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第十一章 弓手 ニコライ

挿絵(By みてみん)


「おじさん、ギルドで白魔法使いを探してあげようか? 頭、診てもらったら?」

「いや、ちょっと聞いてみただけだろ。そんなに怒るなって」

 俺はへらへら笑った。

「仲夏祭(ちゅうかさい)はギルドで残業だって、知ってるでしょ。それなのに、おじさんと屋台を出して、むさ苦しい男たちの足湯パックを売れって? 頭おかしいんじゃないの?」

 ポカペラは俺をきっとにらみ、そのまま行ってしまった。

 話は簡単だ。グラシャが去ってから、俺はさっそく、あいつの思いつきを金に変えた。毎日、茶に使った材料を集めて日に干し、粉に挽(ひ)いて、小袋に詰める。新たに金がかかるわけでもないので、一袋銅貨十枚と安く売った。これが、うちの屋台で大当たりしたのだ。茶も飲まず、足湯パックだけを買いに来る奴までいて、毎日、作っても作っても追いつかない。

 おまけに、去年は仲夏祭の市がどれだけにぎわうか、この目で見ている。今年は迷わず銀貨十五枚を奮発し、饗宴(きょうえん)大通りの市に出店する場所を借りた。なぜ十五枚なのかって? 去年の盛況を見た王都のくそったれどもが、場所代を銀貨五枚も値上げしやがったからだ。

 俺の算段はこうだ。まず何日か、足湯パックをうちで売らずにためておく。それを祭りの市へ持っていき、茶と一緒に売る。まとめて買えば、少し安くしてやればいい。市では茶が大量に売れるはずだ。となれば、足湯パックの材料も大量に手に入る。それをまた売る。うまいこと回り始めれば、俺の懐にはひっきりなしに金が転がり込んでくる。

 ただ、困ったことに、俺の体は一つしかない。茶を売るだけでも手が回りそうにないのに、足湯パックまで売り込めるか。どうしても、もう一人、手伝いが要る。

 それで今日、ちょうど仕事帰りのポカを見かけたので、ついでに聞いてみただけなのだ。それであの言われようだ。はあ。グラシャがまだいてくれたらな。

 よくよく考えてみると、この王都には、手伝いを頼めるほど親しい友達もいない。うちの屋台に来る勇者の常連たちを思い浮かべた。うーん。せっかくの祭りに休まず、手伝ってくれる奴なんているだろうか?

 翌朝、俺は大股で、堂々と勇者ギルドの門をくぐった。中へ入ると、まっすぐ受付に向かう。

 俺を見たポカペラの顔が青ざめた。それでも、いつもの愛想のいい、元気いっぱいの顔を崩すわけにはいかないらしい。

「あら、店主さん! 今日はどうなさいました?」

 ポカが笑顔で聞いた。

「依頼を出しに来た!」

 そう言うと、ポカの拳が一度、ぎゅっと握られた。

「では、まずこちらの用紙にご記入をお願いします」

 差し出された用紙を受け取り、ざっと目を通す。受付にあったペンを取り、さっさと書き込んだ。

 依頼

 依頼内容:

 仲夏祭の三日間、ギルド向かいの茶屋台の店主を手伝い、市での販売を行うこと。

 等級制限:なし。

 報酬:一日につき銀貨二枚。

 その他の条件:

 話し上手で、見た目も感じもいい方。

 俺の書いた依頼書を持つポカペラの手が、震えていた。いつもの作り笑いのまま、奥歯をきつくかみしめているせいで、顎の辺りがぴくぴく動いている。

「これで大丈夫です! 依頼を受ける方が見つかりましたら、向かいの屋台を直接訪ねるよう、お伝えします!」

 どうにか声の調子を保とうとしていた。

「うんうん。なるべく早く頼むぞ」

 そう言ってくるりと背を向け、俺は胸を張ってギルドを出た。

 へへっ。二十年以上たって、とうとう俺も勇者ギルドのお客様だ。いい気分じゃねえか。

 ただ、引き受ける奴がいるかどうかは、わからない。一日銀貨二枚が、俺の出せる限界だ。あいつらにとって、それが魅力のある額なのかどうか。

 少し意外なことに、その日の午後には、依頼書を持った奴がやってきた。

 客と話していると、一人の男が足取りも軽く屋台に入ってきた。

「よう、店主。この依頼、あんたが出したのか?」

 振り向いてみると、おっ。クラム老人のために芝居をしたとき、ウェストを演じていた弓手の兄ちゃんじゃないか。

「ああ、俺だ。引き受けてくれるのか?」

「祭りだからって、別にやることもないしな。引き受けるよ」

 一目で、明るくて頭の回転も速そうな奴だとわかる。あの芝居を思いついたのも、この兄ちゃんだった。

 背は低くない。少し長めの金髪を、高い位置で無造作にひとつに結び、体にぴったりした革鎧(かわよろい)を着て、背中には長弓を背負っている。顔立ちがいいとは言えないが、どこか抜け目がなさそうで、背筋もすっと伸びている。

