第四章 勇者ギルド受付事務員 ポカペラ
ヴィシャはもういない。あの安息日のあと、何日か王都に滞在してから出ていった。別れ際には金貨の何枚かでもくれるんじゃないかと思っていたが、置いていったのは、小さなくすんだ緑色の石が一つ。何の石だか知らない。表面には文字とも模様ともつかないものが彫ってある。
ブル中央市場へ持っていって金に換えようかとも思った。だが、この小石には、じいさんと何かしらのつながりがあるのかもしれない。そう思うと、結局売るのはやめた。
もちろん、茶代も払っていない。孫の茶を飲むのに金はいらないんだと。おまけに、失われた作り方を取り戻してあげたのだから、むしろ感謝するべきだとまで言われた。
誰がするか。
二日店を休んだ分に、あいつの茶を作るために使った材料代。ざっと勘定しただけでも、銀貨五枚は損している。所帯も持たず、子供もいなくてよかった。そうでなけりゃ、俺の孫まであいつに振り回される羽目になるかもしれない。
ちくしょう!
意外だったのは、先日、魔法薬の店の老魔法使いが茶を飲みに来たことだ。ご丁寧に、あらかじめ氷水で水出しにした金糸草の花まで持参してくれたので、その分の手間は省けた。ただ、あの人とヴィシャがとうとう会わずじまいだったのは、少し残念だった。
仲夏祭が近づき、王都オストランドのあちこちに灯りや飾りが取りつけられ始めた。女神テタラントをまつる、一年でいちばん大きな祭りだ。中央教廷国からも、この祭りのために人が派遣されてくる。ルシエ教会の聖職者たちは、毎日広場で人を集めて聖歌を歌っていた。
正直、どれだけ人が集まろうと、俺にはうるさいだけだった。
「店主! もうすぐ仲夏祭だろ。饗宴大通りに店は出さないのか?」
茶を飲んでいた勇者が聞いてきた。
「出そうとは思ったんだがな。場所代が高すぎるんだよ。たった三日で銀貨十枚だぞ。うちみたいな細々やってる店に、そんな金は出せねえよ」
ほかの客の飲み物をひしゃくですくいながら答える。
「ああ、そりゃそうか」
それきり、そいつは何も言わなかった。
広場の聖歌が終わり、人が散っていく。周りの通りでは、向かい合う軒先の間に祭り用の枠が渡され、職人たちが布の造花を一つずつ結びつけていた。祭りが近づいてくるのが、日に日に目に見えてわかる。
毎年この時期になると、勇者たちもたいてい依頼を受けなくなる。せっかくの祭りを楽しむ方に専念するのだ。ギルドからも、等級に応じてねぎらいの品が配られる。だから、このところギルドへ来る勇者は、ほとんどがその品を受け取りに来ていた。
誰が何級かなんて、俺はさっぱり知らない。それでも、手に提げた包みの大きさを見れば、多少の見当はつく。
ちょうど今も、全身を鎧で固めた背の高い勇者が、大きな包みを提げてギルドから出てきた。満足そうな顔をしている。そのあとを、若い女の職員が追いかけてきた。戸口まで見送りに出て、明るくよく通る声を張る。
「楽しいお祭りをお過ごしください! 今年の後半も、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げ、勇者を見送る。それから、入口で立ち話をしていた何人かにも笑顔を向けると、軽い足取りでギルドの中へ駆け戻っていった。
元気だなあ。若いってのは、ああいうことなんだろうな。
ため息をつき、なんとなく顔をなでた。深くなり始めたほうれい線と、剃り残した顎のひげが指に引っかかる。
ギルドの連中なら、だいたい知っている。別に、親しくつき合っているとか、昔なじみだとかいう意味じゃない。この場所に二十年以上も居座っているのだ。毎日出入りする勇者を除けば、同じ制服を着て通ってくるのは、いつも決まった顔ぶれだった。
