第十一章 弓手 ニコライ
「おじさん、ギルドで白魔法使いを探してあげようか? 頭、診てもらったら?」
「いや、ちょっと聞いてみただけだろ。そんなに怒るなって」
俺はへらへら笑った。
「仲夏祭はギルドで残業だって、知ってるでしょ。それなのに、おじさんと屋台を出して、むさ苦しい男たちの足湯パックを売れって? 頭おかしいんじゃないの?」
ポカペラは俺をきっとにらみ、そのまま行ってしまった。
話は簡単だ。グラシャが去ってから、俺はさっそく、あいつの思いつきを金に変えた。毎日、茶に使った材料を集めて日に干し、粉に挽いて、小袋に詰める。新たに金がかかるわけでもないので、一袋銅貨十枚と安く売った。これが、うちの屋台で大当たりしたのだ。茶も飲まず、足湯パックだけを買いに来る奴までいて、毎日、作っても作っても追いつかない。
おまけに、去年は仲夏祭の市がどれだけにぎわうか、この目で見ている。今年は迷わず銀貨十五枚を奮発し、饗宴大通りの市に出店する場所を借りた。なぜ十五枚なのかって? 去年の盛況を見た王都のくそったれどもが、場所代を銀貨五枚も値上げしやがったからだ。
俺の算段はこうだ。まず何日か、足湯パックをうちで売らずにためておく。それを祭りの市へ持っていき、茶と一緒に売る。まとめて買えば、少し安くしてやればいい。市では茶が大量に売れるはずだ。となれば、足湯パックの材料も大量に手に入る。それをまた売る。うまいこと回り始めれば、俺の懐にはひっきりなしに金が転がり込んでくる。
ただ、困ったことに、俺の体は一つしかない。茶を売るだけでも手が回りそうにないのに、足湯パックまで売り込めるか。どうしても、もう一人、手伝いが要る。
それで今日、ちょうど仕事帰りのポカを見かけたので、ついでに聞いてみただけなのだ。それであの言われようだ。はあ。グラシャがまだいてくれたらな。
よくよく考えてみると、この王都には、手伝いを頼めるほど親しい友達もいない。うちの屋台に来る勇者の常連たちを思い浮かべた。うーん。せっかくの祭りに休まず、手伝ってくれる奴なんているだろうか?
翌朝、俺は大股で、堂々と勇者ギルドの門をくぐった。中へ入ると、まっすぐ受付に向かう。
俺を見たポカペラの顔が青ざめた。それでも、いつもの愛想のいい、元気いっぱいの顔を崩すわけにはいかないらしい。
「あら、店主さん! 今日はどうなさいました?」
ポカが笑顔で聞いた。
「依頼を出しに来た!」
そう言うと、ポカの拳が一度、ぎゅっと握られた。
「では、まずこちらの用紙にご記入をお願いします」
差し出された用紙を受け取り、ざっと目を通す。受付にあったペンを取り、さっさと書き込んだ。
依頼
依頼内容:
仲夏祭の三日間、ギルド向かいの茶屋台の店主を手伝い、市での販売を行うこと。
等級制限:なし。
報酬:一日につき銀貨二枚。
その他の条件:
話し上手で、見た目も感じもいい方。
俺の書いた依頼書を持つポカペラの手が、震えていた。いつもの作り笑いのまま、奥歯をきつくかみしめているせいで、顎の辺りがぴくぴく動いている。
「これで大丈夫です! 依頼を受ける方が見つかりましたら、向かいの屋台を直接訪ねるよう、お伝えします!」
どうにか声の調子を保とうとしていた。
「うんうん。なるべく早く頼むぞ」
そう言ってくるりと背を向け、俺は胸を張ってギルドを出た。
へへっ。二十年以上たって、とうとう俺も勇者ギルドのお客様だ。いい気分じゃねえか。
ただ、引き受ける奴がいるかどうかは、わからない。一日銀貨二枚が、俺の出せる限界だ。あいつらにとって、それが魅力のある額なのかどうか。
少し意外なことに、その日の午後には、依頼書を持った奴がやってきた。
客と話していると、一人の男が足取りも軽く屋台に入ってきた。
「よう、店主。この依頼、あんたが出したのか?」
振り向いてみると、おっ。クラム老人のために芝居をしたとき、ウェストを演じていた弓手の兄ちゃんじゃないか。
「ああ、俺だ。引き受けてくれるのか?」
「祭りだからって、別にやることもないしな。引き受けるよ」
一目で、明るくて頭の回転も速そうな奴だとわかる。あの芝居を思いついたのも、この兄ちゃんだった。
