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第五章 C級魔法使い グリエル

「喧嘩だ! 喧嘩だ!」

 あん?

 声のした方を見ると、ルシエ広場の真ん中に人だかりができていた。まだまだ人が集まってくる。

 おいおい、こんな面白そうなものを見に行かないなんて、人間の本能に反するだろ! 俺は仕事を放り出し、大急ぎで人だかりに駆け寄ると、爪先立ちで中をのぞいた。

 輪の真ん中で、二人の男が取っ組み合っている。がっしりした方が痩せた方に馬乗りになり、顔めがけてめちゃくちゃに拳を振り下ろす。下の男は必死に腕を上げ、顔をかばっていた。と、そいつが腰を跳ね上げ、そろえた両膝で相手の背中を思い切り突き上げた。上の男が振り落とされる。すかさず痩せた男が地面すれすれに足を払い、かわし損ねた相手を転ばせると、その上へ飛びかかった。あっという間に形勢逆転だ。

「やれ!」「いけ!」「ぶっ倒せ!」

 周りから次々と野次が飛ぶ。どいつもこいつも大興奮だ。

 二人はしばらく地面でもみ合っていたが、示し合わせたようにさっと離れ、立ち上がると、また拳を構えて睨み合った。そこへ、人をかき分けて一人の男が出てきた。二人の間に割って入る。よく見りゃ、ルシエ教会の神官《しんかん》じゃないか。

「さあ、そこまでです」

 穏やかな、慈悲深い声だった。

「もう十分、気は済んだでしょう。女神は、人を傷つける者をお守りにはなりません。この教会の前で、これ以上傷つけ合うことは、私も許せません」

 二人はようやく拳を下ろした。がっしりした方が、血の混じった唾を地面に吐く。

「けっ。今日は運がよかったな」

「今日はここまでだ。二度と顔を見せるなよ」

 痩せた方も凄んで返した。それから二人は人の輪を抜け、それぞれ別の方へ歩いていった。

「はあ、解散だ、解散!」

「つまんねえの」

 残念そうな声を上げながら、人だかりがほどけてゆく。俺もまだ見足りない気分で背を向け、商売に戻ろうと屋台へ歩き出した。

「財布を盗まれた!」

 後ろで声が上がった。

 慌てて振り返ると、一人の男が呆気に取られた顔で、何度も腰の辺りを探っている。

「俺のもだ!」

「あっ、腰につけてた飾りがない!」

「腕輪! 私の腕輪が!」

 あっちでもこっちでも、なくなった物に気づき始めた。

 まずい。

 俺は向き直り、屋台へ駆け戻った。

 道具や茶器を置いた木の棚に駆け寄り、下の小さな布をめくる。よかった、よかった。金箱はある。だが、蓋を開けた途端、俺の心は砕け散った。

 秋の初めの風には、まだ夏のぬくもりが残っている。それなのに、胸の奥まで氷水が流れ込んできたようだった。棚の前にへたり込む。今日の売り上げ、銅貨二百何十枚も入ってたんだぞ。ない。全部、ない。

 座り込んだまま、さっきのことを思い返す。誰かが喧嘩だと叫んで、俺は見に行った。客はそう多くなかった。何人かは、やっぱり見に行ってた気がする。

 誰がいた! さっき、誰がいたんだ!

 ゆっくりと辺りを見回しながら、記憶のかけらをつなぎ合わせようとする。何か、もう少し思い出せないか。隅に目をやると、ときどき茶を飲みに来るあの刺客が座っていた。手にした茶をちびちび飲んでいる。目が合った。

「ああ、さっき灰色のフードをかぶった奴が、金を全部持ってったよ。こっちには見られてないつもりだったみたいだけど」

 何でもないことのように言う。

「何で止めなかったんだよ!」

 胸が張り裂けそうな声が出た。

 刺客は茶を飲みながら、不思議そうに俺を見る。一口飲み込んでから、言った。

「俺には関係ないだろ」

 両手がだらりと落ちた。胸の奥が、締めつけられるように痛い。広場の騒ぎも、だんだん聞こえなくなった。

 翌日。

 ほとんど一睡もできなかった体と、ずたずたの心を引きずり、どうにか店を開けた。一日中、客の話は盗難騒ぎでもちきりだった。昨日やられたのは俺やほかの平民だけじゃない。見物していた勇者も、ずいぶん盗まれたらしい。