会長はめったに来ない。顔を出すのは、よほど大事な用があるときぐらいだ。ここ数年は職員も減って、今じゃ三、四人しかいない。
さっきの娘が来たのは、たしか三年ほど前。今いる中では、いちばんの新入りだ。
小柄で、制服はいつ見てもきちんとしている。小さな丸い帽子を毎日かぶっていて、そのつばの下の丸い目が、いかにも利発そうだった。朝、俺が店を出すころには、真っ先に来て鍵を開ける。夕方、俺が店を畳むころには、最後に鍵をかけて帰っていく。
だが、挨拶を交わしたことは一度もない。うちで茶を飲むなんて、なおさらだ。
「店主、何考えてんだ? 二度も呼んだぞ」
空のカップを持った勇者が来て、俺を軽く叩いた。
「ああ、いや。さっき出てきたギルドの娘、元気だなと思ってな。若いっていいもんだ」
慌ててカップを受け取り、茶を注ぎに桶の方へ向かう。
「ポカペラのことか?」
「へえ、ポカペラっていうのか」
「そうさ。みんなポカって呼んでる。あの子を嫌いな奴なんていないよ」
「おっ、ポカの話か?」
隣から別の勇者が口を挟んだ。
「そうそう。店主がポカを知らないらしくてさ。今、教えてたところだ」
「ポカはいい子だよなあ。依頼から帰ってきて、あの元気な顔と優しい笑顔を見るとさ、もう、それだけで癒やされるんだよ」
「わかるわ。俺も一人で依頼に出て戻ったとき、わざわざ温かい手ぬぐいを持ってきてくれたことがあってさ」
話に加わる勇者が、どんどん増えていく。
「昔から働き者だったらしいな。王都高等学院の学費も、自分で稼いだんだと」
「へえ、そうなのか。俺もそんな話を聞いたな。ギルドも、あの子を育てるつもりらしいぞ」
……。
俺は置いてきぼりだった。
あいつが何時に来て何時に帰るかも知らねえくせに、何をそんなに盛り上がってるんだ。
まったく、筋肉ばかりで脳みそのねえ連中だ。
仲夏祭 一日目
仲夏祭いちばんの催しは、初日の午前に始まる山車の行列だ。十数台の山車が、朝早くに内城の南門を出発する。
内城をぐるりと囲むデューク通りをまず東へ回り、王家大通りに入って鉄山門まで進む。そこからデューク通りへ引き返し、今度は北回りに半周してルル通りへ。ルル門で折り返したあとは、またデューク通りを通って、南の饗宴大通りにある祭りの本会場へ向かう。
例年どおりなら、ギルドとうちの屋台の前を通るのは、昼ごろになる。
朝一番で飲み物を用意しておくと、午前のうちから、見物の席を取ろうという客がぽつぽつやってきた。昼前には屋台は満員。座れない連中も、茶を手に立って待っている。店先には、整理に当たる治安兵団まで来ていた。
忙しくて、笑いが止まらない。
やがて遠くの人垣がざわめき、歓声がこちらへ近づいてきた。ほどなく、屈強な男たちに押されて、先頭の山車が姿を現す。
載っているのは、至高の女神テタラントの像だ。左腕に赤子を抱き、右手に麦の穂を掲げ、三日月を踏んでいる。大地と命の巡りを表す姿だということぐらい、ソラニア西大陸に住む者なら誰でも知っている。
そのあとを、聖典を手にした神官が何人か続き、道の両側の人々に祝福を授けていた。二台目には、今の国王ホランド三世と王妃の像。その後ろも山車は途切れず、魔王との戦争で活躍した英雄や、王国が独立したころの物語をかたどった像が次々にやってくる。
耳がどうにかなりそうな騒ぎだった。誰もが、この盛大な祭りに少しでも加わろうとしている。
俺が気になるのは、それよりも、興奮した客が踏み台にしているテーブルや腰掛けが壊れやしないかということだった。
山車と山車の切れ目から、向かいのギルドの扉が開くのが見えた。扉の隙間から、頭がのぞく。ポカペラだ。
だが、山車を眺めるその顔には、祭りを喜ぶ様子も、物珍しそうな様子もなかった。ただ無表情にしばらく見て、頭を引っ込め、扉を閉めた。