背は低くない。少し長めの金髪を、高い位置で無造作にひとつに結び、体にぴったりした革鎧を着て、背中には長弓を背負っている。顔立ちがいいとは言えないが、どこか抜け目がなさそうで、背筋もすっと伸びている。
「うちには何度も来てるし、茶の名前も知ってるだろ。祭りの間は、一杯銅貨二十枚に値上げする。それと、足湯パックも一緒に売るんだ」
俺は大まかな段取りを説明した。
「わかった。店主の言うとおりにやる。当日は、宣伝文句も俺が書くよ」
「おう、頼む。そういや、名前は?」
「ニコライって呼んでくれ」
仲夏祭、一日目の朝。
約束どおり、ニコライは朝早く、うちの屋台にやってきた。
俺は荷物を満載した荷車を引いていた。積んである茶は、昨夜、夜中までかかって仕込んだものだ。いつもの一日分の、ざっと三倍はある。
ニコライが後ろから押してくれたが、それでもずいぶん時間がかかった。山車の行列が始まる前に、どうにか饗宴大通りの市へたどり着き、そこからまたひと苦労して、ようやく借りた場所を見つけた。
道具と、茶の入った大桶を荷車から下ろし、店の後ろの空き地へ置いていく。ニコライがいるおかげで、ずいぶん楽だった。やっぱり、普通の人間の力じゃ勇者にはかなわない。
荷物を下ろし終えると、ニコライが看板用の板を取り出した。もう大きな字で書いてある。
花と草の特製足湯パック 勇者たちも愛用!
文字の隣には、人の絵も小さく描いてあった。どうも、自分を手本にしたらしい。
「いいじゃねえか。うまいこと書いたな」
商人でもない勇者にしては、なかなかの出来だった。正直、ここまでやってくれるとは思っていなかった。
「へへっ。悪くないだろ? 役に立つといいけどな」
ニコライが笑った。
それから、値段を書いた札も掛けた。
各種花草茶 一杯銅貨二十枚
足湯パック 一袋銅貨十五枚
お茶と足湯パックのセット 銅貨三十枚
全部並べ終えて、ようやく周りを見る余裕ができた。
場所は悪くない。市の真ん中辺りで、奥に引っ込みすぎてもいない。道の両側には、一人で芸を披露するための小さな舞台が、いくつも組まれている。山車が通り過ぎたら、道の真ん中へ運び出すのだ。ほかの店もだいたい支度を終え、どこの店主も、午後から押し寄せる客を待って腕まくりしていた。
山車の行列が始まった。
例年と変わらない。先頭は女神テタラント、次が国王と王妃の像を載せた山車。その後ろには、さまざまな英雄の物語をかたどった山車が続く。
饗宴大通りの両側は見物人で埋まり、歓声や口笛、祝いの声が、今年も王都の空に響き渡った。
行列が終わると、市の会場となる饗宴大通りが人々に開放された。たちまち、市民たちが歓声を上げて市へなだれ込み、ここは商人たちの戦場になった。
どの店も声を張り上げ、売り込みに必死だ。平民たちの持っている銅貨を、一枚残らず稼いでやろうという勢いだった。
俺とニコライも負けてはいられない。
薄い木でできた安いカップに、あらかじめいろんな茶を注いで、店先に並べておく。持ち歩きやすいようにだ。反対側には、足湯パックを三十袋出した。
「お茶! お茶だよ! うまい花草茶!」
「足湯パック! しつこい水虫に!」
二人で声を張り上げたが、いくら叫んでも、人の声の海に呑まれてしまう。
道の真ん中では、百歩おきに置かれた小さな舞台で、次々と出し物が始まった。人と人の肩がぶつかり、場所によっては、押し合わなければ通れない。頭上には色とりどりの飾り紐や花が渡され、通りはすっかり祭りの熱気に包まれていた。
「これ、よく効くんだよ。俺も勇者でね、自分で使ってるから。いくつにする? 二つ? 店主! 足湯パック二つ!」
「自分で取ってくれ! こっちは手が離せねえ!」
「お茶もどう? 一緒に買った方がお得だよ。三つ? セットを三つだね? 店主! お茶と足湯パック、三セット!」
「茶は客に好きなの選んでもらえ! 金だけ受け取っといてくれ!」
一秒も手を止める暇がない。まだ始まってそんなにたってもいないのに、茶は三十杯以上、足湯パックも十何袋か売れていた。
夕方近くまで忙しさが続いたが、ようやく通りの人が目に見えて減ってきた。最初に押し寄せた客たちが、買い物を済ませて引き上げていく。
俺とニコライは店の後ろの腰掛けにへたり込み、荒い息をついた。叫びすぎて、二人とも声ががらがらだ。霜草茶を二杯注ぎ、一杯を渡してやった。