「うちには何度も来てるし、茶の名前も知ってるだろ。祭りの間は、一杯銅貨二十枚に値上げする。それと、足湯パックも一緒に売るんだ」

 俺は大まかな段取りを説明した。

「わかった。店主の言うとおりにやる。当日は、宣伝文句も俺が書くよ」

「おう、頼む。そういや、名前は?」

「ニコライって呼んでくれ」

 仲夏祭、一日目の朝。

 約束どおり、ニコライは朝早く、うちの屋台にやってきた。

 俺は荷物を満載した荷車を引いていた。積んである茶は、昨夜、夜中までかかって仕込んだものだ。いつもの一日分の、ざっと三倍はある。

 ニコライが後ろから押してくれたが、それでもずいぶん時間がかかった。山車(だし)の行列が始まる前に、どうにか饗宴大通りの市へたどり着き、そこからまたひと苦労して、ようやく借りた場所を見つけた。

 道具と、茶の入った大桶を荷車から下ろし、店の後ろの空き地へ置いていく。ニコライがいるおかげで、ずいぶん楽だった。やっぱり、普通の人間の力じゃ勇者にはかなわない。

 荷物を下ろし終えると、ニコライが看板用の板を取り出した。もう大きな字で書いてある。

 花と草の特製足湯パック 勇者たちも愛用!

 文字の隣には、人の絵も小さく描いてあった。どうも、自分を手本にしたらしい。

「いいじゃねえか。うまいこと書いたな」

 商人でもない勇者にしては、なかなかの出来だった。正直、ここまでやってくれるとは思っていなかった。

「へへっ。悪くないだろ? 役に立つといいけどな」

 ニコライが笑った。

 それから、値段を書いた札も掛けた。

 各種花草茶 一杯銅貨二十枚

 足湯パック 一袋銅貨十五枚

 お茶と足湯パックのセット 銅貨三十枚

 全部並べ終えて、ようやく周りを見る余裕ができた。

 場所は悪くない。市の真ん中辺りで、奥に引っ込みすぎてもいない。道の両側には、一人で芸を披露するための小さな舞台が、いくつも組まれている。山車が通り過ぎたら、道の真ん中へ運び出すのだ。ほかの店もだいたい支度を終え、どこの店主も、午後から押し寄せる客を待って腕まくりしていた。

 山車の行列が始まった。

 例年と変わらない。先頭は女神テタラント、次が国王と王妃の像を載せた山車。その後ろには、さまざまな英雄の物語をかたどった山車が続く。

 饗宴大通りの両側は見物人で埋まり、歓声や口笛、祝いの声が、今年も王都の空に響き渡った。

 行列が終わると、市の会場となる饗宴大通りが人々に開放された。たちまち、市民たちが歓声を上げて市へなだれ込み、ここは商人たちの戦場になった。

 どの店も声を張り上げ、売り込みに必死だ。平民たちの持っている銅貨を、一枚残らず稼いでやろうという勢いだった。

 俺とニコライも負けてはいられない。

 薄い木でできた安いカップに、あらかじめいろんな茶を注いで、店先に並べておく。持ち歩きやすいようにだ。反対側には、足湯パックを三十袋出した。

「お茶! お茶だよ! うまい花草茶!」

「足湯パック! しつこい水虫に!」

 二人で声を張り上げたが、いくら叫んでも、人の声の海に呑まれてしまう。

 道の真ん中では、百歩おきに置かれた小さな舞台で、次々と出し物が始まった。人と人の肩がぶつかり、場所によっては、押し合わなければ通れない。頭上には色とりどりの飾り紐や花が渡され、通りはすっかり祭りの熱気に包まれていた。