行列はルル門で折り返し、もう一度うちの前を通って、東へ去っていく。見物人もほとんどがそのあとを追い、饗宴大通りの本会場へ流れていった。
騒ぎが遠ざかる。ほんの少し前まであれほど混んでいた通りが、もう空っぽだ。
いつもの静けさに戻った、というのとも違う。いつもより、ずっと静かだった。それでも、王都の南区からは祭りの騒ぎがここまで聞こえてくる。
テーブルと腰掛けを一通り点検して、卓上を拭き、桶の中を確かめた。昼を過ぎたばかりだが、どれも残りは少ない。
よし。仕込みの量は、なかなかいい読みだったな。
腰掛けに座って銅貨を数えていると、またギルドの扉が開く音がした。手は止めず、ちらりと顔を上げる。
ポカペラが出てきた。いつもの丸い帽子に、きちんとした制服。入口の階段に腰を下ろし、そろえた膝の上に両手を置く。どんな顔をしているかまでは、よく見えなかった。
いいぞ、いいぞ。まだ半日ちょっとで、銅貨が四百枚を超えた。
上機嫌で金を木箱にしまう。午後もあと何杯か売れないだろうか。残りを捨てるのは惜しい。
屋台を出て通りの左右を見渡したが、やっぱり人がいない。ついでにポカペラの方を見る。
退屈そうに座ったまま、無表情で辺りを眺めていた。いや、ぼうっとしているだけにも見える。目は動いているのに、何を見ようとしているのか、さっぱりわからない。
やがて、その顔が道向かいの俺の方を向いた。
ずいぶん空っぽな目だな。
いつもの元気いっぱいの娘とは思えない。疲れてるのか?
俺も腰掛けを一つ道端へ運び、腕を組んで、来るかどうかもわからない客を待つことにした。
日はゆっくりと動いていく。南区から流れてくる騒ぎや音楽は、ますますはっきり聞こえるのに、西区には本当に誰もいない。ポカペラも、中へ戻るつもりはないらしい。
通りを挟んで、二人して向かい合って座っている。これで目を合わせずにいる方が難しい。
俺は退屈で、ぼんやりあちこち眺める。向こうも同じように、あちこち眺めている。
そのたびに、目が合う。
日が西へ傾き、もう何度目かもわからない視線がぶつかったところで、とうとう声をかけた。
「こっちで一杯、茶でも飲まないか?」
笑って誘ってみる。
ポカペラはしばらく俺を見ていた。相変わらず、何の表情もない。それから立ち上がり、両手でズボンを払うと、くるりと背を向けて中へ入ってしまった。
俺は石ころか? ああ? それとも、そこらの目にも留まらねえゴミか何かか?
その場で固まった。靴の中で足の指をぎゅっと丸める。さっきの笑顔が、顔に貼りついたまま動かない。
無視されるってのは、嫌なもんだな。
どうせ客も来ない。帰ることにした。
荷車を引いて家へ戻り、少し休んでから、翌日の茶を仕込んだ。祭りの二日目は、家族そろって出かけるのがいつもの過ごし方だ。夕方には饗宴大通りで夜市も開く。うちに来る客は多くないだろうと踏んで、仕込みは少なめにしておいた。
暗くなってから家で飯を済ませ、一杯やりに出た。
ルシエ広場を通りかかると、勇者ギルドの小さな建物には、まだ明かりがついていた……。
仲夏祭、二日目。
今日は、わざと少し遅めに店を出した。
案の定、午前中の商売はさっぱりだった。勇者は一人も見かけない。どこへ祭りを楽しみに行ったのやら。ルシエ教会の祭日のミサが終わったあと、何人かが茶を飲みに来たが、それきりほとんど売れていない。
昼を少し回ったころ、パンを持ち込んで昼飯を済ませた客が帰った。テーブルに散らばったパンくずを拭いていると、向かいの勇者ギルドの扉が開く。
ポカペラだった。階段の上であてもなく左右を見回し、それからしばらく俺を見ていた。やがて階段を下り、きょろきょろしながらうちへ来ると、適当な腰掛けに座った。俺がそばへ行くより先に、平坦な声が飛んできた。