「いやあ、こんなに疲れるとは思わなかった」
笑いながら言ったつもりが、城外の農家で鳴いてる雄のアヒルみたいな声が出た。
「ほんとだよ、店主。魔物を討伐するより疲れるとは思わなかった」
ニコライも霜草茶をぐいっと飲み、同じようなアヒル声で答えた。
その後も、ぽつぽつと何杯か売れた。
「店主、今日はもうどれくらい売れた?」
「銀貨十何枚分にはなってるな。あとで銀貨に替えとかねえと。銅貨ばっかり増えても、かさばってしょうがねえ」
辺りは次第に暗くなり、道の両側に松明がともった。饗宴門から吹き込む南風が通りを抜け、うだるような夏の夜に、いくらか涼しさを運んでくる。市は夜市になったが、にぎわいは少しも衰えなかった。
「よし! また客が来たぞ! やるか!」
通りを行く人が、また増えてきた。夕飯を済ませて祭りに繰り出した連中が多い。
「おう! 全部売り切ろう!」
ニコライも元気を取り戻し、もうひと勝負する構えだ。
こうして仲夏祭の市、一日目は、茶も足湯パックも残らず売り切るという大戦果を挙げて終わった。
仲夏祭、二日目。
ほとんど寝ていない。昨夜は家に帰ると、まず茶に使った花や草を全部、風通しのいいところに広げて干し、それからまた大量の茶を仕込んだ。金を稼ぐのはたまらなく気持ちがいいが、さすがに疲れる。
朝早く、荷車を引いて屋台へ行き、ニコライと落ち合った。ニコライの方は昨夜、たっぷり寝たらしい。すっかり元気になっていた。
「よう、店主。その目の下の隈……今日、持つのか?」
ニコライが笑って聞いた。
「大丈夫だ。奥の手がある」
ズボンのポケットから地精草の根を何本か取り出し、目の前で振ってみせた。一本選んで口に放り込み、残りはまたポケットへ戻す。
「生でかじるのか?」
「おう。効きゃいいんだよ。心配すんな」
ニコライに後ろから押してもらい、また荷車を引いて市へ向かった。
午後の人出は、相変わらずすさまじかった。ただ、もう声を張り上げるのは無理だ。目の前を流れていく人々に、低い声で呼びかけ、売り込むしかない。商売は相変わらず順調だった。
夕方、残りを確かめると、用意した茶はまだ四割ほどあった。夜市の分には十分だ。
少し客足が途切れたところで、持ってきたパンと干し肉を出し、ニコライにも渡した。店の後ろの腰掛けに座って食べる。
「お父さん、冷たいお茶が飲みたい」
店先から幼い声が聞こえた。俺はまだ干し肉を噛んでいたので、ニコライに目で合図した。ニコライは立ち上がり、両手をズボンでぬぐって、客の方へ向かった。
台の向こうに、小さな男の子の頭が半分のぞいていた。その後ろから、両親が歩いてくる。
父親はニコライを見るなり、ぴたりと足を止めた。ニコライの動きも、止まったように見えた。
何だろう。ちょうど口の中の干し肉を飲み込んだ俺は、手をぱんぱんと払って立ち上がった。
男の目に、涙のようなものが光っている。子供と母親は、どうしたのかわからない様子で男を見ていた。ニコライの笑顔も、さっきまでとは少し違って見えた。
「ニコライさん、どうしてここに?」
男の声が少し震えていた。
「ああ、ここで二日ほど、店主の商売を手伝ってるんだ。そっちは? どうしてここに?」
ニコライは穏やかな声で聞いた。
「祭りですから、家族を連れて王都に遊びに来たんです」
「あなた、お知り合い?」
女は不思議そうに、夫とニコライの顔を見比べた。
「ああ、まだ紹介してなかったな。この方が、前に話した勇者のニコライさんだ。うちの恩人だよ」
男は妻と息子に向かって、一言一言、はっきりと言った。
「まあ! あなたがニコライさん?」
女は驚いて、ニコライの顔をじっと見つめた。やがて目に涙がにじみ、身を乗り出すと、台越しにニコライの手を両手で握った。
「こ、こんなところでお会いするなんて。ああ、私、お礼の品も何も持ってきてなくて。失礼なことを……どうしましょう。本当に、何もなくて……」
すっかり舞い上がって、言葉がまとまらない。ニコライの手を握りしめたまま離さず、急に子供の方を向いた。
「ほら、早く! ひざをついて! ニコライさんにお礼を言いなさい! お父さんの命を助けてくださった方なのよ!」