 午後、治安兵団がやってきた。前にも世話になったあの小隊長が、何人か連れて勇者ギルドへ入っていく。ずいぶん長いこと中にいたが、出てくると、そのまま俺の屋台へ向かってきた。

 小隊長は俺の前に腰を下ろし、こちらを見た。

「昨日、あんたも盗まれたそうだな?」

「ああ……銅貨二百何十枚だぞ……二百何十枚……」

 声が震える。顔を上げる気にもならない。

 小隊長は後ろの兵に顔を向けた。

「記録しろ。茶屋台の店主、現金の盗難。被害は軽微《けいび》」

 兵が手帳にさっさと書き込んでいく。俺は力なくそいつを見つめた。何も言えなかった。

「一応、事情を聞かせてもらう。何があったか、話してくれ」

 誰かが喧嘩だと叫んだこと。俺も見に行ったこと。神官が止めに入ったこと。人が散ってから、みんな盗まれたのに気づいたこと。昨日の一部始終を話すと、後ろの兵がせっせと書き留めた。

「店主、ほかに何か、変わったことには気づかなかったか?」

「ああ……いや、特には。ときどき飲みに来る刺客が、俺の金を盗んだ奴を見てたんだが」

「そいつには、さっきギルドで話を聞いた」

 小隊長は立ち上がり、兵を連れて引き揚げようとした。帰り際、ふと顔を引き締め、俺に言う。

「この頃、物騒だ。あんたも気をつけろよ」

 そうして、兵たちと去っていった。

 夕方には、勇者の客もみんな帰ってしまった。片づける気力もなく、俺は一人、腰掛けに座ってぼんやりとため息をついていた。向かいのギルドの扉が開く。仕事を終えたポカペラだった。扉に鍵をかけると、俺をちらりと見て、こちらへ歩いてくる。

「おじさん、まだお茶ある? 何でもいいから一杯」

 顔を上げた。今日は、いつもの無表情とは少し違う。顔に苛立ちがにじんでいた。俺はどうにか力を振り絞って立ち上がり、桶の底に残っていた飲み物を一杯すくった。彼女は腰を下ろし、黙って飲む。しばらく静かだったが、やがて口を開いた。

「昨日盗まれたの、平民を除けば、ほとんど戦士なんだよね。今、街で何て言われてるか知ってる?」

 返事をする気になれず、うつむいたまま、自分の不幸に浸っていた。

「ルシエ広場の勇者たちが盗難に遭ったって、街じゅうで言われてる」

 立ち上がり、ひとつかみの銅貨をテーブルに放る。

「あんたたち馬鹿のせいで、こっちの仕事がどれだけ増えたか、わかってる?」

 嫌そうに俺を一瞥すると、そのまま帰っていった。

 はあ。ただでさえこんなに参ってるのに、まだ追い打ちをかけるのかよ。

 ん? テーブルの銅貨、ちょっと多くないか?

 俺の目に、ほんの少し光が戻った。

 三日目。

 いくらか元気が出てきた。何だかんだ、商売が大事だ。銅貨二百何十枚はなくしたが、頑張って毎日二十枚ずつ余計に稼げば、十何日かで取り戻せる。

 午後、せっせと働いていると、若い魔法使いがギルドを出て、まっすぐ屋台へやってきた。すぐにわかった。前に、金糸草《きんしそう》の花をどこで買えるか教えてくれた奴だ。

 魔法使いのローブを着て、短い灰色の髪はすっきりと整え、横の髪を耳の後ろへ流している。目は大きくないが、いかにも頭のよさそうな光があった。法杖《ほうじょう》をテーブルに立てかけ、茶を一杯頼む。

