさは、根っからのものなのかもしれない。
「グラシャ」
「あぁ〜、店主さん。何ですか?」
パンをもぐもぐやっている。
「そんなに長く旅してて、困ったこととか、ひどい目に遭ったこととか、ないのか?」
少し気になったのだ。運よく苦労を知らずに来たから、こういう性格なのか。それとも、さんざん苦労してきたからなのか。
グラシャはパンを手に持ったまま、目を細めて、もう一口スープを飲んだ。
「ひどい目なら、いろいろ遭いましたよ。たとえば……何年前でしたかねぇ。ヌリシアにいたとき、国境で戦争があって。あのときは、もう少しで死ぬところでした」
パンをスープに浸し、一口食べる。
「あとは、ガルビアで地元の漁師と漁に出たら、嵐に遭って船がひっくり返りましてね。小さな島で十何日も過ごして、やっと助けてもらいました。それから、マグリバでは海賊につかまりました。お金を持っていなかったので、子供たちに読み書きを教えろと言われましてね。ずいぶんたってから、どうにか逃げ出したんです。はははは」
長くしゃべると、南方訛りの声が、いつもの鼻歌みたいに上がったり下がったりする。
いや、どれもとんでもねえ話じゃないか! 何でそんなに、何でもないことみたいに話せるんだ!
俺はパンを手にしたまま、驚いてグラシャを見た。今の話のどれか一つでも、自分の身に起きたら。考えるのも嫌だ。
いろんなことを経験しすぎて、何があっても動じなくなったのか。勇者にも、そういう奴はいる。だが、こいつは何か違う気がする。どこが違うんだろう。
考えていると、グラシャが口を開いた。
「店主さんは、どこかへ行ったことがありますか?」
「一番遠くまで行ったのは、子供のころ、親父に連れられてアムニウの親戚を訪ねたときだな。あとはカラカ湖。それより遠くへは行ったことがない」
正直に答えた。
「ここの屋台は、長いんですか?」
「俺で四代目だ」
笑って答えると、グラシャも笑った。
「あぁ〜、やっぱり、すごいところなんですねぇ」
それからも、取り留めのない話を少しした。その夜は、それぞれの寝床へ引き上げた。
数日後。
屋台の仕事は、ますます順調に回るようになった。よく稼げた日には、グラシャの給金にも少し上乗せしてやった。そのたびに、男は笑って受け取った。
ある日の昼、客たちがグラシャの旅の話に聞き入っていると、屋台の木の柵につかまっている小さな姿が、目の端に入った。その子も、じっと話を聞いている。よく見ると、十歳くらいの女の子だった。
とくに気にも留めず、俺は茶を作っては運び続けた。しばらくして、また見る。まだいる。
誰かの子供か? この辺では見かけたことがない気がするが。
女の子は中へ入ってこようとはせず、ずっと柵の外で熱心に話を聞いていた。帰っていったのは、午後もだいぶ遅くなってからだった。
翌日、昼を少し過ぎたころ、また柵のところに女の子が現れた。昨日と同じようにつかまり、屋台の大人たちの話に聞き入っている。やはり、中へ入るつもりはなさそうだ。
「おい、誰かの子供か?」
大きな声で聞くと、客たちは俺を振り返り、それから俺の視線を追って女の子を見た。皆、首を横に振る。
女の子は少し緊張した顔で、俺を見ていた。グラシャも気づき、こちらを見る。いいですか、とでも言いたげだったので、俺はうなずいた。
グラシャは手を拭くと、笑顔で迎えに行き、女の子を屋台の中へ連れてきた。
「お嬢ちゃん、ここで何をしてるんですかぁ?」
「昨日もいたぞ。お前とこいつらの話を、ずっと聞いてたんだ」
俺が言うと、女の子はグラシャを見て、それから俺を見た。
「おじさん、ここに座ってても、いいですか?」
指先をいじりながら、おずおずと尋ねる。
グラシャが、また俺を見た。返事を待っている。辺りを見回したが、席は一つも空いていない。