男の子はどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
「いやいや、そんなことさせなくていいから。せっかくの祭りなんだし」
ニコライが慌てて母子を止めた。父親はずっと笑顔のまま何も言わず、頬にはもう涙が流れていた。
「店主、この人たちに茶を三杯。俺のおごりでいいか?」
ニコライが振り返って聞いた。
「おう。俺は構わねえよ」
「だめです、だめです! それだけは絶対に。恩人にごちそうまでしていただくなんて、そんなことできません!」
女は返事も待たず、金を探し始めた。
何度か押し問答が続いたが、夫婦がどうしても譲らないので、ニコライはとうとう金を受け取った。
「村は、あれからどう?」
「元気にやってます。あれ以来、魔物も出なくなって。みんな、幸せに暮らしていますよ」
「そっか。よかった」
ニコライは、もう一度「よかった」とつぶやいた。
「この話は、子供の前ではよそうか。せっかく王都まで来たんだし、遊びに連れていってあげてよ」
「でも、せっかくお会いできたのに……」
女はまだ離れがたい様子だった。
「いいから、いいから。楽しんできて」
ニコライはずっと、親しげに笑っていた。
男は妻と子供を連れて、ニコライに深々と頭を下げた。
「また村にも遊びに来てください!」
三人は手を振り、饗宴門の方へ、市の奥に向かって歩いていった。
ニコライはしばらく何も言わなかった。何かを思っているらしい。店の後ろの腰掛けに戻り、黙って座った。懐かしい人に会えて喜んでいるようには、少しも見えなかった。
俺はその間にも、茶を何杯か、足湯パックを何袋か売った。幸い、今はまだ客が少ない。ただ、もうすぐすっかり暗くなる。
「昔、助けた人なのか?」
「うん」
「また会えたんだから、うれしいんじゃないのか?」
「救えたのは、あの人一人だけなんだ……」
ニコライを見た。体を前に傾け、両手を膝に置き、空っぽな目で前を見つめている。何かを思い出したのは、明らかだった。
ぱんっ!
俺は手を振り上げ、ニコライの背中をひっぱたいた。
「よし。誰も救えないより、一人でも救えた方がいいだろ。ほら、仕事だ」
ニコライは顔を上げて俺を見た。それから、手を差し出した。
「地精草の根、まだある?」
俺は笑って、ズボンのポケットから一本取り出して渡した。ニコライは口に入れて噛み、立ち上がった。
「店主の言うとおりだ! 働くか!」
夜市の客が、また押し寄せてきた。昨日より多い。大通りは人の声で満ち、道の両側に立つ大きな松明と、店先の小さな油ランプが、辺りを明るく照らしている。道の真ん中では、どの舞台でも芸人たちが懸命に芸を披露していた。
俺とニコライは残り少ない力を振り絞り、がらがらの声で呼び込みを続けた。
「花草茶! 冷たくて体にいい花草茶だよ!」
「足湯パック! 勇者も愛用の足湯パック! お茶と一緒ならお得だよ!」
それから一時間ほど売り続けると、どの桶も底が見えるほどになった。
今日は早く休めるんじゃないか? 二人で声を上げて笑った。
「足湯パックが、あと少しだ! もうひと頑張りして、全部売っちまおう!」
そんな景気のいいことを言っていると、市の南の方から、何やら騒ぐ声が聞こえてきた。
初めは祭りのざわめきに紛れて、よく聞き取れなかった。だが、その声が少しずつ周りの声を押しのけ、はっきりしてくる。
悲鳴だった。
声のする方が、何だか、だんだん明るくなっている。
俺とニコライは首を伸ばし、何が起きているのか見ようとした。夜市を歩いていた人々も足を止め、饗宴門の方を振り向いていた。
「火事だ――!」
最初にはっきり聞こえたのは、その声だった。
続いて、いくつもの悲鳴が一度に押し寄せた。
ようやく見えた。遠くの市を明るく照らしていたのは、次々と噴き上がる炎の、赤みがかった橙色の光だった。
「火事だ――!」
「逃げろ――!」
人々が慌てだした。南から逃げてくる大勢の人間が、まだそちらへ向かっていた人々にぶつかった。靴が脱げる。誰かが押し倒される。子供が泣き叫び、人と人が、めちゃくちゃに押し合っていた。
火の回りは恐ろしく速かった。
