第五章 C級魔法使い グリエル
「喧嘩だ! 喧嘩だ!」
あん?
声のした方を見ると、ルシエ広場の真ん中に人だかりができていた。まだまだ人が集まってくる。
おいおい、こんな面白そうなものを見に行かないなんて、人間の本能に反するだろ! 俺は仕事を放り出し、大急ぎで人だかりに駆け寄ると、爪先立ちで中をのぞいた。
輪の真ん中で、二人の男が取っ組み合っている。がっしりした方が痩せた方に馬乗りになり、顔めがけてめちゃくちゃに拳を振り下ろす。下の男は必死に腕を上げ、顔をかばっていた。と、そいつが腰を跳ね上げ、そろえた両膝で相手の背中を思い切り突き上げた。上の男が振り落とされる。すかさず痩せた男が地面すれすれに足を払い、かわし損ねた相手を転ばせると、その上へ飛びかかった。あっという間に形勢逆転だ。
「やれ!」「いけ!」「ぶっ倒せ!」
周りから次々と野次が飛ぶ。どいつもこいつも大興奮だ。
二人はしばらく地面でもみ合っていたが、示し合わせたようにさっと離れ、立ち上がると、また拳を構えて睨み合った。そこへ、人をかき分けて一人の男が出てきた。二人の間に割って入る。よく見りゃ、ルシエ教会の神官じゃないか。
「さあ、そこまでです」
穏やかな、慈悲深い声だった。
「もう十分、気は済んだでしょう。女神は、人を傷つける者をお守りにはなりません。この教会の前で、これ以上傷つけ合うことは、私も許せません」
二人はようやく拳を下ろした。がっしりした方が、血の混じった唾を地面に吐く。
「けっ。今日は運がよかったな」
「今日はここまでだ。二度と顔を見せるなよ」
痩せた方も凄んで返した。それから二人は人の輪を抜け、それぞれ別の方へ歩いていった。
「はあ、解散だ、解散!」
「つまんねえの」
残念そうな声を上げながら、人だかりがほどけてゆく。俺もまだ見足りない気分で背を向け、商売に戻ろうと屋台へ歩き出した。
「財布を盗まれた!」
後ろで声が上がった。
慌てて振り返ると、一人の男が呆気に取られた顔で、何度も腰の辺りを探っている。
「俺のもだ!」
「あっ、腰につけてた飾りがない!」
「腕輪! 私の腕輪が!」
あっちでもこっちでも、なくなった物に気づき始めた。
まずい。
俺は向き直り、屋台へ駆け戻った。
道具や茶器を置いた木の棚に駆け寄り、下の小さな布をめくる。よかった、よかった。金箱はある。だが、蓋を開けた途端、俺の心は砕け散った。
秋の初めの風には、まだ夏のぬくもりが残っている。それなのに、胸の奥まで氷水が流れ込んできたようだった。棚の前にへたり込む。今日の売り上げ、銅貨二百何十枚も入ってたんだぞ。ない。全部、ない。
座り込んだまま、さっきのことを思い返す。誰かが喧嘩だと叫んで、俺は見に行った。客はそう多くなかった。何人かは、やっぱり見に行ってた気がする。
誰がいた! さっき、誰がいたんだ!