「おじさん、お茶一杯」
……遠慮ってもんがねえな。おじさんって、何だその呼び方。
気まずさをこらえて近づき、どうにか商売用の作り笑いを保つ。
「何がいい? あそこの壁に掛かってる木の札に、茶の種類が書いてあるからさ」
「何でもいい。どうせ大して変わらないでしょ。あんまり高くなくて、冷たいのなら」
俺を見もしない。両肘をテーブルにつき、両手で顎を支えている。
「じゃあ、こっちで適当に選ぶよ」
その態度なら、鼻くそでもほじって茶に入れてやりたいところだ。だが、商売人として、それはできない。
冷たいラズベリー霜草茶を一杯すくい、彼女の前に置いた。
「ラズベリーの霜草茶だ。飲んでみてくれ」
カップを受け取り、一口飲む。
「ふうん……」
それだけ。あとは何も言わない。
「じゃあ、何かあったら呼んでくれ」
俺はぎこちなく笑って、その場を離れた。
それからずいぶん長いこと、たまに一組か二組、客が来ては帰るだけだった。ほとんどの間、彼女はあちらの席に、俺はこちらの端に座っている。途中でもう一杯頼まれたが、それ以外に会話らしい会話もない。
昨日よりはましだった。何度も目が合う、あの気まずさは味わわずに済んだ。
いつもなら、別にどうということもない。客がいて、忙しくしていれば、いちいち場の空気なんぞ気にしない。だが、今日は暇すぎる……。
二、三度ちらりと見たが、彼女は相変わらず生気のない顔で、広場の片隅へ空っぽな目を向けていた。何を考えているのか。何も考えず、ただぼんやりしているだけなのか。
あまりに退屈なので、俺はお気に入りの火竜白檀のひしゃくを取り出し、何度も磨いては手の中でいじっていた。
どれくらいそうしていたのか、ふいに声がした。
「おじさん、そのひしゃく、撫でてて楽しい?」
びくっとして、慌ててひしゃくの柄を前掛けのポケットに突っ込む。
「あの、あれだ。ええと……ギルドって、祭りでも仕事なのか?」
我ながらうろたえた声だった。
そんなこと、知ってるに決まってる。二十年以上、仲夏祭の日にも働くギルドの連中を、毎年ここから見てきたんだ。ポカペラだけでも、今年で三度目だぞ。だが、ほかに何を言えばいいのか思いつかなかった。
「そう。依頼は出さないけど、事務仕事が残ってるから」
淡々とした返事が来る。
「そりゃ……大変だな」
「別に。大変ってほどでもない」
さて、話が下手なのは俺なのか、向こうなのか。とにかく、無理やり言葉をつないでいる感じだ。
またしばらく黙ったあと、俺はおそるおそる口を開いた。
「あのさ……せっかくの祭りだし、仕事が終わったら家族とどこか行ったりしないのか?」
「別に。家族なんてもの、いないし」
ああ、まずい。これはまずい。何て返せばいいんだ。
言った本人は、まるで何でもないことのような顔をしているのだが。
もういい。余計なことを言う前に、ひしゃくをいじっていよう。
すると彼女が、顎を支えたまま首を傾け、こちらへ顔を向けた。じっと見られると、どうにも落ち着かない。
「おじさん、実は前から結構見てたんだけど」
「ああ、そうなのか。ははは」
「おじさん、頭おかしいの?」
あまりに唐突で、わけがわからない。腹が立ったのか、呆れたのか、自分でもわからないまま笑いが漏れた。
「いや、何で俺の頭がおかしいんだよ」
まだ笑いが残って、声が震える。
「結婚してないでしょ?」
「ああ、してない」
「頭が固いからじゃない?」
「余計なお世話だよ。余計なお世話」
「この前のエルフの件だって」
少し間を置き、丸い目で俺を横目に見る。
「逃げればよかったじゃない」
「ああ、そうだな。その通りだ。……いや、あんた、仕事が暇だからって、わざわざ俺をからかいに来たのか?」