饗宴門から吹き込む南風にあおられ、並んだ店の屋根の布を伝って、炎が北へ北へと走る。道の真ん中の舞台にも火がついた。頭上に渡された飾り紐や花が呑まれ、焼き切れた紐が人混みへ垂れ落ちる。人の服にも火がつき始めた。風に運ばれた火の粉が、さらに先の店にも火をつけた。
通りには煙が広がり、南から北へゆっくり流れ始めていた。遠くが見えなくなっていく。さっきまでにぎわっていた市が、炎と煙の中で、迷路のように見えた。
俺はその場に突っ立っていた。逃げる人々が店先に押し寄せ、ぶつかってくる。何をすればいいのか、わからなかった。
ニコライが、茶の少し残った桶を次々につかみ、中身を自分にぶっかけた。すぐさま店の台へ飛び乗り、俺に怒鳴った。
「布を全部引きずり下ろせ!」
それから、近くで同じように立ち尽くしていた店主たちにも叫んだ。
「早く! 布を全部外せ!」
台を蹴って跳び、人混みの中へ飛び込むと、火の方へ懸命に走っていった。
俺は我に返った。
屋根の布を支える棒を蹴り倒し、反対側へ走って、もう一本も蹴り倒す。布をつかみ、引っ張り、引きちぎって下ろした。丸めて、茶の空き桶に押し込む。続いて、金の入った木箱も、茶の入っていた桶に突っ込んだ。
そこでようやく、顔を上げた。
火はもう、うちの店から百歩もないところまで来ていた。周りの店主たちも、必死に布を引きはがしている。俺は隣の店へ駆け寄り、一緒になって布を引っ張った。
すると、服に火のついた人が、何人かこちらへ走ってきた。
今しがた外した布を手に、俺はそのうちの一人に駆け寄った。燃えている服を、むちゃくちゃに叩いた。ようやく火が消えると、その人は転がるように逃げていった。
何で、こんなことになったんだ?
道の真ん中に立ち、俺は目の前の光景を見ていた。何人かが水桶を提げ、逃げてくる人たちとは逆に、火の方へ駆けていく。
ついさっきまで、あんなににぎやかな祭りだったのに。どうして、一瞬でこんな地獄になったんだ?
頭の中は、真っ白だった。
火は、うちの店まであと数十歩というところで食い止められた。それ以上、北へ燃え広がってはこなかったが、遠くではまだ、濃い黒煙の中に橙色の炎がちらついていた。
ぼんやり立っていると、煙の中から人影が現れた。
一人を背負い、右手でもう一人を支えている。目の前まで来て、ようやくニコライだとわかった。服も、むき出しの肌も、真っ黒になっていた。後ろで結んだ髪も、半分焼け落ちている。
背負っていた人を下ろし、支えていた方の顔を見た。
「まだ歩けるか?」
何度か咳き込みながら、ニコライが聞いた。
その人は、どうにかうなずいた。
「じゃあ、この人を連れて外へ」
ニコライは、今下ろしたばかりの人を示した。
それから俺を見た。大きく息を吸うと、振り返り、また煙の中へ走っていった。
俺も我に返った。何か、できることはないか。
いつもの屋台なら、少なくともカップを洗う水が大桶一杯はある。火を消すのにも使えたはずだ。だが、今は何もない。
周りの店主たちを見た。さっきまで客を取り合っていた連中も、道へ出てきた。誰に言われるでもなく、俺も、ほかの店主たちも、煙と炎の中から逃げてきた人に肩を貸し、背負って、デューク通りの方へ運び始めた。市の入口まで行くか、途中で別の誰かに引き継ぐと、また引き返し、次に逃げてきた人を助けた。
一人を市の入口まで送り届け、店へ戻る途中、治安兵団が大量の水桶を担いで駆け込んでいくのが見えた。入口では、女たちが自分から集まって、けが人の世話をしている。医者や聖職者も来て、それぞれのやり方で人を救っていた。
もうすぐ店に戻るというところで、店主らしい男が、小さな男の子を抱えて走ってきた。男は俺を見ると、子供を俺の腕に押しつけ、そのまま引き返していった。
俺は男の子を抱え、入口へ走った。
服もズボンも、大半が焼けてなくなっていた。肌は黒と赤が入り交じり、血のにじむ水ぶくれが浮いている。顔も真っ黒で、目鼻立ちもわからない。それなのに、どこか見覚えがある気がした。
初めのうち、男の子の小さな両手は、俺の首に回されていた。力のない両脚が、俺の走るたびに揺れている。
だが、いくらも行かないうちに、小さな声がした。
「お父さん……お母さん……」
それきり、両手が俺の首から滑り落ちた。
くそっ、死ぬな! 死ぬなよ!