「そろそろ、金糸草花茶《きんしそうはなちゃ》の季節ですね」

 茶を飲みながら、俺を見た。

「ああ。もう少しすりゃ、今年採れた花で淹《い》れたのが飲めるぞ」

 ろくに顔も見ずに答えた。手を止めるわけにはいかない。

「そうですか……店主さん、あとで少し話せますか?」

「じゃあ、このカップを洗い終わるまで待ってくれ」

 ほどなく片づいた。辺りを見ても、新しい客が来る様子はない。前掛けで手を拭き、そいつの向かいに座った。

「何の話だ?」

「単刀直入に言います。僕はグリエル。魔法使いです。前にもここでお茶を飲みましたね。一昨日の盗難事件について、ギルド内で依頼が出て、勇者が何人か調査に回されました。不幸にも、僕もその一人です。引き受けさせられた以上、きちんとやるしかありません。それで、まずは店主さんのところから当たろうと思ったんです」

 俺には一言一言はっきり聞こえるが、隣の席の連中には聞き取れないくらいの声だった。

 だが、話はさっぱりわからない。

「ああ、つまり、ギルドに言われて、俺の金を盗んだ奴を捕まえに来たってことか?」

「ええ。店主さんには、そのくらいの理解でいいでしょう」

「じゃあ、捕まえに行けよ。何で俺のところに来るんだ? どんな奴だったかは、あの刺客に聞けばいいだろ」

 グリエルはのんびりと茶を飲みながら、馬鹿を見るような目で俺を見た。

 思い出した。前に来たときも、こんな目だった。

「店主さん、話はそう単純じゃないんです。あの日の盗難事件、どういうことだったと思いますか?」

「え? みんなが喧嘩を見てる隙に、泥棒が物を盗んだんだろ。違うのか?」

 グリエルは小さくため息をついた。何を言っても通じない、とでも言いたげな顔だった。

「では、あの日のことを、もう一度詳しく話してください」

「またかよ? 広場で二人が喧嘩してて、みんなで見てたら神官が止めに入って、人が散ってから盗まれたのに気づいた。それだけだろ」

「はあ……では、その二人がどうやって喧嘩していたか、詳しく聞かせてください」

「一人はがっしりしてて、もう一人は痩せてた。俺が人の間に入ったときは、がっしりした方が馬乗りになって、痩せた方の顔を殴ってたんだ。そしたら下の奴が腰を跳ね上げて、両膝で相手の背中を突き上げた。上の奴が転げ落ちて、立ち上がったところを、痩せた奴が地面から足を払って転ばせて、その上に飛びかかって殴った。それから急に二人とも離れて、立ち上がって拳を構えてた。それだけだよ」

 あの日のことを、できるだけ思い出しながら話した。

 グリエルは少し笑った。それから、思いもしないことを聞いてきた。

「僕が前に来たとき、何を飲んだか覚えてますか?」

「ラズベリー入り霜草茶だろ。夏に出してる、俺の特製の」

 何で急にそんなことを聞くんだ?

 あいつは声を上げて笑った。さっきまでの、馬鹿を見るような目が少し和らぐ。

「やっぱり、思った通りです。店主さんは察しが悪い上に、なかなかの石頭《いしあたま》です。でも、自分でも気づいていない観察力《かんさつりょく》と記憶力を持ってるんですよ」

 え? 俺が? そんな気はしねえけど。

 ぽかんとしている俺に、さらに聞いてくる。

「信じられないなら、その二人が何を着ていたかも言ってみてください」

「がっしりした方は茶色の上着で、下はベージュのズボン。たぶん粗い麻布《あさぬの》だった。痩せた方は全身灰色で、短い上着にキュロットだった。それが何だってんだ? あんなに大勢見てたじゃねえか」

「ギルドでは、見物していた勇者全員に、二人の服装や喧嘩の様子を聞いたんです。ですが、そこまで正確にはっきり答えられた人は、一人もいませんでした」

 え?