さほど腹は立たなかった。ただ、話のつながりがさっぱり読めない。しかも、次から次へと妙なところへ飛ぶ。
「そういうわけでもないけど……おじさんって、何か面白いなと思って」
ははは。妙なのは俺とあんた、どっちだよ。
彼女はぐっと伸びをすると、気だるそうに両手をテーブルへ置き、続けた。
「結婚もしないで、家庭も持たないで、毎日勇者に囲まれてさ。筋肉だらけの人たちとばっかり付き合って、楽しい?」
「それ、俺に言うのか? 毎日あいつらに愛想振りまいて、頭下げてるのはあんただろ。あいつら、何て言ってるか知ってるか? 『ポカっていい子だよなあ!』『ポカに癒やされたよ!』って。あんたのことだぞ?」
わざと大げさな顔を作り、あの日の勇者たちの口ぶりをまねてやった。
「ああ、そんなことまで言ってたんだ。ちょっと気持ち悪いね。でも、しょうがないじゃん。ギルドからお金もらってるんだし。おじさんは違うでしょ。屋台なんて、どこでやってもいいんじゃない?」
相変わらず、気だるそうにしている。
「あんた、うちが何年やってるか知らねえだろ。四代続いてるんだぞ。そっちのギルドより、うちの方が先にあったかもしれねえんだぞ?」
「ああ、そうなんだ。それならわかる」
「いや、ギルドで働いてるのに、勇者に何か不満でもあるのか?」
彼女はよそへ目を向け、少し考えた。
「別に。ただ、つまらないなって」
「はは。じゃあ、何なら面白いんだ?」
「うーん……何もかも、つまらない」
また会話が止まった。
俺は、自分では話せる方だと思っている。二十年以上も店をやっていれば、大抵の話には付き合ってきた。だが、目の前の娘ときたら、口を開くたびに地面へ石を投げるようなことを言う。ごつん、ごつんと。受け止めるどころか、拾うことさえできやしない。
まるで生気がない。勇者を見送っていた、あの元気いっぱいの娘と、いったいどっちが本当なんだ。あれがずっと作り物だったとしたら、この三年間、どれほど疲れただろう。
「まだ飲むか?」
目で空のカップを示すと、彼女もそちらを見た。
「飲む。もう一杯。正直、味は悪くないね」
ほう。何だかんだで、昼から三杯目だ。金さえ払ってくれて、今日の損が少しでも減るなら、こうして付き合ってやるのも別に構わない。
三杯目を彼女の前に置く。
一口飲むと、何か思いついたように立ち上がった。
「お茶、片づけないで。すぐ戻るから」
それだけ言い残し、だらりと腕を振りながら通りを渡って、ギルドへ入っていった。
ほどなく、書類を山ほど抱えて戻ってきた。手には印章までいくつか持っている。さっきの席に座り、書類をテーブルへ置くと、一つあくびをして、そのまま勝手に仕事を始めた。
「仕事するんなら、茶を向こうへ持っていってもいいんだぞ」
「中、息が詰まる」
顔も上げずに答える。
どんな仕事かなんて、少しも興味はない。俺は通り側の腰掛けに座り、左手で頬杖をついて、がらんとした道をぼんやり眺めた。南区から流れてくる祭りの騒ぎに交じって、書類に判を押す音が、ばん、ばんと響く。
「おじさん、一つ聞いていい?」
手も止めず、俺を見もせず、口だけ動かす。
「今度は何だよ」
少しうんざりしてきた。
彼女は慣れた手つきで次々と判を押し、書類を分けて重ねていく。その手を動かしたまま、世間話でもする調子で言った。
「そうやって生きてて、退屈じゃないの?」
「別に、退屈じゃねえよ」
考えるまでもなかった。
「普通はさ、勇者には多少なりとも敬意を持つでしょ。どんな冒険をしてきたのか、気になったりもするし。でも、おじさん見てると、勇者だからって特別敬ってもいないし、あの人たちの話にも全然興味ないよね。ただお茶を売ってる人なのに」