俺は棚の下から、仕入れた果物を入れてある小さな木箱を引っ張り出した。中身を別のところへ移し、手でほこりを払って、グラシャに渡す。
「これに座らせてやれ。お前が見ててやってくれよ。水も一杯、出してやれ」
グラシャは木箱を受け取り、客の通り道をふさがないところに伏せて置いた。それから女の子に水を渡す。女の子は礼を言うと、木箱にちょこんと座り、それきり何もしゃべらなかった。
俺もグラシャも仕事に戻った。店じまいが近くなったころ、女の子はグラシャにカップを返し、ぽつりと言った。
「おじさん、明日も来ていいですか?」
俺がいいぞと答えると、女の子はぱっと笑顔になり、くるりと背を向けて走っていった。
その後ろ姿を見送る。
「結局、誰の子なんだ? 今日は聞きそびれちまったな。明日また来たら、聞いてみるか」
グラシャにそう言った。
案の定、翌日も同じころに、女の子は屋台の外に現れた。
グラシャはテーブルを拭いていたので、俺が迎え入れ、木箱を出して座らせた。女の子は今日もおとなしく座っていた。走り回ることも、騒ぐこともなかった。
午後になり、暑くなってきた。勇者たちは氷入りの茶をぐいぐい飲んでいる。俺は煮出したばかりの茶の桶に氷を入れていたのだが、ふと見ると、女の子が勇者たちのカップをじっと見つめていた。冷気の立つ飲み物を見て、それから俺が桶に入れている氷を見る。
何とも切ない目をしやがる。
「おい、お前ら! 毎日ただで話ばっかり聞きに来やがって。誰か、この子に冷たい茶でもおごってやれよ!」
片手を腰に当て、もう片方で常連どもを指さして怒鳴った。
話に花を咲かせていた連中が、こちらを振り向く。俺を見て、それから女の子を見た。
「俺、俺! 俺がおごる!」
「俺が出すって。お前らは引っ込んでろ!」
何人もの勇者が、我先にと名乗りを上げた。
「よし。それでこそだ。これから、この子の茶代はお前ら持ちな」
汗臭い連中を見回して言った。グラシャが俺を見て、さっきよりもいっそう親しげに笑った。
はちみつミントのひえひえ茶を一杯すくい、女の子に渡す。女の子はうれしそうに俺を見ると、両手でカップを包み、小さな口で少しずつ飲み始めた。
「なあ、店主。この子、誰の子なんだ? 昨日もいたよな?」
茶代を出した勇者が聞いた。
そうだ。まだ聞いてなかった。ちょうどいい、今聞こう。
「お嬢ちゃん、どこの子だ? 何で毎日、ここに来るんだ?」
腰をかがめて尋ねる。女の子は少し考えてから、俺を見て、グラシャを見た。何となく、照れているようだった。
「おじさん、私のお父さんも、この人たちと同じ勇者なんです」
小さな声で言った。
「あぁ〜、勇者さんの娘さんでしたか。お父さんは、どこにいるんですか?」
グラシャが目を細め、仕事をしながら尋ねる。
「南へ行くから、帰るまで何日もかかるって。おじさん、ここでお父さんを待っててもいいですか?」
女の子が俺を見上げた。
「いいに決まってるだろ。来たくなったら毎日来ればいい。茶は、こいつらがおごってくれるんだからな」
常連どもを指さすと、連中はへへっと笑った。
「最近、南方へ依頼に行った奴って、誰だ?」
勇者たちが考え始めた。
「トリフじゃないか? 確か、南へ行く商隊の護衛を引き受けてたぞ。出発して何日かたつな」
一人が顎に手をやりながら言い、女の子へ向き直る。
「お嬢ちゃん、お父さんはトリフって名前か?」
女の子が目を丸くした。
「そうです! お父さんを知ってるんですか?」
「知ってる、知ってる。前に一緒に依頼に出たことがあるんだ」
男は笑って答え、それから同じテーブルの仲間を振り返った。
「なら話は早い。茶代は、帰ってきたトリフに請求だな。ははは!」