「これ、よく効くんだよ。俺も勇者でね、自分で使ってるから。いくつにする? 二つ? 店主! 足湯パック二つ!」

「自分で取ってくれ! こっちは手が離せねえ!」

「お茶もどう? 一緒に買った方がお得だよ。三つ? セットを三つだね? 店主! お茶と足湯パック、三セット!」

「茶は客に好きなの選んでもらえ! 金だけ受け取っといてくれ!」

 一秒も手を止める暇がない。まだ始まってそんなにたってもいないのに、茶は三十杯以上、足湯パックも十何袋か売れていた。

 夕方近くまで忙しさが続いたが、ようやく通りの人が目に見えて減ってきた。最初に押し寄せた客たちが、買い物を済ませて引き上げていく。

 俺とニコライは店の後ろの腰掛けにへたり込み、荒い息をついた。叫びすぎて、二人とも声ががらがらだ。霜草茶を二杯注ぎ、一杯を渡してやった。

「いやあ、こんなに疲れるとは思わなかった」

 笑いながら言ったつもりが、城外の農家で鳴いてる雄のアヒルみたいな声が出た。

「ほんとだよ、店主。魔物を討伐するより疲れるとは思わなかった」

 ニコライも霜草茶をぐいっと飲み、同じようなアヒル声で答えた。

 その後も、ぽつぽつと何杯か売れた。

「店主、今日はもうどれくらい売れた?」

「銀貨十何枚分にはなってるな。あとで銀貨に替えとかねえと。銅貨ばっかり増えても、かさばってしょうがねえ」

 辺りは次第に暗くなり、道の両側に松明(たいまつ)がともった。饗宴門から吹き込む南風が通りを抜け、うだるような夏の夜に、いくらか涼しさを運んでくる。市は夜市になったが、にぎわいは少しも衰えなかった。

「よし! また客が来たぞ! やるか!」

 通りを行く人が、また増えてきた。夕飯を済ませて祭りに繰り出した連中が多い。

「おう! 全部売り切ろう!」

 ニコライも元気を取り戻し、もうひと勝負する構えだ。

 こうして仲夏祭の市、一日目は、茶も足湯パックも残らず売り切るという大戦果を挙げて終わった。

 仲夏祭、二日目。

 ほとんど寝ていない。昨夜は家に帰ると、まず茶に使った花や草を全部、風通しのいいところに広げて干し、それからまた大量の茶を仕込んだ。金を稼ぐのはたまらなく気持ちがいいが、さすがに疲れる。

 朝早く、荷車を引いて屋台へ行き、ニコライと落ち合った。ニコライの方は昨夜、たっぷり寝たらしい。すっかり元気になっていた。

「よう、店主。その目の下の隈(くま)……今日、持つのか?」

 ニコライが笑って聞いた。

「大丈夫だ。奥の手がある」

 ズボンのポケットから地精草(ちせいそう)の根を何本か取り出し、目の前で振ってみせた。一本選んで口に放り込み、残りはまたポケットへ戻す。

「生でかじるのか?」

「おう。効きゃいいんだよ。心配すんな」

 ニコライに後ろから押してもらい、また荷車を引いて市へ向かった。

 午後の人出は、相変わらずすさまじかった。ただ、もう声を張り上げるのは無理だ。目の前を流れていく人々に、低い声で呼びかけ、売り込むしかない。商売は相変わらず順調だった。