「屋台をやってるのが、どうかしたか?」
腹は立たなかった。なぜこんなことを聞くのか、何となくわかりかけた気がしたからだ。
彼女は手を止め、顔を上げて俺を見る。
「おじさんの人生って、この屋台をやっていくことなの? それが、生きてる意味の全部なの?」
この嫌な口ぶりと聞き方さえ抜きにすれば、悪くない問いだった。俺は片手で顎をこすり、しばらく真面目に考えた。
「だから、逃げなかったんだよ」
「何?」
「だから、この前あのエルフが難癖つけてきたとき、逃げなかったんだよ」
顎をこすりながら、俺は通りの先を見ていた。
彼女はぽかんとしたまま、しばらく動かなかった。やがて、ふと、何とも言えない笑みが浮かぶ。それもすぐに消え、またいつもの無表情に戻ると、残っていた仕事に手をつけた。
またしばらく、どちらも口をきかなかった。一時間もたたないうちに、彼女はぱん、と最後の判を押し、残っていた仕事を全部片づけた。
「銅貨三十六枚です。どうも」
今日はもう、このくらいで終わりにしてもいいだろう。
ところが彼女は銀貨を一枚取り出し、俺の目の前で振ってみせた。釣りを出そうと金の入った木箱へ向きかけると、声がした。
「夜、ご飯食べに付き合ってくれたら、お釣りはいらない」
「飯代は?」
「図々しくない?」
「はい、承知しました! 少々お待ちくださいね! 店の荷物を置いたら、すぐ戻りますから!」
銀貨をひったくるように受け取り、ポケットへ突っ込む。大急ぎで店を畳み、荷車を引いて家へ走った。
飯代を出してくれない? 簡単じゃねえか。食わなきゃいい。
家へ駆け込み、パンを二切れつかんで口へ詰め、水で流し込んだ。よし、晩飯は済んだ。こんなに楽に銀貨一枚稼げるとはな。
ルシエ広場へ戻ると、彼女はもうギルドの戸締まりを済ませ、道端で待っていた。
「どこへ食いに行きたいんだ?」
にこにこしながら尋ねる。
「祭りの夜市」
言うなり向きを変え、デューク通りへ歩き出した。俺も遅れまいとあとをついていく。
饗宴大通りの仲夏祭の夜市は、人、人、人だった。どの屋台にも長い列ができている。西区が空っぽになるわけだ。王都中の人間が、ここへ来てるんじゃないか。
出店料の銀貨十枚を惜しんだのが、今さら悔やまれる。こんなに客がいるなら、出せばよかった。百歩も行かないうちに、また通りの真ん中に小さな舞台がある。手品に、覗きからくりに、ちょっとした遊び。どこを見ればいいのかわからない。
彼女は前を歩いていた。間を人が横切り、押し寄せてくるので、ついていくだけでも一苦労だ。あっちの店を見て、こっちの店を見る。顔は相変わらず、何にも興味のなさそうな、あの顔のまま。何一つ買わず、しばらく人混みを歩くと、こちらを振り向いた。
「何かおいしいもの、知らない?」
「お、あそこの店はどうだ? 王都名物のカエルの串焼き。あれはな、王都の名ぶ……」
言いかけて、口が止まった。汚いものでも見るような目で、俺を見ている……。
「じゃあ、もう少し探すか……俺はまだ、そんなに腹減ってないし……」
肩をすくめた。
もうしばらく歩いたところで、彼女も歩き回るのが面倒になったらしい。ちょうどそばに、さほど混んでいない焼きそばの屋台があった。一人前頼み、金を払おうとしたとき、背後から声が上がった。
「あれ、ポカじゃない! 偶然だね!」
細く高い女の声。聞き覚えがある。横目で見ると、やはりギルドの職員だった。隣にもう一人、知らない人もいる。連れの友達か何かだろう。
だが、驚いたのは、ポカペラの反応だった。
「あっ、エイミーちゃん! エイミーちゃんもお祭りに来たんだ!」
声が弾み、顔いっぱいに笑みが広がる。ギルドの前で勇者を見送っていた、あの元気いっぱいの娘に、一瞬で戻った。