ゆっくりと辺りを見回しながら、記憶のかけらをつなぎ合わせようとする。何か、もう少し思い出せないか。隅に目をやると、ときどき茶を飲みに来るあの刺客が座っていた。手にした茶をちびちび飲んでいる。目が合った。
「ああ、さっき灰色のフードをかぶった奴が、金を全部持ってったよ。こっちには見られてないつもりだったみたいだけど」
何でもないことのように言う。
「何で止めなかったんだよ!」
胸が張り裂けそうな声が出た。
刺客は茶を飲みながら、不思議そうに俺を見る。一口飲み込んでから、言った。
「俺には関係ないだろ」
両手がだらりと落ちた。胸の奥が、締めつけられるように痛い。広場の騒ぎも、だんだん聞こえなくなった。
翌日。
ほとんど一睡もできなかった体と、ずたずたの心を引きずり、どうにか店を開けた。一日中、客の話は盗難騒ぎでもちきりだった。昨日やられたのは俺やほかの平民だけじゃない。見物していた勇者も、ずいぶん盗まれたらしい。
午後、治安兵団がやってきた。前にも世話になったあの小隊長が、何人か連れて勇者ギルドへ入っていく。ずいぶん長いこと中にいたが、出てくると、そのまま俺の屋台へ向かってきた。
小隊長は俺の前に腰を下ろし、こちらを見た。
「昨日、あんたも盗まれたそうだな?」
「ああ……銅貨二百何十枚だぞ……二百何十枚……」
声が震える。顔を上げる気にもならない。
小隊長は後ろの兵に顔を向けた。
「記録しろ。茶屋台の店主、現金の盗難。被害は軽微」
兵が手帳にさっさと書き込んでいく。俺は力なくそいつを見つめた。何も言えなかった。
「一応、事情を聞かせてもらう。何があったか、話してくれ」
誰かが喧嘩だと叫んだこと。俺も見に行ったこと。神官が止めに入ったこと。人が散ってから、みんな盗まれたのに気づいたこと。昨日の一部始終を話すと、後ろの兵がせっせと書き留めた。
「店主、ほかに何か、変わったことには気づかなかったか?」
「ああ……いや、特には。ときどき飲みに来る刺客が、俺の金を盗んだ奴を見てたんだが」
「そいつには、さっきギルドで話を聞いた」
小隊長は立ち上がり、兵を連れて引き揚げようとした。帰り際、ふと顔を引き締め、俺に言う。
「この頃、物騒だ。あんたも気をつけろよ」
そうして、兵たちと去っていった。
夕方には、勇者の客もみんな帰ってしまった。片づける気力もなく、俺は一人、腰掛けに座ってぼんやりとため息をついていた。向かいのギルドの扉が開く。仕事を終えたポカペラだった。扉に鍵をかけると、俺をちらりと見て、こちらへ歩いてくる。
「おじさん、まだお茶ある? 何でもいいから一杯」
顔を上げた。今日は、いつもの無表情とは少し違う。顔に苛立ちがにじんでいた。俺はどうにか力を振り絞って立ち上がり、桶の底に残っていた飲み物を一杯すくった。彼女は腰を下ろし、黙って飲む。しばらく静かだったが、やがて口を開いた。
「昨日盗まれたの、平民を除けば、ほとんど戦士なんだよね。今、街で何て言われてるか知ってる?」
返事をする気になれず、うつむいたまま、自分の不幸に浸っていた。
「ルシエ広場の勇者たちが盗難に遭ったって、街じゅうで言われてる」
立ち上がり、ひとつかみの銅貨をテーブルに放る。
「あんたたち馬鹿のせいで、こっちの仕事がどれだけ増えたか、わかってる?」
嫌そうに俺を一瞥すると、そのまま帰っていった。
はあ。ただでさえこんなに参ってるのに、まだ追い打ちをかけるのかよ。
ん? テーブルの銅貨、ちょっと多くないか?