俺は死に物狂いで入口まで走った。聖職者が一人、立っているのが見えた。その腕に、男の子を押しつけた。
「助けろ! 助けろ!」
俺はまた引き返して走った。走りながら振り返ると、聖職者は男の子を地面に寝かせ、両手で何かをしていた。子供の体を、薄い白い光が包んでいた。
悪魔のような炎を上げていた仲夏祭の市が、終わった。
ニコライが足元をふらつかせながら店に戻ってきたとき、俺は金の入った木箱を抱えて、地面に転がっていた。煙は少しずつ晴れ、木や布の焦げた臭いだけが、饗宴門から吹いてくる夏の夜の南風に乗って、遠くへ散っていく。
ニコライも隣に倒れ込み、空を見上げて、荒い息をついた。
「店主……俺……来年は来ないからな……一人で……店、出してくれ……」
「俺も……もう、くそっ……出さねえ……出さねえよ……」
そのまま、二人でしばらく寝転がっていた。それから俺はズボンのポケットを探り、地精草の根をもう一本取り出した。口に入れて半分噛み切り、残りをニコライの上へ放った。
「かじっとけ……はあ……かじっとけ」
ニコライも根を口に入れた。噛んでいるうちに、なぜか二人同時に、くつくつと笑い出した。
「中で、見たか……あの……あの家族」
空の星を見ながら、ニコライに聞いた。
「いや……見てない。きっと、とっくに……逃げたんだろ」
「そうだな……とっくに逃げたんだろうな……」
寝転がって少し力が戻ると、互いに支え合って立ち上がった。ニコライが俺の脇の下に腕を入れて支え、俺は金の詰まった箱を抱えていた。
「まだ持ってるのかよ。明日、取りに来ればいいだろ」
ニコライは俺の抱えた箱を見て、笑った。
「いいか。俺が焼け死んでも、こいつだけは一緒に連れてくんだよ」
互いに支え合いながら、ニコライが家まで送ってくれた。
仲夏祭、三日目。
市は中止になった。それでも朝早く、俺とニコライは、いつもの屋台で落ち合った。二人とも、まだ肌にすすが染みついている。顔を見合わせ、少し笑った。
ニコライと市へ行き、桶や道具を持ち帰った。途中で治安兵団の連中に会った。調べたところ、道の真ん中で火吹き芸をしていた道化師の体に、誤って火がついてしまったのだという。慌てて逃げ回るうちに、舞台や道端の店にまで火を移し、あの大火事になったらしい。
屋台まで送ってもらい、三日分の賃金、銀貨六枚をニコライに渡した。ニコライはそれを見た。
「店主、三日目は、ほとんど働いてないぞ」
「いいんだよ。昨夜、計算してみたんだが、二日だけでも、差し引き銀貨十何枚かは儲かったからな」
ニコライが笑った。
「わかった。じゃあ、また何か手伝いが要るときは、声をかけてくれ。近いうちに茶を飲みに来るよ」
銀貨を持って、ニコライは去っていった。
俺は屋台に座り、昨夜のことを思い返していた。向かいの勇者ギルドの扉が開き、ポカペラが辺りを見回した。それから、無表情のままこちらへ歩いてきた。
「おじさん、けがしてない?」
「ああ。してねえよ」
「そっか。夜、カラカ湖に行く?」
俺はポカを見て、ふっと笑った。
「いいぞ」