「お前ら、せこいなあ。子供に一杯おごってやったくらいで、親父から取り返そうってのか」
俺も笑って言ってやる。
「店主だって、毎日そこそこ稼いでるだろ。何でお前がおごってやらないんだよ?」
切り返してきやがった。
「馬鹿言え。こっちは汗水垂らして稼いでんだぞ!」
そんなふうにやり合っている間、女の子はグラシャを見ていた。指先をいじり、視線をあちこちへ動かしている。何か気になることがあるらしい。
グラシャは急かさず、笑って待っていた。
しばらくして、女の子は真剣な顔で尋ねた。
「おじさん、南の方って、危ないんですか?」
不安そうな大きな目で、グラシャをじっと見つめている。
グラシャは目を細め、しばらく笑顔で女の子を見ていた。
「お嬢ちゃん、明日の午後、また来ませんか? 本を読んで、南方のお話をしてあげますよ」
「はい。明日、約束ですよ」
グラシャが手を差し出すと、女の子も手を上げた。軽く、ぱちんと手のひらを合わせる。
「約束です」
夕日が、高いルル門の下へゆっくりと沈んでいく。通りを行き交う人影も、少しずつまばらになっていった。
夜、家に帰って飯を済ませると、グラシャに手伝わせながら、明日の茶の材料を用意した。すると、男がふと尋ねた。
「店主さん、明日の午後、少し休ませてもらえませんか?」
昼間、女の子と交わしていた約束が頭に浮かんだ。
「あの子に話をしてやるんだろ?」
茶に使う花や草を切り分けながら答える。
「ええ。南方を旅していたころに書いたものがあるので、あの子に読んで聞かせようと思いまして」
「いいぞ。あんまり長くならなけりゃな」
そう答えて、少し間を置いた。
「なあ、グラシャ。子供が好きなのか?」
「とくに好きというわけでもないですよ」
意外な返事だった。
続けて聞こうと思っていたことが、いくつもあったのだが、全部、聞けなくなってしまった。言葉に詰まり、仕方なく気まずい笑みを浮かべて、また材料の支度に戻った。
月に代わって、また太陽が昇った。
昼を少し過ぎ、俺が最後の一口のパンを飲み込んだところで、女の子がやって来た。静かに屋台へ入り、木箱に座った。
はちみつミントのひえひえ茶を、また一杯出してやった。どうせ今日も、誰かが払ってくれるだろう。
グラシャが俺を見た。
「行ってこい、行ってこい。あんまり長くなるなよ」
男の手から布巾を受け取り、拭きかけのテーブルに取りかかった。
グラシャは笑って、今日わざわざ持ってきていた布包みを取り出した。開くと、中には羊皮紙が厚く積み重ねてあった。あれが、書きためた旅の話か。
その原稿を手に女の子のそばへ行き、木箱の横の地面に、どかっと腰を下ろした。それから、熱心に読み聞かせ始めた。
やがて、近くで茶を飲んでいた勇者たちも耳を傾け、腰掛けを持って集まってきた。グラシャと女の子を真ん中に、人の輪ができていく。皆、南方の国々の不思議な話に聞き入っていた。
俺はわざわざ聞こうとはしなかった。また、こっちの仕事が増えたのだ。それでも、働いていると、暖陽海沿いの美しい景色の話が、途切れ途切れに耳へ届く。二言、三言と耳に入るうちに、いつの間にか、その景色を思い浮かべていた。まるで、この屋台まで、暖かな日差しと海風の中にあるような……。
「店主さん、地精草茶を。氷、多めで」
聞き覚えのある声に引き戻され、顔を上げた。
「よう、グリエルじゃないか。久しぶりだな」
いつもの魔法使いの格好だった。灰色の髪が少し伸びている。すました、偉そうな顔も相変わらずだが、どこか疲れているように見えた。
「最近、いろいろ忙しくてね。茶を飲みに来る暇もなかったんだ」
グリエルは俺のそばに席を見つけて座り、テーブルに両手をつき、疲れたように上体を預けた。