俺の目に、ほんの少し光が戻った。
三日目。
いくらか元気が出てきた。何だかんだ、商売が大事だ。銅貨二百何十枚はなくしたが、頑張って毎日二十枚ずつ余計に稼げば、十何日かで取り戻せる。
午後、せっせと働いていると、若い魔法使いがギルドを出て、まっすぐ屋台へやってきた。すぐにわかった。前に、金糸草の花をどこで買えるか教えてくれた奴だ。
魔法使いのローブを着て、短い灰色の髪はすっきりと整え、横の髪を耳の後ろへ流している。目は大きくないが、いかにも頭のよさそうな光があった。法杖をテーブルに立てかけ、茶を一杯頼む。
「そろそろ、金糸草花茶の季節ですね」
茶を飲みながら、俺を見た。
「ああ。もう少しすりゃ、今年採れた花で淹れたのが飲めるぞ」
ろくに顔も見ずに答えた。手を止めるわけにはいかない。
「そうですか……店主さん、あとで少し話せますか?」
「じゃあ、このカップを洗い終わるまで待ってくれ」
ほどなく片づいた。辺りを見ても、新しい客が来る様子はない。前掛けで手を拭き、そいつの向かいに座った。
「何の話だ?」
「単刀直入に言います。僕はグリエル。魔法使いです。前にもここでお茶を飲みましたね。一昨日の盗難事件について、ギルド内で依頼が出て、勇者が何人か調査に回されました。不幸にも、僕もその一人です。引き受けさせられた以上、きちんとやるしかありません。それで、まずは店主さんのところから当たろうと思ったんです」
俺には一言一言はっきり聞こえるが、隣の席の連中には聞き取れないくらいの声だった。
だが、話はさっぱりわからない。
「ああ、つまり、ギルドに言われて、俺の金を盗んだ奴を捕まえに来たってことか?」
「ええ。店主さんには、そのくらいの理解でいいでしょう」
「じゃあ、捕まえに行けよ。何で俺のところに来るんだ? どんな奴だったかは、あの刺客に聞けばいいだろ」
グリエルはのんびりと茶を飲みながら、馬鹿を見るような目で俺を見た。
思い出した。前に来たときも、こんな目だった。
「店主さん、話はそう単純じゃないんです。あの日の盗難事件、どういうことだったと思いますか?」
「え? みんなが喧嘩を見てる隙に、泥棒が物を盗んだんだろ。違うのか?」
グリエルは小さくため息をついた。何を言っても通じない、とでも言いたげな顔だった。
「では、あの日のことを、もう一度詳しく話してください」
「またかよ? 広場で二人が喧嘩してて、みんなで見てたら神官が止めに入って、人が散ってから盗まれたのに気づいた。それだけだろ」
「はあ……では、その二人がどうやって喧嘩していたか、詳しく聞かせてください」
「一人はがっしりしてて、もう一人は痩せてた。俺が人の間に入ったときは、がっしりした方が馬乗りになって、痩せた方の顔を殴ってたんだ。そしたら下の奴が腰を跳ね上げて、両膝で相手の背中を突き上げた。上の奴が転げ落ちて、立ち上がったところを、痩せた奴が地面から足を払って転ばせて、その上に飛びかかって殴った。それから急に二人とも離れて、立ち上がって拳を構えてた。それだけだよ」
あの日のことを、できるだけ思い出しながら話した。
グリエルは少し笑った。それから、思いもしないことを聞いてきた。
「僕が前に来たとき、何を飲んだか覚えてますか?」
「ラズベリー入り霜草茶だろ。夏に出してる、俺の特製の」
何で急にそんなことを聞くんだ?
あいつは声を上げて笑った。さっきまでの、馬鹿を見るような目が少し和らぐ。
「やっぱり、思った通りです。店主さんは察しが悪い上に、なかなかの石頭です。でも、自分でも気づいていない観察力と記憶力を持ってるんですよ」
え? 俺が? そんな気はしねえけど。
ぽかんとしている俺に、さらに聞いてくる。
「信じられないなら、その二人が何を着ていたかも言ってみてください」
「がっしりした方は茶色の上着で、下はベージュのズボン。たぶん粗い麻布だった。痩せた方は全身灰色で、短い上着にキュロットだった。それが何だってんだ? あんなに大勢見てたじゃねえか」
「ギルドでは、見物していた勇者全員に、二人の服装や喧嘩の様子を聞いたんです。ですが、そこまで正確にはっきり答えられた人は、一人もいませんでした」
え?