何だこれ、魔法かよ。切り替わるのが滑らかすぎるだろ。
「ポカがお祭りに来るなんて、珍しいね。まだギルドで仕事してるのかと思ってた」
「ううん、もう全部終わったよ! せっかくのお祭りだし、息抜きに来たの!」
やり取りを見ていると、笑いをこらえるのに苦労した。そこでエイミーちゃんとやらが俺に気づき、少し驚いた顔でポカペラに尋ねた。
「あれ、ポカ。どうしてこの人と一緒に……」
ポカペラがさっとこちらを向く。その顔にも、驚きが浮かんでいた。
「あっ、茶の屋台の店主さん! 偶然ですね! 店主さんもお祭りに来てたんですか?」
「ああ、ええ。偶然ですねえ。あれ、お二人は勇者ギルドの方ですよね。どうも、どうも」
ふふん。二十年以上も茶の屋台をやってりゃ、話を合わせるのも、もはや神業だ。
「じゃあポカ、楽しんでね! 先に行くね!」
エイミーという女はそう別れを告げ、俺をちらりと見てから去っていった。
次の瞬間には、ポカペラはもうあの半分死んだような顔に戻っていた。低い声が漏れる。
「知ってる人に会うの、ほんと嫌……」
俺は苦笑いで応じた。
彼女は焼きそばを持ち、俺は別の屋台で焼いたニンニク入りの腸詰めを一本買った。大通りの人混みを抜け、道端の少し人の少ない場所を見つけて、地べたに座る。俺も彼女も、これといった表情もなく、食べながら行き交う人々を眺めていた。どの顔にも、祭りの喜びがあふれている。
「王都に来て八年になるけど、ここのお祭りに来たの、初めて」
ポカペラが食べながら言った。
「ああ、俺も毎年来てるわけじゃないけどな」
腸詰めを一口かじる。
「でも、別に面白くないね」
「ああ。金を稼ぐわけでもなく、ただ見て回るだけなら、俺もつまらねえな」
思った通りに答えた。
また横目で見られた。今度は、少し小馬鹿にしたような笑みまで浮かんでいる。
食べ終わってから、ほかにも行きたいところはあるかと聞くと、もういい、どうせ大して変わらないから、と返ってきた。デューク通りまで戻ったところで彼女と別れ、それぞれ家へ帰った。
仲夏祭、三日目。
朝はいつも通りに店を出した。今日は普段の半分ほどしか仕込んでいない。ポカペラも相変わらず朝早く鍵を開け、そのままギルドへ仕事に入っていった。
昼になると、扉から顔を出してあたりを見回し、うちへ来て茶を一杯頼んだ。
「おじさん、今夜、灯籠流しに付き合ってよ」
茶を飲みながら、無表情で言う。
「カラカ湖に行くのか?」
「うん」
灯籠流しは仲夏祭の恒例行事だ。祭りの三日目の夜になると、人々は王都の北東にあるカラカ湖へ出かけ、願いを書いた灯籠に火をともし、湖に浮かべる。女神への信仰を示し、願いがかなうよう祈るためだ。
「何でまた俺が付き合わなきゃいけないんだ?」
彼女は黙って銀貨を一枚取り出し、テーブルへ置いた。
「早めに出ないとな。西区から歩くと、三時間くらいかかるぞ」
そう言うと、軽蔑するような目をちらりと向けられた。金に尻尾を振る犬め。そう言いたげな目だった。
茶を飲み終え、カップをテーブルへ置く。
「じゃあ、午後、なるべく早く仕事を終わらせるから。そしたら出よう」
それだけ言って、ギルドへ戻っていった。
午後は早めに店を畳み、着替えを済ませ、道中で食べるパンと水を用意した。そろそろ向こうも終わるころだろう。そう見当をつけ、のんびりとルシエ広場へ戻ると、彼女はもうギルドの前で待っていた。今日は制服の上から、濃い茶色の薄手のフード付きマントを羽織っている。昨日のように知り合いに会うのを避けたいのかもしれない。
まずは王都の東にある鉄山門まで歩く。門を出て、大道を東からやや北へ向かって二時間ほど行けば、西大陸最大の湖、カラカ湖だ。