 そう言われりゃ、昔から物覚えはよかった気がするな。ちょっといい気分になってきた。

「でも、それってそんなに大事なことか? 俺、泥棒の顔なんか見てねえぞ」

 グリエルは俺に向き直り、両手で顎を支えた。ひどく真面目な声で聞く。

「店主さんなら、人と喧嘩するとき、どうやって戦いますか?」

「俺か? そうだな……まずは股間《こかん》蹴《げ》りだな。下から一発。それで、相手が股間を押さえてかがんだところを、顔に一発。うん、たぶんそんな感じだ」

 俺も真剣に答えた。

「でしょう。それが、格闘の心得のない人の喧嘩なんです」

「ってことは、あの二人は心得があるってことか?」

 グリエルは直接それには答えず、こんな話を始めた。

「治安兵団の調べでは、あの日ルシエ広場で盗難に遭ったのは、勇者と平民を合わせて二十六人。そこらの盗賊団にできると思いますか? 平民はともかく、勇者にまで手を出しますかね。しかも、組織立って勇者や平民から物を盗んでいるそのときに、心得のある二人が喧嘩をしていた。偶然でしょうか?」

「つまり……大勢で仕組んだことだってのか? あの喧嘩してた二人も仲間なのか?」

 ちょっと驚いた。

「ええ。もう少し話しても構わないでしょう。ルシエ広場の件のような大規模な盗難事件は、このところ王都で三度起きています。それと同時に、強盗や殺人も急激に増えているんです」

「何だ? 王都に急に悪い奴が増えたってことか?」

 何かほかの意味もあるのか、俺にはわからない。

「ええ。店主さんにここまで話せるのは、そこから先は考えつかないとわかっているからです。今日はこの辺にしましょう。今のところ、手がかりは十分もらえました。お勘定を」

「ああ、銅貨十枚」

 立ち上がると、銅貨を十枚数えてテーブルに置いた。それからもう十枚取り出し、俺の目の前でちらつかせる。

「こちらは情報料です」

 合わせて二十枚をテーブルに残し、法杖を手に、さっさと帰っていった。

 夜、家に帰って寝台に横になっても、グリエルの言葉が気になって、何度も寝返りを打った。俺の観察力と記憶力って、そんなにすごいのか? 本当に?

 よし、試してみよう。

 この前、ポカと夜市で食ったニンニク入りの焼き腸詰め、いくらだった? 銅貨十五枚! その前、ブル中央市場へひしゃくを買いに行ったときに見た、あのでかい真珠は? 金貨二枚!

 へへっ。俺、すげえじゃねえか。うれしい。寝よう!

 それから二日、グリエルは来なかった。ときどきギルドに顔を出すのを見たが、すぐにまた、せわしなく出ていった。

 盗難騒ぎのことも、だんだん気にならなくなってきた。この数日せっせと働いたおかげで、損した分も少しずつ取り戻している。ギルドにはまだ何かぴりぴりした空気があったが、屋台はいつもの静けさを取り戻していた。まだその話をするのは、盗まれた勇者くらいだ。ほかの客は、いつもの街の噂や、どうでもいい話に戻っている。