そう言われりゃ、昔から物覚えはよかった気がするな。ちょっといい気分になってきた。
「でも、それってそんなに大事なことか? 俺、泥棒の顔なんか見てねえぞ」
グリエルは俺に向き直り、両手で顎を支えた。ひどく真面目な声で聞く。
「店主さんなら、人と喧嘩するとき、どうやって戦いますか?」
「俺か? そうだな……まずは股間蹴りだな。下から一発。それで、相手が股間を押さえてかがんだところを、顔に一発。うん、たぶんそんな感じだ」
俺も真剣に答えた。
「でしょう。それが、格闘の心得のない人の喧嘩なんです」
「ってことは、あの二人は心得があるってことか?」
グリエルは直接それには答えず、こんな話を始めた。
「治安兵団の調べでは、あの日ルシエ広場で盗難に遭ったのは、勇者と平民を合わせて二十六人。そこらの盗賊団にできると思いますか? 平民はともかく、勇者にまで手を出しますかね。しかも、組織立って勇者や平民から物を盗んでいるそのときに、心得のある二人が喧嘩をしていた。偶然でしょうか?」
「つまり……大勢で仕組んだことだってのか? あの喧嘩してた二人も仲間なのか?」
ちょっと驚いた。
「ええ。もう少し話しても構わないでしょう。ルシエ広場の件のような大規模な盗難事件は、このところ王都で三度起きています。それと同時に、強盗や殺人も急激に増えているんです」
「何だ? 王都に急に悪い奴が増えたってことか?」
何かほかの意味もあるのか、俺にはわからない。
「ええ。店主さんにここまで話せるのは、そこから先は考えつかないとわかっているからです。今日はこの辺にしましょう。今のところ、手がかりは十分もらえました。お勘定を」
「ああ、銅貨十枚」
立ち上がると、銅貨を十枚数えてテーブルに置いた。それからもう十枚取り出し、俺の目の前でちらつかせる。
「こちらは情報料です」
合わせて二十枚をテーブルに残し、法杖を手に、さっさと帰っていった。
夜、家に帰って寝台に横になっても、グリエルの言葉が気になって、何度も寝返りを打った。俺の観察力と記憶力って、そんなにすごいのか? 本当に?
よし、試してみよう。
この前、ポカと夜市で食ったニンニク入りの焼き腸詰め、いくらだった? 銅貨十五枚! その前、ブル中央市場へひしゃくを買いに行ったときに見た、あのでかい真珠は? 金貨二枚!
へへっ。俺、すげえじゃねえか。うれしい。寝よう!
それから二日、グリエルは来なかった。ときどきギルドに顔を出すのを見たが、すぐにまた、せわしなく出ていった。
盗難騒ぎのことも、だんだん気にならなくなってきた。この数日せっせと働いたおかげで、損した分も少しずつ取り戻している。ギルドにはまだ何かぴりぴりした空気があったが、屋台はいつもの静けさを取り戻していた。まだその話をするのは、盗まれた勇者くらいだ。ほかの客は、いつもの街の噂や、どうでもいい話に戻っている。
さらに二日たった午後。
グリエルが来た。座るなり茶を頼み、俺が持っていくと、辺りに目を配りながら小声で言った。
「少し見えてきました」
「お、わかったのか?」
「まだ全部ではありませんが。南の街区の闇市で、盗品がいくつか出回っているのを突き止めました。怪しい連中も、だいぶ絞れてきています」
「へえ。それで?」
「それで? あとは闇市の商人と誰が取引しているかを確かめて、その中に店主さんが話してくれた特徴と一致する人物がいれば、特定できるでしょう」
「おお、そりゃよかった。ギルドと治安兵団に知らせてやれよ。何で俺に言うんだ?」
また、馬鹿を見るような目になった。今度は、大馬鹿を見る目だ。
「どうしてギルドや治安兵団に知らせるんですか?」
不思議そうな、少し驚いたような声だった。知らせないのが当たり前、とでもいうように。