 夕方、残りを確かめると、用意した茶はまだ四割ほどあった。夜市の分には十分だ。

 少し客足が途切れたところで、持ってきたパンと干し肉を出し、ニコライにも渡した。店の後ろの腰掛けに座って食べる。

「お父さん、冷たいお茶が飲みたい」

 店先から幼い声が聞こえた。俺はまだ干し肉を噛んでいたので、ニコライに目で合図した。ニコライは立ち上がり、両手をズボンでぬぐって、客の方へ向かった。

 台の向こうに、小さな男の子の頭が半分のぞいていた。その後ろから、両親が歩いてくる。

 父親はニコライを見るなり、ぴたりと足を止めた。ニコライの動きも、止まったように見えた。

 何だろう。ちょうど口の中の干し肉を飲み込んだ俺は、手をぱんぱんと払って立ち上がった。

 男の目に、涙のようなものが光っている。子供と母親は、どうしたのかわからない様子で男を見ていた。ニコライの笑顔も、さっきまでとは少し違って見えた。

「ニコライさん、どうしてここに?」

 男の声が少し震えていた。

「ああ、ここで二日ほど、店主の商売を手伝ってるんだ。そっちは? どうしてここに?」

 ニコライは穏やかな声で聞いた。

「祭りですから、家族を連れて王都に遊びに来たんです」

「あなた、お知り合い?」

 女は不思議そうに、夫とニコライの顔を見比べた。

「ああ、まだ紹介してなかったな。この方が、前に話した勇者のニコライさんだ。うちの恩人だよ」

 男は妻と息子に向かって、一言一言、はっきりと言った。

「まあ! あなたがニコライさん?」

 女は驚いて、ニコライの顔をじっと見つめた。やがて目に涙がにじみ、身を乗り出すと、台越しにニコライの手を両手で握った。

「こ、こんなところでお会いするなんて。ああ、私、お礼の品も何も持ってきてなくて。失礼なことを……どうしましょう。本当に、何もなくて……」

 すっかり舞い上がって、言葉がまとまらない。ニコライの手を握りしめたまま離さず、急に子供の方を向いた。

「ほら、早く! ひざをついて! ニコライさんにお礼を言いなさい! お父さんの命を助けてくださった方なのよ!」

 男の子はどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。

「いやいや、そんなことさせなくていいから。せっかくの祭りなんだし」

 ニコライが慌てて母子を止めた。父親はずっと笑顔のまま何も言わず、頬にはもう涙が流れていた。

「店主、この人たちに茶を三杯。俺のおごりでいいか?」

 ニコライが振り返って聞いた。

「おう。俺は構わねえよ」

「だめです、だめです! それだけは絶対に。恩人にごちそうまでしていただくなんて、そんなことできません!」

 女は返事も待たず、金を探し始めた。

 何度か押し問答が続いたが、夫婦がどうしても譲らないので、ニコライはとうとう金を受け取った。

「村は、あれからどう?」

「元気にやってます。あれ以来、魔物も出なくなって。みんな、幸せに暮らしていますよ」

「そっか。よかった」

 ニコライは、もう一度「よかった」とつぶやいた。

「この話は、子供の前ではよそうか。せっかく王都まで来たんだし、遊びに連れていってあげてよ」

「でも、せっかくお会いできたのに……」

 女はまだ離れがたい様子だった。

「いいから、いいから。楽しんできて」

 ニコライはずっと、親しげに笑っていた。

 男は妻と子供を連れて、ニコライに深々と頭を下げた。

「また村にも遊びに来てください!」

 三人は手を振り、饗宴門の方へ、市の奥に向かって歩いていった。

 ニコライはしばらく何も言わなかった。何かを思っているらしい。店の後ろの腰掛けに戻り、黙って座った。懐かしい人に会えて喜んでいるようには、少しも見えなかった。

 俺はその間にも、茶を何杯か、足湯パックを何袋か売った。幸い、今はまだ客が少ない。ただ、もうすぐすっかり暗くなる。

「昔、助けた人なのか?」

「うん」

「また会えたんだから、うれしいんじゃないのか?」

「救えたのは、あの人一人だけなんだ……」

 ニコライを見た。体を前に傾け、両手を膝に置き、空っぽな目で前を見つめている。何かを思い出したのは、明らかだった。

 ぱんっ!

 俺は手を振り上げ、ニコライの背中をひっぱたいた。

「よし。誰も救えないより、一人でも救えた方がいいだろ。ほら、仕事だ」

 ニコライは顔を上げて俺を見た。それから、手を差し出した。

「地精草の根、まだある?」

 俺は笑って、ズボンのポケットから一本取り出して渡した。ニコライは口に入れて噛み、立ち上がった。

「店主の言うとおりだ! 働くか!」

 夜市の客が、また押し寄せてきた。昨日より多い。大通りは人の声で満ち、道の両側に立つ大きな松明と、店先の小さな油ランプが、辺りを明るく照らしている。道の真ん中では、どの舞台でも芸人たちが懸命に芸を披露していた。