 さらに二日たった午後。

 グリエルが来た。座るなり茶を頼み、俺が持っていくと、辺りに目を配りながら小声で言った。

「少し見えてきました」

「お、わかったのか?」

「まだ全部ではありませんが。南の街区の闇市で、盗品がいくつか出回っているのを突き止めました。怪しい連中も、だいぶ絞れてきています」

「へえ。それで?」

「それで? あとは闇市の商人と誰が取引しているかを確かめて、その中に店主さんが話してくれた特徴と一致する人物がいれば、特定できるでしょう」

「おお、そりゃよかった。ギルドと治安兵団に知らせてやれよ。何で俺に言うんだ?」

 また、馬鹿を見るような目になった。今度は、大馬鹿を見る目だ。

「どうしてギルドや治安兵団に知らせるんですか?」

 不思議そうな、少し驚いたような声だった。知らせないのが当たり前、とでもいうように。

「え? ギルドに調べろって言われたんじゃねえのか?」

「こうして情報を共有してるんですから、店主さんにも手伝ってもらわないと」

 グリエルはさらに声を落とした。

「俺が? これ以上、何を手伝うんだよ?」

「張り込みとか、尾行とか。怪しい相手が何人もいるのに、僕一人で全員を追えるわけがないでしょう」

 拳を軽く握り、俺の目をじっと見た。

 聞いた途端、自分でも止められないくらい、ぶんぶん首を横に振っていた。

 無理だ。冗談じゃねえ。どう考えたって、そんなことをする気にはなれねえよ。

 グリエルは歯がゆそうに俺を見ていた。何か言いかけて、飲み込む。それから首を振って言った。

「はあ……では、まず僕が相手を特定してからにしましょう」

 茶を飲み終えると、不満そうに帰っていった。

 俺はほっと息をついた。ただの茶売りなんだぞ、こっちは。そんなことにまで巻き込まれてたまるか。

 さらに何日か過ぎた。

 盗まれた分も大半を稼ぎ直し、気分もだいぶ晴れてきた。その日の午後も遅くなってから、グリエルがまた来た。今度は何も話しかけず、茶を一杯頼んで、一人で飲んでいる。ただ、妙に落ち着かない顔をしていた。いつもはのんびり構えている奴なのに、こんなにそわそわしているのは初めて見る。誰かを待ってるのか? そう思いながら、俺は仕事を続けた。

 夕方、最後の一組が勘定を済ませて帰ると、残ったのはグリエルと俺だけになった。テーブルを拭いて店じまいをしようとしたところへ、あいつがいきなり近寄ってきて、俺の服をつかんで引っ張る。

「おい、何だよ?」

「いいから、早く来てください。ああ、身を守れる物も何か持って」

 せかすように言った。

 あん? 来いって? 身を守れる物まで持てって?

「どこへ連れてく気だよ?」

 グリエルは足を止め、声を落として真顔で聞いた。

「盗まれた金、取り戻したくないんですか?」

「そりゃ、取り戻したいよ」

「なら、早く何か持って来てください。あいつらの居場所がわかったんです」

 また服を引っ張ってくる。

「待て、引っ張るなって。どういうことだよ? もう捕まったのか?」

 俺はその手を払いのけた。

「まだだよ! これから店主さんを連れて、あいつらを捕まえに行くんだ!」

 とうとう声に苛立ちが混じった。

 その言葉に、体がびくりと震えた。膝から力が抜ける。

「は? 俺を? 捕まえに行く? お前、正気か? 今、あいつらって言ったよな? 一人じゃねえんだろ?」

 じりじりと後ずさった。行っちゃいけねえ。体がそう言っている。

「下見はしてある。三、四人しかいないよ! 僕だって魔法使いの勇者だ。何をそんなに怖がるんだ?」

「怖えに決まってんだろ! お前は魔法使いでも、俺はただの茶売りだぞ。ついてって死ねってのかよ!」

 腰掛けにへたり込み、尻をぴったりとくっつけた。ここから一寸たりとも動くもんか。

「じゃあ、盗まれた金はもういらないんだ?」

 金の話で俺を動かそうとする。

「いるに決まってるだろ! 治安兵団に知らせて、捕まえてもらえばいいじゃねえか。そしたら俺の金も戻るだろ?」

 あいつも向かいの腰掛けにどかりと座った。

「何を考えてるんだ。今回の盗難事件では、貴族も金持ちも勇者も被害に遭ってる。治安兵団が捕まえたら、仮に盗まれた金を全部取り戻せたとしても、まずそっちに返すんだよ。平民はその後だ。店主さんの分は、全部は戻らないと思った方がいい。下手をすれば、銅貨一枚も戻ってこない!」