「え? ギルドに調べろって言われたんじゃねえのか?」
「こうして情報を共有してるんですから、店主さんにも手伝ってもらわないと」
グリエルはさらに声を落とした。
「俺が? これ以上、何を手伝うんだよ?」
「張り込みとか、尾行とか。怪しい相手が何人もいるのに、僕一人で全員を追えるわけがないでしょう」
拳を軽く握り、俺の目をじっと見た。
聞いた途端、自分でも止められないくらい、ぶんぶん首を横に振っていた。
無理だ。冗談じゃねえ。どう考えたって、そんなことをする気にはなれねえよ。
グリエルは歯がゆそうに俺を見ていた。何か言いかけて、飲み込む。それから首を振って言った。
「はあ……では、まず僕が相手を特定してからにしましょう」
茶を飲み終えると、不満そうに帰っていった。
俺はほっと息をついた。ただの茶売りなんだぞ、こっちは。そんなことにまで巻き込まれてたまるか。
さらに何日か過ぎた。
盗まれた分も大半を稼ぎ直し、気分もだいぶ晴れてきた。その日の午後も遅くなってから、グリエルがまた来た。今度は何も話しかけず、茶を一杯頼んで、一人で飲んでいる。ただ、妙に落ち着かない顔をしていた。いつもはのんびり構えている奴なのに、こんなにそわそわしているのは初めて見る。誰かを待ってるのか? そう思いながら、俺は仕事を続けた。
夕方、最後の一組が勘定を済ませて帰ると、残ったのはグリエルと俺だけになった。テーブルを拭いて店じまいをしようとしたところへ、あいつがいきなり近寄ってきて、俺の服をつかんで引っ張る。
「おい、何だよ?」
「いいから、早く来てください。ああ、身を守れる物も何か持って」
せかすように言った。
あん? 来いって? 身を守れる物まで持てって?
「どこへ連れてく気だよ?」
グリエルは足を止め、声を落として真顔で聞いた。
「盗まれた金、取り戻したくないんですか?」
「そりゃ、取り戻したいよ」
「なら、早く何か持って来てください。あいつらの居場所がわかったんです」
また服を引っ張ってくる。
「待て、引っ張るなって。どういうことだよ? もう捕まったのか?」
俺はその手を払いのけた。
「まだだよ! これから店主さんを連れて、あいつらを捕まえに行くんだ!」
とうとう声に苛立ちが混じった。
その言葉に、体がびくりと震えた。膝から力が抜ける。
「は? 俺を? 捕まえに行く? お前、正気か? 今、あいつらって言ったよな? 一人じゃねえんだろ?」
じりじりと後ずさった。行っちゃいけねえ。体がそう言っている。
「下見はしてある。三、四人しかいないよ! 僕だって魔法使いの勇者だ。何をそんなに怖がるんだ?」
「怖えに決まってんだろ! お前は魔法使いでも、俺はただの茶売りだぞ。ついてって死ねってのかよ!」
腰掛けにへたり込み、尻をぴったりとくっつけた。ここから一寸たりとも動くもんか。
「じゃあ、盗まれた金はもういらないんだ?」
金の話で俺を動かそうとする。
「いるに決まってるだろ! 治安兵団に知らせて、捕まえてもらえばいいじゃねえか。そしたら俺の金も戻るだろ?」
あいつも向かいの腰掛けにどかりと座った。
「何を考えてるんだ。今回の盗難事件では、貴族も金持ちも勇者も被害に遭ってる。治安兵団が捕まえたら、仮に盗まれた金を全部取り戻せたとしても、まずそっちに返すんだよ。平民はその後だ。店主さんの分は、全部は戻らないと思った方がいい。下手をすれば、銅貨一枚も戻ってこない!」
何とか俺を納得させようと、言い聞かせてくる。
「だったらギルドに言えよ。ギルドから人を出してもらえばいいだろ」
「どうして、あんな馬鹿どもに手柄を譲らなきゃいけないんだ!」
むっとした顔になった。