 俺とニコライは残り少ない力を振り絞り、がらがらの声で呼び込みを続けた。

「花草茶! 冷たくて体にいい花草茶だよ!」

「足湯パック! 勇者も愛用の足湯パック! お茶と一緒ならお得だよ!」

 それから一時間ほど売り続けると、どの桶も底が見えるほどになった。

 今日は早く休めるんじゃないか? 二人で声を上げて笑った。

「足湯パックが、あと少しだ! もうひと頑張りして、全部売っちまおう!」

 そんな景気のいいことを言っていると、市の南の方から、何やら騒ぐ声が聞こえてきた。

 初めは祭りのざわめきに紛れて、よく聞き取れなかった。だが、その声が少しずつ周りの声を押しのけ、はっきりしてくる。

 悲鳴だった。

 声のする方が、何だか、だんだん明るくなっている。

 俺とニコライは首を伸ばし、何が起きているのか見ようとした。夜市を歩いていた人々も足を止め、饗宴門の方を振り向いていた。

「火事だ――!」

 最初にはっきり聞こえたのは、その声だった。

 続いて、いくつもの悲鳴が一度に押し寄せた。

 ようやく見えた。遠くの市を明るく照らしていたのは、次々と噴き上がる炎の、赤みがかった橙色の光だった。

「火事だ――!」

「逃げろ――!」

 人々が慌てだした。南から逃げてくる大勢の人間が、まだそちらへ向かっていた人々にぶつかった。靴が脱げる。誰かが押し倒される。子供が泣き叫び、人と人が、めちゃくちゃに押し合っていた。

 火の回りは恐ろしく速かった。

 饗宴門から吹き込む南風にあおられ、並んだ店の屋根の布を伝って、炎が北へ北へと走る。道の真ん中の舞台にも火がついた。頭上に渡された飾り紐や花が呑まれ、焼き切れた紐が人混みへ垂れ落ちる。人の服にも火がつき始めた。風に運ばれた火の粉が、さらに先の店にも火をつけた。

 通りには煙が広がり、南から北へゆっくり流れ始めていた。遠くが見えなくなっていく。さっきまでにぎわっていた市が、炎と煙の中で、迷路のように見えた。

 俺はその場に突っ立っていた。逃げる人々が店先に押し寄せ、ぶつかってくる。何をすればいいのか、わからなかった。

 ニコライが、茶の少し残った桶を次々につかみ、中身を自分にぶっかけた。すぐさま店の台へ飛び乗り、俺に怒鳴った。

「布を全部引きずり下ろせ!」

 それから、近くで同じように立ち尽くしていた店主たちにも叫んだ。

「早く! 布を全部外せ!」

 台を蹴って跳び、人混みの中へ飛び込むと、火の方へ懸命に走っていった。

 俺は我に返った。

 屋根の布を支える棒を蹴り倒し、反対側へ走って、もう一本も蹴り倒す。布をつかみ、引っ張り、引きちぎって下ろした。丸めて、茶の空き桶に押し込む。続いて、金の入った木箱も、茶の入っていた桶に突っ込んだ。

 そこでようやく、顔を上げた。

 火はもう、うちの店から百歩もないところまで来ていた。周りの店主たちも、必死に布を引きはがしている。俺は隣の店へ駆け寄り、一緒になって布を引っ張った。

 すると、服に火のついた人が、何人かこちらへ走ってきた。

 今しがた外した布を手に、俺はそのうちの一人に駆け寄った。燃えている服を、むちゃくちゃに叩いた。ようやく火が消えると、その人は転がるように逃げていった。

 何で、こんなことになったんだ?

 道の真ん中に立ち、俺は目の前の光景を見ていた。何人かが水桶を提げ、逃げてくる人たちとは逆に、火の方へ駆けていく。

 ついさっきまで、あんなににぎやかな祭りだったのに。どうして、一瞬でこんな地獄になったんだ?

 頭の中は、真っ白だった。

 火は、うちの店まであと数十歩というところで食い止められた。それ以上、北へ燃え広がってはこなかったが、遠くではまだ、濃い黒煙の中に橙色の炎がちらついていた。

 ぼんやり立っていると、煙の中から人影が現れた。

 一人を背負い、右手でもう一人を支えている。目の前まで来て、ようやくニコライだとわかった。服も、むき出しの肌も、真っ黒になっていた。後ろで結んだ髪も、半分焼け落ちている。

 背負っていた人を下ろし、支えていた方の顔を見た。

「まだ歩けるか?」

 何度か咳き込みながら、ニコライが聞いた。

 その人は、どうにかうなずいた。

「じゃあ、この人を連れて外へ」

 ニコライは、今下ろしたばかりの人を示した。

 それから俺を見た。大きく息を吸うと、振り返り、また煙の中へ走っていった。

 俺も我に返った。何か、できることはないか。

 いつもの屋台なら、少なくともカップを洗う水が大桶一杯はある。火を消すのにも使えたはずだ。だが、今は何もない。

 周りの店主たちを見た。さっきまで客を取り合っていた連中も、道へ出てきた。誰に言われるでもなく、俺も、ほかの店主たちも、煙と炎の中から逃げてきた人に肩を貸し、背負って、デューク通りの方へ運び始めた。市の入口まで行くか、途中で別の誰かに引き継ぐと、また引き返し、次に逃げてきた人を助けた。