氷を多めに入れた地精草茶を出し、俺もテーブルに手をついて、あの人の輪を眺める。グリエルも茶を飲みながら、そちらを見ていた。
「店主さん、あれは何をしてるの?」
「最近、南方の旅人がうちで働き始めてな。あそこで子供に話を聞かせてるんだ」
「ああ、あの髪を編んだ人? この間、通りかかったとき、ここで手伝ってるのを見たよ」
そんな話をしていると、人の輪の中からグラシャが立ち上がった。途端に、周りの連中が声を上げ、手拍子を打ち始める。
グラシャが踊り出した。
足元は人の輪に隠れて見えない。腕がしなやかに波を打ち、長い黒い三つ編みが宙を舞う。それだけ見ても、なかなかうまそうだ。
急に、辺りがにぎやかになった。うちの屋台が、仲夏祭の酒場にでもなったようだ。ただし、連中が持っているのは麦酒ではなく、いろんな花や草の茶だった。
「ヘイ! ヘイ!」
勇者たちは声を合わせ、手を叩き、上半身を揺らしている。でかい奴が何人か、どうにもぎこちなく体をくねらせていた。
揺れる肩と肩の間に、ときおり女の子の笑顔がのぞく。五月の日差しのように、明るく、温かかった。
俺もグリエルも、見入っていた。目の端で、向かいのギルドの扉が開く。ポカペラも顔を出し、こちらを何度か見てから、また扉を閉めて中へ戻った。
「ティバラの辺りの踊りだね」
グリエルが茶を飲みながら言った。
「へえ。そんなことまで知ってるのか?」
俺は踊るグラシャを見たまま尋ねた。
「僕を見くびってる?」
グリエルがちらりと俺を見る。
「なあ、あいつ、ちょっと変わってるんだよ。昨日の夜、子供が好きなのかって聞いたら、とくに好きでもないって言うんだ。それなのに、今日はあんなに親切にして、話してやったり、踊ってやったり。お前、物知りだろ。何でだと思う?」
グラシャの踊りを眺めながら聞いた。
グリエルはしばらく黙っていた。それから俺へ顔を向け、いつもの、馬鹿を見るような目をした。
「知識はあるけど、人の心まで読めるわけじゃないよ。そんなの、僕にわかるわけないだろ」
冷たい声だった。
「あいつは、この世界の何もかもを、同じように愛してるんじゃないか?」
突然、背後から声がした。俺もグリエルも、驚いて振り返った。
あの刺客が隅に座り、腰掛けに脚を載せて、のんびり茶を飲んでいた。
「おい、お前! 人の話にいきなり入ってくるのが、そんなに好きなのか? それと、お前、姿を消す魔法でも使ってんのかよ!」
「そんな魔法はないよ……」
グリエルが小声で言った。
「何言ってんだ、店主。俺はずっとここにいたぞ。ほら、もう二杯目だ」
刺客は心外そうに言う。
よく見ると、確かに手にカップを一つ持っていて、テーブルにも空のカップが一つある。あれ? 何でだ? どうしたら、こいつの存在をここまできれいに忘れられるんだ。さっぱりわからない。
「で、さっき何て言った? 何でも同じように愛するって、何だよ。説明してくれ」
むっとして言うと、刺客は静かに話し始めた。
「ほかの国で、旅人には何人か会ったことがある。その中に、ああいう奴がいたんだ。家庭も持たないし、子供も作らない。旅先で出会ったものを、どれも同じように大事にする。ただ、自分にはあまり執着がないみたいでな。どこで死んでも構わないって感じだった」
「何でお前が、そんなことまでわかるんだ?」
少し突っかかるように聞いた。
「ああ。一人、殺したことがあるんだ」
刺客は茶を一口すすり、何でもないことのように俺を見て、少し笑った。
「お、お前……もう黙ってろ。おかわりが欲しいときだけしゃべれ」
まったく。普通に話していたのに、何でまた妙なところへ話が行くんだ。
グリエルは刺客を見て、俺を見て、呆れたように苦笑した。