ああ。犯人を捕まえた手柄を、独り占めしたいのか。それなら、ようやくわかる。
「だ、だからって、俺まで死にに行くことねえだろ? お前の手柄なんか、俺に何の関係があるんだよ?」
「本当に金はいらないんだね?」
「い、いらねえよ。命の方が大事だ。生きてりゃ、金はまた稼げるだろ。ほら、この何日か必死に茶を売って、盗まれた分もずいぶん取り戻せたし……」
話しているうちに、グリエルが小さくため息をついた。俺を見る目から、だんだん光が消えていく。それから両手で何かの形を作り、小声でぶつぶつ唱えた。
「あ? ぶっ殺してやる! 俺の金を盗みやがったあの畜生ども、ぶっ殺してやる!」
どうしたんだ、俺? 急に血が沸き立ってきた。さっきまでの恐怖が、きれいさっぱり消えている。
腰掛けをひっつかむと、勢いよくルル通りへ飛び出した。グリエルが慌てて追ってきて、俺の前に回り、道案内を始める。
「お前、今、俺に何したんだ?」
腰掛けを抱えて歩きながら聞いた。
「はあ……気を奮い立たせる、鼓舞の魔法をかけたんだよ……」
振り返りもせずに答える。
「よし! あとで、もっと強く殴れる魔法もかけてくれよ。あの野郎ども、ぶちのめしてやる!」
何も言わず、うなずいた。
辺りはもうすっかり暗くなっていた。デューク通りまで行き、そこから北へ回って、いくつも路地を抜ける。北の貧民街のどこかで、古い工房らしい建物の前に止まった。
「ここか?」
「うん。入っても、すぐに飛びかからないで。先に僕が魔法をかける。それから殴ってくれ」
小声で言った。
「おうよ!」
グリエルが法杖を持ち上げ、片手で何か形を作って、一言唱える。
どん、と音がした。
扉が丸ごと、建物の中へ吹っ飛んだ。
俺は腰掛けを振り上げて飛び込んだ。誰か手近な奴に叩きつけてやろうとした、その瞬間、固まった。全身に弱気が押し寄せる。かけてもらった魔法まで、一瞬で消えちまったような気がした。
おかしいだろ。話が違うだろ。三、四人じゃなかったのか? 何で十何人も、そこらに座ったり立ったりしてるんだ?
グリエルも後ろから入ってきた。中の連中を見渡すと、あの偉そうな顔のまま、のんびり言った。
「あれ。思ったより多いな」
おい、お前、大丈夫か? 少しは当てになるところを見せてくれよ! こんな人数にかかられたら、俺なんか生きたまま食われちまうだろ!
漏らしそうだった。脚ががくがく震える。
十何人の目がこちらに向いた。頭らしい男が、薄く笑って穏やかに言う。
「お二人とも、場所をお間違えでは? 早くお帰りなさい」
待てよ。この顔、見覚えがあるぞ。
頭の中の記憶を、大急ぎで探る。
「グリエル! そいつ、ルシエ教会の神官だ!」
叫んだとき、その脇にいる二人にも気づいた。あの日、喧嘩をしていた二人だ。
グリエルの顔が一変した。さっきまでの余裕が消え、強敵を前にしたように身構える。向こうの連中も、いっせいに顔を曇らせた。目に凶暴な光が宿る。部屋の空気まで急に冷え込んだようで、寒さが肌に刺さり、震えが止まらない。
「おやおや。それでは仕方ありませんね。覚悟はできていますか?」
神官の声は、相変わらず穏やかだった。それがひどく、薄気味悪い。
「店主さん、落ち着いて」
グリエルが小さく言った。
向こうの連中が動き、散らばって立ち位置を変えていく。グリエルは片手で法杖を胸の前で横に構え、もう片方の手を開いて杖に添え、手のひらを前へ向けた。わけのわからない言葉を、長々と唱え始めた。
連中が一斉に飛びかかろうとした、そのときだった。そよ風のような、目には見えない何かがグリエルから広がり、建物じゅうを満たした。
見ると、十何人がその場に固まっていた。誰一人、動かない。
すげえ! こいつ、こんなにすごかったのか!