 一人を市の入口まで送り届け、店へ戻る途中、治安兵団が大量の水桶を担いで駆け込んでいくのが見えた。入口では、女たちが自分から集まって、けが人の世話をしている。医者や聖職者も来て、それぞれのやり方で人を救っていた。

 もうすぐ店に戻るというところで、店主らしい男が、小さな男の子を抱えて走ってきた。男は俺を見ると、子供を俺の腕に押しつけ、そのまま引き返していった。

 俺は男の子を抱え、入口へ走った。

 服もズボンも、大半が焼けてなくなっていた。肌は黒と赤が入り交じり、血のにじむ水ぶくれが浮いている。顔も真っ黒で、目鼻立ちもわからない。それなのに、どこか見覚えがある気がした。

 初めのうち、男の子の小さな両手は、俺の首に回されていた。力のない両脚が、俺の走るたびに揺れている。

 だが、いくらも行かないうちに、小さな声がした。

「お父さん……お母さん……」

 それきり、両手が俺の首から滑り落ちた。

 くそっ、死ぬな! 死ぬなよ!

 俺は死に物狂いで入口まで走った。聖職者が一人、立っているのが見えた。その腕に、男の子を押しつけた。

「助けろ! 助けろ!」

 俺はまた引き返して走った。走りながら振り返ると、聖職者は男の子を地面に寝かせ、両手で何かをしていた。子供の体を、薄い白い光が包んでいた。

 悪魔のような炎を上げていた仲夏祭の市が、終わった。

 ニコライが足元をふらつかせながら店に戻ってきたとき、俺は金の入った木箱を抱えて、地面に転がっていた。煙は少しずつ晴れ、木や布の焦げた臭いだけが、饗宴門から吹いてくる夏の夜の南風に乗って、遠くへ散っていく。

 ニコライも隣に倒れ込み、空を見上げて、荒い息をついた。

「店主……俺……来年は来ないからな……一人で……店、出してくれ……」

「俺も……もう、くそっ……出さねえ……出さねえよ……」

 そのまま、二人でしばらく寝転がっていた。それから俺はズボンのポケットを探り、地精草の根をもう一本取り出した。口に入れて半分噛み切り、残りをニコライの上へ放った。

「かじっとけ……はあ……かじっとけ」

 ニコライも根を口に入れた。噛んでいるうちに、なぜか二人同時に、くつくつと笑い出した。

「中で、見たか……あの……あの家族」

 空の星を見ながら、ニコライに聞いた。

「いや……見てない。きっと、とっくに……逃げたんだろ」

「そうだな……とっくに逃げたんだろうな……」

 寝転がって少し力が戻ると、互いに支え合って立ち上がった。ニコライが俺の脇の下に腕を入れて支え、俺は金の詰まった箱を抱えていた。

「まだ持ってるのかよ。明日、取りに来ればいいだろ」

 ニコライは俺の抱えた箱を見て、笑った。

「いいか。俺が焼け死んでも、こいつだけは一緒に連れてくんだよ」

 互いに支え合いながら、ニコライが家まで送ってくれた。

 仲夏祭、三日目。

 市は中止になった。それでも朝早く、俺とニコライは、いつもの屋台で落ち合った。二人とも、まだ肌にすすが染みついている。顔を見合わせ、少し笑った。

 ニコライと市へ行き、桶や道具を持ち帰った。途中で治安兵団の連中に会った。調べたところ、道の真ん中で火吹き芸をしていた道化師(どうけし)の体に、誤って火がついてしまったのだという。慌てて逃げ回るうちに、舞台や道端の店にまで火を移し、あの大火事になったらしい。

 屋台まで送ってもらい、三日分の賃金、銀貨六枚をニコライに渡した。ニコライはそれを見た。

「店主、三日目は、ほとんど働いてないぞ」

「いいんだよ。昨夜、計算してみたんだが、二日だけでも、差し引き銀貨十何枚かは儲かったからな」

 ニコライが笑った。

「わかった。じゃあ、また何か手伝いが要るときは、声をかけてくれ。近いうちに茶を飲みに来るよ」

 銀貨を持って、ニコライは去っていった。

 俺は屋台に座り、昨夜のことを思い返していた。向かいの勇者ギルドの扉が開き、ポカペラが辺りを見回した。それから、無表情のままこちらへ歩いてきた。

「おじさん、けがしてない?」

「ああ。してねえよ」

「そっか。夜、カラカ湖に行く?」

 俺はポカを見て、ふっと笑った。

「いいぞ」


挿絵(By みてみん)

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