道中、会話は少なかった。それでも、ぽつぽつ交わす話から、彼女のことを少し知った。ポカペラは幼いころから孤児院で育ち、そこで世話になりながら中等学校を出た。その後、一人で王都オストランドへ来て、酒場で働きながら王都高等学院に受かり、卒業まで通ったのだという。ちょうどギルドが職員を募集していたので、そこで働き始めたらしい。
日が沈むころ、人の流れに沿ってカラカ湖へ着いた。夕日の最後の光が、静かな湖面に斜めに差している。空も水も赤みを帯びた橙色に輝き、どこまでが湖なのか、もうわからない。
湖畔の売り場でそれぞれ灯籠を買い、人混みを避けて、少し離れた人の少ない岸へ向かった。草の上に座り、持ってきたパンを食べ、水を飲む。食べ終わると、彼女は制服のポケットからペンを取り出し、先に書けと俺に差し出した。
簡単じゃねえか。俺の欲なんて、実にわかりやすい。
灯籠の紙に、でかでかと「金持ちになる!」と書き、ペンを返した。
また、あの嫌そうな顔で見られた。続いて、手の甲でしっしっと追い払われる。家畜でも追うみたいに、あっちへ行けというわけだ。
離れたところから見ると、彼女は地面にしゃがみ、灯籠の紙へ小さな字をびっしり書き込んでいた。何を書いているのかはわからない。
ずいぶん長い願い事だな。
すっかり日が暮れると、人の多い岸辺の水面には、もういくつもの灯籠が浮かんでいた。歓声や笑い声の中、灯は少しずつ散らばり、遠ざかってゆく。満天の星のように。
俺はいつも持ち歩いている火起こし道具を取り出し、手慣れた動作で火を起こして、自分の灯籠と彼女の灯籠に明かりをともした。岸へ寄ってしゃがみ、そっと水に浮かべ、軽く押し出す。風がひと筋吹いて、灯籠はゆっくりと沖へ離れていった。
「金だ! 金! 金持ちになるぞー!」
両手を振って叫びながら、俺の金持ち祈願の灯籠を見送る。
隣のポカペラは、ずっと静かだった。顔を向けて、ようやく気がついた。彼女の灯籠には、どこか穴でも開いていたらしい。少しずつ水に沈み、最後にくるり、くるりと二度回って、すっかり見えなくなった。
「ははははは! 沈んだ! おい、灯籠、沈んじまったぞ!」
ポカペラを指さして大笑いした。彼女は怒りもせず、ただ顔をそむけ、来た道へ歩き出す。俺は慌てて追いかけ、そのあとについた。
「まあ、願い事なんぞ当てにしないで、地道に生きろってことだな。ははは」
歩きながらまだからかってみたが、返事はない。
「で、何を願ったんだ? 字が多すぎて、女神様もかなえる気がなくなったんじゃねえか? ははは」
「うん。去年の仲夏祭から今までに死んだ勇者全員の名前」
彼女は歩きながら言った。
俺は黙った……。余計なことを言っちまった。
「この三年、毎年来て書いてるんだ」
そう付け加えた。
しばらく、何も言わずに歩いた。ふいに彼女が立ち止まり、危うく背中にぶつかりそうになる。振り向きもせず、いつもの平坦な声で言った。
「誰かに言ったら、絶対に殺す」
王都へ帰る道すがら、俺はもう、余計なことを一言も言えなかった。
仲夏祭が終わった……。
翌日。
朝早く、いつも通りに店を出した。祭りを終え、依頼を受けに来た勇者たちが、もうギルドの前で扉が開くのを待っている。どいつもこいつも晴れやかな顔だ。さぞ楽しく、忘れられない祭りを過ごしたのだろう。
店の支度を終えたところへ、ポカペラが鍵を開けに来た。扉の前で振り返り、待っていた勇者たちへ笑顔を向ける。いつもの、元気いっぱいの声が響いた。
「今年の後半も、皆さん、よろしくお願いします!」
「おう!」
勇者たちが腕を上げて応える。
扉が開き、勇者たちが次々と中へ入っていった。ポカペラは最後に続く。中へ入る前に振り向き、いつもの無表情のまま、汚いものでも見るような目で俺をちらりと見た。