踊りが終わり、輪の中から一斉に歓声が上がった。振り向くと、通りにも、足を止めて見ていた人が大勢いる。
「ほら、そろそろ仕事に戻ってくれ」
俺が言うと、グラシャは笑って女の子に声をかけ、また仕事に戻った。女の子もおとなしくしていた。その顔には、まだ、あの無邪気な笑みが残っていた……。
太陽は毎日、鉄山門の向こうから昇り、ルル門の向こうへ沈む。雲に遮られることはあっても、光はやがて、その切れ間を抜けてくる。薄いヴェールのような雲が日差しを和らげ、柔らかな光だけが、ゆっくりと大地へ流れていく。
十数日後。
「仲夏祭が終わるまで、いてもいいんじゃないか?」
グラシャにそう言った。
あの踊りの日から数日後、女の子の父親が帰ってきた。顔を見て初めて気づいたのだが、うちによく来る客だった。
グラシャの南方の話がよかったのかもしれない。女の子が父親に会ったとき、長く抱えていた不安がようやく解けた、という様子はなかった。ただ、家族にまた会えたことが、うれしくてたまらないようだった。
昨日の夜、仕事を終えたグラシャは、家の外に一人で座り、長いことルル通りを眺めていた。それから中へ戻ってきて、あと一日働いたら、ここを発つつもりだと俺に言った。
それで今日は、店を畳んでから荷造りを手伝い、形ばかり引き止めてみたのだ。
「あぁ〜、店主さん。そろそろ旅を続けないと。この王都には、もうずいぶん長くいましたから」
グラシャは目を細め、笑って答えた。
「次は、どこへ行くんだ?」
荷物を渡しながら聞いた。
「まだ決めていません。まずはグラテン王国を、あちこち歩いてみようかと。そうだ、これをどうぞ」
グラシャは荷物を開き、女の子に読んでやったあの見聞録を取り出して、俺に差し出した。
受け取って眺め、そこで初めて気づいた。この羊皮紙に書かれているのは、西大陸の言葉ではない。一文字も読めなかった。
「故郷の言葉で書いたのか? それじゃ、俺には読めねえぞ。それに、お前には大事なものだろう。何で人にやるんだ?」
「一度手放さないと、新しいものは書けませんからぁ」
また、わからないことを言った。妙な考え方をする奴だな。
少し考えた。
「どうしても先に手放したいってんなら、こうしないか。ルシエ広場の教会の裏に、本屋がある。そこの店主とは顔なじみなんだ。あそこへ持ってって売れば、旅費の足しにもなるだろ。どうだ?」
「あぁ〜、それはいいですね。では、私からも一つ、店主さんに提案していいですか?」
「おう。言ってみろ」
「ここで働いていて気づいたんですが、お茶に使った材料を、ずいぶん捨てていますよね。あれを、もう一度売れるものにできないか、考えたことはありますか?」
グラシャの笑顔が、ますます親しげになった。礼でもしたいらしい。
「へえ? 茶に使った後の材料が、まだ売れるのか? どうやって?」
金になる話と聞いて、たちまち興味が湧いた。
「南方のいくつかの都市国家では、植物を粉にして小袋に詰め、足湯に使うのが流行っているんです。ここへ来る勇者の皆さんは、毎日ごついブーツを履いて、遠くまで歩くこともあるでしょう? 水虫になったり、靴ずれしたりしやすいと思うんですよ。お茶に使った地精草や霜草を日に干して、粉に挽いて、足湯用の小袋にして売ってみてはどうですかぁ?」
天才だ! こいつ、とんでもねえ天才じゃねえか!
何で今まで、そんなことを思いつかなかったんだ。元手なしの丸儲けじゃないか!
「よし! 明日からやるぞ!」
俺はうれしくなって、グラシャの肩をぽんぽん叩いた。
「あぁ〜、店主さん。それでは、そろそろ行きます。またどこかで、会えるといいですねぇ」
別れの挨拶を交わすと、グラシャはあの不思議な節回しの鼻歌を口ずさみながら、ルル通りの暮れ色の中へ消えていった。