 何とか俺を納得させようと、言い聞かせてくる。

「だったらギルドに言えよ。ギルドから人を出してもらえばいいだろ」

「どうして、あんな馬鹿どもに手柄を譲らなきゃいけないんだ!」

 むっとした顔になった。

 ああ。犯人を捕まえた手柄を、独《ひと》り占《じ》めしたいのか。それなら、ようやくわかる。

「だ、だからって、俺まで死にに行くことねえだろ? お前の手柄なんか、俺に何の関係があるんだよ?」

「本当に金はいらないんだね?」

「い、いらねえよ。命の方が大事だ。生きてりゃ、金はまた稼げるだろ。ほら、この何日か必死に茶を売って、盗まれた分もずいぶん取り戻せたし……」

 話しているうちに、グリエルが小さくため息をついた。俺を見る目から、だんだん光が消えていく。それから両手で何かの形を作り、小声でぶつぶつ唱えた。

「あ? ぶっ殺してやる! 俺の金を盗みやがったあの畜生ども、ぶっ殺してやる!」

 どうしたんだ、俺? 急に血が沸き立ってきた。さっきまでの恐怖が、きれいさっぱり消えている。

 腰掛けをひっつかむと、勢いよくルル通りへ飛び出した。グリエルが慌てて追ってきて、俺の前に回り、道案内を始める。

「お前、今、俺に何したんだ?」

 腰掛けを抱えて歩きながら聞いた。

「はあ……気を奮い立たせる、鼓舞《こぶ》の魔法をかけたんだよ……」

 振り返りもせずに答える。

「よし! あとで、もっと強く殴れる魔法もかけてくれよ。あの野郎ども、ぶちのめしてやる!」

 何も言わず、うなずいた。

 辺りはもうすっかり暗くなっていた。デューク通りまで行き、そこから北へ回って、いくつも路地を抜ける。北の貧民街のどこかで、古い工房らしい建物の前に止まった。

「ここか?」

「うん。入っても、すぐに飛びかからないで。先に僕が魔法をかける。それから殴ってくれ」

 小声で言った。

「おうよ!」

 グリエルが法杖を持ち上げ、片手で何か形を作って、一言唱える。

 どん、と音がした。

 扉が丸ごと、建物の中へ吹っ飛んだ。

 俺は腰掛けを振り上げて飛び込んだ。誰か手近な奴に叩きつけてやろうとした、その瞬間、固まった。全身に弱気が押し寄せる。かけてもらった魔法まで、一瞬で消えちまったような気がした。

 おかしいだろ。話が違うだろ。三、四人じゃなかったのか? 何で十何人も、そこらに座ったり立ったりしてるんだ?

 グリエルも後ろから入ってきた。中の連中を見渡すと、あの偉そうな顔のまま、のんびり言った。

「あれ。思ったより多いな」

 おい、お前、大丈夫か? 少しは当てになるところを見せてくれよ! こんな人数にかかられたら、俺なんか生きたまま食われちまうだろ!

 漏らしそうだった。脚ががくがく震える。

 十何人の目がこちらに向いた。頭らしい男が、薄く笑って穏やかに言う。

「お二人とも、場所をお間違えでは? 早くお帰りなさい」

 待てよ。この顔、見覚えがあるぞ。

 頭の中の記憶を、大急ぎで探る。

「グリエル! そいつ、ルシエ教会の神官だ!」

 叫んだとき、その脇にいる二人にも気づいた。あの日、喧嘩をしていた二人だ。

 グリエルの顔が一変した。さっきまでの余裕が消え、強敵を前にしたように身構える。向こうの連中も、いっせいに顔を曇らせた。目に凶暴な光が宿る。部屋の空気まで急に冷え込んだようで、寒さが肌に刺さり、震えが止まらない。

「おやおや。それでは仕方ありませんね。覚悟はできていますか?」

 神官の声は、相変わらず穏やかだった。それがひどく、薄気味悪い。

「店主さん、落ち着いて」

 グリエルが小さく言った。

 向こうの連中が動き、散らばって立ち位置を変えていく。グリエルは片手で法杖を胸の前で横に構え、もう片方の手を開いて杖に添え、手のひらを前へ向けた。わけのわからない言葉を、長々と唱え始めた。

 連中が一斉に飛びかかろうとした、そのときだった。そよ風のような、目には見えない何かがグリエルから広がり、建物じゅうを満たした。

 見ると、十何人がその場に固まっていた。誰一人、動かない。

 すげえ! こいつ、こんなにすごかったのか!