少し尊敬の目でグリエルを見た。だが、あいつは歯を食いしばっていた。額はもう汗まみれで、雫が首筋へ伝い落ちている。
「店主さん……あの神官も、魔法を使う……」
声を絞り出すように言った。
「魔力で抵抗してるんだ。長くはもたない。あいつを何とかしてくれ」
は? 俺が? 俺に行けってのか? まだふくらはぎが震えてるんだぞ。
「お、お、俺に何ができるんだよ? お前だって、もうもたねえんだろ?」
声まで震えた。
「何でもいい……あいつの抵抗を弱めてくれ……早く!」
「でも、さっきの鼓舞の魔法、もう切れちまったみたいだぞ。お、お、俺、どうすりゃ……」
「喧嘩なら股間蹴りだって言ってただろ! あいつにやれよ!」
ほとんど怒鳴り声だった。
ああ、そうだ。股間蹴りなら、俺にもできる。
唾を飲み込んだ。グリエルがもたなくなれば、どっちみち死ぬんだ。やってみるか。
腰掛けを杖代わりに、震える脚を一歩ずつ運び、あの悪党の神官の前へにじり寄る。後ろからグリエルが叫んだ。
「急げ!」
神官を見る。驚きと、半ば絶望の混じった目で俺を睨んでいた。
本当に、そこを蹴る気か?
そんな目だった。
「け、蹴るからな……」
一応、先に声をかけておいた。
両脚の間を狙い、下から一発、蹴り上げる。
グリエルの魔法で固められた神官は、身動きもできず、声も出せない。表情さえ変えられない。それでも、その目には、さっきまでとは比べものにならない驚きと苦痛が浮かんでいた。涙がたまり、揺れている。
「もういいか?」
振り返って聞く。グリエルは、さっきより明らかに楽そうだった。
「もう一発。もう一発蹴って」
神官に向き直る。
「じゃ、じゃあ……もう一発。蹴るからな……」
どすっ、ともう一発。
神官の両目から、涙がどっとあふれ出した。その目には、痛みと悔しさと恨めしさが入り混じっていた。
グリエルは荒い息をつき、ようやく法杖を下ろした。その辺に腰を下ろし、体をほぐす。どうやら、十何人とも完全に動けなくなったらしい。手招きされたので、俺は腰掛けにつかまり、脚を引きずって近づいた。
「あれ、店主さん。どうして脚を引きずってるの?」
「蹴ったとき、足を変にひねっちまった。大したことねえよ」
俺は照れくさく答えた。
グリエルはまた、馬鹿を見るような目でしばらく俺を見ていた。それから口を開いた。
「この魔法なら、一時間くらいは動きを封じておける。僕はギルドの人を呼んでくるから、店主さんは何か見つけて、こいつらを縛っておいて。それから口も塞いで。特にあの神官だ。あいつは詠唱ができる」
「えい……何だって?」
よくわからなかった。
「とにかく、あいつの口はしっかり塞いでおいてくれ!」
グリエルはそう言って出ていこうとしたが、何か思い出したらしく、俺のところへ戻ってきた。
「ああ、店主さん。誰も来ないうちに、こいつらの懐を探って、持ってる金を全部取っておくといい。自分の懐にね」
片目をつぶってみせると、今度こそ足早に出ていった。
お? そんなことしていいのか?