 少し尊敬の目でグリエルを見た。だが、あいつは歯を食いしばっていた。額はもう汗まみれで、雫が首筋へ伝い落ちている。

「店主さん……あの神官も、魔法を使う……」

 声を絞り出すように言った。

「魔力で抵抗してるんだ。長くはもたない。あいつを何とかしてくれ」

 は? 俺が? 俺に行けってのか? まだふくらはぎが震えてるんだぞ。

「お、お、俺に何ができるんだよ? お前だって、もうもたねえんだろ?」

 声まで震えた。

「何でもいい……あいつの抵抗を弱めてくれ……早く!」

「でも、さっきの鼓舞の魔法、もう切れちまったみたいだぞ。お、お、俺、どうすりゃ……」

「喧嘩なら股間蹴りだって言ってただろ! あいつにやれよ!」

 ほとんど怒鳴り声だった。

 ああ、そうだ。股間蹴りなら、俺にもできる。

 唾を飲み込んだ。グリエルがもたなくなれば、どっちみち死ぬんだ。やってみるか。

 腰掛けを杖代わりに、震える脚を一歩ずつ運び、あの悪党の神官の前へにじり寄る。後ろからグリエルが叫んだ。

「急げ!」

 神官を見る。驚きと、半ば絶望の混じった目で俺を睨んでいた。

 本当に、そこを蹴る気か?

 そんな目だった。

「け、蹴るからな……」

 一応、先に声をかけておいた。

 両脚の間を狙い、下から一発、蹴り上げる。

 グリエルの魔法で固められた神官は、身動きもできず、声も出せない。表情さえ変えられない。それでも、その目には、さっきまでとは比べものにならない驚きと苦痛が浮かんでいた。涙がたまり、揺れている。

「もういいか?」

 振り返って聞く。グリエルは、さっきより明らかに楽そうだった。

「もう一発。もう一発蹴って」

 神官に向き直る。

「じゃ、じゃあ……もう一発。蹴るからな……」

 どすっ、ともう一発。

 神官の両目から、涙がどっとあふれ出した。その目には、痛みと悔しさと恨めしさが入り混じっていた。

 グリエルは荒い息をつき、ようやく法杖を下ろした。その辺に腰を下ろし、体をほぐす。どうやら、十何人とも完全に動けなくなったらしい。手招きされたので、俺は腰掛けにつかまり、脚を引きずって近づいた。

「あれ、店主さん。どうして脚を引きずってるの?」

「蹴ったとき、足を変にひねっちまった。大したことねえよ」

 俺は照れくさく答えた。

 グリエルはまた、馬鹿を見るような目でしばらく俺を見ていた。それから口を開いた。

「この魔法なら、一時間くらいは動きを封じておける。僕はギルドの人を呼んでくるから、店主さんは何か見つけて、こいつらを縛っておいて。それから口も塞いで。特にあの神官だ。あいつは詠唱《えいしょう》ができる」

「えい……何だって?」

 よくわからなかった。

「とにかく、あいつの口はしっかり塞いでおいてくれ!」

 グリエルはそう言って出ていこうとしたが、何か思い出したらしく、俺のところへ戻ってきた。

「ああ、店主さん。誰も来ないうちに、こいつらの懐《ふところ》を探って、持ってる金を全部取っておくといい。自分の懐にね」

 片目をつぶってみせると、今度こそ足早に出ていった。

 お? そんなことしていいのか?

 急に元気が出てきた。

 古い工房で見つけた麻縄《あさなわ》で、連中の手足をきつく縛り、固結《かたむす》びにする。口に詰める物がすぐには見つからなかったので、靴下を片方脱いで、神官の口へ押し込んだ。その目にはもう、光がなかった。

 死んでもお前を許さない。

 そんな目だった。

 ほかの連中にも、見つけた木切れや紙くず、すえた臭いのする布を口に詰めて回った。さて、戦利品をいただくか。

 こいつら、金を持ち歩かねえのか? いくら探っても、銅貨が何十枚か出てくるだけだ。もっとも、神官の服のポケットからは金貨が一枚出てきた。

 へへへ。大儲けだ。

 連中の目の前で、自分のポケットに金をしまう。全員が俺をじっと見ていた。正義の味方がこんなことをしていいのか、とでも言いたげだ。

 いや、俺、正義の味方じゃねえし。

 しばらく見張っていると、工房の外から何人もの足音が聞こえてきた。遠くから、どんどん近づいてくる。戸口まで来たところで顔を向け、真っ先に飛び込んできた人物を見た。

 さっきここへ踏み込んで、十何人もいるのを見たときと、同じくらい驚いた。

 オストランド勇者ギルド会長――ウルフ。

 何でこの人が来るんだ? 普段はギルドにさえめったに顔を出さないのに。盗難事件で、会長まで出てくるものなのか?

 ウルフは息を切らしていた。ギルドの制服ではなく、普段着だった。続いて何人か入ってきた。みんな、屋台から何度か見かけたことのあるギルドの幹部だ。グリエルも、その人たちと入ってきた。

 ウルフは縛られた連中を凝視《ぎょうし》していた。その目にあるのは、驚きと戸惑いだった。後ろの幹部たちも、呆然としている。誰も何も言わない。

 しばらくして、ウルフがふと俺に気づいたらしい。こちらを向き、何とか柔らかな笑みを浮かべた。

「君は、ギルドの向かいの茶屋台の店主だね?」

「あ、はい」

 俺はウルフを見た。こんな大物と話すのは、生まれて初めてだ。

「もう帰っていいよ。ご苦労だった。後のことはこちらで引き受ける。今日のことは、誰にも話さないでくれ」

 笑みを浮かべたまま言った。

「はい、はい。それじゃ、失礼します」

 腰掛けを持ち上げ、出口へ向かう。グリエルとすれ違うとき、目が合った。あいつの顔も、ひどく真剣だった。

 工房を出た。まだ屋台を片づけてねえ。早く戻らねえと。金箱も置きっぱなしだ。もう一度盗まれるのだけは勘弁してくれ。

 夜、家に帰り、金箱の中身が無事だったことにほっとした。温めた布を足の甲に当てる。靴下も片方なくなった。今日、グリエルの魔法に駆り立てられて自分がやったことを思い返す。

 こんなこと、もう一生ごめんだ、ちくしょう!

 数日後。

 すっかり静かになった。あの件で俺を訪ねてくる者もいない。あの夜、俺があそこにいたことさえ、誰も知らないらしかった。向かいの勇者ギルドの壁には、新しい告示が貼られていた。

 告示

 C級魔法使いグリエルは、ルシエ広場盗難事件を単独で解決し、また、その調査において、現在の等級を大きく上回る実力を示した。

 これを受け、オストランド勇者ギルドは、同人を特例としてA級勇者に昇格させることを決定した。

 以上、告示する。

 オストランド勇者ギルド

 人々があれこれ言い合っている。見物していた勇者の中には、不満そうにぶつぶつ言う奴もいた。

 俺は屋台へ戻った。俺にはもう関係ねえ。よかった、よかった。

 そう思っていると、珍しい客が来た。

 おや、魔法薬の店の老魔法使いじゃないか。新鮮な金糸草の花をひと束、片手に提げ、杖をつきながら、しっかりした足取りで入ってきて腰を下ろす。

 この人にだけ出す、昔の作り方の金糸草花茶を淹れた。老魔法使いはにこにこと、うれしそうに飲んでいる。やがて俺は、どうしても気になって聞いてみた。

「そういえば、前に、金糸草の花ならそちらで買えると教えてくれたのが、グリエルっていう若い魔法使いなんです。ご存じですか?」

 老魔法使いは、湯気の立つカップを置き、笑って言った。

「もちろん知っているよ。あの子のひいおじいさんは、魔法学校で私と同級生だったんだ。後には、王家に仕える魔導師《まどうし》になったんだよ」


挿絵(By みてみん)

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