急に元気が出てきた。
古い工房で見つけた麻縄で、連中の手足をきつく縛り、固結びにする。口に詰める物がすぐには見つからなかったので、靴下を片方脱いで、神官の口へ押し込んだ。その目にはもう、光がなかった。
死んでもお前を許さない。
そんな目だった。
ほかの連中にも、見つけた木切れや紙くず、すえた臭いのする布を口に詰めて回った。さて、戦利品をいただくか。
こいつら、金を持ち歩かねえのか? いくら探っても、銅貨が何十枚か出てくるだけだ。もっとも、神官の服のポケットからは金貨が一枚出てきた。
へへへ。大儲けだ。
連中の目の前で、自分のポケットに金をしまう。全員が俺をじっと見ていた。正義の味方がこんなことをしていいのか、とでも言いたげだ。
いや、俺、正義の味方じゃねえし。
しばらく見張っていると、工房の外から何人もの足音が聞こえてきた。遠くから、どんどん近づいてくる。戸口まで来たところで顔を向け、真っ先に飛び込んできた人物を見た。
さっきここへ踏み込んで、十何人もいるのを見たときと、同じくらい驚いた。
オストランド勇者ギルド会長――ウルフ。
何でこの人が来るんだ? 普段はギルドにさえめったに顔を出さないのに。盗難事件で、会長まで出てくるものなのか?
ウルフは息を切らしていた。ギルドの制服ではなく、普段着だった。続いて何人か入ってきた。みんな、屋台から何度か見かけたことのあるギルドの幹部だ。グリエルも、その人たちと入ってきた。
ウルフは縛られた連中を凝視していた。その目にあるのは、驚きと戸惑いだった。後ろの幹部たちも、呆然としている。誰も何も言わない。
しばらくして、ウルフがふと俺に気づいたらしい。こちらを向き、何とか柔らかな笑みを浮かべた。
「君は、ギルドの向かいの茶屋台の店主だね?」
「あ、はい」
俺はウルフを見た。こんな大物と話すのは、生まれて初めてだ。
「もう帰っていいよ。ご苦労だった。後のことはこちらで引き受ける。今日のことは、誰にも話さないでくれ」
笑みを浮かべたまま言った。
「はい、はい。それじゃ、失礼します」
腰掛けを持ち上げ、出口へ向かう。グリエルとすれ違うとき、目が合った。あいつの顔も、ひどく真剣だった。
工房を出た。まだ屋台を片づけてねえ。早く戻らねえと。金箱も置きっぱなしだ。もう一度盗まれるのだけは勘弁してくれ。
夜、家に帰り、金箱の中身が無事だったことにほっとした。温めた布を足の甲に当てる。靴下も片方なくなった。今日、グリエルの魔法に駆り立てられて自分がやったことを思い返す。
こんなこと、もう一生ごめんだ、ちくしょう!
数日後。
すっかり静かになった。あの件で俺を訪ねてくる者もいない。あの夜、俺があそこにいたことさえ、誰も知らないらしかった。向かいの勇者ギルドの壁には、新しい告示が貼られていた。
告示
C級魔法使いグリエルは、ルシエ広場盗難事件を単独で解決し、また、その調査において、現在の等級を大きく上回る実力を示した。
これを受け、オストランド勇者ギルドは、同人を特例としてA級勇者に昇格させることを決定した。
以上、告示する。
オストランド勇者ギルド
人々があれこれ言い合っている。見物していた勇者の中には、不満そうにぶつぶつ言う奴もいた。
俺は屋台へ戻った。俺にはもう関係ねえ。よかった、よかった。
そう思っていると、珍しい客が来た。
おや、魔法薬の店の老魔法使いじゃないか。新鮮な金糸草の花をひと束、片手に提げ、杖をつきながら、しっかりした足取りで入ってきて腰を下ろす。
この人にだけ出す、昔の作り方の金糸草花茶を淹れた。老魔法使いはにこにこと、うれしそうに飲んでいる。やがて俺は、どうしても気になって聞いてみた。
「そういえば、前に、金糸草の花ならそちらで買えると教えてくれたのが、グリエルっていう若い魔法使いなんです。ご存じですか?」
老魔法使いは、湯気の立つカップを置き、笑って言った。
「もちろん知っているよ。あの子のひいおじいさんは、魔法学校で私と同級生だったんだ。後には、王家に仕える魔導師になったんだよ」




